今日は横綱朝青龍関の引退がニュースを騒がせておりますが、今から68年前の1942年2月4日は、インドネシア方面で「ジャワ沖海戦」がおこなわれた日でした。
1941年12月8日のハワイ真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争は、その後「マレー沖海戦」で英国戦艦二隻を撃沈し、マレー半島での陸軍の快進撃がシンガポール島対岸のジョホールバルまでの占領を終えており、残るはシンガポール島の攻略のみになっておりました。
そんな中、日本陸海軍は資源地帯の攻略をおこなうべくインドネシア方面への進出を画策しておりましたが、インドネシア方面の制海権をまだ掌握したわけではありませんでした。
この時期インドネシア方面には、連合軍の艦隊がまだ健在であり、この艦隊を撃滅しなくては制海権を手に入れることはできなかったのです。
2月に入り、連合軍艦隊の指揮を任されていたオランダのカレル・ドールマン提督(少将)は、日本軍の動きを注視しておりましたが、日本軍の上陸部隊を乗せた輸送船団が出撃したとの報告を受け、上陸阻止のために艦隊を率いて出撃いたします。
しかし、この報告は誤報でした。
出撃した連合軍艦隊は、アメリカの重巡「ヒューストン」、軽巡「マーブルヘッド」、オランダの軽巡「デ・ロイテル」及び「トロンプ」を中核とした艦隊でした。
指揮はドールマン提督自らが取り、軽巡「デ・ロイテル」を旗艦としておりました。
連合軍艦隊は日本軍の船団を求めジャワ海を航行しておりましたが、もちろん誤報だったために日本軍の船団を見つけることはできませんでした。
それどころか逆に日本軍の偵察機に艦隊を発見されてしまうのです。
2月4日の早朝、偵察機の報告を受けた塚原中将は、この艦隊を航空機で攻撃することに決定。
鹿屋航空隊や高雄航空隊などに出撃を命じます。
このうち鹿屋航空隊は、前述の「マレー沖海戦」にも参加しており、その再現を目論んだことは想像に難くありません。
日本軍の航空攻撃は四度に及び、合計三十六機の一式陸攻と二十四機の九六式陸攻が連合軍艦隊を襲いました。
しかし、「マレー沖海戦」のような航空機による撃沈をおこなうことはできず、「ヒューストン」に命中弾一発、「マーブルヘッド」に命中弾二発などの損傷を与えただけにとどまりました。
ですが、主力の巡洋艦群に損傷を受けてしまったことで、ドールマン提督は後退を決定。
連合軍艦隊は戦場を離脱します。
こうして「ジャワ沖海戦」は終わりました。
この海戦は日本軍の勝利ではありましたが連合軍艦隊に沈没したものはなく、なおその脅威は残りました。
ですが、この後「スラバヤ沖海戦」や「バタビア沖海戦」で連合軍艦隊は次々と沈められ、その脅威は消え去ることとなるのです。
「マレー沖海戦」では戦艦二隻を撃沈した陸攻部隊でしたが、この「ジャワ沖海戦」では損傷を与えるだけにとどまりました。
やはり戦艦に比べて小型で速度が速い巡洋艦は攻撃しづらかったんでしょうかね?
それではまた。
- 2010/02/04(木) 21:29:05|
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放課後、大きい交戦さんと中佐について熱く語り合いました。舞方雅人さんのひみつも聞いちゃいました……!
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- 2010/02/04(木) 10:20:34|
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