明治27年から明治28年にわたっておこなわれた「日清戦争」後、日本は大陸における邦人権益の保護が必要になってきます。
その中の一つには、長江流域における権益も含まれておりました。
そのため日本海軍は、長江で行動するための河用砲艦を建造することにいたします。
とはいえ、当時の日本はまだまだ自力での造船が難しい状況でした。
そのため、明治36年(1903年)計画で建造されることになった二隻の河用砲艦は、いずれも英国で建造されることになったのです。
そのうちの一隻が、東京を流れる隅田川より名前を取った河用砲艦「隅田」でした。
着工からわずか八ヶ月で一応の完成にこぎつけた「隅田」は、河用に作られておりましたので外洋を航行することはできません。
そのため一度分解し、別の船で上海に運び込んでから、再度組み立てるという方法を取りました。
再組み立てが終わったのは明治36年の12月、年の瀬も押し迫ったころでした。
「隅田」はそれから武装などの取り付けなど儀装がおこなわれ、日本海軍の軍艦として就役したのは明治39年の4月でした。
就役までに時間がかかったのは、途中で「日露戦争」が勃発し、工事が中断されていたためです。
完成した「隅田」は、常備排水量が126トンほどしかないとても軽い船でした。
全長は44メートルほどもありましたが、長江の浅い場所でも行動できるようにしているため、吃水(水面下の部分)はわずかに60センチしかありませんでした。
その代わりに幅が7メートルと広く、極論すれば武装したいかだのようなものと言えるかもしれません。

それでも「隅田」は軍艦でした。
日本海軍は独特の艦種区分を持っており、海軍に所属するすべての艦艇が軍艦とはなりません。
大雑把に言えば、艦首に菊のご紋章が付いている艦は軍艦、ついていなければ軍艦以外となります。
戦艦や巡洋艦、航空母艦などは軍艦ですが、駆逐艦や潜水艦は、(あくまで日本海軍の分類では)軍艦ではないのです。
ところが「隅田」は軍艦でした。
はるかに大きい駆逐艦でも軍艦ではないのに、「隅田」が軍艦なのは、やはり長江における日本の権益を警護する艦だったからでしょう。
艦長も、こんな小さな艦にもかかわらず中佐あたりだったはずです。
武装はわずかに6センチ砲が二門と機銃が四丁のみ。
速度は13ノット。
河川交通を警備する艦ですので、これで充分だったのでしょう。
「隅田」は同時期に建造された「伏見」とともに、長江流域での警備活動に従事しました。
第一次世界大戦では、日本は連合国側として参戦しましたが、中国(中華民国)は最初中立を宣言したために抑留されてしまいます。
のちに中国も連合国側で参戦したために解放されますが、これは河用砲艦として河でしか航行できないため、日本に避難することができなかったためでした。
その後も「隅田」は長江での警備活動を続け、上海事変などでもその任を果たします。
昭和10年(1935年)3月に約30年にわたる警備活動を終え除籍。
上海で解体となりました。
このため「隅田」は、日本の軍艦でありながら一度も日本に来たことのない、日本を知らずに生涯を終えた日本軍艦となりました。
これは非常に珍しいことといえるでしょう。
小さくても日本の軍艦としてその威を示し続けた「隅田」
これまた変わった軍艦だったのではないでしょうか。
それではまた。
- 2010/07/23(金) 21:20:42|
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