サンディー・ウッドワード少将率いる英国海軍の機動部隊、第317任務部隊はアセンション島を出港後順調にフォークランド諸島へと向かっておりました。
その間にも空母「ハーミーズ」や「インヴィンシブル」の艦上では、戦闘への準備がおおわらわで進められていきます。
なにせ英国は第二次中東戦争以降大きな戦争を経験しておりません。
シーハリアーの平常時の目立つ塗装を急いで戦時塗装に塗りなおし、上陸する兵士たちはヘリからの降下訓練を空母の飛行甲板で行ないます。
海に向かっての射撃訓練も各艦艇で行なわれました。
1982年4月23日。
英国海兵隊特殊舟艇隊(SBS)のコマンドが南ジョージア島に偵察上陸を行ないます。
25日には英国海兵隊の二百五十名が南ジョージア島に上陸。
アルゼンチン軍と戦闘に入ります。
ですが、アルゼンチン本国から遠いこの南ジョージア島の保持は無理と判断していたアルゼンチン軍はさほどの抵抗はせず、同日南ジョージア島は再び英国の手に戻ります。
英国はようやく一ヶ所取り戻したのでした。
この時点でも英国はまだアルゼンチンに対し宣戦布告は行なっておりませんでした。
英国は自国の軍事行動を、国連憲章の定める自衛権の行使としており、アメリカを通じた外交交渉も続けていたのです。
しかし、アルゼンチンは強硬でした。
ガルチェリ大統領はアメリカの仲介を突っぱね、ついにはアメリカも平和的解決の道なしと手を引くことになります。
4月30日。
アメリカが交渉を断念。
これに伴い、英国はフォークランド諸島から200海里の海上封鎖を、「海空封鎖領域:TEZ」に再設定。
海上だけではなく空域も封鎖されることになり、フォークランド諸島に近づくアルゼンチン航空機も攻撃対象となりました。
フォークランド諸島にいるアルゼンチン軍への補給は主に空路によっており、この日までに同島守備隊の約90日分の武器弾薬を運び込むことに成功しておりましたが、以後、アルゼンチン軍が守備隊兵力を増強することはきわめて困難な状況になったのです。
5月1日。
英国はフォークランド諸島の重要な二つの空港、東フォークランド島にあるスタンレー空港とグースグリーン空港を使用不可にするための大胆な攻撃を行ないます。
大型爆撃機であるアブロ・バルカン爆撃機をアセンション島から発進させ、空中給油を繰り返して東フォークランド島の空港を爆撃するというのです。
さらにシーハリアーによる攻撃と艦砲射撃を行い、二つの飛行場を完全に破壊する計画でした。
この作戦は「ブラックバック作戦」と命名され、バルカン爆撃機二機と空中給油機十五機を使って行なわれました。
途中一機のバルカン爆撃機はトラブルのために帰還しましたが、一機はスタンリー空港上空で二十一発の1000ポンド爆弾を投下しました。
またシーハリアーの攻撃と艦砲射撃が両空港に行なわれ、甚大な損害を与えたと見なされました。
しかし、実際はアルゼンチン軍の航空機の離着陸を阻止するまでにはいたらず、この後もアルゼンチン軍はほそぼそと航空機による補給を行ないます。
一方、これに対しアルゼンチン軍は航空戦力による反撃を開始。
本土の航空基地を発進したアルゼンチン空軍のミラージュ戦闘機が英海軍のシーハリアーに襲い掛かります。
これは史上初の垂直離着陸機(VTOL)による空戦参加でしたが、超音速機のミラージュ戦闘機に対し、亜音速しか出ないシーハリアーはその特有の空中停止能力や小回りのよさなどを生かしてミラージュ戦闘機を翻弄。
四機のミラージュを撃墜するという戦果を収めます。
世界の軍事航空関係者が驚きの声を上げた瞬間でした。
英国機動部隊にとって、上空をカバーしてくれる戦闘機は、わずかに二十機のシーハリアーのみでした。
空母「ハーミーズ」に十二機、「インヴィンシブル」に八機しか搭載してなかったのです。
それに対しアルゼンチンは、ミラージュ戦闘機や改良型のイスラエル製ダガー戦闘機、スカイホーク攻撃機やシュペル・エタンダール攻撃機など、およそ二百機を超える作戦機を保有しておりました。
フォークランド諸島とアルゼンチン本土との距離が問題になるとはいえ、十倍の戦力差があれば、いかにシーハリアーが優秀といえども問題にならないとアルゼンチン空軍は考えていたことでしょう。
ですが、そのシーハリアーは、予想以上の強敵でした。
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- 2010/01/12(火) 21:46:50|
- フォークランド紛争
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