昨日のサッカーワールドカップ決勝トーナメント日本対パラグアイの一戦、皆様も多くがご覧になったのではないでしょうか。
前半後半の90分に加え、延長の30分でも勝負が付かず、ついにPK戦になってしまいました。
そしてそのPK戦に日本は敗れ、パラグアイがベスト8進出となったわけです。
でも、日本代表はよくがんばりましたね。
全力を尽くした戦いだったのではないでしょうか。
サッカーが盛んな南米のチーム相手に、120分間ゴールを許さなかったというのは、誇りに思ってもいいと思います。
惜しむらくは一点が遠かった。
ゴールを決めることができませんでした。
今回のワールドカップは日本にとっては終了となりました。
次回は2014年のブラジル大会です。
4年後、またすばらしい結果を残してくれることを期待して、今回の日本代表にはありがとうといいたいですね。
お疲れ様でした、日本代表。
楽しい時間をありがとうございました。
明日から7月に入りますが、どうやら近いうちに一本SSを投下できそうです。
なんと4月1日に「四月馬鹿」を投下して以来ですので、三ヶ月ぶりのSSになります。
本当に長い間皆様をお待たせしてしまいまして申し訳ありませんでした。
最終的な修正後に投下いたしますので、もう少々お待ちくださいませ。
それではまた。
- 2010/06/30(水) 21:49:14|
- スポーツ
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今日はいよいよサッカーワールドカップ決勝トーナメントで日本対パラグアイがありますね。
ネットでパラグアイのことを調べる方が多いのか、当ブログの「
三国同盟戦争」の記事をGoogleで検索されて読んでくださる方も多いようです。
考えてみれば、今日もしパラグアイが勝利することになfれば、この三国同盟戦争に関わった四ヶ国(ウルグアイ・アルゼンチン・ブラジル・パラグアイ)全てがベスト8進出ということになるのですね。
何とか日本にはその一角を崩して欲しいものですね。
今日は毎月の購入物である「グランドパワー」誌の8月号を手に入れてきました。

こちらが表紙。
今月号の特集は、第二次世界大戦中のドイツ軍の計画戦車です。
七号戦車や十号戦車、30.5センチ砲搭載自走砲ベアなど、私もまったく聞いたことも無いような計画(だけの)戦車がいくつも紹介されております。
中には四号戦車の傾斜装甲型などのように、実際に作られたとしたらそれなりに有効であったと思われる車両もあり、計画戦車と言ってもピンキリですね。
ですが、それよりも私が気になったのは表紙にもなっている第二特集の60式装甲車でした。
60式装甲車は、戦後の陸上自衛隊が兵器を国産するにあたり、61式戦車と行動をともにできる兵員輸送車両をということで開発されたと言いますが、私は陸上自衛隊の車両はあまり詳しくないので、こういう特集はうれしいです。
何より60式装甲車と聞くと、私はすぐに半村良氏のSF小説「戦国自衛隊」を思い出します。
もっとも、私が思い出すのは、田辺節雄氏によって描かれました劇画版のほうですが、そこでは島田三曹が指揮を取る60式装甲車が、足軽兵たちに対して縦横無尽の活躍を見せてくれました。
米軍のM113装甲車と違い車体機銃を持つ60式装甲車は、車長がハッチから身を乗り出して機関銃を撃つ必要がないため、劇画中でもハッチを閉めたままで射撃をおこなっており、足軽兵の肉弾攻撃をものともしておりませんでした。
映画の「戦国自衛隊」では、やはり見栄えのよさからか61式戦車(のレプリカ)が登場し、派手に主砲を撃ってますね。
もちろん61式戦車のほうが戦力にもなるでしょうし、見ている観客にもインパクトは大きいでしょうけど、やはり劇画での60式装甲車の活躍も捨てがたいものがありました。
すでに全車両が退役している60式装甲車ですが、じっくりと記事を読ませてもらおうと思います。
それではまた。
- 2010/06/29(火) 21:48:27|
- 本&マンガなど
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ファシスト軍がコンドル軍団によるゲルニカ爆撃を経てバスク地方に対する攻撃を強めていたころ、ファシスト軍内において初期に指導者的役割を果たしていたモラ将軍が、飛行機事故によって亡くなりました。
このモラ将軍の事故死は、フランコによるものではないかとの憶測も飛び交いましたが、それを裏付けるものはなく、結局以後ファシスト側勢力はフランコに権力が一極集中していくことになりました。
それに対し人民戦線側内部では、権力争いが続いておりました。
もともと多数の左派勢力の連合である人民戦線では、各党派がそれぞれ民兵を指揮してばらばらに戦っているようなありさまであり、味方であっても他党派の部隊が敗れるとそれを喜ぶような雰囲気さえあったのです。
そのような中で、軍事援助を中心としたソ連の影響力は大きく、スペイン共産党が急激に人民戦線内で勢力を伸ばしました。
人民戦線結成時には小さな党であった共産党の躍進に対し、独自の論理を持つアナーキスト派は脅威を感じ対立を深めます。
ついに人民戦線内での分裂は歯止めが利かなくなり、1937年5月、バルセロナにおいて人民戦線内での内戦とも言うべき武力衝突がアナーキスト派と共産党の間に発生。
双方合わせて500名もの死傷者を出すという凄惨な衝突となりました。
スペイン共産党の後押しをするソ連は、これまでもさまざまな介入を人民戦線に対しておこなってきましたが、このあたりから人民戦線の内部抗争にも介入していくようになります。
5月17日に共産党の後押しでファン・ネグリンが首相に就任した人民戦線政権は、ソ連の秘密警察NKVDによって対立する派閥の有力者を次々と暗殺するという強硬手段に訴えました。
これにはアナーキスト派も対抗しえず、人民戦線はほぼ共産党に支配されることとなりました。
このソ連の露骨な介入と人民戦線内部の権力闘争は、諸外国と国民の失望を誘うのには充分でした。
共産党の理念に賛同する共産党員は増大していたものの、一般民衆に対する影響力はじょじょに低下していくことになったのです。
一方フランコは対外的な影響を考え、カトリック教会を擁護する姿勢を見せました。
これによってカトリック教会はフランコのファシスト政権を容認し、スペイン内の敬虔なカトリック信者を取り込んでいくことに成功します。
1937年7月のマドリッド西方の「ブルネテの戦い」では、人民戦線側の繰り出してきた百両以上ものソ連製戦車に対し、ファシスト軍は少ないながらも自軍の戦車を効率よく使うことで大損害を与えることに成功します。
人民戦線側は政治上でも軍事上でもファシスト側に押され始めていたのでした。
1937年10月にはスペイン北部バスク地方が陥落し、ファシスト軍はスペイン全土の六割を掌中にいたしました。
さらに翌年1938年に入ると、ファシスト軍は北部カタロニア地方と南部地域の間に楔を打ち込むように進撃。
バレンシア地方の北でついに地中海へと達し、カタロニア地方を切り離しました。
1938年4月15日には「ビナロスの戦い」が発生。
ここではドイツ製の88ミリ高射砲が人民戦線側の戦車を次々と撃破したといいます。
人民戦線側はここでも手痛い敗北を喫することになりました。
もはやこれ以上の勢力圏喪失は許されない人民戦線は、ファシスト軍に対して乾坤一擲の大反撃をおこなうことにいたします。
1938年7月25日、人民戦線側の軍勢がエブロ川を渡河。
分断されたカタロニア地方との連絡を取り戻そうといたします。
この「エブロ川の戦い」に人民戦線側は持てる最大の力を投入いたしました。
その兵力は10万といわれ、カタロニア地方に孤立していた人民戦線側の戦力もファシスト軍の背後から攻め込みました。
前後から挟撃される形になったファシスト軍は、緒戦で大きな損害をこうむりました。
しかし、すでに人民戦線側に対して大きな兵力差を持つにいたっていたファシスト軍は、各地から増援を送り込むことでこの危機を乗り越えます。
逆にあとに続く兵力の無い人民戦線側は、じょじょに攻撃が先細りになって行きました。
戦いは10月までずるずると続けられますが、もはや人民戦線側には勢いはなく、戦線はこう着状態に陥ります。
さらにその間には衝撃的なニュースも人民戦線側には飛び込んでまいりました。
9月におこなわれた英・仏・伊・独四ヶ国の国際会談ミュンヘン会談で、英仏はドイツの主張するチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を認め、それによってドイツとの融和を図ることがはっきりしたのです。
それは英仏が人民戦線を支援しないということであり、さらに政治的な思惑から国際旅団も解散へと追い込まれてしまいます。
国際旅団の参加メンバーのうち、解散後も約一万人ほどが終戦まで義勇兵として戦いましたが、多くはこの時点でそれぞれの母国へと戻りました。
しかし、彼らのその後は決して恵まれたものではなく、その多くが「共産主義者」として危険分子と見なされたり、「トロツキスト」として粛清されてしまったといいます。
小説家のアーネスト・ヘミングウェイもこの国際旅団に参加しており、のちにこのときの経験を元にして「誰がために鐘は鳴る」を執筆いたしました。
(7)へ
- 2010/06/28(月) 21:32:31|
- スペイン内戦
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暑いですねー。
なんかここ数日北海道はむちゃくちゃ暑いです。
昨日は北海道内各所で観測史上最高記録(6月としては)を記録したようですし、熱中症の方なんかもいらっしゃったようです。
皆様も充分お気をつけくださいませ。
我が家はエアコンなどといういいモノはありません。(笑)
なので、室内は蒸し風呂状態。
PCの前にある温度計は30度越えてます。
そんな中、先ほどアニメの「ちびまる子」を見ていたところ、なんか友蔵おじいちゃんの声に違和感を感じました。
あれ? と思って調べてみたら、声優の青野武さんがご病気で島田敏さんと交代されたとのこと。
驚きました。
青野武さんは「解離性大動脈瘤」と「脳梗塞」とのことでした。
ただ、現在は快方に向かっていらっしゃるとのことで一安心です。
ですが、復帰は当面難しいとのことで、友蔵おじいちゃんの声は島田敏さんに正式に交代されたようで、当面の代役ということではないようです。
島田敏さんの声は大好きなのですが、青野武さんの声も大好きですので、早い復帰をお祈りしたいですね。
このまま引退というのはさびしいですので、また元気な声が聞ければと思います。
それではまた。
- 2010/06/27(日) 20:23:42|
- アニメ
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当ブログにまた新しくリンク先が一軒できました。
2chにいくつかの悪堕ちSSやMC系SSを投稿されていらっしゃいます白桃の句様が管理なされますブログ、「
少し夜語り」です。
(サイト名クリックでリンク先に飛べます)
白桃の句様も私と同じように悪堕ちがお好きとのことでして、素敵な作品を書かれております。
日本むかしばなしの“桃太郎”をベースにした悪堕ち話は、その視点の巧みさといい面白い作品になっていらっしゃると思います。
ブログ開設後も女スパイを洗脳していくというとてもそそられるシチュのSSを掲載されておりまして、続きがとても楽しみな状況です。
皆様も洗脳や悪堕ちがお好きなお方でしたらぜひ一度ご訪問されてみてはいかがでしょう。
白桃の句様、今後ともよろしくお願いいたします。
今日はこんなところで。
それではまた。
- 2010/06/26(土) 21:14:43|
- ネット関連
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今日はもう皆さんこの話題で持ちきりかとは思いますが、やはり私も触れずにはいられません。
サッカーワールドカップ南アフリカ大会、日本代表一次リーグ突破!!やってくれましたですねー。
夜中に起きだして中継を見た甲斐がありました。
前半の二つのフリーキック、まさに芸術的ともいえる鮮やかなキックでしたね。
デンマークのGKが単に対応をミスしただけとの声もあるようですが、そんなことはどうでもいいあの綺麗なフリーキックはお見事でした。
正直私は今回の日本代表は三戦全敗で終わると思っておりました。
もちろんサッカーには詳しくない私ですので、得ている情報は少ないものでの判断でしたが、どうも勝てる要素が少ない気がしていたのです。
それがカメルーン戦を1-0で制したことで、チーム自体がのれましたね。
オランダ戦も惜敗でしたし、いいイメージでこのデンマーク戦に望めたのだと思います。
フリーキックというチャンスをものにしての点数でしたが、まさか3点も日本が取れるとは思いませんでした。
最初のフリーキックを本田選手が決めたとき、あとはいかにしてこの1点を守り抜いてくれるかだと思っておりました。
どうにかして1-1あたりで引き分けに持ち込めないだろうかと、そんなことばかり考えていたものでした。
それが遠藤選手のフリーキックで2点目が入り、前半で2-0の状況。
これで、2点取られても引き分けで突破できるとは思いましたが、後半のデンマークの怒涛の攻撃をよくしのいでくれましたよね。
GK川島選手の再三の好守がすごかった。
ペナルティキックも一度は止めたものの、残念なことに押し込まれてしまいましたが、終了間際に岡崎選手がゴールを決めてくれました。
このゴールも本田選手が相手を自分に引き寄せてスッと岡崎選手にパスを出すというすばらしさ。
岡崎選手の蹴ったボールは無人の野をころころと転がって行きました。
普段サッカーなんか見ないんですけどねー。
ワールドカップはやはりさすがに世界最高のプレーの結集です。
サッカーのおもしろさをあらためて感じました。
次は決勝トーナメントの初戦。
相手はパラグアイです。
強敵ですが、何とか勝って欲しいものですね。
がんばれ日本。
それではまた。
- 2010/06/25(金) 21:37:00|
- スポーツ
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サッカーワールドカップも今日はいよいよ日本代表の一次リーグ最終戦ですね。
デンマークに勝つか引き分けることができれば一次リーグ突破となりますが、何とか突破して欲しいものです。
一方すでに一次リーグ敗退の国々も出ているわけですが、その中に前回準優勝だったフランスが入ってしまいました。
ついに一勝もできずに去っていったレ・ブルー(フランス代表)
残念でした。
で、私もレ・ブルー同様にあららっという間に負けてしまいました。
まったく何もできなかったなぁ。
Hiro様とのVASLを使ったASL通信対戦。
今回はシナリオA114「HAMLET’S DEMISE」を対戦いたしました。
このシナリオは1940年のドイツ軍による西方電撃戦の中での一コマを表したものです。
場所はベルギーですが、戦うのはドイツ軍とフランス軍。
私は今回防御側のフランス軍を担当させていただきました。
実はASLで私が正規のフランス軍を担当するのはこれが始めてです。
スターターキット(SK)には正規のフランス軍は入っておらず、米軍や英軍のユニットを使って自由フランス軍を表したものしかありません。
私はASLのフランス軍モジュール「Croix de Guerre」は持っているので、ぜひ一度(正規の)フランス軍をプレイしてみたいと思っておりました。
このシナリオはとても小さいもので、一枚のマップの半分ほどしか使いません。
谷間にある町に立て篭もるフランス軍をドイツ軍が撃破するというものです。
勝利条件も、独軍は20ポイント以上の損害を食らわずに、フランス軍に16ポイント以上損害を与えるというものです。
分隊数もドイツ軍8個分隊に対し、フランス軍は6個分隊とお互い多くはありません。
それでも両軍に装甲車両が出てきます。
ドイツ軍には一号、二号、三号戦車が各一両ずついて、この規模のシナリオにしては多い部類でしょう。
フランス軍にはオチキス社のH39が一両しかおりませんが、25ミリ対戦車砲が一門あり、数的劣勢を補います。
また、H39はドイツ軍のどの戦車よりも装甲が厚いので、そうそう撃破されることも無いでしょう。
しかし、いかにそれなりの戦力があろうとも、運用するプレイヤーの力量が足りなければ意味はありません。
Hiro様率いるドイツ軍の前に、舞方フランス軍はレ・ブルーのごとく何もできずに敗北いたしました。
潰走不能で捕虜に取られるわ、戦車によって同一ヘクス外への射撃を封じられるVBMフリーズを仕掛けられるわ、チャンスに撃った対戦車砲は当たらないわとさんざんでした。
ダイスの目は仕方ないのですが、ルールの運用がまだまだです。
結局わずか二ターンでの投了となり、フランス軍は壊滅しました。
健在なのはH39と一個分隊のみでした。
これではどうにもなりません。
SKとスタンダードではかなり違うのですが、その違いに慣れていかないといけませんね。
これは対戦なくして上達なしなので、これからもたくさん対戦していこうと思います。
それではまた。
- 2010/06/24(木) 21:21:21|
- ウォーゲーム
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6月9日の記事「
見当たらず・・・」で書きました探しているマンガ「女刑事ペルソナ」の二巻ですが、ついにアマゾンで中古品を手に入れてしまいました。

一巻も買わずに二巻のみ。
まあ、あの話以外は正直どうでもいいので、この巻だけ買いました。
読んでみました。
やっぱり人間の記憶はあてにはなりませんねー。(笑)
催眠状態に陥り、電車内で痴漢のボス格の男「マジシャン」に“ご奉仕”していた鉄道警察の女刑事佐倉巡査はボンデージ姿じゃありませんでしたー。
その後ヒロイン阿久津沙耶香が罠にかかって捕らえられるのですが、そのときに捕らえられたヒロインがボンデージ姿なので、そのシーンとごっちゃになってしまったようです。
でも、そのほかはおおむね記憶どおりでしたねー。
鉄道警察の女刑事佐倉巡査が催眠術で支配され、痴漢グループのボス格の「マジシャン」をご主人様と呼ぶのはなかなかでしたよー。
最後、自我を取り戻した佐倉巡査が、「マジシャン」を押さえつけながら「すいません、ご主人様」というのもグーでした。
と、言うことで、ようやく読むことができましたです。
ありがとうございました。
それではまた。
- 2010/06/23(水) 21:33:04|
- 本&マンガなど
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人民戦線側は国際旅団やソ連による軍事援助、それに何よりマドリッド市民の力によって首都マドリッドを守りきることができました。
1937年の3月におこなわれた「グアダラハラの戦い」では、フランコ率いるファシスト軍のドイツ製戦車やイタリア製戦車は、人民戦線側のソ連製戦車にはまったく歯が立ちませんでした。
ファシスト軍はドイツ製の37ミリ対戦車砲や88ミリ高射砲、さらには「モロトフのカクテル」と呼ばれる火炎瓶を持ってソ連軍戦車に対抗しましたが、攻撃はじょじょに先細りとなり、ついにはマドリッド攻略をあきらめざるをえませんでした。
フランコは戦略を練り直し、人民戦線政府との長期戦を戦う覚悟を決めました。
そのため、スペイン北部のバスク地方を人民戦線政府から切り離し、ここを制圧することにいたします。
バスク地方を含むスペイン北部は、鉱山や工業地帯、港湾など重要な拠点があり、ここを制圧することは長期戦に大きな影響を与えると考えられたからです。
しかし人民戦線政府はこのフランコの戦略に対応することができませんでした。
できなかったというよりもしなかったのです。
バスク地方は今でも自主独立の気風が強く、当時も自治政権が存在しておりました。
人民戦線政府はその自治政権とも折り合いが悪く、人民戦線政府内ではバスク地方を助ける必要なしという気運が醸成されていたのです。
人民戦線側から切り離される形になったバスク地方に対し、フランコはゆっくり着実に制圧することを目指しました。
ファシスト軍は空陸一体となっての進撃でバスク地方に侵攻。
この内戦を自軍兵器の実験場と考えていたドイツは、義勇空軍である「コンドル軍団」が航空機による地上爆撃を何度となくおこなっておりましたが、1937年の4月26日、バスク地方の一地方小都市であるゲルニカに対する爆撃を行ないました。
ゲルニカは小都市とはいえ交通の中継地として戦略上の要所であり、人民戦線軍はまったくいなかったものの、通信所などの軍事目標があったといいます。
しかし、コンドル軍団による爆撃は、こういった軍事目標を狙ったものではありませんでした。
4月26日の夕方、ドイツ軍のハインケルやユンカースと言った爆撃機がゲルニカの中央広場上空に現れます。
これらは三時間にわたって無差別に爆撃を行い、低空で機銃掃射まで加えました。
ゲルニカの町は大きく破壊され、当時の市民約七千人中千六百人以上が死亡、九百人近くが負傷したと言われます。(諸説あり)
これは大規模無差別都市爆撃の先例とされており、世界でこのことが報じられると、ファシスト軍とコンドル軍団に対する非難が沸き起こりました。
第一回目で記事にしましたパブロ・ピカソによる絵画「ゲルニカ」は、このゲルニカ空襲に対する非難の意を込めて描かれたものでした。
また、そのほかにも多くの知識人がゲルニカ空襲を非難し、国際旅団への義勇兵志願も増えたといいます。
各国の非難に対し、ファシスト軍はバスク地方の民族主義者やアナーキストがおこなった犯行であり、我が軍は関与していないとの報道をおこない、一部ではそう信じ込ませることに成功したものの、現在ではゲルニカ空襲はコンドル軍団によるものと判明しております。
さらにコンドル軍団やイタリアの爆撃隊は、この後もスペイン北部で都市爆撃を行ないました。
ゲルニカへの都市空襲は、バスク地方でのファシスト軍に対する抵抗を打ち砕きました。
これ以後バスク地方の都市はファシスト軍の攻撃に次々と陥落していくことになります。
6月にはビルバオが、8月にはサンタンデールが、10月にはヒホンが陥落し、ゆっくり着実にを目指したフランコは、1937年10月の終わりにはバスク地方を含むスペイン北部をほぼ制圧することに成功したのでした。
(6)へ
- 2010/06/22(火) 21:26:33|
- スペイン内戦
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30年前って何しておりましたでしょうかね。
うちのブログを訪れてくださる方の多くは、まだお生まれでなかったかもしれませんね。
もうオサーンである私は、30年前は高校に上がったばかりだったでしょうか。
そのころの私は結構プラモデル作りを楽しんでおりました。
楽しむと言っても、生来の不器用者ゆえ塗装も満足におこなえないようなありさまでしたが、主にタミヤ模型の1/35ミリタリーミニチュアシリーズを作っておりました。
私が兵器ファンになったのは、そのあたりからの流れと言って過言ではありません。
有名なドイツの88ミリ高射砲や、ティーガー(タイガー)Ⅰ重戦車。
M3リーやグラント、そして四号戦車ファミリーなどなど。
今でも懐かしいものがあります。
近所の模型屋でプラモデルを買うとき、いっしょに買っていたのが、当時一部50円だった「タミヤニュース」でした。
高校の途中あたりからだんだん作らなくなってしまったプラモデルでしたが、それと同時にタミヤニュースも買わなくなってしまいました。
最後に買ったのは1980年の12月号(Vol102)でした。
ネットをはじめるようになり、タミヤ模型のページも見るようになった私は、プラモデル作成はもうするつもりも無いのですが、タミヤニュースはまた読んでみたいなーと常々思っておりました。
ところが近所には模型店がなく、足を延ばして行った模型店ではもう扱っていないとのこと。
タミヤからの通販で買おうかなとも思いましたが、どうしようかなーと思っているうちに月日は流れ・・・
先日、ついに意を決してタミヤに今年の1月分から一年間の定期購読を申し込みました。
そして今日、タミヤから2010年1月号(Vol488)から2010年7月号(Vol494)の計7冊が到着。
形も厚さも30年前とおんなじでした。

左が2010年1月号、右が30年前の1980年12月号
まだざっとしか読んでいませんが、内容も30年前とそう変わりません。
1ページ目は「模型ファンをたずねて」ですし、「私の傑作」「MODEL CLUB」なんかも昔のまま。
懐かしいと同時に時が止まっているような感じもします。
変わったのは価格ですかねー。
タミヤニュース自体も30年前は50円でしたが、今は一部105円。
1/20のF1レーシングカーモデルは、30年前はだいたい1000円でしたが、今は5000円を越えますね。
このあたりは時の流れを感じます。
年間購読ですので、このあと5冊は送られてきます。
毎月の楽しみがまた一つ増えました。
それではまた。
- 2010/06/21(月) 22:03:44|
- タミヤニュース
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昨日はサッカーワールドカップの日本対オランダ戦でしたが、日本は残念でしたねー。
0-1で負けてしまいました。
それでも充分善戦したといえるのではないでしょうか。
ただ、結果がすべての試合なので、善戦とはいえ負けたことで、次戦は負けられなくなってしまいましたね。
デンマークも格上なのは間違いないので、何とか食らいついて勝って欲しいものですね。
今日は、ちょうどアマゾンに注文していたPC用のメモリが到着しましたので、メモリの増設をおこなっておりました。
増設と言っても、お恥ずかしいことにうちのPCは五年も前のものなので、基本は128MBしかありません。
購入時点でこれではあまりにもとのことで256足して384MBで使っておりましたが、やはりメモリはあるに越したことはないので、二年ほど前にも128メモリをはずして512メモリに買い替え、512+256で768MBにして使っておりました。
私は特に動作にメモリを食うゲームをしたりとかはしていないので、これでも特に不自由は感じなかったのですが、先日もう少しメモリを増やそうかなと思って各サイトを見たところ、512メモリが今は結構安いんですねー。
二年前には五千円越えていた512メモリが今は二千数百円。
これならと思い今回購入いたしました。
そして到着したメモリを256メモリと交換し、512+512の1024MBに。
これでも新型のPCなら軽くこれ以上のメモリを積んでますもんねー。
うーん、新型PCが欲しい。(笑)
まあ、少しはパフォーマンスが上がったのかな。
それにしても私の部屋は二階なんですが、空気の流れが悪くて熱が篭り易いので暑いー!!
今日の日中は30度越えてました。
なので暑さに弱い私は汗だくでメモリ交換。
汗が落ちたらどうするんだ。(笑)
まあ、何とか無事に交換終わりましたけどね。
6月に暑いと7月8月が寒かったりするので、今はあんまり暑くなって欲しくないよう。
今日はこんなところで。
それではまた。
- 2010/06/20(日) 20:54:09|
- 日常
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今日はサッカーワールドカップの日本対オランダ戦ですね。
カメルーン戦の勝利に続いて、何とか勝利をもぎ取って欲しいものです。
私の方は、遅まきながら「
MACXE'S」様の同人作品「ダイナレンジャー4・5・6」を拝見させていただきました。

こちらが表紙。
とてもいい感じですね。
堕ちた仲間との戦いにもページが割かれていて、激しいアクションを繰り広げてくれています。
monmon様は本当に力量が充実しておりまして、こうしたアクションシーンをとても綺麗に見せてくれますね。
洗脳シーンは王道の椅子に固定しての洗脳シーンを見せてくれますし、タールのような液体ラバーっぽいのが人間を侵食していく様も見事です。
サンプル画像にもありましたが、ゾファー兵の集団もこれでもかとばかりに絡み合っていて、まさに壮観です。
じわじわと悪の侵食も始まっているようで、いいところで次回に続くのがちょっと残念。
起承転結で言えば、いまだ承というところでしょうか。
かなりの長編になりそうです。
続きが楽しみですね。
それではまた。
- 2010/06/19(土) 21:20:35|
- 同人系
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右派ファシスト勢力に対抗するために連合を組んだ人民戦線政府側は、当初から内部分裂の危険をはらんでおりました。
それはやがて自由主義・社会主義の派閥と、アナーキスト・共産主義の派閥に分かれ、人民戦線内部でも権力争いに発展していきます。
このため、内戦に際して両派の分裂を阻止すべく、ヒラル内閣に代わってカバレロ内閣が成立します。
カバレロは社会党でしたが、アナーキストや共産党員も主要閣僚に取り込み、どうにか両派の分裂を防ぎました。
陸軍の将軍であったモラやフランコが指揮するファシスト軍は、主として陸軍の兵士が所属しておりました。
そのため人民戦線政府軍は、主に労働者が銃を取って戦うという民兵を主戦力として戦わざるを得ませんでした。
彼らはファシストへの対抗心は高かったものの、軍事的技量は未熟であり、数は多かったものの戦力としてはあまりあてにはならないものでした。
ですが、そんな彼らも防御に回るととてつもない粘りを発揮することもあったのです。
1936年10月末。
フランコは内戦の早期終結を図るべく、スペインの首都マドリッドに対する攻撃を開始します。
これに対し人民戦線政府は早々にマドリッドからバレンシアへと疎開。
ですが、市民と人民戦線政府軍の民兵は、マドリッドを守るために必死の防戦を行ないました。
これには反ファシストの国際旅団も参加し、各国からやって来た義勇兵がファシスト軍と戦います。
国際旅団は50以上の国の義勇兵からなっており、多くはそれぞれの国の共産党員でしたが、ヘミングウェイなどの小説家など著名人や知識人も参加しておりました。
しかし、のちには人民戦線政府によりこうした知識人は投獄されるなどし、共産党員以外はいなくなっていったといいます。
国際旅団と民兵及び市民の必死の防戦、それにソ連からの軍事援助がマドリッドに届くようになると、ファシスト軍の攻撃は撃退され、こう着状態に陥りました。
ソ連からの軍事援助が予想外に人民戦線軍を強化していることを知ったファシスト軍は、ドイツ人義勇航空軍団「コンドル軍団」を結成したり、ドイツ製の一号戦車やイタリア製のCV33戦車を戦場に投入しましたが、これらの戦車の主武装は機関銃しかなく、人民戦線軍の投入してきたソ連製のT-26戦車やBT-5戦車にはほとんど通用しませんでした。
逆にT-26やBT-5は45ミリ砲という当時としては強力な主砲を搭載しており、1000メートル離れた地点からでも、容易に一号戦車やCV33戦車を撃破することができました。
このためファシスト軍は、戦車戦ではほぼ一方的に敗北することが多く、以後人民戦線軍の戦車に対しては対戦車砲や88ミリ高射砲で対抗するようになって行きました。
結局ファシスト軍は人民戦線軍の守るマドリッドを攻略することはできませんでした。
フランコは短期決戦での内戦の終結をあきらめ、長期戦に備えて戦略の練り直しをおこないます。
それはイベリア半島北部の港湾や鉱山、そして工業地帯の制圧を図り、人民戦線政府を疲弊させるというものでした。
マドリッド防衛は人民戦線政府側に一応の勝利をもたらしました。
しかし、このことはソ連からの軍事援助が大きく作用したことは間違いなく、人民戦線政府内では共産党の発言力がいやが上でも増しました。
さらに国際旅団を率いていたエミリオ・クレーベルという将軍も実はソ連人の軍事顧問であり、国際旅団だけではなく、人民戦線政府軍内ではソ連人軍事顧問が実権を掌握していくことになります。
1937年の春になると、フランコの新戦略が動き始めました。
ファシスト軍はスペイン北部のバスク地方に戦線をしき、人民戦線政府から切り離します。
孤立したバスク地方でしたが、人民戦線政府はバスク地方の救出をおこなおうとはしませんでした。
バスク地方には当時自治政府がおかれており、その自治政府と人民戦線政府との関係が悪化していたのです。
邪魔が入らないことを理解したファシスト軍はじっくりとバスク地方を攻略していく予定でしたが、そこである事件が起きました。
ドイツ義勇空軍「コンドル軍団」による「ゲルニカ」爆撃でした。
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- 2010/06/18(金) 21:46:43|
- スペイン内戦
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プロ野球のセ・パ交流戦も昨日で終了いたしました。
北海道日本ハムは12勝11敗1分けで、どうにか勝ち越すことができましたが、残念なことに今年はパ・リーグがとても強くて、各チームとも貯金をするという状況であったため、リーグ内での順位を上げるどころか引き離される結果になってしまいました。
一方阪神は11勝12敗1分けと負け越しです。
最終戦で藤川球児投手がサヨナラホームランを打たれてしまったのが残念でした。
とはいえ、セ・リーグとしては悪くない成績なので、セ・リーグの弱さが際立ってしまいましたね。
サッカーワールドカップは、開幕から一週間が経過して、各国の一回戦目が終了です。
ブラジルは苦戦しながらも北朝鮮に2-1で勝利。
韓国はギリシャに2-0で勝利。
そして日本もカメルーンに対して1-0で勝利と、東アジアの国々が善戦しているようです。
昨日は優勝候補といわれたスペインがスイスに0-1で敗れるという結果に。
今回は各チームとも守りが堅く、一戦目は1-0の結果が6試合もありました。
二戦目はどうなるのかが楽しみです。
日本は19日にオランダと第二戦です。
この試合、勝利は難しいでしょうが、日本はどうするのでしょうか。
全力でいくのか、捨て試合とするのか。
そのあたりも気になりますね。
それではまた。
- 2010/06/17(木) 21:34:10|
- スポーツ
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うちのブログともリンクしていただいておりますサイト様、「
インムノトリコ」様の管理人アイジャック様のサークル「Witch Hat」様の同人作品、「チクチン大戦争」を拝見いたしました。

もうね、最初から最後までチンポチンポチンポチンポのオンパレードですよ。(笑)
ふたなりは苦手な私ですが、ここまで見せつけられるともう清々しくさえ感じました。
内容はまさに上のイラストにあるとおりです。
連鎖堕ちや意識変化のあたりはとても楽しむことができました。
ある意味異形化しての意識変化なので、そのあたりのギャップを楽しめる方にはいい作品だと思います。
おもしろい作品だと思いますので、興味のある方はぜひ。
それではまた。
- 2010/06/16(水) 21:24:32|
- 同人系
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モロッコで叛乱軍と合流し、その指揮官に収まったフランコでしたが、意気揚々とスペインに乗り込もうと思った彼の軍勢はいきなり出鼻をくじかれる形となりました。
モロッコとスペインの間にはジブラルタル海峡があり、地中海が彼らの前には横たわっていたからです。
当初叛乱軍は海軍の部隊が味方してくれるものと期待しておりましたが、案に相違して海軍の主たる部隊は人民戦線側についてしまったのです。
ファシスト側の右派勢力に付いたものもあったとは思いますが、フランコの部隊を対岸のスペインに送るには安全に海上輸送ができることが前提であり、海軍が味方にいないフランコの部隊はモロッコで立ち往生となってしまったのでした。
フランコの部隊がモロッコに足止めされている間に、スペイン本土では人民戦線側の攻勢が強まりました。
各地で沸き起こったファシスト勢力や叛乱軍の蜂起は、アナーキストや労働者たちなどが抵抗し、急速に鎮圧されつつあったのです。
叛乱軍側はモラ将軍の率いる部隊のいるスペイン北部の地域と、フランコ率いる部隊のいるモロッコに分けられてしまう状況に陥りかけておりました。
フランコはこのままでは人民戦線側に戦局を有利に進められてしまうと感じ、一刻も早いスペイン本土への上陸を果たそうと考えます。
そして彼の取った手段は、外部勢力の助けを借りるというものでした。
同じファシスト勢力であるナチス・ドイツと、イタリアの両国に軍事的な援助を依頼し、その力でスペインへ渡ろうとしたのです。
ドイツ及びイタリアにとっては、このフランコの申し出はまさに渡りに船でした。
ドイツもイタリアも内戦以前からスペイン国内のファシスト勢力にひそかに援助をおこなってきておりましたが、これによってよりいっそうスペインに対して影響力を行使できるようになるのです。
ヒトラーにとってもムッソリーニにとってもスペインとの同盟関係が構築できることは望ましく、地下資源の豊富さやスペインという国の位置的関係などからも、両国の援助でスペインにファシスト政権ができることは大いに歓迎されるべきものでありました。
そのため、両国とも即座にフランコの申し出を受け入れ、軍事援助をおこなうことを決めました。
1936年7月30日には早くも第一陣としてイタリア空軍の爆撃機がモロッコに到着。
続いてドイツ空軍の輸送機もやってきて、フランコの部隊をスペインへ輸送する作戦を開始します。
ドイツは外交的配慮から偽装会社を設立し、その会社を通じて軍事援助を行ないました。
これ以後ドイツは約一万人近くの義勇兵を送り込み、イタリアにいたっては約七万とも言われる数の義勇兵が内戦に参加することになります。
ファシスト側はこうしてドイツ、イタリア両国の援助を受けることになりました。
ファシスト側右派勢力がドイツとイタリアの援助を受けたことに対して、人民戦線側左派勢力は、当初英国とフランスの動向に期待しておりました。
しかし、英国は共産主義勢力の欧州内での拡大を恐れ人民戦線を援助しようとはしませんでした。
フランスは当時自らも人民戦線と名乗る左派勢力が政権を握っており、はじめはスペイン人民戦線政府側に軍事援助をおこなおうといたしましたが、英国からの圧力と国内でも右派と左派の分裂につながりかねないとの懸念から、ついに援助を断念。
ここに英仏両国は内戦に対して中立であるとの立場を表明いたしました。
ドイツとイタリアの協力でモロッコにいる部隊をスペインに空輸することができたフランコは、早速人民戦線側に対して行動を開始します。
1936年8月12日にポルトガルとの国境近くの都市バダホスにフランコの軍勢が突入。
15日にはこの都市を陥落させますが、その際二千人ほどの人民戦線側民兵を虐殺したとして悪名を響かせました。
とはいえ、スペインに上陸したフランコの軍勢は勢いを持続して進撃を続け、9月にはトレドを陥落させてモラの率いる軍勢と合流。
ここに叛乱軍は一つにまとまることができました。
そしてモロッコ以来のフランコのすばやい行動は叛乱軍内でも声望を集め、ついにフランコはファシスト右派勢力を取りまとめた新政権の元首に選ばれ、軍の総司令官も兼任することになりました。
以後新政権をファシスト政府、叛乱軍をファシスト軍と呼称します。
トレドを陥落させ、首都マドリッドを包囲する態勢を取り始めると、人民戦線側は苦境に立たされることになりました。
すでに世界各地からはフランコのファシスト勢力に対抗する反ファシスト義勇兵が人民戦線側には到着しており、それらはのちに国際旅団として活躍することになりますが、それ以上に人民戦線側としては外国の援助を必要としておりました。
中立の英仏の支援は望めないと判断した人民戦線は、共産主義の大国ソビエト連邦に支援を要請します。
この要請はソ連にとっても西ヨーロッパに影響力を広げる絶好のチャンスと思えました。
スターリンはすぐに人民戦線の要請を受けることを決め、ソ連製の武器弾薬を積んだ船舶が続々とスペインへ向けて出発します。
そしてそれだけではなく、数多くのソ連軍人が人民戦線軍の内部に入り込み、軍事行動を指導するようになっていきます。
スペイン内戦は、ここに独伊対ソ連の代理戦争へと発展することになりました。
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- 2010/06/15(火) 21:31:19|
- スペイン内戦
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昨晩、打ち上げから7年、約60億キロメートルという長大な距離を航海してきた日本の小惑星探査機「はやぶさ」が、ついにサンプルカプセルを切り離して最終任務を終了し、大気圏に突入して燃え尽きました。
途中さまざまな困難に遭いながらも、そのたびに奇跡的にどうにかして「不死鳥」とも呼ばれた「はやぶさ」は、いろいろと擬人化もされイラストなどにされてましたね。
最後は姿勢制御を行なって地球に向き合い、地球の写真を撮らせることで地球を見せてあげるという粋な計らいもあり、一枚だけ地球の姿を写してきた「はやぶさ」
カプセルとともに大気圏に突入し、美しい軌跡を描いて燃え尽きましたね。
各ニュースサイトなどで写真が発表されましたので、ご覧になった方も多いでしょう。
それにしてもなんか感動でしたねぇ。
ようやく地球に帰ってきても燃え尽きてしまう運命とは、ちょっとかわいそうな気もしました。
世界的にもこれだけの距離を航海して戻ってきた探査機は初めてとのことですので、日本の宇宙技術はたいしたものなんだなぁと再認識です。
カプセルの中に小惑星「イトカワ」の土のサンプルが入っていればいいのですが、その可能性はちょっと低いみたいです。
でも、いくつもの奇跡を起こしてきた「不死鳥」の「はやぶさ」ですから、これも奇跡的に小惑星「イトカワ」の砂が入っているかもしれませんね。
そうであって欲しいです。
小惑星探査機「はやぶさ」、感動をありがとうございました。
それではまた。
- 2010/06/14(月) 21:26:18|
- ニュース
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今日は散髪に行ったあとで「札幌歴史ゲーム友の会」に顔出し。
対戦自体は二組でしたが、見学者も多く和気藹々とした雰囲気で楽しかったです。
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今日も6ゾロ様と鈴木様のASL対戦。
シナリオWCW10の中国軍対日本軍のシナリオです。
両軍に装甲車両がでてくるおもしろそうなシナリオでした。
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Mどりっひ様とサッポロ辺境伯様のワシントンズ・ウォー。
英軍が結構押され気味なようで、アメリカ独立に向け前途洋々といったところでしょうか。
私はほんとに顔出しだけでしたが、次回は何とか参加したいものですね。
と、家に帰ってきてネットを見ていたら、思わず驚いたことが。
私の過去作「望美」が、知らないうちにいつの間にか二ヶ所ほどのサイトに転載されてました。
びっくり。
でも、いろいろな人に見てもらえるからいいかなとも思いました。
あんまりいい評価はもらえてないようですけど、寝取られ物自体に拒否反応起こす人は多いですから、まあ当然でしょうかね。
書いた文章がいつの間にか一人歩きしているようで、うれしいやら苦笑してしまうやら。
こういうこともあるんですねー。
それではまた。
- 2010/06/13(日) 19:35:24|
- ネット関連
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プロ野球のセ・パ交流戦も残りわずかとなりましたが、今年はパ・リーグの強さが際立ってますね。
セ・リーグは上位三球団と下位三球団の差が激しすぎます。
もう少し戦力の均等化を図らないとだめなのかもしれませんね。
一方で昨日から世界的なスポーツの祭典、サッカーワールドカップが始まりました。
昨日は早速第一試合の南アフリカ対メキシコ戦をテレビで観戦いたしましたが、やはりスピード感が違いますね。
これから約一ヶ月、世界の頂点を決めるサッカーをテレビで見られるかと思うと、サッカーにはさほど興味のない私ではありますが、やはり楽しみですね。
日本代表は14日にカメルーン戦、19日にオランダ戦、24日にデンマーク戦と組まれていますが、今回は決勝トーナメントへの進出はかなりきびしそうです。
予想外の活躍で上位進出をして欲しいですね。
今日はアルゼンチン対ナイジェリア戦がテレビ中継されるので観戦の予定です。
それではまた。
- 2010/06/12(土) 19:35:30|
- スポーツ
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1936年の選挙で政権を握った「人民戦線」(左派勢力の連合協定)は、それまでの二年間の右派政権に辟易していた民衆には大きな期待を持って迎えられました。
しかし、当然のごとくこの新政権に対し、右派勢力はただちにさまざまな妨害を行います。
それはデモやストライキなどといった比較的穏健のものではなく、人民戦線の代議士宅に爆弾を送りつけたり銃撃をおこなうなどのテロ行為にまで発展して行きました。
一方政権をとった人民戦線側も、もともとが寄せ集めの連合協定であるだけに結束した一枚岩ではなく、強硬派と穏健派が内部で対立しているというありさまでした。
強硬派は警察力や武力をもって右派勢力のテロ行為を鎮圧して行きましたが、それはじょじょにエスカレートしていきます。
ついに1936年7月12日、人民戦線政府側のカスティリョ中尉がそれまで鎮圧に当たっていた右派勢力ファランヘ党の党員によって暗殺されるという事件が起きました。
これに対して穏健派の憂慮をよそに人民戦線内の強硬派は報復を行い、治安警察を使って右翼勢力の大物カルボ・ソテロを暗殺します。
この暗殺のやり取りによって事態は急速に悪化の一途をたどりました。
かねてより人民戦線政府に対して強硬な姿勢で望んでいた右派勢力は、さらに態度を硬化させ内乱も辞さずという雰囲気にまで発展。
これに呼応するかのように、ひそかにクーデター計画を進めてきた一部の軍上層部も政府に対して叛乱を起こすことを決定します。
一方人民戦線政府側も強硬派が民衆への武器供与を要求。
さらに民兵の動員などもおこない始めました。
まさに状況は一触即発となったのです。
そんな中、一人の人物が大西洋上のスペイン領カナリア諸島におりました。
のちにスペイン総統となるフランシスコ・フランコです。
フランシス・フランコは1892年生まれの当時43歳の働き盛りでした。
彼は最初海軍を志すものの定員に空きが無く、やむなく陸軍士官学校へと進みます。
その後当時スペイン領だったモロッコへ赴任し、そこで現地の独立運動を鎮圧しながら出世の階段を登って行きました。
フランコは現地のアフリカ人を外人部隊として訓練し、強力な部隊へと育てます。
独立運動に対しても、その外人部隊を率いて戦ったといわれます。
帰国後、スペイン第二共和制政府によって軍政官に任命されたフランコは陸軍少将へと昇進し、その後陸軍参謀総長まで出世を果たしますが、ここで人民戦線政府が成立し、右派の危険人物と見なされていたフランコはカナリア諸島へと左遷されてしまいます。
人民戦線政府によって左遷されたフランコが、反乱軍に与するのはある意味当然だったのかもしれません。
1936年7月17日。
アフリカのスペイン領モロッコのメリリャで、ファシストの将校に率いられた軍の叛乱が発生します。
「スペイン内戦」の始まりです。
メリリャの叛乱は上官である将軍の殺害にまで発展し、そのことを知ったフランコは、早くも翌18日にはクーデターの開始の宣言をカナリア諸島から行ないました。
そしてすぐさまモロッコへと飛行機を飛ばして叛乱軍と合流。
以後モロッコの叛乱軍の指揮を取ることになりました。
フランコのおこなったクーデター宣言に呼応するかのように、スペイン本土各地でも軍や右派ファシスト勢力による叛乱が相次ぎます。
これらは陸軍の将軍エミリオ・モラが計画していたものであり、当初はこのモラが叛乱軍の指導的役割を担っておりました。
各地での相次ぐ叛乱に人民戦線政府は対応を余儀なくされました。
当初は人民戦線側も右派との融和を図り、首相を穏健派のバリオに代えてモラとの交渉を行いますが、もはや小手先の手段では叛乱の火の手を鎮めることはできませんでした。
逆に叛乱軍の指導者モラと話し合いをしたバリオは人民戦線内の強硬派からは裏切り者呼ばわりされ、バリオはわずか2日で首相の座を降りざるをえなくなります。
7月19日には、叛乱軍との戦いを行なうことを鮮明にしたヒラル内閣が成立し、左派の人民戦線と右派のファシスト勢力及び叛乱軍との戦いは避けられなくなりました。
スペイン国内は二つに分かれてしまったのです。
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- 2010/06/11(金) 21:13:30|
- スペイン内戦
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スペインと聞いて皆様は何を思い浮かべますでしょうか?
食べ物に興味のある方でしたら、ガスパチョやパエリアといった美味しいスペイン料理でしょうか。
スポーツに興味のある方なら、数日後に開催されるサッカーワールドカップでも強豪といわれるスペインサッカーでしょうか。
それとも情熱的な踊りフラメンコでしょうか。
はたまた絵画に興味のある方は、スペイン生まれの画家パブロ・ピカソ氏を思い出されますでしょうか。
その画家パブロ・ピカソ氏の代表作の一つに大作「ゲルニカ」があります。

白と黒で描かれたこの作品は、縦3.5メートル、横7.8メートルもある大きな作品ですが、とてもインパクトのある作品であり、皆様も一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。
タイトルの「ゲルニカ」とは、スペイン北部バスク地方の一小都市の名前であります。
この絵はそのゲルニカという小都市に対しておこなわれた都市爆撃の悲惨さを描いたものなのです。
見ようによっては不気味ともいえるこの「ゲルニカ」は、その都市爆撃の酷さ悲惨さに怒りを込めてピカソ氏が描いたものだったのです。
なぜゲルニカは爆撃されたのでしょう。
それは、スペインが有名な無敵艦隊の敗北後、数限りなく繰り返してきた国内の権力争いを主因とする内乱がおこなわれたからでした。
世に言う「スペイン内戦」です。
スペイン内戦の勃発は、第一次世界大戦後の世界恐慌に端を発したファシズムが欧州を席巻し、アドルフ・ヒトラー率いるドイツがヴェルサイユ条約を無視してラインラントへと軍を進め、また一大セレモニーであるベルリンオリンピックを間近に控えた1936年7月17日のことでした。
この日、スペインとはジブラルタル海峡をはさんで対岸にあるモロッコにおいて、スペイン軍の叛乱が起こったのです。
足掛け四年の長きに渡るスペイン内戦が始まったのでした。
第一次世界大戦が終わり、世界が20世紀という時代に慣れてきた頃になっても、スペインではまだ中世期からの影響が色濃く残っておりました。
国王が国の頂点に位置してはいましたが、国民の支持を受けることはできず、代わりにカトリック教会が国民に対して物心両面で強い影響力を持っておりました。
20世紀初頭のスペインにおいては、カトリック教会が最大の地主でありまた各分野に出資する資本家であったのです。
また農業においても大土地を所有する地主が、農奴さながらに農民を搾取するのも当たり前のような状況でした。
ですが、こんな状況も1920年代に入るとじょじょに変革しようという動きが現れます。
1923年にはミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍がクーデターにより政権を掌握。
軍事独裁制を敷いて政治をおこないますが、これに国内の学生や知識人層が反発し、1930年にはついに政権を打倒してしまいます。
しかし、このことが国内における旧勢力の勢力維持に努めようとする教会や軍部などの右派勢力と、共和制を目指し国内を変えていこうとする学生や知識人層などの左派勢力との間に、強い対立感情を生み出してしまいました。
1931年にスペインでおこなわれた地方選挙には、共和党や社会党、急進党などの左派勢力が王制から共和制への移行を掲げて出馬し、圧倒的勝利を収めます。
これにより国王アルフォンソ十三世はフランスへ亡命、スペイン第二共和制が始まりました。
(第一共和制は1873年に始まったものの、1874年には王政復古がおこなわれました)
しかし、新生スペイン共和国は国内の対立を解消することはできませんでした。
ドン・マヌエル・アサーニャを首班とする政府は、軍隊改革や土地改革などをおこなおうとしたものの、いずれも右派勢力によって妨害され、実効を上げることができなかったのです。
1932年、ホセ・サンフルホ将軍がクーデター未遂事件を起こすと、政府は国内の引き締めにかかり軍部や警察による民衆への圧力が強まります。
すると今度は、それに対抗するように右派勢力の教会や軍部右派の影響を受けたファシスト団体が次々と作られ、スペイン国内は混沌とした状況になって行きました。
こういった状況は選挙にも影響を及ぼし、1933年10月の総選挙では今度は右派勢力が勝利して政権を奪います。
右派勢力は前政権のおこなった改革をつぶしてしまったので、再び農民や労働者にとってはつらい状況に追い込まれてしまいますが、彼らはアナーキスト(無政府主義者)たちの指導の下デモやストライキなどで政府に対抗していきます。
この民衆の動きを見た左派勢力は、アナーキストや共産主義者たちとも連携を取っていくことを考えました。
そして1936年1月、左派勢力は左翼共和党、社会党、共産党、共和同盟など多くの勢力の取りまとめに成功し、連合協定「人民戦線」を成立させます。
人民戦線は翌月2月の選挙で再び過半数を獲得。
右派政権は倒れました。
しかし、混迷はこれで終わりではありませんでした。
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- 2010/06/10(木) 21:48:52|
- スペイン内戦
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6月に入ってがぜん暑くなってきました札幌市内ですけど、今日も23度ほどまで上がったようですね。
昨日は25度と夏日でしたし、なぜか6月は暑くなるんですよねー。
おかげで大気が不安定になったせいか夕立に降られてしまいました。
雷もゴロゴロ鳴っていたし怖かったよー。
ところでこのところ古本屋めぐりをしているのですが、行くところ行くところどこにもないという状況が続いてます。
実はあるマンガを探しておりまして、以前見たときに手に入れておけばよかったんですが、それ以後そのマンガのタイトルなどをスコーンと失念してしまいまして、先日それは「女刑事ペルソナ」の2巻じゃないかとのことで探しているんですけどいまだ見つからずの状態なのです。
内容はMC好きにはたまらないような内容なんですけど、記憶が定かでないのでもしかしたら違うところもあるかもしれません。
鉄道警察の女刑事さんが同僚とともに痴漢の捜査をおこなっていたところ罠にかかってしまい、同僚と引き離された上で電車内で犯されてしまうのですが、そのときに催眠暗示のようなものをかけられてしまい、以後痴漢のリーダーのような男の言いなりになって電車内で淫らな奉仕をするような女になってしまいます。
その後確かヒロインを男の命令に従って罠にかけるんですが、残念ながら男の目論見どおりにはいかず・・・というような話だったと思うんですけど、この話だけが女刑事さんがMCされて悪堕ちという感じだったので印象に残ってたんですよね。
車内で淫らな奉仕をしているときもボンデージ姿で男に跪いており、見ていてどきどきものでした。
立ち読みだったのでタイトルもしっかり覚えておらず、先日ようやく「女刑事ペルソナ」じゃないかと教えていただいたんですけど、まだ確認できてません。
うーん・・・通販で取り寄せるしかないかなぁ。
もう一度読んでみたいですね。
それではまた。
- 2010/06/09(水) 21:16:21|
- 本&マンガなど
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ソ連との戦いでT-34及びKV-1などという強力な敵戦車と出合ったことで、もともと進められてきた三号突撃砲の長砲身化が大きく進みました。
はじめ43口径長75ミリ砲を搭載したF型は、その途中から48口径長75ミリ砲を搭載するようになり、車台の変更でF/8型へと進化したのち、決定版とも言うべきG型へと発展して行きました。
このことは三号突撃砲が移動歩兵砲から移動対戦車砲へと性格を大きく変えることになりました。
ソ連軍の繰り出す大量のT-34などの戦車に対し、三号突撃砲は常に対戦車戦闘に駆り出されることになったのです。
そうなると歩兵の支援にあたるはずだった三号突撃砲は、その任務に当たることが難しくなってきます。
対戦車戦闘で手一杯になってしまうからです。
歩兵にとっては頼もしい反面残念なことでもありました。
そこでドイツ軍は、三号突撃砲を二種類生産してこの問題を解決しようと試みました。
一つは今までの流れで生産されていく長砲身75ミリ砲搭載の対戦車任務に当たる三号突撃砲。
もう一つは歩兵支援を主任務とする榴弾砲を搭載する三号突撃榴弾砲です。
1941年半ばごろにはこの考えは実行に移され、搭載する主砲には75ミリ砲よりも威力のある105ミリ榴弾砲を搭載しようということになりました。
105ミリ榴弾砲は、ドイツ軍にあっては歩兵師団の主力火砲であり、歩兵にとっては馴染み深い砲でもありました。
しかし105ミリ榴弾砲の三号突撃砲搭載仕様への変更は若干手間取ってしまい、試作車の完成は1942年の3月へとずれ込んでしまいました。
その後各種の修正を行い10月になって陸軍の審査を受けましたが、ヒトラー総統はこの三号突撃榴弾砲をとても気に入り、すぐに量産に入るよう指示したと言います。
先行量産車はまだ短砲身型のE型をベースにしたものや、前線から修理のために引き揚げられたF型やF/8型をベースにしたものなど合計12両が作られ、1942年11月のヴェルキエ・ルキ戦区での戦いに投入されました。
その後三号突撃砲の生産をおこなっていたアルケット社には月産12両の三号突撃榴弾砲生産の指示が出されましたが、アルケット社は三号突撃砲の生産で手一杯であり、生産は遅々として進みませんでした。
それでもG型の生産が軌道に乗り始めると、ようやく突撃榴弾砲の方も生産が進むことになります。
この時点では突撃榴弾砲もG型車体と同じものを使っており、違いは主砲の太さぐらいと言ってもいいほどでした。
三号突撃榴弾砲は、成型炸薬弾(HEAT弾)を使うことで対戦車戦闘もおこなうことができましたが、あくまでも105ミリ榴弾砲による歩兵支援をおこなうための車両でした。
生産数は約1300両にも及び、前線で歩兵たちに強力な大口径砲の威力で支援をおこなっていったのです。
三号突撃砲と三号突撃榴弾砲は、最後までドイツ軍歩兵たちの頼もしい味方でした。
戦車に対しては三号突撃砲が、敵の火力に対しては三号突撃榴弾砲が適切な対処をおこなってくれました。
どこにいるかわからない装甲師団のパンターや重戦車大隊のティーガーなんかよりも、常にそばにいてくれる三号突撃砲や三号突撃榴弾砲はよほど頼りになる存在だったことでしょう。
しかし、いくら優秀な車両で砲塔がないことで生産がしやすいからと言って、三号突撃砲が装甲師団に戦車の代わりに配備されるということは、ドイツの生産力の乏しさを示すものでもありました。
この三号突撃砲に頼らなくてはならなかったことが、ドイツの限界をも表していたのでしょう。
それではまた。
- 2010/06/08(火) 21:47:41|
- 趣味
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1941年6月22日に開始されたバルバロッサ作戦によってソ連に攻め込んだドイツ軍は、間もなく恐るべき相手に出会うことになりました。
傾斜装甲を持ち76ミリという比較的大口径の主砲を持つT-34と、分厚い装甲を持ちやはり76ミリという大口径主砲を持つKV-1の二種類の戦車です。
ドイツ軍はこの二種類の戦車のことをまったく知らなかったといいます。
バルバロッサ作戦開始時点でのドイツ軍の主力戦車は三号戦車でした。
三号戦車は42口径長の50ミリ砲を搭載しているタイプが中心でしたが、中には初期型の37ミリ砲を搭載しているものもまだ多くが装甲師団に配備されておりました。
一方歩兵師団の対戦車砲部隊に配備されていたのは37ミリ対戦車砲が中心であり、50ミリ対戦車砲がじょじょに配備されつつある状況でした。
これらの50ミリ砲も37ミリ砲もソ連軍が装備しているT-26戦車やBT-7戦車には有効でしたが、T-34やKV-1には50ミリ砲でもよほどの近距離でないと貫通できず、37ミリ砲にいたっては装甲を叩くだけという意味からドアノッカーなどといわれるありさまでした。
そのためT-34やKV-1を中核として攻撃してくるソ連軍に対して、ドイツ軍の歩兵師団はしばしば窮地に陥ることになりました。
対戦車砲部隊の37ミリ砲が役に立たないため、歩兵をT-34やKV-1から守ってくれるものが無かったのです。
そうなると歩兵部隊と主に行動をともにしていた三号突撃砲もトーチカや機関銃陣地を相手にしているだけではすまなくなります。
三号突撃砲は75ミリ砲という大口径砲を搭載していたので、T-34などに対抗することを期待されたのです。
以後三号突撃砲も対戦車戦闘に駆り出されるようになりました。
ですが、三号突撃砲の75ミリ砲は対戦車戦闘には不向きな短砲身砲でした。
初速が低いために貫通力が低く、T-34やKV-1にはやはり威力不足だったのです。
そのため初速が速く貫通力の高い長砲身の75ミリ砲を搭載することが求められました。
最近まではこのT-34やKV-1との遭遇が三号突撃砲の長砲身化を求めるきっかけになったといわれておりましたが、新しい資料によれば、もともと三号突撃砲の長砲身化は進められていたといいます。
ただし、短砲身と比べてもそれほど威力が増大しなかったために一時見合わせられていたといいます。
しかし、T-34やKV-1との遭遇により、やはり長砲身化が求められたというのが正しいようで、当時ようやく量産が開始されつつあった75ミリ対戦車砲を基本に突撃砲の車体に合うように改良されたものが搭載されることになりました。
1942年3月、量産中だった三号突撃砲E型の車体に43口径長の75ミリ砲を搭載した三号突撃砲F型の量産が開始されました。
これは主砲以外はほとんどE型のままでしたが、砲尾の部分が天井にぶつからないように天井の一部が高くされており、また排煙のためにベンチレーターをつけたりするなどの改良が行われました。
また、生産の途中からはより強力な48口径長の75ミリ砲を搭載するようになりました。
三号突撃砲F型の量産は比較的短期間で終わり、1942年5月からは車台を新型に変更したF/8型が量産されることになります。
これは元となる三号戦車自体の車台が新しい8/ZW型というものに変更になったため、三号突撃砲もそれに伴って車台を変更することになったのです。
F型及びF/8型は両方合わせて約700両ほどが作られましたが、1942年11月にはいよいよ三号突撃砲の決定版とも言うべきG型の量産が始まります。
G型は改良に次ぐ改良を積み重ねた上部車体を一から見直して刷新し、使い勝手と生産性の向上を目指したものでした。
外部視察のしやすいキューポラが備えられ、車内容積も広くなるなど大幅に改善された上部車体を持つG型はまさに三号突撃砲の集大成であり、終戦まで基本的にはこのG型のままで生産が続けられました。
G型の生産数はなんと7000両にも達しているのです。
大戦中期以降のドイツ軍にとって、なくてはならない車両でした。
F型以降の長砲身型三号突撃砲は、短砲身型の持っていた移動歩兵砲という性格からは大きく変わるものでした。
今度はいわば移動対戦車砲と言うべきものになったのです。
これ以後三号突撃砲は歩兵支援のための車両ではなく、対戦車戦闘を主とする車両になってしまいました。
三号突撃砲は貫通力の高い48口径長の75ミリ砲でT-34やM4などの連合軍戦車を数多く撃破いたしました。
一説によれば連合軍戦車を最も多く破壊したのはこの三号突撃砲であったといいます。
いく人もの対戦車エースを生み出し、鉄十字章を受ける人も数多く輩出いたしました。
回転砲塔を持たない三号突撃砲は生産も比較的しやすく、のちには戦車の代わりとして装甲師団にも配備がおこなわれます。
対戦後半の防戦主体となったドイツ軍においては、移動対戦車砲というべき三号突撃砲は、まさに主力として活躍したのでした。
- 2010/06/07(月) 21:40:03|
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今日は6月6日ですね。
古来北半球で多く戦われてきた戦争において、夏至のある6月は昼間の時間が一年で一番長い時期でありますので、戦闘に費やせる時間が長く取れることから大きな作戦が多く行われてきた月でもあります。
第二次世界大戦においてもドイツ軍によるソ連侵攻が行われたのが6月22日ですし、1944年におこなわれたソ連軍によるドイツ軍への大反抗であるバグラチオン作戦も6月22日でした。
(バグラチオン作戦は季節的な面もそうですが、バルバロッサ作戦に対する意味合いもあって同じ日付に行われました)
日本でも太平洋戦争中のミッドウェー海戦は6月5日ですし、ナポレオン最後の戦いワーテルローの戦いも6月18日と、6月は有名な戦いが多いです。
そして今日6月6日は、第二次世界大戦における西側連合軍の大陸反抗作戦「オーバーロード作戦」、いわゆるノルマンディー上陸作戦が行われた日ですね。
おこなわれたのが1944年6月6日ですから、今日で66年が経ったわけです。
66年目の6月6日と6並びですね。
上陸はノルマンディーの五ヶ所において行なわれ、ユタ及びオマハ海岸を米軍が、ゴールド、ジュノー、ソード海岸を英連邦軍が担当し、他に後方確保のために空挺三個師団が内陸に降下しましたが、その様子は映画「史上最大の作戦」や「プライベートライアン」などで再現されたりしています。
オマハ海岸は「血のオマハ」とも言われ、四千名以上の死傷者を出したほどの激戦だったといいます。
ノルマンディー上陸作戦も数多くのゲームになっておりますので、休日の今日はおそらくあちこちでプレイされたのではないでしょうか。
私も先日ASLでノルマンディー上陸作戦時の米軍降下部隊に対する独軍の反撃シナリオをプレイしましたけど、残念ながらドイツ軍を担当して負けました。
今日はこんなところで。
それではまた。
- 2010/06/06(日) 21:08:37|
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1940年の5月に始まったドイツによるオランダ、ベルギー、フランスへの侵攻、いわゆる「西方電撃戦」において、三号突撃砲は最初の量産型であるA型が実戦投入されました。
この時投入された数は、わずか24両に過ぎませんでしたが、人間の身長並みという低い姿勢に短い砲身を突き出した三号突撃砲の姿はナチスの宣伝効果とも相まって、各国の軍事関係者に大きなインパクトを与えたといいます。
また三号突撃砲自体も、その開発目的に沿うようにトーチカや家屋などに立て篭もる機関銃座などに対する攻撃に使用され、75ミリ砲弾を近距離で叩き込んで撃破するという任務を充分に果たして歩兵たちの頼もしい味方となりました。
この時点での三号突撃砲は、基本は三号戦車の車台でしたが、より防御力を増した装甲の厚い専用車台が使われ、その車体に24口径長の75ミリ短砲身砲を搭載するというまさに装甲された移動歩兵砲でした。
このスタイルが最初の量産型A型によって確立され、以後、B型、C型、D型、E型まで各部のマイナーチェンジを続けながら量産されることとなります。
ここまでが、短砲身タイプ三号突撃砲と呼ばれるバージョンです。
三号突撃砲は開発の経緯を見てもわかるように、基本は移動歩兵砲でした。
そのためこの車両は戦車部隊である装甲科に所属するものではなく、砲兵科に所属するものとされました。
ドイツ軍装甲師団の戦車兵が黒い独特の軍服を着用していたのに対し、突撃砲の乗員は形は同じですがフィールドグレイの軍服を着用していたのも、彼らが砲兵科の兵士だったからなのです。
ただし、大戦後半には軍服は共通化されました。
三号突撃砲は大元となった三号戦車譲りのトーションバー式サスペンションという地形追従性のよい足回りを持っておりました。
そのため砲弾の爆発などで荒れた地面でも、機動性を発揮することができ、常に歩兵と行動を共にすることができました。
フランス侵攻から翌1941年前半のバルカン半島侵攻戦まで、三号突撃砲は縦横無尽に活躍することができたのです。
ですが、三号突撃砲がその移動歩兵砲というべき性格を一変しなくてはならないような出来事が起こります。
1941年6月に始まったバルバロッサ作戦。
ソ連侵攻でした。
- 2010/06/05(土) 21:16:52|
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民主党の代表選挙がおこなわれました。
新代表は菅直人氏に決まりまして、衆議院及び参議院での首相指名選挙も順当に勝ち抜いて第94代内閣総理大臣に就任することが決まったようです。
鳩山内閣の副総理であった菅氏ですから、おそらく鳩山政権の路線をほぼ踏襲していくのかなとも思いますけど、選挙目当てだけではない内容のある政治に期待したいものですね。
少しでも生活がよくなってくれればと思います。
私はというと、ゲームジャーナル35号の付録ゲーム「激闘! グデーリアン装甲軍」のルールブック読み込み中です。

全体的に見てもそれほどユニットも多くなく、さらにチットシステムなので選ばれたチットに関わるユニットしか動かないので、わりとさくさくと進みそう。
ドイツ軍は圧倒的だけど、ソ連軍がうまくやればなかなか勝つのは困難らしい。
やばい・・・やりたい気持ちがどんどんと。
ユニット切って対戦準備を整えようかな。
VASSALモジュール出ないかな。
今日はこんなところで。
それではまた。
- 2010/06/04(金) 21:47:14|
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1914年に始まった大戦争、いわゆる第一次世界大戦は、塹壕に立て篭もる敵の機関銃との戦いと言ってもいい戦争でした。
塹壕陣地に適切にすえつけられた機関銃は、故障したり弾が切れたりしなければ、いつまででも火力を発揮し続けて歩兵の接近を許さないものでした。
砲撃で大量の砲弾を叩き込んでも、必ず数ヶ所の機関銃陣地は生き残り、歩兵の突撃を阻止してきます。
各国はこの機関銃対策に頭を悩ませました。
そこで英国が発明したのが戦車でした。
装甲を貼った車両を使うことで、機関銃弾を跳ね返しながら進もうというのです。
この構想は成功を収め、ドイツ軍は大きな衝撃を受けました。
しかし、当時の戦車はまだまだ未成熟の兵器でした。
故障も多く、攻撃配置につくことさえ至難の業であり、さらには装甲も薄かったため、野砲で簡単に撃ち抜かれてしまう程度だったのです。
そのため、ドイツはこの時点では戦車にさほど魅力を感じませんでした。
ドイツは歩兵の問題は歩兵で解決することを考えます。
攻撃前におこなわれる砲兵の砲撃のあと、歩兵が突撃をするそのときが一番無防備になる瞬間でした。
そのときに、歩兵のすぐそばで歩兵といっしょに動く軽量の小型砲があれば、歩兵を狙ってくる機関銃陣地をその砲でつぶそうと考えたのです。
いわゆる歩兵部隊に配備される歩兵砲の開発でした。
歩兵砲は、歩兵支援には有効な兵器ではありましたが、操作するのはあくまで生身の砲手であり、防盾があったりするものがあるとはいえほとんど無防備に近いものでした。
そうなると、砲手も機関銃弾に倒されてしまうことになり、突撃時の火力支援がうまくできなくなる可能性も充分に考えられます。
そこで歩兵砲を装甲で囲んで、さらに自走できるようにしたらどうだろうと言う考えが生まれました。
これが突撃砲の概念でした。
第一次大戦終結後、戦車先進国であった英仏では、戦車による歩兵支援というものが当たり前と考えられておりました。
戦車は歩兵に従属するべきものであり、当然敵機関銃に対する攻撃を行なうのも戦車でした。
しかし、ドイツでは第一次世界大戦後戦車に対する考え方が大きく進みました。
戦車はその機動性を発揮して敵の弱点を着くべき機動兵器と考えられたのです。
そのためには戦車を歩兵に従わせるのではなく、歩兵が戦車に追随することが求められます。
そのため歩兵の自動車化や機械化が進むことになるのですが、そうなると歩兵の支援を戦車がおこなうということは考えづらくなりました。
そこで突撃砲の概念が有効と見なされ、新たに開発されることになります。
1935年、のちにドイツ軍の名将とされるマンシュタイン将軍によって突撃砲の開発が提案され、翌1936年6月にダイムラーベンツ社に車体の、クルップ社に搭載砲の開発が命じられました。
この両社に開発が命じられたという時点で、ドイツ軍には突撃砲がどのようなものになるのかは見えていたのではないでしょうか。
なぜならダイムラーベンツ社はのちの三号戦車を開発中であり、その車体を使うであろうことは自明の理でしたし、クルップ社はのちの四号戦車に搭載する短砲身75ミリ砲を開発中であったため、その砲が流用されることもまたわかりきったことだったからです。
こうして開発が始まった突撃砲は、のちに予想通りに三号戦車の車体に四号戦車の主砲と同等の75ミリ砲を備えた自走砲として完成しました。
特筆すべきはその背の低さであり、開発目標とされた当時のドイツ人の平均身長を越えないという目標よりはやや高いものの、それでも人間の身長とほぼ変わりない低さだったのです。
背の低さと大口径砲を搭載するために砲塔はなくなりましたが、機動兵器である戦車とは違うので、固定砲でも充分と考えられました。
その代わり、元となった三号戦車よりも装甲厚は若干増して50ミリにされました。
これは歩兵とともに敵陣に突撃するため、近距離で敵弾を受けるだろうと考えられたからです。
三号突撃砲の試作車は1938年ごろには完成したといわれますが、最初の時点では天井のないオープントップだったと言います。
ただ、オープントップでは敵弾の影響を受け安いため、1939年ごろには天井をつけたクローズトップへと変えられました。

最初の量産型のA型は第一陣として30両が作られ、のちに20両が追加されて合計50両が作られました。
そして1940年に始まった西方電撃戦に投入され、歩兵支援に活躍します。
終戦までドイツ歩兵の一番頼りになる頼もしい味方、三号突撃砲の完成でした。
それではまた。
- 2010/06/03(木) 21:30:32|
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今日は朝からずっとこのニュース一色になってしまったみたいですね。
午前中の首相の辞任表明でしたが、札幌市内でも号外が出たようです。
テレビでも通常の番組を差し替えて中継がおこなわれたみたいですね。
ある意味小沢幹事長も道連れになったみたいで、小沢幹事長も辞任し、民主党首脳部も一新ということになったようです。
個人的にはやっぱりそうなったかという気持ちですね。
特に応援していたわけではありませんし、政権運営にはちょっと問題ありかなぁと思っていたので、今回の辞任はやむを得ないことだと思います。
次の首相にどなたがなるのかはまだ不透明ですが、菅氏が有力となっているようですね。
どなたにせよ、国民生活をよい方向へ向けて行って欲しいものだと思います。
今日はこんなところで。
それではまた。
- 2010/06/02(水) 21:01:43|
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今日も月刊誌の紹介。
海人社様の「世界の艦船」7月号です。

こちらが表紙。
今月は特大号なので価格も高い。
でもまあ、こんなものなんでしょうね。
特集は海上保安庁。
いつものごとく海上保安庁のほぼ全船艇が網羅されてます。
だいぶ新型船に更新されてきましたね。
中でも主力ともいうべき1000トン級巡視船の移り変わりも出ています。
海上保安庁の船艇は海上自衛隊の艦艇とは違い、排水量ではなく総トン数なので、排水量だと1200トンぐらいのものから2000トンにもなるものがあったりと、同じ1000トン級と言っても船型によって排水量がかなり違うみたいです。
ちなみに総トンとは船の容積によるもので重さとは関係なく、排水量とは船が押しのける水の重さでこちらは船そのものの重量です。
一般的には民間船舶は利用できる大きさ=容積が重要なので総トン数を、軍艦は排水量を使うことが多いようです。
今日はこんなところで。
それではまた。
- 2010/06/01(火) 21:54:23|
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