第一次世界大戦で産声を上げた戦車は、一時期巨大な車体に多くの砲塔を載せた陸上戦艦とも言うべき多砲塔戦車へと発展して行きます。
その究極とも言うべきものが、ソ連で少数ながら量産されたT-35多砲塔戦車になるのですが、やはり巨大な車体に五つもの砲塔を載せたT-35は重量も重く、装甲を薄めに抑えないと動かすことができない代物になってしまいます。
T-35はそれでも当時の戦車にしては重装甲の部類だったのですが、1936年に始まったスペイン内戦において、ソ連が派遣したBT-5やT-26といった戦車が対戦車砲に簡単に撃破されてしまったことを知り、ソ連にとって戦車の装甲の増強が急務となってきます。
そこでソ連は、装甲を強化した重戦車の開発をボリシェビーク工場設計局のバルィコフと、キーロフスキー工場第二設計局のコーチンの二名の技師に命じました。
早速両工場では新型重戦車の設計に着手し、ボリシェビーク工場ではT-100という名称で、キーロフスキー工場では工場の名称の元となったセルゲイ・ミロノビッチ・キーロフの頭文字からSMKという名称で設計案を提出しました。
この二つの設計案は、ともにT-35多砲塔戦車の流れを汲むもので、いわば砲塔を一つ二つ少なくし、装甲をその分強化した多砲塔戦車でした。
これは軍の指示によるものではありましたが、そのために両設計技師は冷や汗をかくことになります。
1938年、T-100とSMKの実物大模型がソ連の最高権力者スターリンに披露されました。
いずれも三つの砲塔を前後にピラミッド状に配置した新型重戦車の模型は、スターリンに感銘を与えるはずでした。
しかし、スターリンは新型重戦車が三つも砲塔を持っていることに不満でした。
すでに多砲塔戦車の限界を見切っていたスターリンは、使い勝手の悪い多砲塔戦車をさらに作ろうとする意義を見出すことはできなかったのです。
新型重戦車の模型のお披露目が終わった後、スターリンはキーロフスキー工場のコーチン技師を呼びつけました。
スターリンはそこで、コーチン技師に、戦車に砲塔を三つも載せる必要があるのかと問いただします。
コーチン技師は武装強化のためと答えましたが、それに対しスターリンは首を傾げてこう言ったといわれます。
「どうして戦車を“ミュールとメリリズ”にするのかわからない・・・」
“ミュールとメリリズ”とは、帝政時代の古い百貨店で、スターリンの言葉は言外に百貨店のように何でもつければいいというものではないという意味と、古めかしいのではないかという意味があったのだといわれます。
さらにスターリンはこう言いました。
「(小さい)砲塔を一つはずすとどれぐらい軽くなるものかね?」
「・・・・・・三トンです」
コーチン技師は青ざめました。
最高権力者が多砲塔戦車など望んではいないことを知ったのです。
すぐにSMKとT-100からは砲塔が一つはずされ、前に45ミリ砲の砲塔、中央に76ミリ砲の砲塔を載せた二砲塔戦車として設計をやり直しました。
スターリンの前で冷や汗をかいたコーチン技師は、ここでさらに保険をかけました。
軍の要求とは異なりますが、砲塔を76ミリ砲の砲塔一つだけにした新型重戦車も設計したのです。
おそらく砲塔二つでもまだ“ミュールとメリリズ”だと言われることを避けようとしたのかもしれません。
コーチン技師は、この砲塔一つの新型重戦車に、自分の義理の父親でスターリンの大のお気に入りであるクリメンティ・ヴォロシーロフの名を使わせてもらい、その頭文字からKV(ロシア語ではKBなのですが、ここでは通常言われるKVで通します)と名付けました。
こうしてボリシェビーク工場からは二砲塔型のT-100が、キーロフスキー工場からは二砲塔型のSMKと単一砲塔型のKVの三種類の設計が届けられました。
軍は最初キーロフスキー工場が勝手に提出した軍の要求に沿わないKVに関心を払いませんでしたが、やはりこれに反応したのはスターリンでした。
スターリンは単一砲塔型のKVに興味を示し、結局三種類すべての試作車を造ることが決定したのです。
つづく
- 2009/11/24(火) 21:13:13|
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