英軍による南サンドイッチ島の再占領をもって、すべての戦闘は終結いたしました。
フォークランド諸島近海には再び静寂が訪れました。
アルゼンチンでは、ガルチェリ大統領が戦争責任を取らされる形で辞任に追い込まれました。
後を継いだビニョーネ新大統領も12月にはアルフォンシン大統領に政権を奪われて退陣。
以後アルゼンチンでは軍の発言力が大幅に低下して、政府による軍のコントロールが進みました。
ガルチェリ大統領はその後懲役刑を言い渡されますが、1991年、時のメネス大統領による特赦で釈放されました。
また、この紛争で英国軍に降伏したアルゼンチン軍の捕虜は、ウルグアイ経由でアルゼンチンへと送り返されております。
アルフォンシン大統領は、この紛争で傷ついたアルゼンチンの対外評価の回復に努めました。
その結果、かねてより国境問題などを抱えていた隣国チリやブラジルとの関係改善がおこなわれ、アルゼンチンはじょじょに信頼を回復することになります。
一方の英国は、紛争の勝利者としてサッチャー首相の支持率が大幅に上がりました。
一時期は80%を越えるほどでしたが、これは戦前の不人気を考えると信じられないほどのものでした。
サッチャー首相はこれによって政権を続投し、英国経済も紛争勝利に引きずられて回復して行きました。
しかし、フォークランド諸島を再占領したことは、帝国主義的であるという批判も大きく、香港の返還につながって行きました。
また、フォークランド諸島には紛争後も英軍の一部が駐留しており、その維持費用も莫大なものとなるため、英国にとっては頭の痛い問題でもありました。
アルゼンチンにとっては経済政策の失敗から国民の目をそらすための行為が、じょじょに国民をその気にさせてしまい後戻りができなくなってついには軍事行動に発展いたしました。
しかし、英国の反撃を過小評価した結果、冬の訪れより前に行動を起こしてしまい、英軍に反撃の時間を与えてしまいました。
英国にとってはフォークランド諸島を奪われたままにしておくことは、香港やジブラルタルなどの英国海外領土の連鎖的崩壊を招く可能性があり、何が何でも奪回しなければなりませんでした。
どれだけ損害を出そうとも取り戻さなくてはならなかったのです。
双方の思惑が絡み、結果的にはこの紛争で、英国は約千名の死傷者を、アルゼンチン側は約二千名の死傷者を出しました。
艦船や航空機の損害も大きく、英国は大型艦六隻と七機のハリアー及び十一機のヘリを失い、アルゼンチンも一隻の巡洋艦と八十機以上の航空機を失いました。
しかも、それだけの損害を出して得たものは、フォークランド諸島の戦前状態への復帰、いわゆる現状維持でした。
1986年。
メキシコで行なわれたサッカーワールドカップにおいて、アルゼンチン代表はイングランド代表に2対1で勝ち、敗戦の屈辱に打ちひしがれた国民を勇気付けました。
1989年。
英国とアルゼンチン両国は敵対関係の終結を宣言。
翌1990年に国交を再開いたします。
ですが、現在に至るも、フォークランド諸島の領有権は英国及びアルゼンチン双方が主張して譲っておりません。
フォークランド紛争 終
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参考文献
「フォークランド紛争」 歴史群像2000年秋・冬号 学研
他
参考サイト
「Wikipedia フォークランド紛争」
他
今回もお付き合いくださいましてありがとうございました。
資料本の簡易な引き写しですが、少しでもこの紛争のことを知っていただければうれしいです。
一月も今日で終わり。
今月中には200万記念作をと思っておりましたが、間に合いませんでした。
もう少しお待ちくださいませ。
それではまた。
- 2010/01/31(日) 20:55:34|
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