5月に入り、戦闘はいよいよ激化の一途をたどり始めました。
先日の記事に記したように、5月1日には英国空軍のアブロ・バルカン爆撃機が長駆アセンション島からスタンリー空港を爆撃して行きましたし、英海軍のシーハリアーと艦砲射撃が同じくスタンリー空港とグースグリーン空港を攻撃しました。
これに対しアルゼンチン空軍のミラージュ戦闘機が英国艦隊を攻撃しようとしたものの、逆にシーハリアーによって四機を失うという痛手をこうむります。
ですが、アルゼンチンとてこのまま引き下がるつもりはありませんでした。
アルゼンチン本土からの航空攻撃は、確かにフォークランド諸島との距離の関係で、大幅に制限を受けることになります。
本土の基地からおよそ800kmから1000kmも離れているフォークランド諸島の上空では、アルゼンチン空軍もその滞空時間が少なくならざるを得ないのです。
それに対し、英国艦隊は空母を保持しているため、すぐに上空直衛を行なえます。
で、あれば、こちらも空母を出せばいいのです。
アルゼンチン海軍には、当時一隻の空母がありました。
その名を「ベインティシンコ・デ・マヨ」といい、もともとは第二次世界大戦中に英国が建造した「コロッサス」級の空母でした。
英国が売却した空母をオランダが購入し、そのオランダから今度はアルゼンチンが購入して配備していたのです。
この「ベインティシンコ・デ・マヨ」から艦載機を発進させれば、英国艦隊の大いなる脅威となるはずでした。
一方、英国もこのアルゼンチンの空母には注意を払っておりました。
またアルゼンチン海軍にはもう一隻、「ヘネラル・ベルグラノ」という巡洋艦があり、この二隻がアルゼンチン海軍の主力と目されておりました。
そこで英国海軍は、この二隻の動向を監視するとともに、ことあれば攻撃を行なうために、それぞれに一隻ずつの攻撃型原子力潜水艦を派遣します。
「ベインティシンコ・デ・マヨ」には「スパルタン」を、「ヘネラル・ベルグラノ」には「コンカラー」をそれぞれ差し向けたのです。
「ヘネラル・ベルグラノ」は、もともとはアメリカ海軍の巡洋艦でした。
完成したのはなんと第二次世界大戦前の1938年で、日本軍との戦いを生き延びた巡洋艦でした。
アルゼンチンは1951年にこれを購入し、アルゼンチン海軍の主力と位置づけます。
無論、このフォークランド紛争時にはすでに完成から40年以上が経っていたため、アルゼンチン海軍でも実質上の戦力というよりもいわば象徴のような扱いではありました。
アルゼンチンはこの二隻それぞれを中核とした小部隊をフォークランド諸島沖に派遣しました。
空母「ベインティシンコ・デ・マヨ」はフォークランド諸島の北側に、「ヘネラル・ベルグラノ」は南側に配置され、それぞれ英国艦隊へ圧力をかけるつもりだったのです。
しかし、機関の不調から「ベインティシンコ・デ・マヨ」は艦載機を発進させることができず、ついに第二次世界大戦後初となる空母同士の海上決戦は行なわれることなく終わります。
また、「ヘネラル・ベルグラノ」には、海中から静かに忍び寄る英国潜水艦「コンカラー」の姿がありました。
5月2日、24時間体制で「ヘネラル・ベルグラノ」に張り付いていた「コンカラー」は、この巡洋艦が味方の脅威になりえると判断します。
いまだ英国の通告した「海空封鎖領域:TEZ」外にとどまっていた「ヘネラル・ベルグラノ」でしたが、英国海軍はこれに対する攻撃を決定。
艦長はあらかじめ定められた交戦規定に基づき、この日の午前四時ごろ、三発の無誘導魚雷を発射しました。
魚雷はこのうち二発が命中。
「ヘネラル・ベルグラノ」は艦首付近を吹き飛ばされ、ゆっくりと沈没。
乗員1092名中323人が運命をともにしました。
「コンカラー」はこれにより史上初めて敵艦を撃沈した原子力潜水艦となり、今現在にいたるまで「コンカラー」のみが保持する記録となってます。
海軍の象徴たる巡洋艦「ヘネラル・ベルグラノ」を沈められたアルゼンチンは色を失いました。
あわてて空母「ベインティシンコ・デ・マヨ」をフォークランド沖から呼び戻し、以後「ベインティシンコ・デ・マヨ」に出撃の機会が訪れることはありませんでした。
アルゼンチン国民にとっても「ヘネラル・ベルグラノ」沈没の衝撃は大きいものでした。
フォークランド諸島の占領という既成事実さえ作ればあきらめざるを得ないであろうと思っていた英国が、本気で取り返しに来ていることがわかったのです。
アルゼンチンを重い空気が包みました。
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- 2010/01/14(木) 21:17:12|
- フォークランド紛争
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