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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

フォークランド紛争(14)

英軍による南サンドイッチ島の再占領をもって、すべての戦闘は終結いたしました。
フォークランド諸島近海には再び静寂が訪れました。

アルゼンチンでは、ガルチェリ大統領が戦争責任を取らされる形で辞任に追い込まれました。
後を継いだビニョーネ新大統領も12月にはアルフォンシン大統領に政権を奪われて退陣。
以後アルゼンチンでは軍の発言力が大幅に低下して、政府による軍のコントロールが進みました。

ガルチェリ大統領はその後懲役刑を言い渡されますが、1991年、時のメネス大統領による特赦で釈放されました。
また、この紛争で英国軍に降伏したアルゼンチン軍の捕虜は、ウルグアイ経由でアルゼンチンへと送り返されております。

アルフォンシン大統領は、この紛争で傷ついたアルゼンチンの対外評価の回復に努めました。
その結果、かねてより国境問題などを抱えていた隣国チリやブラジルとの関係改善がおこなわれ、アルゼンチンはじょじょに信頼を回復することになります。

一方の英国は、紛争の勝利者としてサッチャー首相の支持率が大幅に上がりました。
一時期は80%を越えるほどでしたが、これは戦前の不人気を考えると信じられないほどのものでした。
サッチャー首相はこれによって政権を続投し、英国経済も紛争勝利に引きずられて回復して行きました。

しかし、フォークランド諸島を再占領したことは、帝国主義的であるという批判も大きく、香港の返還につながって行きました。
また、フォークランド諸島には紛争後も英軍の一部が駐留しており、その維持費用も莫大なものとなるため、英国にとっては頭の痛い問題でもありました。

アルゼンチンにとっては経済政策の失敗から国民の目をそらすための行為が、じょじょに国民をその気にさせてしまい後戻りができなくなってついには軍事行動に発展いたしました。
しかし、英国の反撃を過小評価した結果、冬の訪れより前に行動を起こしてしまい、英軍に反撃の時間を与えてしまいました。

英国にとってはフォークランド諸島を奪われたままにしておくことは、香港やジブラルタルなどの英国海外領土の連鎖的崩壊を招く可能性があり、何が何でも奪回しなければなりませんでした。
どれだけ損害を出そうとも取り戻さなくてはならなかったのです。

双方の思惑が絡み、結果的にはこの紛争で、英国は約千名の死傷者を、アルゼンチン側は約二千名の死傷者を出しました。
艦船や航空機の損害も大きく、英国は大型艦六隻と七機のハリアー及び十一機のヘリを失い、アルゼンチンも一隻の巡洋艦と八十機以上の航空機を失いました。
しかも、それだけの損害を出して得たものは、フォークランド諸島の戦前状態への復帰、いわゆる現状維持でした。

1986年。
メキシコで行なわれたサッカーワールドカップにおいて、アルゼンチン代表はイングランド代表に2対1で勝ち、敗戦の屈辱に打ちひしがれた国民を勇気付けました。

1989年。
英国とアルゼンチン両国は敵対関係の終結を宣言。
翌1990年に国交を再開いたします。

ですが、現在に至るも、フォークランド諸島の領有権は英国及びアルゼンチン双方が主張して譲っておりません。

フォークランド紛争 終

                   ******

参考文献
「フォークランド紛争」 歴史群像2000年秋・冬号 学研


参考サイト
「Wikipedia フォークランド紛争」


今回もお付き合いくださいましてありがとうございました。
資料本の簡易な引き写しですが、少しでもこの紛争のことを知っていただければうれしいです。

一月も今日で終わり。
今月中には200万記念作をと思っておりましたが、間に合いませんでした。
もう少しお待ちくださいませ。

それではまた。
  1. 2010/01/31(日) 20:55:34|
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四ヶ国が参加しているんだなぁ

オークションで手に入れたコマンドマガジン日本版68号付録の「シチリア侵攻作戦」が届きました。
雑誌本体はなくゲームだけなのですが、もともとゲームがメインなので充分です。
そのおかげでずいぶん安く手に入りましたしね。

068-map01.jpg
こちらがゲームマップ。
長靴型したイタリア半島のつま先で蹴られているような位置にあるのがシチリア(シシリー)島です。

1943年7月、英米連合軍は地中海の要衝シチリア島に上陸作戦を敢行。
以後ドイツ、イタリア両軍と激戦を繰り広げることになるのですが、このゲームはそのシチリア島上陸作戦を取り扱ったゲームです。

同じようなゲームはSPIの作品をホビージャパンがライセンス生産した西部戦線シリーズの「シシリー上陸作戦」というゲームを持っているのですが、今回この「シチリア侵攻作戦」を手に入れたことで、シチリア戦のゲームが二つになりました。
ルールはそこそこ多そうですが、米英独伊の四ヶ国が参加するというユニットの色がカラフルな戦いですので、いずれは楽しんでみたいものですね。

rekisigunzo54.jpg
(歴史群像2002年8月号表紙)
シチリア島上陸作戦は、第一陣だけを見るとノルマンディー上陸作戦よりも参加兵力が大きいんだそうですね。
まずはヒストリカルな戦いがどんな風に推移したかをこちらを読み返してみることにします。

それではまた。
  1. 2010/01/30(土) 21:35:45|
  2. ウォーゲーム
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フォークランド紛争(13)

英国艦隊の夜間砲撃から始まった主都市ポート・スタンレーへの攻撃は、深夜0時過ぎにはアセンション島からの長距離爆撃も加わりました。
この砲撃と爆撃によって、実戦経験の乏しいアルゼンチン軍は大混乱に陥ります。
そして翌6月12日の午前2時ごろには英軍地上部隊による攻撃がついに始まり、アルゼンチン軍の外郭防衛ラインへ攻撃が行なわれました。

アルゼンチン軍は必死の防衛戦を展開しますが、戦闘に不慣れなことが災いし、数の優位を活かしきれません。
戦闘は英軍側に取っても苦しいものでしたが、やはりプロフェッショナルの実力を発揮する英軍が優位に進めることとなり、9時間ほどの戦闘でアルゼンチン軍側の外郭防衛ラインはほぼ制圧されてしまいました。

アルゼンチン軍は外郭防衛ラインから撤収し、残った兵力でポート・スタンレーの周囲の丘陵地帯に構築した最終防衛ラインの通称「ガルチェリ線」を固めます。
さらには英軍の監視網をかいくぐって空輸してきたエグゾセミサイルを陸上から発射。
このエグゾセミサイルは、沖合いで遊弋(ゆうよく)中の駆逐艦「グラモーガン」に命中します。
「グラモーガン」はエグゾセを探知すると対空ミサイルで迎撃したのですが、対空ミサイルで撃墜することはできず、エグゾセは後部のヘリコプター甲板を直撃。
「グラモーガン」は火災を発生しますが、幸い沈没することはまぬがれました。

6月13日。
英軍は「ガルチェリ線」への攻撃を開始。
ここでもアルゼンチン軍の必死の抵抗が英軍を苦しめます。
アルゼンチン軍が設置した機関銃座は英軍の接近を許さず、英軍はこれに対抗するために対戦車ミサイルを機関銃座に撃ち込むなどして一つ一つ潰していかなくてはなりませんでした。
また一部部隊では手持ちの弾薬不足から、前時代的な銃剣突撃までおこなってやっとアルゼンチン軍を排除するような箇所さえありました。

こうして英軍はアルゼンチン軍の防御拠点を一つずつ破壊し、6月14日の午前中までには「ガルチェリ線」をほぼ制圧。
ポート・スタンレーを丸裸にすることに成功いたしました。
アルゼンチン軍にはもはや拠るべき拠点はなく、抵抗のすべはなくなりました。

6月14日午後3時ごろ、アルゼンチン軍のフォークランド諸島守備隊司令官メナンデス少将がラジオ放送で英軍に対し停戦を受け入れる用意がある旨を放送。
これに伴い午後5時45分ごろにポート・スタンレーに白旗が掲げられました。

6月14日午後9時。
この時をもってフォークランド諸島全域のアルゼンチン軍が降伏。
東フォークランド島での戦闘は終わりを告げました。

6月15日。
アルゼンチンのガルチェリ大統領が「戦闘終結宣言」を発表。
ですが、フォークランド諸島の主権はあくまでもアルゼンチンにあることと、英国が再び植民地化の動きを見せるのであれば戦闘を続けると主張しました。

しかし、もはやガルチェリ大統領には国民をまとめる力はありませんでした。
わずか二日後の6月17日、ガルチェリ大統領はこの紛争の責任を取らされる形で大統領を辞職。
後を継いだビニョーネ新大統領も国民の支持を得ることはできず、アルゼンチンの軍政は終わりを告げることになります。

6月19日。
英軍は南サンドイッチ島に部隊を上陸させ、アルゼンチン軍と交戦。
程なくアルゼンチン軍を降伏させ、ついにアルゼンチン軍に占領されていた全地域を再占領することとなりました。
これに伴い6月20日には英国政府も停戦宣言を発表。
七十二日間にわたって陸海空でおこなわれていた紛争に決着がつきました。

(14)ヘ
  1. 2010/01/29(金) 21:12:56|
  2. フォークランド紛争
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フォークランド紛争(12)

5月31日に主都市ポート・スタンレーを包囲した英軍でしたが、このまま総攻撃を行なうわけにはいきませんでした。
街には住民が残っており、人質的な扱いを受けることも予想されたからです。
冬の訪れという時間との勝負ではありましたが、ここはしっかりと準備をしてから攻撃をする必要がありました。

6月1日。
英国政府はポート・ダーウィン及びグースグリーン飛行場の陥落とポート・スタンレーが包囲下にあることで、アルゼンチン政府に対してフォークランド諸島からのアルゼンチン軍の撤退を勧告します。
この英国側の勧告に対し、アルゼンチン政府は当時のソ連を中心とした東側諸国からの援助も受け入れると表明し、あくまでも徹底抗戦をするつもりであることを表しました。

しかし、東側諸国からの援助らしい援助はありませんでした。
この東側諸国、特にソ連がアルゼンチンへの援助に及び腰だったのは、日本との間に北方領土問題を抱えているため、下手に藪を突付きたくないという思惑が働いたものだったといわれます。

また、アルゼンチン側からすると、北方領土問題を持つ日本はフォークランド諸島を奪回しようとするアルゼンチンを必ず支援してくれるだろうという思いがあったといわれ、日本が終止英国寄りだったことに落胆して、アルゼンチン在住の日系人が心無い行為を受けるということもあったといいます。

6月7日。
アルゼンチン政府は国連の撤兵提案も拒否。
英国はこの間にも着々とポート・スタンレーへの攻撃態勢を固めつつありました。

6月8日。
ついに英国には待望の増援が到着します。
豪華客船クィーンエリザベス二世で陸軍第五歩兵旅団が到着したのです。
すぐに揚陸の手はずが整えられ、ポート・スタンレー南西の漁村フィッツロイに上陸することになりました。

この英軍によるフィッツロイ上陸作戦は、ただちにアルゼンチン軍の知るところとなり、揚陸作業中の英軍艦艇に対する航空攻撃がすぐさま行なわれます。
この攻撃もまた熾烈を極め、ミラージュ戦闘機の投下した爆弾が12型フリゲート「プリマス」に命中。
爆弾はこれまた不発だったにもかかわらず、搭載していた魚雷が炎上。
「プリマス」は大破いたしますが、かろうじて沈没はまぬがれました。

またアルゼンチン軍のA-4スカイホークが投下した爆弾は揚陸艦「サー・ガラハド」を直撃。
「サー・ガラハド」は耐え切れずに沈没します。

他にも揚陸艦「サー・トリストラム」が攻撃によって大破。
揚陸艇一隻が沈没するという大損害を英軍はこうむります。
空中警戒機を持たない英軍艦隊の脆弱さがまたしても表面化したのでした。

一方攻撃を仕掛けたアルゼンチン軍機も、シーハリアーによって三機が撃墜されます。
この紛争において、シーハリアーはついに空中戦では一気の損失も出しませんでした。
(事故や対空砲火では落ちています)

大損害をこうむった英軍でしたが、それでも攻撃準備は進められました。
「アトランティック・コンベア」喪失による輸送ヘリの数の少なさや、「サー・ガラハド」の喪失による物資の少なさなどもあり、攻撃準備は遅々とはしておりましたが、6月11日にはどうにか攻撃態勢を整えることができました。

6月11日午後9時ごろ、ポート・スタンレー南東沖合いの英国艦隊から、いっせいに対地上砲撃が開始されました。
主都市ポート・スタンレー攻撃の開始でした。
紛争は最終局面を迎えることになったのです。

(13)へ
  1. 2010/01/28(木) 21:35:03|
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01月28日のココロ日記(BlogPet)

飛行場の背比べ……

*このエントリは、ブログペットのココロが書いてます♪
  1. 2010/01/28(木) 10:53:03|
  2. ココロの日記
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1月27日

今日は1月27日。

さて、何を記事にしようかと思ったところ、先ほどTVCMで「ミスタードーナツ」が1月27日で40周年と言うではありませんか。
40周年おめでとうございます。

と言うことで、1月27日って何があったのかなと気になり、ウィキで調べてみたところ、いろいろあったんですね。

なんと幕末の「鳥羽・伏見の戦い」が西暦に直すと1868年の1月27日でした。
この時から幕末の一連の戦闘が始まったんですね。

それに引き続く1869年の1月27日にはいわゆる蝦夷共和国が事実上成立。
北海道民である私には、幕末箱館戦争は気になる事件のひとつです。

さらに1973年の1月27日には北ベトナム、南ベトナム、南ベトナム解放民族戦線、アメリカとの間にベトナム戦争終結の和平協定が調印された日だったんですね。
この日をもってベトナム戦争は形の上では終結するのですが、その後もベトナムにおける動乱は続き、1975年4月30日のサイゴン陥落、翌1976年の北ベトナムによる南ベトナムの吸収という形で収まることになるわけです。
ベトナム戦争もいずれ何らかの形で取り上げたいものですね。

すみません、今日はこんなところで。
それではまた。
  1. 2010/01/27(水) 21:05:28|
  2. 日常
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フォークランド紛争(11)

1982年5月27日。
英軍陸上部隊司令官ムーア少将はポート・ダーウィンへの攻撃を開始します。
攻撃の主力は第三海兵旅団第42大隊と空挺第2大隊の二個大隊でした。
アルゼンチン軍の前衛陣地を海兵第42大隊が突破したのち、空挺第2大隊は数少ない輸送ヘリを使って夜間にポート・ダーウィンの背後に進出、街を包囲することに成功しました。

翌28日早朝、英軍は空挺第2大隊を中心に砲撃と攻撃ヘリの支援を受けつつ街への攻撃を行ないました。
街への攻撃は順当に進捗し、ポート・ダーウィンの街そのものは程なく英軍の占領するところとなりました。

ポート・ダーウィン占領の余勢を駆ってグースグリーン飛行場に対する攻撃も開始する英軍でしたが、アルゼンチン軍はグースグリーン飛行場にはポート・ダーウィンとは比べ物にならないほどの防御態勢を敷いておりました。
フォークランド諸島防衛司令官であるメナンデス少将は、グースグリーン飛行場の保持が重要であるとして守備態勢を固めていたのです。

英軍空挺第2大隊はたちまちのうちに大きな損害を受け、大隊長であるジョーンズ中佐も戦死してしまいます。
しかし、ここで攻撃の手を緩めるわけにはいきません。
ムーア少将は攻撃の続行を指示。
英軍は損害をこうむりながらもグースグリーン飛行場へと迫りました。

フォークランド諸島に配置されていたアルゼンチン軍兵士たちは、主に徴兵で集められた徴集兵が主でした。
新兵とそれほど変わりがないと言っていい徴集兵は、やはり戦闘には不慣れでした。
一方英軍の中核は空挺第2大隊です。
志願兵で構成された戦闘のプロフェッショナルの集団であり、そこに大きな違いがありました。

数で勝るアルゼンチン軍でしたが、プロフェッショナルである英軍がじょじょにその実力を発揮してくるに伴い、戦場の支配権を喪失していきます。
激戦ではありましたが、アルゼンチン軍の徴集兵たちにその激戦を耐え抜く力はありませんでした。

28日の午後9時ごろに至りグースグリーン飛行場はついに英軍の占領下に置かれます。
アルゼンチン軍はもはや戦闘を支えることができず、約千四百名もの兵士たちが投降いたしました。

この「グースグリーンの戦い」は、フォークランド紛争中で最大の激戦であり、英軍アルゼンチン軍双方に大きな損害が出た戦いでした。
英軍は五十名ほどの死傷者を出し、アルゼンチン軍も約二百五十名ほどが死傷したのです。
参加した人数の規模で言えば、損害としては大きいものでした。

ポート・ダーウィンとグースグリーン飛行場を激戦の末に確保した英軍は、残る最重要地点である主要都市ポート・スタンレーの攻略に全力を向けることになりました。
これに対しアルゼンチン軍は、小規模の空挺作戦を行なって英軍の後方かく乱を図ろうとしましたが、降下した兵士たちが潜伏中に発見されて失敗に終わりました。

英軍はポート・スタンレー周辺の山々を制圧して街を包囲下に置こうと部隊を進めます。
5月31日、ポート・スタンレー西方のケント山を英軍が確保。
程なくその南東にあるツーシスターズ山も確保し、西側からポート・スタンレーを見下ろせる状態となりました。
これによってポート・スタンレーはほぼ包囲態勢となり、アルゼンチン軍には時間を稼ぐことでの英軍の消耗を待つしかほぼ手が無くなりました。

しかし、戦争はまだ続きます。

(12)へ
  1. 2010/01/26(火) 21:20:10|
  2. フォークランド紛争
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フォークランド紛争(10)

5月22日にフリゲート「アーデント」を、5月24日には同じくフリゲート「アンテロープ」を失った英海軍でしたが、翌5月25日にもまた、アルゼンチン軍の航空攻撃を受けました。

この日はアルゼンチンにとっては最初の政府ができた記念日、いわゆる五月革命記念日でした。
(独立記念日とはまた別)
この日、ポート・スタンレーに設置されたアルゼンチン軍のレーダーが英国艦隊を捕捉。
ただちに航空攻撃が開始されます。

機動部隊の外周で対空防御に当たっていた42型駆逐艦「コヴェントリー」がまず攻撃され、A-4スカイホーク攻撃機を二機撃墜するものの、自らも投下された爆弾を三発被弾いたします。
三発も爆弾を食らった「コヴェントリー」に助かるすべはなく、「コヴェントリー」は転覆して沈みました。
またしても対空艦が航空攻撃で沈められたのでした。

直後、今度は空母機動部隊そのものが、シュペル・エタンダール攻撃機による攻撃を受けます。
シュペル・エタンダールは、今回も「シェフィールド」を撃沈した対艦ミサイルエグゾセを装備しており、機動部隊の中核である英空母「ハーミーズ」へ向けて二発のエグゾセが放たれます。

大型の航空母艦である「ハーミーズ」といえど、エグゾセを二発も食らってはただではすみません。
「ハーミーズ」は必死に「チャフ」(電波妨害用の金属片:エグゾセのレーダー波を妨害するため)をばら撒き、回避行動を取りました。
これが功を奏し、二発のエグゾセは「ハーミーズ」を捉えることはできませんでした。
しかし、それてしまったエグゾセに取り、第二の目標がおりました。
コンテナ船「アトランティック・コンベア」です。

「アトランティック・コンベア」はごく普通の貨物船です。
軍用船ではありません。
たまたま英国海軍に徴用され、物資を積んではるばるフォークランド諸島近海にやって来たに過ぎません。
対空防備などほとんど無く、エグゾセを回避するなど不可能でした。

エグゾセミサイルは、この無力のコンテナ船に襲い掛かり二発ともに命中します。
(一発説あり)
「アトランティック・コンベア」は炎上し、もはや救うことはできませんでした。
「アトランティック・コンベア」は英軍にとって重要な積み荷、シーハリアーとハリアーGR.3だけはかろうじて「ハーミーズ」と「インヴィンシブル」に移し替えておりましたが、上陸部隊にとって必要な輸送ヘリチヌークとウェセックスに関してはまだ積んだままでした。
また、上陸部隊にとって必要な野営施設や飲料水製造装置、陸上でハリアーを運用するための設備など今後の作戦に必要な物資も積んだままでした。
それらを積んだまま、「アトランティック・コンベア」はついに南大西洋の波間に没します。
この損失は、英軍にとっては非常に大きいものでした。

22日、24日、25日とわずか四日間の間にフリゲート二隻、駆逐艦一隻、重要な物資を積んだ徴用コンテナ船一隻を失った英国海軍は大きな衝撃を受けました。
英国のマスコミは、かつて太平洋戦争中に戦艦二隻を航空攻撃で失った「マレー沖海戦」を引き合いに出し、それ以来の失態と政府と軍を批判しました。
まさに英国海軍に取り、悪夢のような四日間だったのです。

「アトランティック・コンベア」の喪失により、英軍地上部隊は今後の作戦行動を大幅に見直さなくてはならない状況に陥りました。
手持ちの少ない輸送ヘリで何とかやりくりするしかなく、進撃は大幅な速度ダウンをまぬがれません。
ですが、間もなく冬を迎えるにあたり、本国から輸送ヘリを待つことはできませんでした。

英軍陸上部隊の総司令官ムーア少将は、やむを得ず現有戦力のみでの東フォークランド島制圧を決意します。
そのためにはまず島の中央部のポート・ダーウィンとグースグリーン飛行場を制圧しなくてはなりません。
英国軍に取りきびしい戦いとなる「グースグリーンの戦い」が始まろうとしておりました。

(11)へ
  1. 2010/01/25(月) 21:34:18|
  2. フォークランド紛争
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古い古いゲームですが

表題のとおり古ーい古ーい作品なのですが、とても好きなシーンがあるエロゲをご紹介します。

株式会社KUKI様より1996年に発売されました「SCREAM -嗜虐の虜・ユキ-」です。
タイトル2

作品の内容は、いわゆる女性をSM調教してしまおうというものでして、拉致監禁した女性に提示される選択カードの中から調教メニューを選んで実行するというある種オーソドックスなエロゲです。

特徴的なのは、いわばCGを使うのではなく女優さんを使った実写だということでして、当時はこういう作品もときどき見受けられました。

個人的に気に入った点は以下に。

[古い古いゲームですが]の続きを読む
  1. 2010/01/24(日) 21:28:40|
  2. PCゲームその他
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フォークランド紛争(9)

5月21日の午前6時30分ごろ、強襲揚陸艦「フィアレス」及び「イントレピッド」より発進した上陸用舟艇は、フォークランド海峡に面する東フォークランド島のファニングヘッド、サンカルロス、ポート・サンカルロスの三ヶ所に英国兵を送り込みます。
アルゼンチン軍はこの英軍の上陸作戦をまったく予期しておらず、英軍はほぼ何の抵抗も受けることなく上陸を完了。
この三ヶ所に橋頭堡を築くことに成功いたしました。

しかし、夜が明けてだんだんとアルゼンチン軍側にも状況がわかってくるに連れ、上陸した英軍に対する攻撃が主に航空機によって行なわれるようになります。
アルゼンチン軍は攻撃の主目標を主に英軍艦艇に定めており、昼ごろから午後にかけて、アルゼンチン軍機による攻撃が英国艦艇を襲いました。

アルゼンチン軍はまず東フォークランド島のスタンレー飛行場からプロペラ攻撃機プカラを、そして本土からはスカイホーク攻撃機とミラージュ戦闘機が、繰り返し英国艦艇に対艦攻撃を行ないました。
この攻撃により英軍は、21型フリゲート「アーデント」が投下された爆弾の直撃を受けて炎上。
そのほかの艦艇にもいくつかの損傷を受けました。
「アーデント」は翌22日には沈没しますが、これは英軍にとって二隻目の大型艦艇の喪失となりました。

一方アルゼンチン軍側は、この攻撃に参加したスカイホークなどあわせて十三機もの損失を出しており、しかも、三千名に及ぶ上陸した英軍兵士や物資などにもほとんど損害を与えることができませんでした。
損害が大きかったわりには上陸を阻止することも上陸部隊に損害を与えることもできなかったのです。

5月23日。
英軍はまたしても艦艇に対する航空攻撃を受けました。
アルゼンチン軍機による攻撃は今回も激しく、「アーデント」と交代でフォークランド海峡に侵入していた同型艦の21型フリゲート「アンテロープ」が爆弾二発の直撃を受けてしまいます。

爆弾はまたしても不発でしたが、残念なことに信管解除の作業中に誤って爆発させてしまいます。
「アンテロープ」はこれがもとで翌日に沈没。
三隻めの喪失でした。

海上での損害をよそに、英軍の陸上部隊は東フォークランド島の制圧に乗り出します。
この時点で東フォークランド島にはアルゼンチン軍約一万一千名の兵力がおりました。
そのうち約八千名が主都市であるポート・スタンレーに周辺に配置されており、残り約三千名のうち東フォークランド島中央部に位置するポート・ダーウィンとグースグリーン飛行場近辺には千名ほどが配置され、英軍を迎え撃つことになりました。

一方の英軍は、第三海兵コマンド旅団を中核に約五千名の兵力を持っておりました。
またシミター装甲戦闘車も二十両ほど揚陸されており、航空攻撃に対抗するためのレイピア地対空ミサイルも装備しておりました。
さらに数日後には「クィーンエリザベス二世」による兵員輸送で、第五歩兵旅団の三千名も到着する手はずになっておりました。

英軍は当初、コンテナ船「アトランティック・コンベア」に積載されている大型輸送ヘリのチヌークやウェセックスなどを使い、部隊を迅速に進めていく計画でした。
主攻撃軸はポート・サンカルロスから南へ向かい、ポート・ダーウィンとグースグリーン飛行場を制圧。
その後東に向かってポート・スタンレーへと向かうというもので、補助攻撃軸として島の北側からポート・スタンレーに向かう部隊との二方向からの進撃を予定しておりました。

島の北側から進む補助攻撃軸の部隊は、アルゼンチン軍がいなかったこともあって順調に小集落を解放して行きました。
しかし、主攻撃軸であるポート・ダーウィン攻撃に向かうという矢先、またしても海上の英国艦隊を悪夢が襲うことになります。
フランス製の対艦ミサイルエグゾセが、再びその威力を見せ付けたのでした。

(10)へ
  1. 2010/01/23(土) 21:18:51|
  2. フォークランド紛争
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フォークランド紛争(8)

アルゼンチン巡洋艦「ヘネラル・ベルグラノ」と英国駆逐艦「シェフィールド」の喪失は、あらためて水上艦艇に対する潜水艦と航空機の脅威を見せ付けました。
これにより、アルゼンチン軍はほぼすべての水上艦艇を原子力潜水艦の行動しづらい大陸棚近辺にとどめることに決定。
空母「ベインティシンコ・デ・マヨ」も、アルゼンチン本国に呼び戻されました。
フォークランド諸島近海からは、アルゼンチン軍の艦艇は姿を消したのです。

一方英国は、水上艦艇を引き揚げることなどできるわけがありませんでした。
フォークランド諸島の奪回には、海上戦力が不可欠だからです。
そのため、これ以後フォークランド諸島近海の英国艦艇対アルゼンチン軍航空機という対立図式が主となって行きました。

5月7日。
英国はあらためて「アルゼンチン本土から十二海里を越える距離にいるアルゼンチン軍艦及び航空機は攻撃対象とする」ことを通告します。
しかし、この頃から海上の気象は悪化の一途をたどり始め、英国の空の守りであるシーハリアーも悪天候に阻まれることが多くなってきます。
そのため、アルゼンチン航空機の攻撃に対しては、対空ミサイルで対応することも多くなってきておりました。

英国機動部隊指揮官ウッドワード少将は、今後の天候悪化に伴う英国側の不利を考慮し、速やかにフォークランド諸島への陸上部隊の投入を行なうことを決定します。
そのための敵情偵察を行なうため、東フォークランド島と西フォークランド島の間にあるフォークランド海峡に艦艇を派遣いたしました。

5月10日にはそのフォークランド海峡で、偵察任務についていた英国の21型フリゲート「アラクリティ」がアルゼンチン軍の輸送艇を砲撃。
これがこの紛争で唯一の水上艦同士の海上戦闘となりました。

5月12日。
アルゼンチン軍航空機による英国艦隊への航空攻撃が行なわれます。
アメリカ製のA-4スカイホーク攻撃機八機(一説では十二機)を投入し、上空直援にはミラージュ戦闘機を配置して英国艦隊に挑みました。
この攻撃でアルゼンチンは、スカイホークを三機を撃墜されるという損害を受けましたが、英国の42型駆逐艦「グラスゴー」(「シェフィールド」の同型艦)に爆弾を直撃させるという戦果を上げます。
「シェフィールド」に命中したエグゾセ同様この爆弾も不発に終わり、「グラスゴー」は沈没という憂き目を見ずにすみましたが、無警戒だった「シェフィールド」と違い強襲で命中弾を受けたことは、英国海軍の防空能力の脆弱さを感じさせるものでした。

同日、英国本土から増援部隊である第五歩兵旅団を乗せた豪華客船「クィーンエリザベス二世」がフォークランド諸島へ向けて出港。
同じくすでに現地に行っている豪華客船「キャンベラ」とともに徴用され兵員輸送の任につきました。

5月14日から16日にかけて、英国はSBS及びSASの二大特殊部隊によるフォークランド諸島上陸を敢行。
小部隊ばかりで本格的な上陸ではなかったものの、拠点をいくつか作ることに成功いたします。
その間英国艦隊は、陽動のためにポート・スタンレーの砲撃などを行ないました。

5月18日。
すでに対空砲火や事故などで数機のシーハリアーの損失を出していた英国機動部隊に、待望の増援が到着いたします。
コンテナ船「アトランティック・コンベア」がシーハリアー八機と、英空軍用のハリアーGR.3を六機運んできたのです。
ただちにこれら二種のハリアーは「インヴィンシブル」と「ハーミーズ」に移され、英国艦隊の航空戦力は格段に強化されることになりました。

5月21日に日付が変わった午前0時過ぎ、客船「キャンベラ」などで輸送されてきた第三海兵コマンド旅団の兵士たちが強襲揚陸艦「フィアレス」及び「イントレピッド」に移乗し、フォークランド海峡へと侵入します。
いよいよ英国軍の陸上部隊によるフォークランド諸島上陸作戦の始まりでした。

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  1. 2010/01/22(金) 21:52:28|
  2. フォークランド紛争
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世界で唯一

昨日でこの「舞方雅人の趣味の世界」は、通算200万ヒットを達成いたしました。

そこで、ふと200万と言うのはどれぐらいの数字なのか、ちょっと調べてみました。

人口200万人以上の都道府県数。(2005年)
47都道府県中20都道府県。

人口200万以上の都市。(2001年)
東京都区部、横浜市、大阪市、名古屋市の四ヶ所。

人口200万人以上の国と地域数。(2008年)
231ヶ国及び地域中146ヶ国及び地域。

発行部数200万冊を越えた絵本の一つ。
「大きなかぶ」
うんとこしょ、どっこいしょ・・・まだまだかぶは抜けません。

まだまだあるでしょうけど、とりあえず調べたところではこんな感じ。
人口200万人に満たない国と地域が90以上もあるんですね。

さて、今「フォークランド紛争」の記事を書いているわけですが、その中に出てきました英国海軍の原子力潜水艦「コンカラー」を今日はご紹介。

2010年1月現在、世界で唯一の原子力潜水艦による敵国艦船の撃沈記録を持っているのが、英国の原子力攻撃潜水艦「コンカラー」です。

「コンカラー」は、1971年11月に「チャーチル」級原子力攻撃潜水艦の二番艦として就役いたしました。
「チャーチル」級は、英国初の原子力潜水艦「ドレッドノート」に次いで建造された「ヴァリアント」級のもともと一部となる予定でした。
しかし、「ヴァリアント」級二隻が建造されたのち、戦略ミサイル型原子力潜水艦の建造が優先されたために三番艦「チャーチル」の建造まで間が開いてしまいました。

そこで、この間に得られた原子力潜水艦の運用ノウハウをもとに、「チャーチル」の仕様を一部修正することにしたのです。
そのため、「チャーチル」以降の三隻は「チャーチル」級として別扱いとなり、「コンカラー」はその「チャーチル」級として建造されたのです。

排水量は水上で4000トン。
水中では4900トン。
全長は86.9メートル。
最大幅は10.1メートル。

15000馬力の加圧水型原子炉一機を搭載し、蒸気タービンを動かすことで、水上で約20ノット、水中では約28ノットの速度を出すことができました。

乗員は103名。
魚雷発射管を6門装備し、魚雷26本を搭載しておりました。

「コンカラー」は英国機動部隊の一部としてフォークランド紛争に参加し、アルゼンチン巡洋艦「ヘネラル・ベルグラノ」を撃沈します。
この時は新型の誘導型魚雷ではなく、多少旧式の無誘導型魚雷を使用しました。

フォークランド紛争ののち、「コンカラー」は原子炉の炉心交換工事と近代化改装を行います。
遮音タイルの装備やソナーの新型への交換、装備の追加などが行なわれ、魚雷発射管からのハープーンミサイル運用能力も付加されました。

近代化改装は1987年に完成し、「コンカラー」はまだまだ働けるはずでした。
しかし、「ヴァリアント」級に原子炉冷却水管の亀裂が見つかったために、「ヴァリアント」級及び「チャーチル」級の早期退役が決定します。

近代化改装からわずか三年後。
1990年8月に「コンカラー」は退役しました。
20年に満たない生涯でした。

今日はこれにて。
それではまた。
  1. 2010/01/21(木) 21:43:17|
  2. 趣味
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01月21日のココロ日記(BlogPet)

おなかすきました!はぅぅ~、舞方雅人さんって帰ってくるのおそいですよ~。料理冷めちゃいます。

*このエントリは、ブログペットのココロが書いてます♪
  1. 2010/01/21(木) 10:25:58|
  2. ココロの日記
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200万ヒット達成しました

本日2010年1月20日、午後10時48分。

ブログ開設以来1650日目で、
ついに200万ヒット達成いたしました!!

200万

いつものことではありますが、これもひとえに皆様のご厚情の賜物でございます。
本当に本当にありがとうございます。

これからも変わらずに、ミリタリーネタ、歴史ネタ、ウォーゲームネタ、そしてSSとごった煮なブログを続けていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

本当ならば、200万ヒット記念SSの公開を華々しく行ないたいところなのですが、残念なことについに本日までに記念SSを間に合わせることがかないませんでした。
本当に申し訳ございません。

なにせだらだらと長くなってしまい、まだあと一山書き加えなくてはならない状態。
どうかもう少しお時間をくださいませ。
近日中には必ず仕上げて皆様にご披露したいと思います。
その折には、ぜひとも楽しんでいただければと思います。

皆様本当にありがとうございました。
次は300万ヒットを目指してまた歩んでいきたいと思っております。
今後とも「舞方雅人の趣味の世界」をどうぞよろしくお願いいたします。
  1. 2010/01/20(水) 23:26:48|
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フォークランド紛争(7)

英国海軍の原子力潜水艦「コンカラー」による、巡洋艦「ヘネラル・ベルグラノ」撃沈は、アルゼンチン国民を沈痛な面持ちにさせるに充分な出来事でした。
アルゼンチン国民は、この戦争が小競り合いで済むものではないと思い知らされたのです。
ここはなんとしても、英国に対し一矢報いて欲しいと思ったことでしょう。

そのチャンスは意外に早く訪れました。
「ヘネラル・ベルグラノ」喪失からわずか二日後の1982年5月4日。
上空哨戒中のアルゼンチン軍哨戒機のレーダーに、英国機動部隊の外周警備に当たる駆逐艦の姿が捉えられます。
これは英国海軍の42型駆逐艦「シェフィールド」であり、主に対空戦闘用の艦艇でした。
(英国海軍は、駆逐艦を対空用、フリゲートを対艦対潜用と区別しています)
ですが、「ヘネラル・ベルグラノ」の仇討ちに燃えるアルゼンチン軍は、ただちにシュペル・エタンダール攻撃機二機を発進させて「シェフィールド」の攻撃に向かいます。

シュペル・エタンダール攻撃機はフランス製の攻撃機で、翼下には同じフランス製の対艦ミサイルエグゾセが搭載されておりました。
当時このエグゾセミサイルは、まだ実戦での評価が定まっておらず、その実力は未知数でした。

アルゼンチン本土を発進したシュペル・エタンダールは、途中空中給油を受けて英国機動部隊に接近。
敵の警戒を避けるために低空から侵入し、距離約40キロメートル前後という限界射程ぎりぎりの距離で二発のエグゾセミサイルを発射しました。

シュペル・エタンダールは発射後すぐさま反転して離脱。
エグゾセは真っ直ぐ「シェフィールド」へと向かいます。
「シェフィールド」はこの時ほぼ無警戒であったと言われ、エグゾセへの対応が遅れました。
そのため、二発のエグゾセは一発が船体に命中。
もう一発は射程を越えてしまったために海面に着弾しました。

命中したエグゾセはなんと不発でした。
弾頭が炸裂しなかったのです。
「シェフィールド」にとっては救いかと思われました。

しかし、ミサイルの恐ろしさは弾頭が炸裂するだけではありませんでした。
音速に近い速度で船体に命中したエグゾセは、その衝撃力もただ事ではなく、船体に大きなダメージを与えました。
また、ミサイルを飛翔させるためのロケットモーターの燃焼は、高温の噴流を船体に撒き散らし、火災を発生させました。
「シェフィールド」にとって不幸なことに、命中箇所近くには調理室があり、そこには調理用の油があったのです。
油はたちまち燃え上がり、「シェフィールド」は大火災に包まれます。

命中の衝撃が艦内の電気系統に故障を生じさせたため、艦内の消火システムは作動せず、可燃物の出す有毒ガスが艦内に広まったために、消火活動は困難を極めました。
火災は手が付けられない状況となり、艦長は消火が不可能と判断、ついに総員退艦が命じられます。
「シェフィールド」はやむなく放棄されました。

その後もしばらく燃えていた「シェフィールド」でしたが、沈没はせずに浮いており、やがて火災も燃えるものを燃やし尽くして鎮火します。
英国海軍はこの「シェフィールド」を曳航して持ち帰ろうとしましたが、5月10日になって浸水が激しくなり、ついに波間に没します。
「シェフィールド」の最後でした。

つい二日前に「ヘネラル・ベルグラノ」を撃沈した英国は、今度は自分たちが新鋭の対空防御能力に優れているはずの駆逐艦「シェフィールド」を航空攻撃で沈められたことに衝撃を受けました。
このことでエグゾセミサイルは、不発だったにもかかわらず高評価を受けることとなり、一躍武器市場での名声を高めることになりました。

そしてアルゼンチン国民もまた「シェフィールド」の撃沈を喜びましたが、戦争が泥沼化してきたことに懸念も抱いておりました。

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  1. 2010/01/20(水) 21:07:19|
  2. フォークランド紛争
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二つの電撃戦

毎号購入しております「歴史群像」の新刊です。


こちらが表紙。

今号は第一特集が「マレー進攻作戦」
太平洋戦争初頭の日本軍の英領マレー半島での進撃の特集です。
マレー半島での日本陸軍の進撃は、まさに電撃戦と言ってもいいもので、英連邦軍の供えが充分でなかったとはいえ、日本陸軍の最良の瞬間の一つだと思います。
今回改めて、日本陸海軍が航空戦を重視していたことを知り、日本も戦術面では決して劣るものではなかったと思いました。

第二特集は「下克上! 長尾為景」
聞きなれない人物名で、どんな方だかさっぱり知りませんでしたが、長尾景虎、のちの上杉謙信の父だったのですね。
その長尾為景がいかに越後で実験を握り、勢力を伸ばしていったか、また、その限界とその後は・・・という記事であり、普段よく知る戦国期の武将の父の世代というあまり知る機会のない人物たちが出てきて面白いです。
歴史って続いているものなのに、ある時点から切り取られたりしてしまうので、戦国期に入る直前(もしくは入った直後)というあまりスポットライトを浴びない時期って抜け落ちちゃうんですよね。

第三特集は「ポーランド戦史」
第一次世界大戦後に独立したポーランドが、1939年のドイツ軍のポーランド侵攻によって再び地図上から消え去り、戦後の再独立とさらにその後という記事ですが、まだ読んでいる途中です。
東欧の一大軍事強国と目されていたポーランドが、実は兵員数はともかく軍事費に投入できる経済力の差がドイツとは圧倒的に違ったために、軍の近代化を行ないきれなかったというのはなるほどと思いました。
軍事力は金食い虫ですので、経済力がないと戦力の充実は望めませんものね。

他にも楽しそうな記事がいつものように多いです。
付録の「アメリカ陸海軍戦闘機ガイド」もありがたい資料です。

奇しくも東西の電撃戦を二つ取り扱いました今号の歴史群像。
残りの記事もじっくり楽しみたいと思います。

それではまた。
  1. 2010/01/19(火) 21:33:27|
  2. 本&マンガなど
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ショックです・・・

二日続けて訃報が・・・
正直ショックで言葉がありません。

昨日のことになりますが、巨人と阪神で投手としてご活躍され、昨年は北海道日本ハムで二軍の投手コーチを勤められておりました小林繁氏が亡くなられました。

その前日までお元気でいらっしゃり、梨田監督や球団の職員さんたちとも話をしていたとのことで、本当に信じられないことでした。
心筋梗塞による急性心不全とのことですが、57歳との若くしての死去に残念でなりません。
今年は日本ハムの一軍投手コーチに就任されておりましたので、テレビでもお姿を拝見できるなぁと思っていた矢先でした。

小林氏と言うと、どうしても江川卓氏との「江川問題」が取り上げられますが、当時からの阪神ファンである私としては、小林氏が阪神入りしてくれたことはうれしかったことでした。
サイドスローの独特の投球フォームは見ていてかっこよく、阪神の大黒柱として活躍してくれました。
引退が1983年とのことでしたので、もちろん結果論ではありますが、あと二年がんばってくれていれば、阪神優勝の美酒に酔えたのではないかと思ってしまいます。

コーチとしての手腕も評価されていたとのことであり、昨年ブレイクした糸数投手も小林コーチの教えによるところが大きいと聞きました。
早すぎる死が残念です。
ご冥福をお祈りいたします。


そして今日はまた一人、声優さんの死が報じられました。

機動戦士ガンダムのドズル中将役でおなじみでした郷里大輔氏が亡くなられました。
こちらも57歳と言う若さでの死去でした。

郷里氏もまた私にとっては好きな声の声優さんでありました。
ドズル中将はもちろんでして、劇場版三作目「めぐりあい宇宙」で玄田氏に交代されたときはショックでした。
その後ゲームなどでは郷里氏がドズル中将役をおやりになられましたのでホッとしたものです。

印象に残っていたのはゲーム「みつめてナイト」に登場する傭兵騎士団「ヴァルファバラハリアン」の騎士団長、ディノス・ヴォルフガリオ役でしょうか。
ゲームそのものよりも、ドラマCDでいい味を出されていたので、印象深いものがありました。

郷里氏の声ももう聞けないと思うと、やはり残念でなりません。
ご冥福をお祈りいたします。

二日続けての訃報。
ショックでした。
  1. 2010/01/18(月) 21:22:55|
  2. ニュース
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15年

昨年も記事にいたしましたが、今日は平成七年に発生しました「阪神・淡路大震災」から15年目の日です。
あの大震災の記憶は今も多くの人に焼きついていることでしょう。

以下、当時のことを思い出させる表現がありますので、折りたたみます。
ご注意ください。

[15年]の続きを読む
  1. 2010/01/17(日) 20:21:19|
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二度目の堕落

ちょっと時間が経ってしまいましたが、このたび手元にまいりました同人誌のご紹介です。

堕落2表紙
もう皆様ご存知ですね。
堕落事故調査委員会」様の同人誌、「堕落惑星2」でございます。

悪堕ち界の名の知れた方々を、これでもかってほどに集めましたる豪華本。
イラストも文章もまさに味のある方々ばかりです。

今回は悪堕ちは悪堕ちでも、異形化が多く取り入れられてますね。
異形化好きの方々には特にたまらない作品群になっているのではないでしょうか。
私も楽しませていただきました。

残念なことに本誌の在庫はもう無くなってしまったようですが、DL販売を計画中であるとのことですので、興味のある方はそちらで手に入れられるのもよろしいかと思います。

ここまで来ると「堕落惑星3」も気になってくるところですね。
今度はどのような方が参入なさってくるのでしょうか。
そこも楽しみの一つになるかと思います。

それではまた。
  1. 2010/01/16(土) 21:03:18|
  2. 同人系
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おい! 鬼太郎!

「ゲゲゲの鬼太郎」の目玉オヤジ役でおなじみだった声優の田の中勇氏が亡くなられました。
心筋梗塞とのことでしたが、77歳という年齢での死去に残念でなりません。

田の中氏といえば目玉オヤジというほど、あのキャラと声のつながりは深かったと思います。
鬼太郎やネズミ男がいくら声優さんが代わっても、目玉オヤジだけはずっと田の中氏が声をあてておりましたからね。
今後声を聞くことができないと思うと寂しいものを感じます。

思えば「ゲゲゲの鬼太郎」はアニメ化第一期の頃と第二期の頃しか見てません。
鬼太郎は野沢雅子さん、ネズミ男は大塚周夫さんというキャストのときですね。
それ以後は見なくなってしまったので、私にとってはこの三人の声優さんの「ゲゲゲの鬼太郎」がすべてと言ってもいいと思います。

第一期の作品は白黒映像だったので本当に怖かったです。
無論作風も恐怖を前面に押し出してはいたと思いますが。
「ゆうれい電車」はその後電車に乗れなくなるほど怖かった気がします。

また一人昭和の思い出の方が亡くなられてしまいました。
田の中勇氏のご冥福をお祈りいたします。
  1. 2010/01/15(金) 21:18:55|
  2. 映画&TVなど
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フォークランド紛争(6)

5月に入り、戦闘はいよいよ激化の一途をたどり始めました。
先日の記事に記したように、5月1日には英国空軍のアブロ・バルカン爆撃機が長駆アセンション島からスタンリー空港を爆撃して行きましたし、英海軍のシーハリアーと艦砲射撃が同じくスタンリー空港とグースグリーン空港を攻撃しました。

これに対しアルゼンチン空軍のミラージュ戦闘機が英国艦隊を攻撃しようとしたものの、逆にシーハリアーによって四機を失うという痛手をこうむります。
ですが、アルゼンチンとてこのまま引き下がるつもりはありませんでした。

アルゼンチン本土からの航空攻撃は、確かにフォークランド諸島との距離の関係で、大幅に制限を受けることになります。
本土の基地からおよそ800kmから1000kmも離れているフォークランド諸島の上空では、アルゼンチン空軍もその滞空時間が少なくならざるを得ないのです。
それに対し、英国艦隊は空母を保持しているため、すぐに上空直衛を行なえます。

で、あれば、こちらも空母を出せばいいのです。
アルゼンチン海軍には、当時一隻の空母がありました。
その名を「ベインティシンコ・デ・マヨ」といい、もともとは第二次世界大戦中に英国が建造した「コロッサス」級の空母でした。
英国が売却した空母をオランダが購入し、そのオランダから今度はアルゼンチンが購入して配備していたのです。
この「ベインティシンコ・デ・マヨ」から艦載機を発進させれば、英国艦隊の大いなる脅威となるはずでした。

一方、英国もこのアルゼンチンの空母には注意を払っておりました。
またアルゼンチン海軍にはもう一隻、「ヘネラル・ベルグラノ」という巡洋艦があり、この二隻がアルゼンチン海軍の主力と目されておりました。
そこで英国海軍は、この二隻の動向を監視するとともに、ことあれば攻撃を行なうために、それぞれに一隻ずつの攻撃型原子力潜水艦を派遣します。
「ベインティシンコ・デ・マヨ」には「スパルタン」を、「ヘネラル・ベルグラノ」には「コンカラー」をそれぞれ差し向けたのです。

「ヘネラル・ベルグラノ」は、もともとはアメリカ海軍の巡洋艦でした。
完成したのはなんと第二次世界大戦前の1938年で、日本軍との戦いを生き延びた巡洋艦でした。
アルゼンチンは1951年にこれを購入し、アルゼンチン海軍の主力と位置づけます。
無論、このフォークランド紛争時にはすでに完成から40年以上が経っていたため、アルゼンチン海軍でも実質上の戦力というよりもいわば象徴のような扱いではありました。

アルゼンチンはこの二隻それぞれを中核とした小部隊をフォークランド諸島沖に派遣しました。
空母「ベインティシンコ・デ・マヨ」はフォークランド諸島の北側に、「ヘネラル・ベルグラノ」は南側に配置され、それぞれ英国艦隊へ圧力をかけるつもりだったのです。
しかし、機関の不調から「ベインティシンコ・デ・マヨ」は艦載機を発進させることができず、ついに第二次世界大戦後初となる空母同士の海上決戦は行なわれることなく終わります。
また、「ヘネラル・ベルグラノ」には、海中から静かに忍び寄る英国潜水艦「コンカラー」の姿がありました。

5月2日、24時間体制で「ヘネラル・ベルグラノ」に張り付いていた「コンカラー」は、この巡洋艦が味方の脅威になりえると判断します。
いまだ英国の通告した「海空封鎖領域:TEZ」外にとどまっていた「ヘネラル・ベルグラノ」でしたが、英国海軍はこれに対する攻撃を決定。
艦長はあらかじめ定められた交戦規定に基づき、この日の午前四時ごろ、三発の無誘導魚雷を発射しました。
魚雷はこのうち二発が命中。
「ヘネラル・ベルグラノ」は艦首付近を吹き飛ばされ、ゆっくりと沈没。
乗員1092名中323人が運命をともにしました。
「コンカラー」はこれにより史上初めて敵艦を撃沈した原子力潜水艦となり、今現在にいたるまで「コンカラー」のみが保持する記録となってます。

海軍の象徴たる巡洋艦「ヘネラル・ベルグラノ」を沈められたアルゼンチンは色を失いました。
あわてて空母「ベインティシンコ・デ・マヨ」をフォークランド沖から呼び戻し、以後「ベインティシンコ・デ・マヨ」に出撃の機会が訪れることはありませんでした。

アルゼンチン国民にとっても「ヘネラル・ベルグラノ」沈没の衝撃は大きいものでした。
フォークランド諸島の占領という既成事実さえ作ればあきらめざるを得ないであろうと思っていた英国が、本気で取り返しに来ていることがわかったのです。
アルゼンチンを重い空気が包みました。

(7)へ
  1. 2010/01/14(木) 21:17:12|
  2. フォークランド紛争
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01月14日のココロ日記(BlogPet)

ハガキの枚数、もっと増えませんかねえ…

*このエントリは、ブログペットのココロが書いてます♪
  1. 2010/01/14(木) 07:44:17|
  2. ココロの日記
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買っておいてよかった

先日紹介した「独ソ電撃戦」は、当時買わなかったのをいまさらになって手に入れたものですが、当時さほど気にしてなかったけど、今になると買っていてよかったなぁと思うゲームがこちら。


エポック社の「ドイツ戦車軍団」です。

発売当時(1982年)には2800円という価格で売られておりました。
一般的な輸入ゲームが5800円、国産ゲームも3800円から4500円という時代でしたので、この価格は安かった。
だから割合手に入れやすかったからというのもあるんでしょうね。

今でこそ簡単なルールでいろいろな展開を楽しめるようなゲームがおもしろいといえるのですが、当時の私は多くの人がかかっていた病気、「ゲームは複雑精緻を持ってよしとする病」に罹っておりましたので、複雑でルールの多いゲームこそがおもしろいゲームという錯覚に陥っていたんですよねぇ。
なので、このゲームも買った当時はそれほど興味があるものではありませんでした。

でも、今になると買っておいてよかったぁって思います。
「独ソ電撃戦」もそうですが、プレイ最中に何度もルールブックをめくらなくてもすむのはありがたいです。
やっぱり歳だからかな。

この「ドイツ戦車軍団」には、三つのゲームが入ってます。

アフリカ戦線のターニングポイント、「エルアラメイン」
初期電撃戦を表した、「ダンケルク」
独ソの攻防戦、「ハリコフ」
いずれも楽しめるゲームです。

特に「ハリコフ」は展開の妙で評価が高いゲームです。
私はまだまだこの「ハリコフ」をこなせているとはいえませんね。

ゲーム会などでもこの一箱を持っていけば時間が余ったときなどには重宝です。
買っておいてよかった。

それではまた。
  1. 2010/01/13(水) 21:21:41|
  2. ウォーゲーム
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フォークランド紛争(5)

サンディー・ウッドワード少将率いる英国海軍の機動部隊、第317任務部隊はアセンション島を出港後順調にフォークランド諸島へと向かっておりました。
その間にも空母「ハーミーズ」や「インヴィンシブル」の艦上では、戦闘への準備がおおわらわで進められていきます。
なにせ英国は第二次中東戦争以降大きな戦争を経験しておりません。
シーハリアーの平常時の目立つ塗装を急いで戦時塗装に塗りなおし、上陸する兵士たちはヘリからの降下訓練を空母の飛行甲板で行ないます。
海に向かっての射撃訓練も各艦艇で行なわれました。

1982年4月23日。
英国海兵隊特殊舟艇隊(SBS)のコマンドが南ジョージア島に偵察上陸を行ないます。
25日には英国海兵隊の二百五十名が南ジョージア島に上陸。
アルゼンチン軍と戦闘に入ります。

ですが、アルゼンチン本国から遠いこの南ジョージア島の保持は無理と判断していたアルゼンチン軍はさほどの抵抗はせず、同日南ジョージア島は再び英国の手に戻ります。
英国はようやく一ヶ所取り戻したのでした。

この時点でも英国はまだアルゼンチンに対し宣戦布告は行なっておりませんでした。
英国は自国の軍事行動を、国連憲章の定める自衛権の行使としており、アメリカを通じた外交交渉も続けていたのです。

しかし、アルゼンチンは強硬でした。
ガルチェリ大統領はアメリカの仲介を突っぱね、ついにはアメリカも平和的解決の道なしと手を引くことになります。

4月30日。
アメリカが交渉を断念。
これに伴い、英国はフォークランド諸島から200海里の海上封鎖を、「海空封鎖領域:TEZ」に再設定。
海上だけではなく空域も封鎖されることになり、フォークランド諸島に近づくアルゼンチン航空機も攻撃対象となりました。

フォークランド諸島にいるアルゼンチン軍への補給は主に空路によっており、この日までに同島守備隊の約90日分の武器弾薬を運び込むことに成功しておりましたが、以後、アルゼンチン軍が守備隊兵力を増強することはきわめて困難な状況になったのです。

5月1日。
英国はフォークランド諸島の重要な二つの空港、東フォークランド島にあるスタンレー空港とグースグリーン空港を使用不可にするための大胆な攻撃を行ないます。
大型爆撃機であるアブロ・バルカン爆撃機をアセンション島から発進させ、空中給油を繰り返して東フォークランド島の空港を爆撃するというのです。
さらにシーハリアーによる攻撃と艦砲射撃を行い、二つの飛行場を完全に破壊する計画でした。

この作戦は「ブラックバック作戦」と命名され、バルカン爆撃機二機と空中給油機十五機を使って行なわれました。
途中一機のバルカン爆撃機はトラブルのために帰還しましたが、一機はスタンリー空港上空で二十一発の1000ポンド爆弾を投下しました。
またシーハリアーの攻撃と艦砲射撃が両空港に行なわれ、甚大な損害を与えたと見なされました。

しかし、実際はアルゼンチン軍の航空機の離着陸を阻止するまでにはいたらず、この後もアルゼンチン軍はほそぼそと航空機による補給を行ないます。

一方、これに対しアルゼンチン軍は航空戦力による反撃を開始。
本土の航空基地を発進したアルゼンチン空軍のミラージュ戦闘機が英海軍のシーハリアーに襲い掛かります。
これは史上初の垂直離着陸機(VTOL)による空戦参加でしたが、超音速機のミラージュ戦闘機に対し、亜音速しか出ないシーハリアーはその特有の空中停止能力や小回りのよさなどを生かしてミラージュ戦闘機を翻弄。
四機のミラージュを撃墜するという戦果を収めます。
世界の軍事航空関係者が驚きの声を上げた瞬間でした。

英国機動部隊にとって、上空をカバーしてくれる戦闘機は、わずかに二十機のシーハリアーのみでした。
空母「ハーミーズ」に十二機、「インヴィンシブル」に八機しか搭載してなかったのです。
それに対しアルゼンチンは、ミラージュ戦闘機や改良型のイスラエル製ダガー戦闘機、スカイホーク攻撃機やシュペル・エタンダール攻撃機など、およそ二百機を超える作戦機を保有しておりました。
フォークランド諸島とアルゼンチン本土との距離が問題になるとはいえ、十倍の戦力差があれば、いかにシーハリアーが優秀といえども問題にならないとアルゼンチン空軍は考えていたことでしょう。

ですが、そのシーハリアーは、予想以上の強敵でした。

(6)へ
  1. 2010/01/12(火) 21:46:50|
  2. フォークランド紛争
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ありがとうございました

今日は鏡開きですね。
皆様もお雑煮やお汁粉などにしていただきましたでしょうか。
うちはまだなのです。(汗

と、言うことでお正月も終わりですが、今年も素敵な年賀イラストをいただきました。
遅くなりましたが、ここでご紹介させていただきますね。

きっしん年賀縮小版
いつもいつもお世話になっております「Kiss in the dark」の管理人、g-than様のイラストです。
新体操選手たちがいつの間にか改造され、リボンで周囲の人間を洗脳と言うところですね。
レオタードに包まれた彼女たちの肢体が美しいです。

2010フェル
お次は「インムノトリコ」の管理人アイジャック様よりの年賀イラストです。
連作になっており、今年が三年目。
完結まではまだ長いですね。ww
それにしても着物の柄が素敵です。
綺麗なイラストですよねー。

MACXES様年賀イラスト縮小版
次は「MACXE'S」様の管理人monmon様よりの年賀イラスト。
代表作の「ダイナレンジャー」にでてくるゾファー兵との戦いですね。
動きのあるイラストが実に見事です。
着物も素敵。

皆様本当にありがとうございました。
あらためまして今年もよろしくお願いいたします。

それではまた。
  1. 2010/01/11(月) 20:46:35|
  2. Special Thanks
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フォークランド紛争(4)

アルゼンチンがフォークランド諸島奪回の実力行使に踏み切った背景には、英国の軍事予算縮小とそれに伴う戦力低下が大きく影響しておりました。
戦力低下は海外展開能力の低下につながり、本国より遠く離れた地点への影響力の低下につながります。
当時英国は固定翼機運用能力のある空母「アークロイヤル」が退役し、垂直離着陸機のシーハリアーを搭載する小型空母「ハーミーズ」や「インヴィンシブル」が主力となっておりました。
しかも、その「インヴィンシブル」すら海外への売却の話が上がっており、強襲揚陸艦の「フィアレス」なども手放そうとしていたのです。
英国海軍にもはや遠距離での作戦行動能力はなくなったと見なされても不思議はありませんでした。

駐英アルゼンチン大使館付きの武官は、英国海軍の能力低下と、それに伴う兵士の士気低下を本国に伝えており、アルゼンチンとしてはここで英国と戦端を開いたとしても対抗が可能であると思われました。
当時アルゼンチンはフランスよりシュペル・エタンダール戦闘攻撃機を取得しており、ミラージュ戦闘機なども合わせればシーハリアーには充分対応可能と考えており、何より5月には冬を迎える南半球の天候を考慮すれば、英国の反撃もできないまま占領という既成状態を維持することが可能であると思われたのです。

フォークランド諸島の英軍が降伏した4月2日、英国はアルゼンチンとの国交を断交。
翌4月3日の緊急招集された議会の席上、サッチャー首相はあらためてフォークランド諸島がアルゼンチン軍によって“侵攻”されたことを報告し、こう言いました。
「我が領土に対する外国勢力による侵略は久しく無かったことです。この事態に対し、政府は準備が整い次第機動部隊を現地に派遣する決定を下しました」
英国は本腰を上げてアルゼンチンと対決することにしたのです。

4月3日。
国連安全保障理事会は、決議第502号においてフォークランド諸島においての敵対行為の即時停止と、アルゼンチン軍の撤退が求められました。
アルゼンチンはこの時点で国際社会における“侵略国”と位置づけられてしまいます。
ですが、アルゼンチンには撤退する意思はまったくありませんでした。
それどころか同日、アルゼンチン軍は南ジョージア島を占領し、その模様をテレビ中継いたします。
テレビを見たアルゼンチン国民は熱狂しましたが、もはやアルゼンチンは後戻りはできませんでした。

4月4日にはアルゼンチンが国内の英国資産を凍結。

4月5日、英国より空母「ハーミーズ」などを中核とした機動部隊が出港します。
長引く不況により、国内の失業者数も三百万人にも及んでいた英国でしたが、大国としての威信をまだ失うつもりはありませんでした。
英国国民に取り、伝統ある英国がアルゼンチンにすら侮られるなどという事態は、容認できるものではなかったのです。
英国国民の熱狂的な政府支持は頂点に達し、機動部隊の出港時には、サッチャー政権への支持率は60%を超えるものとなりました。

4月10日。
ECが対アルゼンチン経済封鎖を承認。
西ドイツ(当時)やフランスなどがアルゼンチンに対し経済封鎖に参加します。

4月11日には英国の機動部隊が中継地点アセンション島に到着。
ここを拠点としてフォークランド諸島へ向かうことにします。
アセンション島は英国とフォークランド諸島とのほぼ中間に位置する大西洋上の島であり、艦隊の中継地として非常にいい位置にありました。

4月12日。
英国はフォークランド諸島を中心とする半径200海里の海域を「洋上封鎖領域:MEZ」に指定。
その範囲に侵入するアルゼンチン艦船は攻撃対象となることを通告します。

一方アルゼンチン側もフォークランド諸島の奪回阻止に向けて動いておりました。
4月2日以来約九千名を越える兵力をフォークランド諸島に送り込み、マリオ・メナンデス少将を指揮官として、島を守り抜く決意を固めていたのです。

(5)へ
  1. 2010/01/10(日) 21:20:02|
  2. フォークランド紛争
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ナイロンの虜

なんだか奇妙なSSを書いてしまいました。

駄文ですけど、よろしければごらんくださいませ。


「ナイロンの虜」

「ああ~~ん、ゼンタイ様ぁん」
椅子に座っている、頭のてっぺんからつま先までをすっぽり覆う黒い全身タイツを着た男に、黒いコルセットと黒いパンストだけを身に着けた女がしなだれかかる。
床に尻を着いた女は、とても愛しいかのように男の太ももにほお擦りする。
その手は滑らかに動き、男の股間でもっこりとナイロン生地を押し上げている肉棒をさすっていた。
「ククク・・・お前もすっかりナイロンの虜になったようだな」
目も鼻も口もないゼンタイマスクに覆われた顔が、うっとりとしている女に向けられる。
女は躰を持ち上げると、男にまたがるようにして太ももの上に腰を下ろし、両手を男の首にまわすようにして抱きついた。
「はい、ゼンタイ様。私はもうナイロンの虜。ナイロンのためなら何でもいたしますわ」
そう言って男のナイロンマスク越しに口付けを交わす。
つややかなナイロンが彼女にはとても心地よかった。

「ククク・・・あれほど我らに歯向かっていたお前が、今はナイロンの虜とはな。そんなにナイロンが好きか?」
彼女の穿いている黒パンストに手を這わすゼンタイの男。
手袋とストッキングがこすれあい、しゅるしゅると小さな音を立てていく。
「ああ~~ん。はいぃ、そうですぅ。私はナイロンが大好きですぅ」
まるで素肌を愛撫されたかのように快感を感じている女。
いや、おそらくは素肌を愛撫される以上なのだろう。
「ククク・・・それでいい。今のお前はわがナイロン帝国の女幹部パンストレディ。かつてはナイロンを拒否するスアシセイバーの一員スアシレディだった西風美弥(にしかぜ みや)はもういない。そうだな?」
「はいぃ、そうですぅ。スアシレディ西風美弥なんてもういません。私はナイロン帝国の忠実なるしもべ、パンストレディですぅ」
まるでセックスでもされているかのように善がる女。
先ほどからの男の愛撫に相当の快感を感じているのだ。
「ククク・・・いい子だ。お前のおかげで憎きスアシガールも捕らえることができた。よくやったぞ」
ゼンタイのナイロンマスクに包まれ表情は見えないものの、男の口調は柔らかい。
「ああ・・・お褒めの言葉ありがとうございます、ゼンタイ様ぁ」
自分の股間を擦り付けるかのように、直穿きのパンストで男の上で腰を振るパンストレディ。
黒いアイシャドウと黒い口紅がその顔を妖しく彩っていた。

「クククク・・・来るがいい。スアシガールに会いに行こうではないか」
「はい。お供いたします。ゼンタイ様」
ひとしきり股間をこすり付けて快楽をむさぼったパンストレディを連れ、ゼンタイ姿の男が歩き出す。
捕らえたスアシガールを閉じ込めてある牢屋へ向かうのだ。
また楽しい時間をすごせると思うと、男は笑みが浮かぶのを止められなかった。

                   ******

冷んやりとした空気に包まれた牢獄。
時代錯誤的な鉄格子が、そこが何を目的としている場所なのかを知らしめている。
奥には首と両手両足を鎖で壁につながれた一人の少女が、まるで磔にされたように立っていた。

ぐったりとうつむき加減の少女。
ミニスカート型のピンク色のコスチュームからは、すらっとした素足が伸びている。
幾度となくナイロン帝国の野望を打ち砕いてきた見事な脚。
だが、今はその脚も封じられてしまっていた。

ギイときしむ音を立てて牢獄の扉が開け放たれる。
そこから入ってくる二人の人影。
男は真っ黒な全身タイツに身を包み、女のほうは黒いコルセットに黒いパンストを身につけていた。

「クククク・・・気分はどうかな? スアシガールこと川霧弥生(かわぎり やよい)」
両手両足を拘束された少女はその声にゆっくりと顔を上げる。
捕らわれているとはいえ、その目は輝きを失ってはいなかった。
「あなたはナイロン帝国のゼンタイ司令。私をこんなところに閉じ込めてどうしようと・・・えっ?」
スアシガールの目が驚愕に見開かれる。
ゼンタイ姿の男の背後に、仲間であるはずの女性がいたからだ。
「そんな・・・西風さんが・・・どうして・・・?」
つい先日までいっしょにナイロン帝国と戦ってきたのだ。
その彼女がなぜゼンタイ司令の背後にいるというのだろう?
それもまるで娼婦のような衣装を着て・・・

「ククク・・・この女はもはやお前の仲間のスアシレディではない。わがナイロン帝国の女幹部、パンストレディに生まれ変わったのだ。そうだな?」
わざわざその事実を見せ付けるかのように背後のパンストレディに確認するゼンタイ司令。
すっぽりと顔はマスクで覆われているが、きっと笑みを浮かべているに違いない。

「はい、ゼンタイ様。私はナイロン帝国の忠実なるしもべパンストレディですわ。ナイロンに永遠の忠誠を誓います」
胸に手を当ててナイロンへの忠誠を誓うパンストレディ。
もはやナイロン無しでは彼女は生きられないのだ。

「そ、そんな・・・スアシレディがナイロンに・・・」
目前の事実に愕然とするスアシガール。
ともにナイロンなど脚に穿かないと誓っていたのが嘘のようだ。
なぜこんなことになってしまったのか・・・

「ククク・・・心配ない。お前もすぐにナイロンのよさがわかるようになる」
「ふざけないで! あなたたちの好きにはさせないわ! 私は素足で通してみせる!」
キッとゼンタイ司令をにらみつけるスアシガール。
だが、動揺は隠せていなかった。
「ククク・・・それはどうかな? 見ろ」
ゼンタイ司令はパンストレディからなにやら受け取ると、それをスアシガールに突きつける。
ゼンタイ司令の手の先で、はらりと広がった黒い布は、下が二股に分かれた黒タイツだった。
「黒いタイツ?」
「そうだ。わがナイロン帝国の誇る特殊タイツだ。これを穿けばお前もすぐにナイロンのよさに気がつくだろう」
ゼンタイ司令の言葉に青ざめるスアシガール。
そんなものを穿かされてしまったら・・・

「うふふ・・・そうよ。私も穿かせていただいたの。私の場合はこの黒いパンストをね。すばらしいわよぉ。すぐにナイロンのよさが理解できたわぁ」
うっとりと自らの手で太もものあたりを撫でるパンストレディ。
その肌触りに背筋がぞくぞくするものを感じていた。

「ククク・・・さあ、このタイツを穿かせてやれ。スアシガールの素足をタイツで覆ってやるのだ」
「かしこまりましたゼンタイ様」
黒い特殊タイツを受け取るパンストレディ。
そのままゆっくりとスアシガールの元へと近づいていく。
「いやぁっ、こないで! お願い! 目を覚まして!」
身をよじり、恐怖に震えるスアシガール。
「うふふ・・・恐れることは無いわ。ナイロンタイツは気持ちいいのよ。それに暖かいわ」
「いやぁっ! 私は素足が好きなの! タイツなんか穿きたくない!」
鎖で拘束されている躰をじたばたさせ、必死にタイツを穿かせられないように抵抗する。
その様子にパンストレディも少し戸惑ってしまった。

「ふんっ!」
ゼンタイ司令の両手が突き出される。
「あぐっ! な、か、躰が・・・」
身をよじっていたスアシガールの動きが止まる。
「ククク・・・我が力でお前の動きを少しの間止めるぐらいはできる。さあ、パンストレディよ、今のうちに穿かせるのだ」
「かしこまりました」
ゼンタイ司令にこくんとうなずき、パンストレディは動きの止められたスアシガールの左足を足枷からはずし、靴を脱がせてタイツを穿かせ始める。
「い、いやぁっ」
動けない躰をもてあそばれるようにしてタイツを穿かされることに、スアシガールは悲鳴を上げる。
だが、躰が動かない以上どうすることもできはしない。
するするとふくらはぎあたりまでタイツが覆い、右足の枷もはずされてそちらもタイツに通されていく。

「ああ・・・そんな・・・」
スアシガールは驚いていた。
つま先からふくらはぎへと黒いタイツが覆っていくに連れ、自分の中にあった素足でいたいという欲望がすうっと消えていくのを感じていたのだ。
それどころか、ナイロンが触れることの気持ちよさが全身を駆け抜けていく。
こんなにタイツって気持ちよかったの?
今までの価値観が崩れていく。
あれほど素足でいたかったのに、だんだんタイツを穿いていたい衝動が沸き起こってくるのを止められない。

「うふふ・・・どう? 気持ちいいでしょ?」
口元に歪んだ笑みを浮かべ、パンストレディが問いかけてくる。
だが、それに抵抗する気力はスアシガールにはもうなかった。
「はい・・・気持ちいいです・・・」
スアシガールはいつしかそう答えている自分に気が付いていた。

「ククク・・・もうよかろう」
ゼンタイ司令が手を下ろす。
スアシガールの躰が自由になるが、すでに彼女に抵抗する気持ちはなくなっていた。
自由になった両足でパンストレディを蹴りつけたりすることもなく、おとなしくタイツを穿かされるままになっていた。

「コスが邪魔ね。このままだとちゃんとタイツを穿けないわよ。消してくれる?」
「・・・はい・・・」
自分が何をしているのかは理解している。
ここでコスチュームを消してしまえば、無防備なただの少女になってしまうのだ。
この強化コスチュームがあるからこそ、彼女はスアシガールでいられる。
それを消してしまうなど通常では考えられないことだ。
だが、スアシガールのコスチュームはじょじょに粒子へと分解され消えていく。
彼女はスアシガールであることを放棄した。

「ククク・・・どうだ、気持ちいいだろう?」
「はい・・・とても・・・」
うっとりとした表情を浮かべ、ゼンタイ司令に微笑むスアシガール。
だが、ピンク色のコスチュームはもはやなく、腰から下は真っ黒いタイツで覆われている。
上半身には何もまとわず、その可愛らしい胸があらわになっているにもかかわらず、それを恥ずかしがる様子もない。
拘束をはずされ、すでに自由になっているというのに、彼女はただ自分の脚を覆っているタイツを手で触って、その肌触りを楽しんでいるだけだった。

「さあ、これを着て」
黒革のコルセットを手渡すパンストレディ。
それは自分が着ているものとおそろいのものだ。
「これを着ればあなたもナイロン帝国の一員よ」
先ほどまでの少女であれば、その言葉に嫌悪感を抱いただろう。
だが、今の彼女は黒タイツの魔力に魅入られてしまっていた。
彼女は何のためらいもなくコルセットを受け取ると、自ら身に着けていく。
腰の括れが強調され、可愛らしい胸も乳首がつんと上を向いていく。
目元には黒いアイシャドウが浮かび、唇も黒く染められていった。

コルセットを付け終わった少女は、もはや先ほどまでのスアシガールではなかった。
まだ幼さが残るものの、その顔には妖艶な笑みが浮かび、妖しい魅力を湛えていた。
彼女は再び穿いているタイツの手触りを確かめると、その指先をぺろりと舐めた。

「クククク・・・気分はどうかな、スアシガール? いや、もはやお前は我がナイロン帝国のしもべ、タイツガールだったな」
思い通りに変貌した少女に満足そうな声をかけるゼンタイ司令。
少女はくすっと笑みを漏らすと、そのままゼンタイ司令に歩み寄る。
「はい、私はナイロン帝国のタイツガール。ナイロンの忠実なるしもべです。どうぞ何なりとご命令を」
タイツガールと化した少女がひざまずく。
「クククク・・・それでいい。これよりお前たちは、ナイロンの世界を築くためその能力を使うのだ」
「かしこまりましたゼンタイ様」
「お任せくださいませゼンタイ様」
パンストレディもタイツガールの横にひざまずく。
「「私たちが世の女どもをナイロンの虜にしてご覧に入れます」」
二人の声が重なり、ナイロンのしもべたちの暗躍が始まるのだった。

END
  1. 2010/01/09(土) 20:48:39|
  2. 女幹部・戦闘員化系SS
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独ソ電撃戦

先日、オークションで落札したウォーゲーム、「独ソ電撃戦」(コマンドマガジン日本版:エポック)が届きました。

独ソ電撃戦
あーあ、写真ボケボケ。(苦笑)

もともとはエポック社から発売されていたものですが、これはコマンドマガジン日本版57号の付録として再販されたバージョンです。
雑誌そのものと、もう一つの付録「1942」のほうは付いておりませんでしたが、その分ずいぶんと低価格で手に入れることができました。

このゲーム、エポック社から発売されたのは1981年ですが、出た当時はさして欲しいゲームではなかったです。
コマンドマガジン日本版で再販されたときも、買おうとは思いませんでした。

でも、最近妙に簡単なルールのお手軽ゲームもいいなぁと思うようになってきました。
これも歳を食ったということでしょうか。
難しいルールよりも簡単なルールで楽しめるのがいいなぁと感じるのです。

で、オークションにこのゲームがでていたのを見て、どうせ価格が釣り上がるんだろうなぁと思いながらも入札したところ、思いがけなくもそのままの価格で落札してしまいました。
なんかうれしかったですね。

ゲームの内容はいわゆる独ソ開戦、「バルバロッサ作戦」の最初の8日間だけを切り取ったものです。
しかも中央軍集団の戦区のみなので、北方軍集団や南方軍集団は入ってきません。

ルールも簡単、手順も明快で、移動と戦闘を繰り返すのみです。
機械化部隊の二次移動など、複雑なルールは一切ありません。
ユニットの戦力減少であるステップロスさえありません。

ドイツ軍は、その強力な装甲師団にモノを言わせ、ソ連軍の前線を食い破り都市の占領及び盤外への突破を図ります。
ソ連軍は、足の遅い歩兵と戦車部隊を駆使して、何とか突破を防がねばなりません。

勝利条件的にはドイツ軍がきびしく、ソ連軍がやや(もしくはかなり)有利とされてますけど、両軍ともに楽しめるゲームだと聞いてます。

さてさて、ソロプレイしてみましょうかね。
それではまた。
  1. 2010/01/08(金) 21:25:53|
  2. ウォーゲーム
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やっぱりスマート

いつも継続して読んでいる「世界の艦船」(海人社)の二月号と、「グランドパワー」(ガリレオ出版)の二月号が手に入りました。

世界の艦船1002
「世界の艦船」二月号は、原子力潜水艦の特集です。
戦略ミサイル原潜だけでなく、攻撃型原潜も合わせての特集で、現在世界で就役している原潜をほぼ全タイプ網羅しているみたいです。

表紙は英国の新型攻撃原潜「アスチュート」
90年代に計画された原潜ですが、ようやく形になりましたようで、建造に10年以上かかったということなんですね。
英国も軍事力の維持は大変なようです。

記事では「日本も原潜を持つべきか?」という問いに賛否両面から識者の声が寄せられているようで、じっくり読んでいきたいです。
個人的には原潜保有もありだとは思ってますけど、それにかかる費用の膨大さは想像を超えるものがあるようですね。

おっと思ったのは日本海軍の戦艦「陸奥」の魚雷発射シーンの写真。
戦艦が魚雷を発射するというのは極めて珍しいと思うので、この写真は驚きました。
就役時の「陸奥」は魚雷発射管を装備していたんですねぇ。

GP1002.jpg
一方こちらは「グランドパワー」誌。
今回は「ヤークトパンター」の塗装についての特集です。
なんとカラーで16ページにもわたり、「ヤークトパンター」の塗装イラストが載ってます。

「ヤークトパンター」は、大戦後半のドイツの主力戦車になった「パンター」の車体を利用し、71口径の88ミリ砲を搭載した駆逐戦車で、「ケーニッヒティーガー」と同じ主砲を積んでます。
この主砲の威力は絶大で、当時の連合軍戦車で装甲を撃ち抜かれないものはほぼ皆無でした。
でも数が少なく、結局は各個撃破されてしまったんですよね。

「ヤークトパンター」も四百輌そこそこしか作られなかったので、有効な戦力にはなりませんでした。
でも、とてもスマートなスタイルをしているので人気の高い車両だと思います。

そういえば、40歳代ぐらいの人には、「ヤークトパンター」ではなくタミヤ模型が名付けていた「ロンメル」駆逐戦車というほうが通りがよいのかもしれませんね。

それではまた。
  1. 2010/01/07(木) 21:33:36|
  2. 本&マンガなど
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フォークランド紛争(3)

国民の不満をそらそうと画策したガルチェリ大統領は、マスコミを使ってフォークランド諸島奪回を大々的にアピールします。
そのためアルゼンチン国民の目は現軍事政権への批判ではなく、じょじょに英国批判へと移って行きました。
ここまではガルチェリ大統領の思惑通りでした。

1982年3月、アルゼンチン海軍の補給船がフォークランド諸島よりまだ東にある南ジョージア島に入港します。
この南ジョージア島は、アルゼンチンにとってはフォークランド諸島の一部的な扱いとなっており、英国に支配されているアルゼンチン領であるという認識でした。
補給船は入港後に40人ほどのアルゼンチン労働者を上陸させ、アルゼンチン国旗を掲揚させるなどの挑発行動を行ないます。
英国にとってはこれは見過ごせるものではありませんでした。

英国は付近にいた氷海監視船「エンデュアランス」を派遣し、アルゼンチン労働者を強制的に排除します。
さらにサッチャー首相はアメリカに働きかけ、アルゼンチンに圧力をかけると同時に、不測の事態に備え攻撃型原子力潜水艦(他国の潜水艦や水上艦を攻撃するタイプの潜水艦。核ミサイルを発射する戦略原子力潜水艦とは違う)をフォークランド諸島近海に派遣することを決定しました。

南ジョージア島に上陸した労働者たちが強制退去させられたことで、アルゼンチンの世論は沸騰しました。
もはや過去の大国となった英国から、フォークランド諸島を奪回しろとの声がアルゼンチン国内を埋め尽くします。
南ジョージア島での緊張状態で英国に強硬なる態度を見せ付け、その後の交渉を有利にしようとしていたガルチェリ大統領は、自分で自分の首を絞めることになりました。
もはや国民は実力行使しか望まなくなっていたのです。
大統領のとるべき道はフォークランド諸島の奪回を図る軍事行動を起こすことだけでした。

3月31日にアルゼンチン軍が武力行動の準備をしていることが知れると、英国も対応せざるを得なくなりました。
翌4月1日にはサッチャー首相が、米国のレーガン大統領に事態収束のための仲介を要請しましたが、残念ながら時すでに遅しでした。

1982年4月2日。
アルゼンチン軍のフォークランド諸島上陸作戦が開始されます。
「フォークランド紛争」の始まりでした。

アルゼンチン軍は奇襲と強襲の二本立てで上陸作戦を行ないます。
駆逐艦と潜水艦による小部隊のゴムボートによる上陸と、揚陸艦から発進する水陸両用車による大掛かりな上陸です。

まず行なわれたのは駆逐艦によるゴムボートでの上陸でした。
4月2日の早朝に九十名以上のアルゼンチン軍コマンド部隊が東フォークランド島に上陸。
二手に分かれて目的地へと向かいます。
英軍の兵舎と英国総督の屋敷でした。

東フォークランド島には当時六十名ほどの英国海兵隊員がおりました。
彼らは事前に兵舎を脱出して総督邸に集まっておりましたため、アルゼンチン軍コマンド部隊が英軍兵舎にたどり着いたときにはそこは無人でした。
一方総督邸襲撃部隊は、英軍兵士がいることに驚きましたが、そのまま攻撃を仕掛けます。
ここで最初の銃撃戦が起き、アルゼンチン軍の兵士一名が戦死しました。
アルゼンチン軍はコマンド部隊だけでの襲撃をあきらめ、他の部隊の集結を待つことにします。
総督邸ではにらみ合いとなりました。

アルゼンチン軍潜水艦から発進したアルゼンチン軍部隊はほんの少数でしたが、島の主都市であるポート・スタンレーとスタンレー空港を偵察、その後の本体の上陸を誘導します。
午前9時ごろ、アルゼンチン軍揚陸艦「カポ・サン・アントニオ」よりアルゼンチン軍本隊が東フォークランド島に上陸を開始。
一個大隊と水陸両用車二十台を上陸させると、そのままポート・スタンレーとスタンレー空港へと向かいました。

アルゼンチン軍部隊はそのままポート・スタンレーとスタンレー空港を占領。
わずかな兵力しかない英軍は、アルゼンチン軍との圧倒的な兵力差にもはやどうすることもできず、1982年4月2日午前9時30分にレックス・ハント総督の下アルゼンチン軍に降伏します。
フォークランド諸島はアルゼンチン軍に占領されました。

(4)へ
  1. 2010/01/06(水) 21:28:04|
  2. フォークランド紛争
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フォークランド紛争(2)

英国が機動部隊を送り出した1982年当時、フォークランド諸島には約千八百人ほどの島民がおりました。
その95%は植民地時代に渡ってきた英国人の末裔であり、島民自体がフォークランド諸島が英国の領土として存続することを望んでいるという英国の主張を裏付けるものでした。

しかし二十世紀に入り、二度の世界大戦によって疲弊した英国がその世界的な経済力を失ってくると、アルゼンチン内部で英国による経済支配からの脱却を図ろうという動きがでてきます。
彼らは英国による経済的植民地支配の象徴とも言うべきフォークランド諸島を取り戻すべく、英国に対し働きかけを開始しました。

1964年にはこのフォークランド諸島の帰属問題をアルゼンチンが国連に提訴。
翌65年の国連総会では、英国及びアルゼンチンに対し、この問題を平和的に解決するようにとの決議も採択されました。

また、英国の低下した能力では維持しきれなくなっていたフォークランド諸島における行政や医療などの各種サービスを、アルゼンチン側が肩代わりをして行なうということまで、アルゼンチンは行なっておりました。

そのためアルゼンチン国内では、次第にフォークランド諸島の帰属問題についての意識が高まっていき、武装集団が航空機をハイジャック後に、フォークランド諸島の都市ポート・スタンリーに強制着陸させるなどの実力行使も行なわれるほどでした。
しかも、アルゼンチン市民はそうした行動を喝采を持って迎えるようになっていたのです。

一方で英国としては、位置関係から戦略的には重要であるものの、さしたる産業もないこのフォークランド諸島は経済的には維持の難しい海外領土でした。
ですが、だからといってアルゼンチンに無条件で引き渡すというわけにも行かず、アルゼンチン政府との交渉はなかなか進展しませんでした。

英国はアルゼンチンに対し、フォークランド諸島は引き続き英国が統治はするものの、その主権はアルゼンチンに引き渡すというリースバック方式を提案しようとしますが、これはフォークランド島民のみならず、英国国民からも圧倒的な反対を受けてしまい、提案そのものを撤回せざるを得なくなります。
また、アルゼンチン側としても、無条件での返還を要求しており、国民の問題意識の高まりからも、条件付き返還では受け入れられるものではありませんでした。

かつては英国に対する遠慮から、フォークランド諸島の帰属問題を声高には言えなかったアルゼンチンでしたが、第二次世界大戦後の英国の低迷により、英国はアルゼンチンの主要貿易相手国ではなくなっておりました。
1930年代には輸出額の四割を占めていた対英貿易も、1975年には2.5%にまで減少しており、英国に対して遠慮する必要はなくなっていたのです。

1976年3月、それまでも断続的に起こってきたアルゼンチン国内の混乱は、ついに軍のクーデターという状況を迎えました。
ビデラ軍司令官が首班となり軍事政権が誕生しますが、この軍事政権によってフォークランド諸島の帰属問題を軍事行動で解決しようという機運が高まります。

これに対し、英国はさほど危機感を抱きませんでした。
現実的な案であるはずのリースバック方式は両国が受け入れられないために話題に上らず、ただだらだらと交渉が続くことになります。
1979年に英国首相の任についたマーガレット・サッチャーは、国連の提唱する人民の自決による選択という原則を理由に、あくまでもフォークランド島民に帰属を選ばせるべきであると訴えました。

1981年2月に行なわれた、英国とアルゼンチンによる協議が物別れに終わると、アルゼンチン国内ではいよいよ軍事行動が現実味を帯びてくることになりました。
この背景には、軍事政権発足以後のアルゼンチンの急激な経済悪化がありました。
1981年時点でのインフレは年間130%にも及び、GNPもマイナス6%、失業率もなんと30%にも及んでおり、国民の不満が軍事政権に向けられることは避けられない状態だったのです。

1981年12月にビデラのあとを継いで軍事政権の首班の座に着いたレオポルド・ガルチェリ大統領は、この国民の不満をそらす口実にフォークランド問題を使おうと考えます。
フォークランド諸島問題で断固たる行動を取れば、国民の支持も得られるに違いないと目論んだのでした。

(3)へ
  1. 2010/01/05(火) 22:10:22|
  2. フォークランド紛争
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舞方雅人

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(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
どうぞ楽しんでいって下さいませ。

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