英国艦隊の夜間砲撃から始まった主都市ポート・スタンレーへの攻撃は、深夜0時過ぎにはアセンション島からの長距離爆撃も加わりました。
この砲撃と爆撃によって、実戦経験の乏しいアルゼンチン軍は大混乱に陥ります。
そして翌6月12日の午前2時ごろには英軍地上部隊による攻撃がついに始まり、アルゼンチン軍の外郭防衛ラインへ攻撃が行なわれました。
アルゼンチン軍は必死の防衛戦を展開しますが、戦闘に不慣れなことが災いし、数の優位を活かしきれません。
戦闘は英軍側に取っても苦しいものでしたが、やはりプロフェッショナルの実力を発揮する英軍が優位に進めることとなり、9時間ほどの戦闘でアルゼンチン軍側の外郭防衛ラインはほぼ制圧されてしまいました。
アルゼンチン軍は外郭防衛ラインから撤収し、残った兵力でポート・スタンレーの周囲の丘陵地帯に構築した最終防衛ラインの通称「ガルチェリ線」を固めます。
さらには英軍の監視網をかいくぐって空輸してきたエグゾセミサイルを陸上から発射。
このエグゾセミサイルは、沖合いで遊弋(ゆうよく)中の駆逐艦「グラモーガン」に命中します。
「グラモーガン」はエグゾセを探知すると対空ミサイルで迎撃したのですが、対空ミサイルで撃墜することはできず、エグゾセは後部のヘリコプター甲板を直撃。
「グラモーガン」は火災を発生しますが、幸い沈没することはまぬがれました。
6月13日。
英軍は「ガルチェリ線」への攻撃を開始。
ここでもアルゼンチン軍の必死の抵抗が英軍を苦しめます。
アルゼンチン軍が設置した機関銃座は英軍の接近を許さず、英軍はこれに対抗するために対戦車ミサイルを機関銃座に撃ち込むなどして一つ一つ潰していかなくてはなりませんでした。
また一部部隊では手持ちの弾薬不足から、前時代的な銃剣突撃までおこなってやっとアルゼンチン軍を排除するような箇所さえありました。
こうして英軍はアルゼンチン軍の防御拠点を一つずつ破壊し、6月14日の午前中までには「ガルチェリ線」をほぼ制圧。
ポート・スタンレーを丸裸にすることに成功いたしました。
アルゼンチン軍にはもはや拠るべき拠点はなく、抵抗のすべはなくなりました。
6月14日午後3時ごろ、アルゼンチン軍のフォークランド諸島守備隊司令官メナンデス少将がラジオ放送で英軍に対し停戦を受け入れる用意がある旨を放送。
これに伴い午後5時45分ごろにポート・スタンレーに白旗が掲げられました。
6月14日午後9時。
この時をもってフォークランド諸島全域のアルゼンチン軍が降伏。
東フォークランド島での戦闘は終わりを告げました。
6月15日。
アルゼンチンのガルチェリ大統領が「戦闘終結宣言」を発表。
ですが、フォークランド諸島の主権はあくまでもアルゼンチンにあることと、英国が再び植民地化の動きを見せるのであれば戦闘を続けると主張しました。
しかし、もはやガルチェリ大統領には国民をまとめる力はありませんでした。
わずか二日後の6月17日、ガルチェリ大統領はこの紛争の責任を取らされる形で大統領を辞職。
後を継いだビニョーネ新大統領も国民の支持を得ることはできず、アルゼンチンの軍政は終わりを告げることになります。
6月19日。
英軍は南サンドイッチ島に部隊を上陸させ、アルゼンチン軍と交戦。
程なくアルゼンチン軍を降伏させ、ついにアルゼンチン軍に占領されていた全地域を再占領することとなりました。
これに伴い6月20日には英国政府も停戦宣言を発表。
七十二日間にわたって陸海空でおこなわれていた紛争に決着がつきました。
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- 2010/01/29(金) 21:12:56|
- フォークランド紛争
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