アルゼンチンがフォークランド諸島奪回の実力行使に踏み切った背景には、英国の軍事予算縮小とそれに伴う戦力低下が大きく影響しておりました。
戦力低下は海外展開能力の低下につながり、本国より遠く離れた地点への影響力の低下につながります。
当時英国は固定翼機運用能力のある空母「アークロイヤル」が退役し、垂直離着陸機のシーハリアーを搭載する小型空母「ハーミーズ」や「インヴィンシブル」が主力となっておりました。
しかも、その「インヴィンシブル」すら海外への売却の話が上がっており、強襲揚陸艦の「フィアレス」なども手放そうとしていたのです。
英国海軍にもはや遠距離での作戦行動能力はなくなったと見なされても不思議はありませんでした。
駐英アルゼンチン大使館付きの武官は、英国海軍の能力低下と、それに伴う兵士の士気低下を本国に伝えており、アルゼンチンとしてはここで英国と戦端を開いたとしても対抗が可能であると思われました。
当時アルゼンチンはフランスよりシュペル・エタンダール戦闘攻撃機を取得しており、ミラージュ戦闘機なども合わせればシーハリアーには充分対応可能と考えており、何より5月には冬を迎える南半球の天候を考慮すれば、英国の反撃もできないまま占領という既成状態を維持することが可能であると思われたのです。
フォークランド諸島の英軍が降伏した4月2日、英国はアルゼンチンとの国交を断交。
翌4月3日の緊急招集された議会の席上、サッチャー首相はあらためてフォークランド諸島がアルゼンチン軍によって“侵攻”されたことを報告し、こう言いました。
「我が領土に対する外国勢力による侵略は久しく無かったことです。この事態に対し、政府は準備が整い次第機動部隊を現地に派遣する決定を下しました」
英国は本腰を上げてアルゼンチンと対決することにしたのです。
4月3日。
国連安全保障理事会は、決議第502号においてフォークランド諸島においての敵対行為の即時停止と、アルゼンチン軍の撤退が求められました。
アルゼンチンはこの時点で国際社会における“侵略国”と位置づけられてしまいます。
ですが、アルゼンチンには撤退する意思はまったくありませんでした。
それどころか同日、アルゼンチン軍は南ジョージア島を占領し、その模様をテレビ中継いたします。
テレビを見たアルゼンチン国民は熱狂しましたが、もはやアルゼンチンは後戻りはできませんでした。
4月4日にはアルゼンチンが国内の英国資産を凍結。
4月5日、英国より空母「ハーミーズ」などを中核とした機動部隊が出港します。
長引く不況により、国内の失業者数も三百万人にも及んでいた英国でしたが、大国としての威信をまだ失うつもりはありませんでした。
英国国民に取り、伝統ある英国がアルゼンチンにすら侮られるなどという事態は、容認できるものではなかったのです。
英国国民の熱狂的な政府支持は頂点に達し、機動部隊の出港時には、サッチャー政権への支持率は60%を超えるものとなりました。
4月10日。
ECが対アルゼンチン経済封鎖を承認。
西ドイツ(当時)やフランスなどがアルゼンチンに対し経済封鎖に参加します。
4月11日には英国の機動部隊が中継地点アセンション島に到着。
ここを拠点としてフォークランド諸島へ向かうことにします。
アセンション島は英国とフォークランド諸島とのほぼ中間に位置する大西洋上の島であり、艦隊の中継地として非常にいい位置にありました。
4月12日。
英国はフォークランド諸島を中心とする半径200海里の海域を「洋上封鎖領域:MEZ」に指定。
その範囲に侵入するアルゼンチン艦船は攻撃対象となることを通告します。
一方アルゼンチン側もフォークランド諸島の奪回阻止に向けて動いておりました。
4月2日以来約九千名を越える兵力をフォークランド諸島に送り込み、マリオ・メナンデス少将を指揮官として、島を守り抜く決意を固めていたのです。
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- 2010/01/10(日) 21:20:02|
- フォークランド紛争
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