夕べのNHKドラマ「坂の上の雲」の第一回。
ご覧になられた方も多かったのではないでしょうか。
明治期の日本はこうだったんだろうなってのがよくわかりますね。
今後が楽しみです。
そのドラマの最後で、秋山真之と正岡子規が見惚れていた日本海軍の新型軍艦が、巡洋艦「筑紫」(つくし)でした。
映像的にもなかなか見栄えのあるシーンだったと思います。

「筑紫」はもともと日本海軍向けに建造された軍艦ではありませんでした。
当時日本の裏側南米では、硝石という資源をめぐってペルー、ボリビア、チリの三ヶ国が戦争を行なっておりました。
これを「(南米)太平洋戦争」(別名:硝石戦争 1879年から1884年まで)といい、アメリカが日本との戦いを太平洋戦争と名付けるまではこちらが太平洋戦争として名が通っていたのです。
この(南米)太平洋戦争に合わせてチリが英国に明治12年(1879年)に発注した砲艦のうちの一隻がこの筑紫でした。
そのため、もともとの艦名を「アルトゥーロ・プラット」といい、明治13年(1880年)8月に進水します。
ですが、(南米)太平洋戦争により財政難となったチリは、戦争そのものの勝利も見えてきていたために発注を解約してしまいます。
英国はせっかく造ってきたものをスクラップにするわけにもいかず、そのまま建造を続けましたが、そこに海軍力増強を目指していた明治期の日本海軍が目をつけ、購入することにしたのでした。
日本海軍が購入し筑紫と名付けられたこの艦は、明治16年(1883年)に竣工し、その年の9月に横浜に回航されました。
常備排水量1350トン。
全長64メートル。
最大幅9.7メートル。
石炭燃焼型の蒸気レシプロ機関で最大速力16.4ノットを出すことができ、船体に似合わぬほどの大きさの25センチ砲を前後に一門ずつ搭載しておりました。
またこの筑紫は、日本海軍の軍艦として初めて帆走用の設備を全廃した艦としても記録されることになりました。
今の目で見れば小さな艦ですが、当時はまだまだ木製船体に帆走用のマストと蒸気機関の両方を備えた軍艦が多かった時期ですので、全鋼鉄製の筑紫はさぞかし近代的軍艦に見えたことでしょう。
また砲艦と呼んでいいほどの大型砲を搭載しており、見た目的にも力強かったことと思われます。
日本海軍の巡洋艦となった筑紫は、10年後に始まった「日清戦争」(1894年から1895年)に参加。
奇しくも秋山真之がこの筑紫に乗艦して、哨戒、偵察活動などに従事します。
また、この日清戦争では、筑紫の同型艦として英国で建造された姉妹艦二隻が清国海軍の巡洋艦「揚威」と「超勇」として戦争に参加。
いずれも日本海軍に沈められるという奇縁もありました。
日清戦争を生き延びた筑紫は、その後に一等砲艦に類別され「日露戦争」(1904年から1905年)にも参加します。
あの有名な「日本海海戦」にも第七戦隊の砲艦として参加。
これも無事に生き延びて、明治44年(1911年)に廃船となりました。
約30年にわたり日本海軍の一員として働いてくれた艦でした。
ドラマでは「贅沢な買い物」といわれておりましたが、それに見合うだけの活躍は充分にしてくれたのではないでしょうか。
それではまた。
- 2009/11/30(月) 21:45:36|
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いよいよ今日からNHKで司馬遼太郎先生の「坂の上の雲」のドラマが始まりますね。
いろいろな意味ですごく楽しみです。
日本の近代化の過程で起こったいくつかの戦争の一つ「日露戦争」を扱う話なわけですが、やはりそうなると戦闘シーンが気になりますよね。
先日北海道豊頃で行なわれたロケシーンの特集をテレビでやってましたが、それなりにがんばっていました。
エキストラに地元の方が多数参加されていたようですが、ロケ見に行ってみたかったですね。
それにしても、今時期だから可能なことでしょうけど、雪が降ったら冬のシーンを、ちょっとの雪ぐらいなら踏み消して夏のシーンを同時に撮影しているというのは驚きでした。
冬のシーンは厚着しているからいいけど、夏のシーンは寒そうでしたね。
さて、これから三年間年末の楽しみになるんでしょうけど、長いなぁ。
事故や病気なく三年間見られるといいなぁ。
見たらこれやりたくなりますよねー。
多分。

それではまた。
- 2009/11/29(日) 19:42:34|
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録画してみているんですけど、何てこと無いのになんかおもしろい番組です。
「空から日本を見てみよう」
TV東京系で木曜日の夜7時58分から。
公式サイトはこちら→
空から日本を見てみよう飛行船で各地の上空をゆっくり飛びまわりながら、目に付いたものがなんなのかを紹介する番組なんですが、これが意外とおもしろい。
もうすっかり嵌まってます。
録画してみているので一週遅れみたいなものなんですが、紅葉の日光の回を先ほど見ておりました。
華厳の滝なんかも空から見るとおもしろいですねー。
ロープウェーから下を見る映像はよく見ることがあっても、そのロープウェーを上から見る映像はあまり無いのではないでしょうか。
名前の知っている名所旧跡なんかも、空から見るとこう見えるのかーってのが面白いです。
最初は変な番組だなーと思ったんですが、おもしろいですよー。
また、番組のナレーションというか登場するキャラクターに“くもじい”と“くもみ”の雲キャラがでてくるんですが、声をあてている伊武雅刀さんと柳原可奈子さんの掛け合いもおもしろく、楽しい番組になってます。
TV東京系がご覧になれる方はだまされたと思って一度見てみてくださいませ。
きっとだまされたと思うはず。(笑)
いやいや、きっと面白いと思ってくれると思いますよー。
それではまた。
- 2009/11/28(土) 21:13:31|
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ドッペルゲンガーって直訳だと“二重の歩く者”ということなんだそうですね。
と、言うことで、二連装機関銃を積んでいるからということなのですが、第二次大戦前半のドイツ軍にはドッペルワーゲンという連装対空機銃馬車がありました。
第一次世界大戦における航空機の発達で、地上部隊にとって航空機は大いなる脅威の一つとなりました。
そこで、ドイツ軍の場合は基本的には空軍地上部隊の高射砲隊が、陸軍部隊の防空に当たることになるのですが、空軍の高射砲部隊は常にいてくれるわけでもなく、また小部隊の防空にまでは手が回らないこともしばしばであったため、陸軍の防空用兵器というのも必要になってきます。
そういった防空用兵器には、高射機関砲のようなものもありましたが、手っ取り早いものとしては、万能機関銃であったMG34を対空用の銃架にすえつけた対空機関銃が多く利用されました。
その対空機関銃を二連装にして、歩兵部隊の移動に追随できるものにしたものが、専用の馬匹牽引用トレーラーに載せられた対空連装機銃「ドッペルワーゲン」でした。
正式には36型MGドッペルワーゲンと呼ばれ、通常は弾薬車を兼ねた前車と、ドッペルワーゲンそのものである後車の二車で馬に引かせるのが一般的だったようです。
(馬何頭で引っ張ったのかはよくわかりません)
場合によっては自動車で牽引することも、前車無しでドッペルワーゲンだけで馬に引かせることもできたようです。
ドッペルワーゲンは、二輪の専用シャーシに箱型のボディを乗せ、その中にMG34を二連装にした専用対空銃架を載せたもので、対空銃架は一人で操作でき360度回転ができるようなものだったようです。
箱型ボディの脇には銃身命数の少ないMG34用に予備銃身のケースが付いておりました。
また、折りたたみ式の脚が前側に備えられており、それを降ろすことで車体を水平に保てることができたので、置くだけで簡易型の対空銃座として使用することもできたようです。
もちろん二連装とはいえ機関銃では対空射撃能力はたいしたものではありません。
どちらかというと地上での支援射撃に使われた可能性も大きいです。
また、ドイツ軍も大戦中期になれば機械化も進み、対空銃架を自動車に載せてしまうことで馬匹牽引のドッペルワーゲンは使われなくなっていきました。
でも、こういう馬匹牽引の対空車両ってなんか過渡期のようで好きですね。
ドイツ軍以外でもこういう対空馬車ってあったのでしょうかね?
それではまた。
- 2009/11/27(金) 21:49:49|
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現在アドバンスドスコードリーダーのプレイヤー同士でASL-SKリーグが通信対戦で行われております。
私も参加させていただいておりまして、昨晩はbog cat様とASL-SKリーグの第三戦、その二回目を対戦いたしました。
シナリオはS7「PRELUDE TO FESTUNG BREST」です。
町に立て篭もる独軍降下猟兵6個分隊に対し、米軍一線級分隊9個が独軍排除に立ち向かうというものです。
立て篭もる独軍を私が、米軍をbog cat様が担当しました。
序盤から米軍は慎重なる前進を心がけてきます。
前回対戦で街路での損害の多さを考慮してのことでしょうか。
独軍としては米軍の進軍が遅くなるのは、勝利条件的にも有利なので、望むところではあります。
射撃戦はやはり米軍の士気の低さが出てしまい、米軍はコロコロと混乱。
しかし、持ち前の回復力の高さで、ほぼ次ターンには回復してきます。
一方独軍は士気の高さで混乱を回避していくものの、逆に混乱するときはクラス低下や半個分隊への減少など痛い目に・・・
それでも自己回復のピンゾロで6+1指揮官が誕生し、これがいいおとり役のようになってくれました。
最後は私の勝利条件の読み間違いで、米軍の射撃で独軍スタックが混乱してしまうと負けのような状況になりましたが、幸いこちらの防御射撃で米軍スタックがほぼ混乱。
米軍の射撃は功を奏せずに独軍の勝利となりました。
bog cat様、今回は対戦ありがとうございました。
次戦はGoma様とS4シナリオの独軍側での対戦です。
次戦もがんばるぞー。
- 2009/11/26(木) 21:45:29|
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三種類の試作車が完成したのは1939年8月でした。
翌9月にはクビンカで試験が始まります。
試作車で一番重かったのがT-100の重量58トンでした。
SMKはそれよりはやや軽い55トン。
KVは砲塔が一つしかないおかげで、車体の長さも短くすみ47トンでした。
クビンカでの試験では、やはりT-100とSMKの二つある砲塔が相互に連携して戦闘を行なうという難しさが指摘され、さらにはT-100にいたってはソ連国内を鉄道輸送するための貨車に重量オーバーで載せられないという問題まで出てきます。
機動性もやはり問題で、単一砲塔のKVがやはりすべての面で優れていることがわかってきたのです。
ちょうどその頃、ソ連ではフィンランドとの間に領土紛争が発生しました。
いわゆる「冬戦争」が始まったのです。
フィンランド軍ががっちりと防御を固める「マンネルハイム線」に対し、この三種類の試作車を投入して、実戦テストをしようというアイディアが持ち上がりました。
マンネルハイム線に対する実戦テストは実際に行なわれ、ここでもKVはほかの二車にたいして優位さを発揮します。
なんとSMKは、ここでフィンランド軍の歩兵突撃で撃破されてしまうほどでした。
やはり多砲塔戦車は実戦ではもはや生き残るのがきびしい存在だったのです。
こうして戦場での実績という誰もが目に見える形でKVの優秀さを知った軍は、T-100及びSMKの開発を中止し、KVを正式に採用します。
ソ連軍重戦車KVシリーズの誕生でした。
そしてマンネルハイム線での戦訓から、陣地突破用の大口径榴弾砲を装備したタイプと、一般的な76ミリ砲装備タイプの二種類が作られることになり、前者をKV-2、後者をKV-1と命名し量産に入りました。
KV-1は当時としては桁外れの重戦車でした。
当時各国の戦車では20ミリから30ミリの厚さが普通だった装甲は、KV-1では車体前面と側面が75ミリ、砲塔前面では90ミリにも達する厚さでした。
これはドイツ対戦車砲の主力である37ミリPAK36では、どこからどの距離で撃っても撃ち抜けないほどの厚さです。
また、三号戦車の42口径50ミリ砲や、四号戦車の24口径75ミリ砲でもよほど当たり所が悪くなければ撃ちぬけません。
まさに装甲の塊でした。
また、主砲も当時としては桁外れでした。
37ミリや45ミリの主砲を搭載した戦車が一般的な中で、KV-1は39口径76ミリ砲を備え、のちにはもっと長砲身の76ミリ砲を搭載します。
当時のドイツ戦車でこの76ミリ砲の直撃に耐える装甲を持つものはありませんでした。
こうして強力な火砲と厚い装甲に囲まれたKV-1はまさに無敵の重戦車でした。
しかし、この重戦車も大きな弱点を持っておりました。
それは脆弱な駆動系でした。
47トンという大重量は、確かにT-100やSMKに比べれば軽いものでした。
機動性という面でもこれら二車に比べれば良好だったのでしょう。
しかし、この重量はトランスミッションやクラッチなどの駆動系に多大な負荷をかけ、非常に多くの故障を発生させる原因となっておりました。
エンジンそのものは高出力のディーゼルエンジンで問題はなかったものの、その動力を伝えるクラッチやトランスミッションが重量に耐えられなかったのです。
結局クラッチやトランスミッションには故障が多発し、また、上手く作動したとしても、その切り替えなどには多大な労力を必要として、「ギアチェンジにはハンマーが必要であった」という話まででるほどの作動の難しさでした。
また、人員の配置や外部視察の問題などもあり、その戦闘力をカタログどおりに発揮するのは難しい戦車でした。
これはKV-1だけの問題ではなく、これの解消にはT-34/85あたりの登場まで待たなくてはなりません。
バルバロッサ作戦でソ連に侵攻したドイツ軍は、そこでT-34/76と並び、このKV-1に出会うことになりました。
この厚い装甲と強力な主砲を持つKV-1はまさにドイツ軍にとっては化け物以外の何者でもありませんでした。
しかし、故障の多さや戦闘のしづらさなどで、多くのKV-1が失われました。
戦闘での損失よりも故障での損失のほうが多かったとも言われます。
結局ソ連軍の主力は使い勝手のいいT-34/76とその発展型のT-34/85になりました。
ですが、故障なく戦場を暴れまわることさえできれば、ドイツ軍がKV-1を撃破することはきわめて困難でした。
ついには高射砲兵に頼んで、あの88ミリ高射砲を持ってくるしかなかったのです。
KV-1はその後さらなる装甲の増強などに努めたあと、SU-152自走砲のベースとなり、IS重戦車シリーズへとその系譜を引き継がれていきます。
おそらくソ連を代表する重戦車として、今後も長く語り継がれることでしょう。
それではまた。
- 2009/11/25(水) 21:35:46|
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第一次世界大戦で産声を上げた戦車は、一時期巨大な車体に多くの砲塔を載せた陸上戦艦とも言うべき多砲塔戦車へと発展して行きます。
その究極とも言うべきものが、ソ連で少数ながら量産されたT-35多砲塔戦車になるのですが、やはり巨大な車体に五つもの砲塔を載せたT-35は重量も重く、装甲を薄めに抑えないと動かすことができない代物になってしまいます。
T-35はそれでも当時の戦車にしては重装甲の部類だったのですが、1936年に始まったスペイン内戦において、ソ連が派遣したBT-5やT-26といった戦車が対戦車砲に簡単に撃破されてしまったことを知り、ソ連にとって戦車の装甲の増強が急務となってきます。
そこでソ連は、装甲を強化した重戦車の開発をボリシェビーク工場設計局のバルィコフと、キーロフスキー工場第二設計局のコーチンの二名の技師に命じました。
早速両工場では新型重戦車の設計に着手し、ボリシェビーク工場ではT-100という名称で、キーロフスキー工場では工場の名称の元となったセルゲイ・ミロノビッチ・キーロフの頭文字からSMKという名称で設計案を提出しました。
この二つの設計案は、ともにT-35多砲塔戦車の流れを汲むもので、いわば砲塔を一つ二つ少なくし、装甲をその分強化した多砲塔戦車でした。
これは軍の指示によるものではありましたが、そのために両設計技師は冷や汗をかくことになります。
1938年、T-100とSMKの実物大模型がソ連の最高権力者スターリンに披露されました。
いずれも三つの砲塔を前後にピラミッド状に配置した新型重戦車の模型は、スターリンに感銘を与えるはずでした。
しかし、スターリンは新型重戦車が三つも砲塔を持っていることに不満でした。
すでに多砲塔戦車の限界を見切っていたスターリンは、使い勝手の悪い多砲塔戦車をさらに作ろうとする意義を見出すことはできなかったのです。
新型重戦車の模型のお披露目が終わった後、スターリンはキーロフスキー工場のコーチン技師を呼びつけました。
スターリンはそこで、コーチン技師に、戦車に砲塔を三つも載せる必要があるのかと問いただします。
コーチン技師は武装強化のためと答えましたが、それに対しスターリンは首を傾げてこう言ったといわれます。
「どうして戦車を“ミュールとメリリズ”にするのかわからない・・・」
“ミュールとメリリズ”とは、帝政時代の古い百貨店で、スターリンの言葉は言外に百貨店のように何でもつければいいというものではないという意味と、古めかしいのではないかという意味があったのだといわれます。
さらにスターリンはこう言いました。
「(小さい)砲塔を一つはずすとどれぐらい軽くなるものかね?」
「・・・・・・三トンです」
コーチン技師は青ざめました。
最高権力者が多砲塔戦車など望んではいないことを知ったのです。
すぐにSMKとT-100からは砲塔が一つはずされ、前に45ミリ砲の砲塔、中央に76ミリ砲の砲塔を載せた二砲塔戦車として設計をやり直しました。
スターリンの前で冷や汗をかいたコーチン技師は、ここでさらに保険をかけました。
軍の要求とは異なりますが、砲塔を76ミリ砲の砲塔一つだけにした新型重戦車も設計したのです。
おそらく砲塔二つでもまだ“ミュールとメリリズ”だと言われることを避けようとしたのかもしれません。
コーチン技師は、この砲塔一つの新型重戦車に、自分の義理の父親でスターリンの大のお気に入りであるクリメンティ・ヴォロシーロフの名を使わせてもらい、その頭文字からKV(ロシア語ではKBなのですが、ここでは通常言われるKVで通します)と名付けました。
こうしてボリシェビーク工場からは二砲塔型のT-100が、キーロフスキー工場からは二砲塔型のSMKと単一砲塔型のKVの三種類の設計が届けられました。
軍は最初キーロフスキー工場が勝手に提出した軍の要求に沿わないKVに関心を払いませんでしたが、やはりこれに反応したのはスターリンでした。
スターリンは単一砲塔型のKVに興味を示し、結局三種類すべての試作車を造ることが決定したのです。
つづく
- 2009/11/24(火) 21:13:13|
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ココロ、見ちゃいました。舞方雅人さんのベッドの下に皆様が隠してあるのを……
*このエントリは、
ブログペットのココロが書いてます♪
- 2009/11/24(火) 08:28:53|
- ココロの日記
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昨日床屋さんに行ってきました。
いつも行っている床屋さんでして、なんと私が小学生のときからお世話になっている床屋さんなんですが、途中地元を離れたときなども含め、今でもお世話になっている床屋さんなのです。
考えてみれば40年近く?
私が小学生の時にはそこの親父さんが頭を刈ってくれ、その後は娘婿さんが刈ってくれていたのですが、昨日はついに孫娘さんが私の頭を刈ってくれました。
親子孫三代に渡ってお世話になっているんだなぁ・・・
いまさらながらびっくりだ。
まあ、それだけ長く生きてきたんだなぁということを思い知った昨日でした。
今日はこんなもので。
それではまた。
- 2009/11/23(月) 20:26:56|
- 日常
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今日は札幌で北海道日本ハムファイターズのパ・リーグ優勝記念パレードが行なわれました。
何でも沿道に11万人も押し寄せたとのことで、すっかり北海道の“おらがチーム”に定着したんだなぁと思います。
もっとも、これもある程度の強さがあるからだと思うので、来期以降も日本ハムにはがんばって欲しいですね。
そういえばFA宣言をして、納会以後は関わらないとか言っていた藤井投手がしっかり出てましたのには、思わず笑ってしまいました。
お声がかかってないようですが、来期どこかで活躍できることを願っております。
日本ハムに残留という目はあるんだろうか。
そういえばオリックスが阪神の矢野選手に目をつけているとか。
城島選手の加入で出場機会が減少する矢野選手としては、活躍の場を求めてオリックスへというのもあるかもしれないですね。
今日は床屋の帰りに札幌歴史ゲーム友の会に顔出ししてきましたけど、やっぱり趣味の仲間と会うのはいいものですよね。
ゲームはしませんでしたが、ちょこっと話をして帰ってきました。
今日はこんなところで。
それではまた。
- 2009/11/22(日) 19:21:31|
- スポーツ
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第二次世界大戦中、太平洋及び大西洋で活躍した対潜哨戒飛行艇カタリナ。
このカタリナのことは以前当ブログの
記事でも触れました。
(記事のところをクリックするとそのページに飛べます)
このカタリナ、無論名だたる名機ですが、原型機の初飛行が1935年と当時としてもすでに新型機ではありませんでした。
そこでアメリカは、早晩このカタリナも陳腐化するであろうと見越し、新型対潜哨戒飛行艇の開発を命じます。
開発に携わったのはマーチン社でした。
マーチン社はアメリカ軍の要求に対し、すぐさま原型機を作らずに、まずは単座の小型飛行艇を作ります。
この単座飛行艇は将来開発する予定の対潜哨戒飛行艇の約四分の一の大きさに作られており、いわば縮小モデルでした。
この縮小モデルによって不具合が無いか検討し、実際の原型機を作るのです。
この方法はうまく行き、縮小型でのテストに満足したアメリカ軍はゴーサインを出します。
こうして実際の原型機が1939年に初飛行を行ないました。
出来上がった機体はガルウィングと呼ばれる一度少し上側に伸びてからやや下に伸びる翼を持ち、尾翼も水平尾翼の先に垂直尾翼がハの字型につくというちょっと変わった形の機体でした。
何よりも特殊なのは、普通は胴体下部に設けるはずの爆弾倉を、双発のエンジンのカバーとも言うべきエンジンナセルの部分に設けたことで、爆弾倉が左右にあることになったのです。

量産が開始された新型対潜哨戒飛行艇は、マーチンPBMという形式が与えられ、「マリナー」という愛称で呼ばれることになりました。
アメリカ海軍ではこのマリナーを、対潜哨戒や海上救難用として配備し、英国など同盟国にも供与することにいたします。
しかし、マリナーにはあまりにも優秀な先達がおりました。
カタリナです。
決して突出した高性能機ではなかったカタリナですが、使いよさや万能さで対潜哨戒飛行艇のベストセラーになっていたのです。
マリナーはもちろんカタリナに勝るとも劣らない優秀な対潜哨戒飛行艇でした。
後期型では爆弾など3600キログラムも搭載できたのです。
カタリナより優れる部分も多々ありました。
ですが、カタリナの万能性に対するには役者不足でした。
カタリナを押しのけてマリナーに置き換えるにはカタリナは便利すぎたのです。
結局マリナーはカタリナの後継にはなれませんでした。
もちろんマリナーは優秀な対潜哨戒飛行艇でしたので、大西洋ではUボート狩りなどに活躍します。
数もカタリナほどではないにせよ、1400機ほどが作られました。
とはいえ、やはりカタリナに比べると陰が薄い存在でした。
英軍あたりに供与されたマリナーは、ほとんど前線に出ることはなかったといいます。
あまりにも優秀な先達のために日陰に追いやられてしまったマリナー。
性能は悪くなかったんですが、めぐり合わせが悪かったのかもしれませんね。
それではまた。
- 2009/11/21(土) 21:14:28|
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航空母艦を発着する艦上機ばかりでなく、陸上基地を発着する陸上攻撃機などを整備していた日本海軍は、その陸上基地の防空も考えなくてはなりませんでした。
通常状況が許すのであれば、本来は陸軍航空隊や空軍の防空戦闘機や迎撃機を共通機種として導入するのがいいのでしょうが、何につけ陸軍装備の導入に反対してきた海軍は、ここでも自前の防空戦闘機の開発に着手します。
この防空戦闘機のことを、陸上基地周辺の局限された地域しか守らないという建前から、海軍では局地戦闘機と呼びました。
昭和14年(1939年)、海軍はこの新型局地戦闘機の開発を零戦を開発した三菱に依頼します。
三菱では零戦の生みの親である堀越技師を中心にこの新型局地戦闘機の開発に取り掛かりました。
局地戦闘機は述べたとおり防空戦闘機です。
その任務は、味方航空基地を襲撃に来る敵爆撃機の迎撃です。
そのため、敵爆撃機の飛ぶ高度にすぐに到達する上昇力、敵爆撃機の速度に追いつける速度性能、敵爆撃機を短時間で撃墜できる大火力が重要でした。
このうち速度性能と上昇力を満たすには、小型軽量で大馬力のエンジンが必要でした。
しかし、当時の日本にはそのような小型で大馬力のエンジンはありませんでした。
そこで三菱は、自社の一式陸上攻撃機で使用している大型大馬力エンジン「火星」を使ってこの問題を解決しようと考えます。
ですが、火星エンジンは大馬力ではあるものの大型で、戦闘機の機首に据えつけるには太すぎました。
堀越技師らは、この問題をエンジン位置の変更で解決しようと試みます。
なんと、この火星エンジンを胴体中心近くに持っていき、その前後を細くする紡錘系で機体を作ることにしたのです。
胴体全長のうち、前から約40%ほども中心に寄った位置、そこが火星エンジンの置き場所でした。
当然機首先端でプロペラを回すためには、エンジンの回転を伝えるシャフトを伸ばさなくてはなりません。
また空気抵抗を考えて先端を絞ったため、先端から入ってくるエンジン冷却のために必要な空気も量が少なくなることが予想されたので、強制冷却ファンも取り付けることになりました。
こうして完成した試作機は、十四試局戦としてテストを受けましたが、残念ながら海軍の要求を満たすことはできませんでした。
三菱はエンジン出力のさらなる向上のために水エタノール噴射装置を導入するなどして改良に努めます。
太平洋戦争が始まった翌年の昭和17年(1942年)10月には、改良された十四試局戦改が試験に望みます。
ここでようやく海軍の要求をほぼ満たすことができましたが、機体そのものに振動が起きるなどまだまだ改良が必要でした。
結局さまざまな問題が噴出し、それらが一応の解決を見たのは昭和18年になってからでした。
太平洋戦争も三年目に入っていたのです。
ようやく量産が開始された十四試局戦は、正式名称「雷電」と名付けられました。
雷電は初期型で20ミリ機銃2丁と7.7ミリ機銃2丁を装備しておりましたが、その後20ミリ機銃4丁へと武装を強化されます。
海軍はこの新型局地戦闘機に大いに期待しておりました。
零戦に変わる主力戦闘機として大量生産を行い、零戦は順次生産を終了する計画ですらありました。
しかし、前線に配備された雷電は、エンジン位置によるコクピットからの前下方視界の悪さなどから、パイロットには不評でした。
また、実用化までに多くの月日を使ってしまい、海軍は雷電に主力戦闘機を任せることはできなくなっておりました。
結局雷電は同じ局地戦闘機の「紫電改」の補助としての役割しか与えられず、約600機ほどの少数生産にとどまりました。
ですが、昭和20年(1945年)の本土防空戦においては、防空戦闘機として開発された能力を発揮し、B-29迎撃に大いに奮闘いたしました。
防空戦闘機としての能力は決して低くはなかったのです。
日本軍軍用機の宿命としてエンジンさえ恵まれればとはよく聞く話ですが、この雷電もまたエンジンに泣かされた戦闘機だったのかもしれません。
それではまた。
- 2009/11/20(金) 21:28:01|
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そういえば昨日11月18日は、68年前の1941年に北アフリカ戦線で英軍の攻勢作戦「クルセイダー」が発動された日だったんですね。
前年の1940年に始まった第二次世界大戦北アフリカでの戦いは、イタリア軍が準備不足のまま英軍と戦闘に入ってしまい、英軍に追い散らされるという体たらくになってしまったところを、イタリアの脱落を危惧したヒトラー総統がドイツ軍を派遣したことで攻守が逆転。
「砂漠の狐」ことロンメル将軍率いるドイツ軍北アフリカ派遣部隊(のちのドイツアフリカ軍団)によって、英軍は要衝トブルクを包囲されてしまうという状態に陥ります。
この包囲されたトブルクを何とか救出しようとして行なわれた作戦の一つが、「クルセイダー作戦」でした。
英軍の攻勢から始まるこの「クルセイダー作戦」は、その後の独軍の反撃とあわせていかにも砂漠戦らしい流動的な展開を見せるため、今までにいくつものシミュレーションウォーゲームが出ています。
その中の一つが、かつてエポック社から出版されておりました「砂漠の狐」でした。

これが箱絵。
ちなみにこのゲームが扱うクルセイダー作戦の頃には、四号戦車の長砲身型はアフリカにはなかったはずですねぇ。
見栄え的には仕方ないのでしょうけど・・・
このゲーム、今でこそエポッククラシックスと呼ばれる古いゲームになってしまいましたが、近々再販の予定もあるなど、まだまだ楽しめるゲームです。
ダミーユニットを使うため、マップ上に置かれたユニットからはどこに敵主力がいるのかわからず、まずは探りあいとなり、それから主力がぶつかり合うような展開になるようで、対人対戦では手に汗握ること請け合いです。
欠点としてはそのダミーシステムが一人プレイ(ソロプレイ)をしづらくさせており、対人でないとおもしろさがわからないために手が出しづらいゲームだったかもしれません。
私自身もソロプレイがしづらいことから、手に入れてから20年以上もプレイしたことがなく、ようやく昨年サッポロ辺境伯様と対戦にこぎつけたという次第。
やはりゲームは人と対戦してナンボなんですよねー。
日本はもう寒い時期ですが、木枯らしの吹きすさぶ外をよそにぬくぬくの家の中で、熱砂の北アフリカ戦もいいものかもしれません。
また久しぶりに対戦したいなぁ。
それではまた。
- 2009/11/19(木) 21:39:42|
- ウォーゲーム
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190万ヒット記念というわけではありませんが、以前途中まで書いて放置してあった短編に加筆したものを投下します。
だいぶ昔にMACXE'S様に投下したものと似たようなもので、シチュ切り出しのみの短編ですが、お楽しみいただければうれしいです。
ではではどうぞ。
「ママ! ママ! 目を覚まして!」
私はがっちりと固定された両手を何とかして振りほどこうとするけど、手首を金具で締め付けられて動かせない。
「無駄だ、フェアリーナは気を失っている。それにお前の声はあのカプセルには届かない」
磔にした私の横で、筋肉質の巨体で腕組みをしている大男がくぐもった声で笑う。
悔しい・・・
悔しいよぉ・・・
私が・・・
私が捕まったばっかりに・・・
「ママ・・・」
私の頬を涙が伝う。
私の目の前には、捕らわれてカプセルに入れられてしまったママの姿がある。
ピンクと白のレオタードに身を包み、ぐったりとうなだれて閉じ込められているのだ。
「ククク・・・もっと早く気付けばよかったな。まさかフェアリーナに娘がいたとは」
「ママをどうするつもり?」
私は男をにらみつける。
灰色の皮膚をした大男は真っ赤な口から牙をむき出し、金色の目で私を見た。
この大男こそ、ギガーズのガオラー将軍なのだ。
地球征服をたくらむギガーズ。
ママは正義の使徒フェアリーナとして、ギガーズの野望を打ち砕こうと戦っていたのだ。
でも・・・
私が油断したばかりに・・・
私が親友とは言え奈美恵(なみえ)ちゃんにママのことを言ったばかりに・・・
まさか奈美恵ちゃんがガオラーに利用されていたなんて・・・
「ククク・・・心配はいらん。これからフェアリーナには我がギガーズの考えを植えつけてやる」
「えっ? それはどういう?」
私は思わずママの方に目を向ける。
カプセルに閉じ込められたママの上から、何かお椀のようなものが下りて来るのが私には見えた。
「あれは何? ママに何をするの?」
「ククク・・・あれはお前の友達にも使用した洗脳装置だ。あれでお前のママにギガーズの思考を植え付けてやる」
ええっ?
洗脳?
ママを洗脳するの?
そんな・・・
「やめて! お願いだからやめて!」
私は必死に手足をばたつかせる。
でも、拘束された手足はまったく自由になってくれない。
「お願いだからやめてー」
カプセルの中でぐったりしているママの頭にお椀がかぶせられる。
そのちょっとした衝撃でママの目が開いた。
「ママ! ママ!」
私は必死にママを呼ぶ。
何とかして逃げてもらわなきゃ。
「ククク・・・では始めるとしよう」
ガオラーが含み笑いを漏らすと、手元のスイッチを入れる。
「ああ・・・ママァーーー」
私の目の前でママの躰が跳ねる。
カプセルに入れられたママの躰は、全身に激痛が走っているかのようにビクビクと跳ねている。
私にはどうすることもできない。
ただママが耐えてくれることを祈ることしかできない。
「ママ・・・」
「ククク・・・もうすぐだ。もうすぐお前のママはギガーズの思考に染まるのだ」
「お願い、やめて。何でもする。何でもするから・・・」
私はもうどうなってもよかった。
ママが苦しんでいるのを見ていられないよ・・・
お願い・・・
やめさせて・・・
やがてママの躰は跳ねるのをやめた。
カプセルの中で小刻みに震え、やがてそれすらも静まって行く。
「ククク・・・終わったようだな」
終わった?
ママは?
ママはどうなったの?
ママの頭に被さっていたお椀がはずれ、ママを閉じ込めていたカプセルも持ち上がって行く。
カプセルから出たママは、うつむいていた顔をすっと上げると、今まで私が見たこともないような笑みを浮かべた。
「ママ・・・」
それはすごく冷たく、すごく妖艶な笑み。
私はその笑みにぞっとするものを感じた。
「ククク・・・さあ、フェアリーナよ、来るがいい」
ガオラーがママを呼ぶ。
来るはずがない。
ママがガオラーに呼ばれて来るはずがない。
そうだよね? ママ。
「はい、ガオラー様。うふふ・・・」
ああ・・・そんな・・・
ママはすごくいやらしい笑みを浮かべる。
そして、ガオラーに誘われるままに歩き出す。
「ママ・・・」
私は目をそらすしかできなかった。
「ククク・・・気分はどうかな? フェアリーナ」
「はい。とてもいい気分ですわ。今までギガーズに反抗していたのがバカみたい」
ママの甘ったれたようなうっとりした声が私の耳に聞こえてくる。
ママ・・・
ママはもう正義の使徒ではなくなっちゃったの?
ママ・・・
「ククク・・・いい女だ。たっぷりとかわいがってやるぞ」
「はあん・・・ガオラー様ぁ」
「だめぇっ!」
私は思わず叫んでいた。
「だめぇっ! ママだめぇっ!」
「まあ、うふふ・・・この娘ったら何を言い出すの?」
ガオラーの腕を腰に当てたまま、ママは私の方に顔を向ける。
「ガオラー様はギガーズにとって重要なお方。そのようなお方に可愛がってもらえるのは女としての喜びだわ」
ぺろりと舌なめずりをするママ。
それがすごくいやらしい仕草に感じて、思わず私は目をそらしてしまった。
「クククク・・・待っていろ。フェアリーナ、いや、今はダークフェアリーナとなったお前のママと楽しんだあと、おまえにも我がギガーズの思考を植え付けてやる」
ママの腰に手を回したまま、ガオラーはいやらしく笑っていた。
「ああ・・・ガオラー様、それが私の新しい名前なのですね。うれしいですわぁ。私はダークフェアリーナ。ギガーズの忠実なしもべですわぁ」
すごくうれしそうなママ。
本当にギガーズの思考に染まっちゃったんだ・・・
私はすごく悲しくなった。
******
かつかつと足音が響いてくる。
磔にされた私の前に姿を現したのはママだった。
でも、それは先ほどまでのママじゃなかった。
ピンクと白のレオタードのフェアリーナの衣装ではなく、黒光りするエナメルのボンデージがママの躰を覆っている。
両手には黒い長手袋を嵌め、足にはハイヒールのブーツを履いていた。
そして腰にはベルト代わりのチェーンを巻きつけ、髑髏の模様のサークレットまで嵌めている。
私は目をそらした。
もうママはママじゃなくなっちゃったんだ。
正義のヒロインフェアリーナはもういない。
今ここにいるのは、ギガーズのダークフェアリーナなんだ・・・
「クククク・・・どうだ、ママの姿は?」
ママの背後から現れるガオラー。
「素敵だろう。まさにギガーズの女戦士にふさわしい」
「とても気に入りましたわ。これこそ私にふさわしい衣装。あんな白とピンクの衣装なんてもう着たくありません」
「ママ・・・」
私は何もいえなかった。
唇を真っ赤に塗り、アイシャドウをつけたママはとてもいやらしい。
ガオラーに寄り添うママなんて見たくないよ。
「さて、お前にもギガーズの思考を植え付けてやろう」
「うふふふ・・・よかったわね鮎美(あゆみ)。あなたもギガーズの一員になれるのよ」
磔になった私の頭の上から、ママにかぶさったものと同じようなお椀が降りてくる。
「やだやだ助けてー!」
私は必死に首を振って、何とかお椀を避けようとした。
「おとなしくなさい! ギガーズの一員になれるのは名誉なことなのよ」
「クククク・・・心配はいらん。すぐにお前もギガーズの思考によって忠実なしもべになるのだ」
ガオラーもママも冷たい笑みを浮かべている。
あんな笑みを浮かべるママじゃなかったのに・・・
「いやーっ!」
何とか逃れようとした私だったけど、お椀のようなものは私の頭にすっぽりとかぶさってしまう。
それをただ黙って見ているママとガオラー。
ママのあまりの変わりように、私はすごく悲しくなった。
「キャーッ!」
躰に電気が走る。
まるで頭の中をかき混ぜられるみたい。
手足を固定されている私は、どうしようもなく激痛に翻弄されるだけ。
あまりの衝撃に何も考えることができない。
誰か助けて。
ギガーズギガーズギガーズ・・・
頭の中で繰り返される言葉。
やめてー!
私は必死で首を振る。
ギガーズなんかいやだー!
ギガーズの一員になんかなりたくないよぉ。
ギガーズギガーズギガーズ・・・
ギガーズこそがすべて。
ギガーズに歯向かう者には死を。
ギガーズに支配されることこそが幸せ。
ギガーズギガーズギガーズ・・・
私はギガーズの一員。
栄光あるギガーズのしもべ。
ギガーズに忠誠を。
私はギガーズのしもべ。
ギガーズギガーズギガーズ・・・
頭の中で繰り返される言葉。
栄光ある組織の名称。
その名を称え、その名に従うことこそ私の喜び。
私はギガーズの忠実なるしもべ。
私の頭からお椀型の機械が取り除かれる。
ああ・・・とても気持ちがいいよ・・・
なんてすばらしいんだろう。
栄光あるギガーズの一員に選ばれたんだ。
うれしいよぉ・・・
両手と両脚の枷がはずされる。
私はすぐにガオラー様とダークフェアリーナ様にひざまずいた。
「私はギガーズの忠実なるしもべ。どうぞ何なりとご命令を」
私はそう言って顔を上げる。
お二人が満足そうに私を見下ろしているのがとてもうれしい。
「うふふふ・・・お前はこれより我がギガーズの工作員として行動するのです。お前や奈美恵のような少女には誰もが油断するはず。ギガーズに歯向かう者に死を」
ダークフェアリーナ様の命が下る。
「ハッ、かしこまりましたダークフェアリーナ様」
私は任務の重要性に身が引き締まった。
これからは奈美恵ちゃんといっしょにギガーズのために働くのだ。
私はギガーズの一員となった満足感に包まれていた。
END
- 2009/11/18(水) 21:38:25|
- 女幹部・戦闘員化系SS
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ウマイタ要塞の陥落によってパラグアイ川の玄関は開きました。
三国同盟軍はここからパラグアイの首都アスンシオン目指して北上を開始します。
ソラーノ・ロペス大統領はやむを得ず、パラグアイ軍を首都の南35キロの地点にあるピキシリ川沿いに展開。
ここを最終防衛線として徹底抗戦をする構えを見せました。
相次ぐ戦いで、すでにパラグアイ軍はぼろぼろの状態でした。
成年男子はおろか、老人子供までもが前線に駆りだされておりました。
そうしてかき集めた1万3千の兵力で、何とか三国同盟軍を迎え撃つつもりだったのです。
一方三国同盟軍も、主力であるブラジル軍は別として、アルゼンチンとウルグアイの兵力は減少しておりました。
三国同盟軍はピキシリ川の防衛線に直接攻撃を仕掛けることは得策ではないと判断し、パラグアイ川の対岸であるアルゼンチン領のチャコ地方を進撃。
ピキシリ川のラインを迂回して背後に回ります。
その数約3万8千。
彼らはアスンシオンの手前のサンアントニオで再びパラグアイ川を渡河し、パラグアイ領に入ります。
もはやパラグアイ川の交通は三国同盟軍の自由でした。
サンアントニオを占領した三国同盟軍は、本隊をアスンシオンに向けるとともに、1万8千の支隊を南下させてピキシリ川の背後からパラグアイ軍を襲わせます。
パラグアイ軍は3500の兵力でこれを迎え撃ちますが、やはり多勢に無勢、パラグアイ軍は後退を余儀なくされました。
ソラーノ・ロペス大統領は増援を合わせて約4000の兵力で再び三国同盟軍に挑みます。
パラグアイ軍は決死の覚悟で挑み、自殺的な切り込み攻撃を行ないましたが、三国同盟軍の前に完敗。
パラグアイ軍約4000はほぼ全滅だったといわれます。
1868年12月末、アスンシオン南方のイタ・イパテでは七日間の激しい攻防戦が行なわれました。
約600人の女性までもが戦いに参加したというパラグアイ軍でしたが、この戦いでもまた三国同盟軍に敗退し、約8000もの死傷者を出したといわれます。
ほぼ全滅したパラグアイ軍にあって、ソラーノ・ロペス大統領は約60人ほどの部下とともに戦場を離脱。
三国同盟軍側も約4000もの死傷者を出したことから、これを追うことができず、翌年1月1日にパラグアイの首都アスンシオンに入るのが精いっぱいでした。
三国同盟軍はアスンシオンに臨時民主政府を樹立。
しかし、戦争はまだ終わりません。
アスンシオンの東にある山岳地帯に逃げ込んだソラーノ・ロペス大統領は、ピリベブイに首都を移しさらなる抵抗を続けます。
もはや老若男女かまわずに新軍を編成したパラグアイ軍は、ただの武装し飢えた民衆にほかなりませんでした。
騎兵は馬を持たず、歩兵は靴さえなく、武器も刀剣や斧という状態でした。
それでもソラーノ・ロペス大統領は戦いを続けました。
大統領夫人のエリサも軍服をまとって夫のそばで励ましたといいます。
三国同盟軍との小競り合いが続き、1869年8月には新たな首都ピリベブイすらも追われたパラグアイ軍でしたが、8月16日に最後の組織的抵抗といわれるアコスタ・ニューの戦いが起こります。
撤退するソラーノ・ロペス大統領の小部隊を守るため、パラグアイ軍約3500が追撃してきたブラジル軍約2万を迎え撃ったのです。
パラグアイ軍のほとんどは少年兵でした。
多くは九歳から十五歳。
中には六歳から八歳という子もいたといいます。
成人兵はわずか500人に過ぎなかったそうです。
彼らは勇敢に戦いました。
ソラーノ・ロペス大統領を無事に脱出させることに成功したのです。
代償は彼らの全滅でした。
戦闘終了後、戦場には我が子の遺体を抱く母親たちの泣き声で覆われたといいます。
これほどの悲劇を起こしながらもソラーノ・ロペス大統領は戦い続けました。
さらに半年の間戦い続け、1870年2月、ついに北部山岳地帯にまで追い詰められてしまいます。
付き従うものわずかに400名ほどとなっておりました。
ここでソラーノ・ロペス大統領は最後の叙勲式を行なったといいます。
生き残ったものたちに手作りの粗末な勲章を与え、士気を高めました。
1870年3月1日。
ブラジル軍の攻撃が始まります。
生き残った者たちが次々と倒れていくなか、ソラーノ・ロペス大統領も自ら戦い、ついにここで戦死します。
十五歳の息子も戦死し、妻エリサと幼い幼児だけが生き残りました。
ソラーノ・ロペス大統領が戦死したことで、ようやく「三国同盟戦争」は終わりを告げました。
実に五年にわたった戦争は、参加したどの国も悲惨な戦争でした。
勝者となったブラジルでしたが、5万人近い死傷者を出し、軍部の発言力が強まりました。
また戦費を英国に借りたため、いっそう英国に対する従属度が高まりました。
そうしたことが組み合わさり、ついにブラジルは1889年に帝政が崩壊することになります。
アルゼンチンは国内を統一できたものの、やはり英国に対する従属度が深まりました。
ソラーノ・ロペスとの密約がありながらも立ち上がらなかったウルキーサは、この戦争を通じて軍需物資を売り財を成しましたが、結局そのことで顰蹙を買い暗殺されました。
ウルグアイは緩衝国が必要と再認識したブラジルとアルゼンチンにより、以後の両国からの干渉は少なくなっていきますが、やはり何も得るものはありませんでした。
コロラド党とブランコ党の両党による政情不安も解消されず、二十世紀にまで続くことになります。
最大の被害はパラグアイでした。
国家の存続は認められたものの、領土の約四分の一をブラジルとアルゼンチンに割譲しなければなりませんでした。
土地もアルゼンチンの地主によって買い占められるなどし、英国からも借款を押し付けられるなど、経済的には英国とアルゼンチン、政治的にはブラジルの影響力が強まりました。
何よりも大きかったのは人口の減少でした。
パラグアイはこの戦争で本当に多くの国民を失いました。
ある統計によれば、戦前の人口が52万5千人に対し、戦後の人口は半数以下の21万1千に過ぎなかったといいます。
なかでも成人男性にいたっては2万6千ほどしか残らなかったという資料もあり、まさに全滅に近かったといえるでしょう。
以後パラグアイでは労働力の中心が女性となり、今でも女性が世帯主として登録される習慣が一部では残っているそうです。
このように政治、経済、国土、人口の全てが荒廃してしまったパラグアイは、その後一世紀以上を経た今日でも完全には傷が癒えていないといわれます。
まさに南米最大最悪の戦争だったといえるのではないでしょうか。
戦後、ソラーノ・ロペス大統領に対するパラグアイ国民の評価はきびしいものでした。
国を破滅させた責任者として非難されたのです。
しかし、評価は時とともに移り変わり、今ではソラーノ・ロペス大統領は、現職大統領が最後まで戦って戦死した史上でもおそらく唯一の例として愛国者としてたたえられているといいます。
今日、この四ヶ国が南米共同市場を発足させ、各分野での協力を推進させるなど友好関係を発展させていることなどもあわせると、「三国同盟戦争」ははるか過去の出来事になってしまったのだと思います。
三国同盟戦争 終
参考文献
「歴史群像 2000年春夏号 パラグアイ戦争」 学研
参考サイト
Wikipedia 三国同盟戦争 パラグアイ ウルグアイ ブラジル アルゼンチン
元老院議員施設資料展示館 パラグアイ戦争
など
日本ではなじみの無い戦争でしたがいかがでしたでしょう。
今回もお付き合いいただきありがとうございました。
- 2009/11/17(火) 21:46:29|
- 三国同盟戦争
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パラグアイのソラーノ・ロペス大統領と三国同盟軍司令官ミトレとの間に和平交渉が行われている間にも、次の戦いへの布石は行なわれておりました。
三国同盟軍は1866年9月初旬には、パラグアイ軍2500の守るパラグアイ川に面するクルス砲台を約1万4千の兵力で攻撃。
この時ブラジル河川艦隊の新鋭戦闘艦「リオ・デ・ジャネイロ」が、仕掛けられていた機雷に触れて沈没するという痛手をこうむったものの、クルス砲台を占領します。
下旬にはクルス砲台の上流側にあるクルパイティ砲台を2万の兵力で攻撃。
しかし、クルパイティ砲台は和平会談の間に防御が強化されており、三国同盟軍はここで手痛い敗北を喫します。
約9千もの死傷者を出しながらクルパイティ砲台を占領できず、三国同盟軍は後退せざるを得ませんでした。
これに対しパラグアイ軍の戦死者はなんとたったの50人ほどだったといわれます。
この大敗北に三国同盟側では司令官が交代します。
アルゼンチンのバルトロメ・ミトレに代わり、ブラジルのカシアス公爵が三国同盟軍の司令官になったのです。
この交代劇にはアルゼンチンの国内事情が関わっておりました。
ソラーノ・ロペス大統領が望んでいたアルゼンチンの国内暴動が起こったのです。
クルパイティ砲台攻撃の失敗で大損害を出したことにより、アルゼンチンではこの戦争に反対する反対派が国内で暴動を起こし始めました。
もともとブエノスアイレスを中心とする中央集権派と各州の地方分権派との対立に、今回の三国同盟戦争の賛成反対が絡み合い、アルゼンチンの内部分裂が表面化したのです。
今回もウルキーサは立ち上がりませんでしたが、ウルキーサの代わりに各州のカウディージョ(人名ではなく地方の政治軍事を掌握した指導者のこと)が立ち上がります。
中でもカタマルカ州のフェリペ・バレーラが中心となり、政府に対抗したのでした。
これに対しアルゼンチンはその軍事力を国内に振り向けざるを得ませんでした。
ソラーノ・ロペス大統領が望んだとおり、以後アルゼンチン軍は三国同盟軍から大きく兵力を撤収することになります。
しかし、長引く戦争はパラグアイを急速に疲弊させていきました。
物資不足が深刻化し、ついに金属供出運動が始まります。
各家庭などから金属を集め、それで大砲を作ったり、敵弾を回収して再生して使うなど、日本の太平洋戦争末期のような状況が現れ始めておりました。
また薬草を集めて医薬品を作ったり、士気高揚のための勲章を各家庭の婦人から集めた宝石で作るなども行なわれたといいます。
一年以上のにらみ合いが続き、1868年2月ごろには三国同盟軍約5万に対し、パラグアイ軍は約1万5千にまで低下しておりました。
この頃三国同盟の一角ウルグアイでも状況が変わります。
ブランコ党から政権を奪取したコロラド党党首のフローレスでしたが、ブランコ党は息の根を止められたわけではなく、再びコロラド党との激しい内戦が起こっておりました。
2月19日には、コロラド党党首フローレスとブランコ党党首ベロが二人とも同じ日に暗殺されるというすさまじさで、ウルグアイはパラグアイとの戦争どころではなくなったのです。
同盟関係の維持からアルゼンチンもウルグアイもパラグアイとの単独講和にはいたりませんでしたが、以後三国同盟軍の中心はブラジル軍へと移行します。
三国同盟戦争はほぼパラグアイ-ブラジル戦争となりました。
アルゼンチンとウルグアイの兵力が少なくなったとはいえ、パラグアイにとっては戦争はきびしい状況のままでした。
同じく2月、ブラジル軍はパラグアイ川ににらみを利かせるパラグアイの重要拠点ウマイタ要塞に対し攻撃を仕掛けます。
河川戦闘艦艇など四十三隻もの艦隊で攻撃するブラジル軍に対し、ウマイタ要塞も必死に防戦を行いブラジル軍を寄せ付けません。
ですが、この戦闘の最中にブラジル軍の河川戦闘艦が三隻、ウマイタ要塞をすり抜けてパラグアイ川をさかのぼります。
この三隻はパラグアイ川岸にあるパラグアイの首都アスンシオンにまでさかのぼり、アスンシオンを砲撃しました。
パラグアイ軍はカヌーで決死隊を送りますが、ブラジル艦には歯が立たず、かえって大きな損害を出してしまいます。
ブラジル艦は砲撃を終えると悠々とパラグアイ川を下って行きました。
このアスンシオン砲撃はソラーノ・ロペス大統領を愕然とさせました。
前線で軍の指揮を取っていた彼は、ただちにアスンシオンの市民と政府を疎開させることを決します。
24時間以内の疎開を命じられたアスンシオン市民は、取るものもとりあえず移動するしかなく、多くは着の身着のままでした。
アスンシオンの東にあるルーケという町に避難した政府と住民は、多くが野外生活を余儀なくされました。
あくまでも戦争を続けるソラーノ・ロペス大統領に対し、パラグアイ内部でも反戦の活動が起こり始めておりました。
しかし、それらの活動はすぐにソラーノ・ロペス大統領の知るところとなり、反戦運動に関わった人々は多くが捕らえられてしまいます。
処刑された人の数だけでも368人といわれ、その中にはソラーノ・ロペス大統領の弟や、二人の義弟までもが含まれておりました。
1868年7月。
一年以上にわたって抵抗してきた重要拠点ウマイタ要塞が、物資欠乏のためについにクルパイティ砲台とともに三国同盟軍に降伏します。
パラグアイ川の門は開きました。
(6)へ
- 2009/11/16(月) 21:39:22|
- 三国同盟戦争
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今週のブログ妖精界でのヒットソングは「ブラのラブソング」みたいです。
*このエントリは、
ブログペットのココロが書いてます♪
- 2009/11/16(月) 10:44:17|
- ココロの日記
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おはようございます。
本日8時51分、
190万ヒットに到達いたしました。
いつもながらこれもひとえに皆様方が当ブログに足をお運びくださいますゆえ。
本当にありがとうございます。
これからもミリタリーネタ、歴史ネタ、ウォーゲームネタ、そしてSSとごった煮なブログを続けていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。
190万ヒット記念新作SSにつきましては、大変申し訳ありませんが少し時間をくださいませ。
「エデンの門番:舞の字版」「魔女剣士ハルカ」と仕上げてのち、まだ取り掛かることができておりません。
どうか今しばらくのご猶予をくださいませ。
近いうちに記念SSとして投下する考えですので。
次はいよいよ200万です。
この調子ですと来年の年明けそうそうに達成できそうです。
これからもよろしくお願いいたします。
- 2009/11/15(日) 09:27:25|
- 記念日
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パラナ川の水上戦闘で、パラグアイ軍は重要な河川制水権を失いました。
このことは、ただちに侵攻中のパラグアイ軍にはね返ります。
8月、ウルグアイ川のアルゼンチン側拠点ヤタイを占領していたパラグアイ軍は、約1万3千の三国同盟軍によって攻撃され、ほぼ壊滅状態に追い込まれます。
またブラジル側のウルグアヤーナを占領していたパラグアイ軍もまた、三国同盟軍に包囲され降伏を余儀なくされてしまいます。
これらはまさに河川制水権の喪失によるものでした。
ここにいたりソラーノ・ロペス大統領は、アルゼンチンやウルグアイ方面に進出していたパラグアイ軍を国内へと引き揚げます。
ヤタイとウルグアヤーナの敗戦で、パラグアイ軍は約2万の精兵を失いました。
電撃的勝利を目論んだソラーノ・ロペス大統領の構想は完全に瓦解したのでした。
ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの三国同盟にとって、同盟の意義は次のようなものでした。
互いに単独ではパラグアイと講和はしないこと。
ソラーノ・ロペス政権の打倒が目的であること。
パラグアイの独立そのものは保障すること。
賠償金と一部領土を割譲させること。
パラグアイ防衛の重要拠点であるウマイタ要塞を破壊すること。
しかし、これらはパラグアイ、特にソラーノ・ロペスにとっては受け入れがたいものでした。
パラグアイはこの戦いが自存自衛のものと認識し、態度を強固にしてしまいます。
河川制水権を失ったパラグアイに対し、三国同盟軍はパラグアイ川沿いに戦線を押し上げ、パラグアイの首都アスンシオンを目指す作戦を取りました。
当時このあたりは鉄道のような輸送機関がなく、軍の移動及び輸送には河川を使うのが有効だったからです。
年が明けて1866年。
ブラジル河川艦隊がパラグアイ川を遡上し、並行して三国同盟の陸軍が川沿いにパラグアイへと向かいました。
その数約5万。
三国同盟も多くの兵力をそろえてきたのです。
それに対しパラグアイ軍は、パラグアイ川とパラナ川の合流点である三角地帯に兵力を集中。
その数約3万をもって三国同盟軍を迎え撃ちます。
要衝パソデパトリアやウマイタ要塞で防衛ラインを敷き、少人数の特別攻撃隊で繰り返し三国同盟軍に夜襲をかけるのがパラグアイ軍の戦術でした。
しかし、この特別攻撃隊の夜襲は思ったほど効果を挙げませんでした。
むしろパラグアイ軍には損害ばかりが増える結果となりました。
4月、ブラジル河川艦隊が援護射撃を行なう中、三国同盟軍はパラナ川を押し渡り、イタビル要塞を奪取。
一部部隊はパソデパトリアの背後にまで回ります。
パラグアイ軍はこの攻撃を支えきれず、ついにパソデパトリアを放棄。
貴重な物資が失われる結果になりました。
パラグアイ軍はパソデパトリアを放棄したものの、その士気はまだ旺盛ですぐ北のトゥユティ付近に展開します。
一方の三国同盟軍もパラグアイ軍に対峙するように展開。
塹壕を掘ってパラグアイ軍の攻撃に備えました。
パラグアイ軍の兵力は約2万5千。
対する三国同盟軍は約4万5千の兵力と圧倒的に三国同盟軍が勝っておりました。
そのためパラグアイ軍は打って出るのではなく、拠点に篭って三国同盟軍を迎え撃ち、機を見て別働隊を三国同盟軍の背後に回りこませて撃破するという作戦を取る予定でした。
おそらくこの作戦のとおりに戦えば、パラグアイ軍は善戦することができたでしょう。
ですが、ソラーノ・ロペス大統領が突然この作戦を放棄します。
そして三国同盟軍の陣地に対して先制攻撃を行なうことにしたのです。
1866年5月20日。
パラグアイ軍は三国同盟軍に対して一斉攻撃に打って出ました。
三国同盟軍は最初はパラグアイ軍の攻撃に驚きましたが、やがて衝撃から立ち直ると、パラグアイ軍に対して反撃を行ないます。
銃砲撃がパラグアイ軍に浴びせられ、湿地帯を進むパラグアイ兵をなぎ倒しました。
騎兵部隊の突撃も歩兵の死兵となっての突撃も三国同盟軍の銃砲撃に倒されました。
この戦いは南米史上もっとも血なまぐさい戦いといわれ、パラグアイ軍は惨敗を喫しました。
戦場に残された遺体だけでも6千を数えたといいます。
三国同盟軍も被害は大きく、死傷者8千名を出しました。
そのため、後退するパラグアイ軍を追撃することはできませんでした。
トゥユティの惨敗から一ヵ月後の6月には、ソラーノ・ロペスの下には約2万の新戦力が集まっておりました。
しかし、それらはすでに以前の精強なパラグアイ軍ではなく、子供や老年兵の多い寄せ集めとなっておりました。
パラグアイ軍は陣地戦を展開して三国同盟軍をどうにか押さえつけておりましたが、このままではジリ貧でした。
そこでソラーノ・ロペス大統領は、9月に三国同盟軍司令官であるアルゼンチンのバルトロメ・ミトレに和平会談を申し入れます。
ですが、三国同盟側とパラグアイ側の間に妥協点は生まれず、和平会談は物別れに終わりました。
戦争はまだ続くことになったのです。
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- 2009/11/14(土) 21:19:15|
- 三国同盟戦争
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ソラーノ・ロペス大統領が考えていたのは、おそらくはウルグアイのブランコ党政府の救援だったでしょう。
ですが、救援が間に合わなかったとしても、コロラド党軍やブラジル軍との戦いに勝利することで、ウルグアイとあわよくばブラジル南部までも占領できると考えていたのかもしれません。
しかし、パラグアイとウルグアイは国境を接してはおりませんでした。
間には回廊のように細長いアルゼンチン領が横たわっていたのです。
パラグアイが軍隊をウルグアイに進めるには、このアルゼンチン領の回廊を横切っていかなくてはなりません。
ソラーノ・ロペス大統領は、アルゼンチンに対しパラグアイ軍の領内通行権を求めました。
もちろんこの領内通行権が認められれば何の問題もありません。
パラグアイ軍は大手を振ってウルグアイ領へ入れるでしょう。
ですが、パラグアイ軍の目的はコロラド党軍の排除です。
コロラド党軍はアルゼンチンによって支援されており、コロラド党軍に敵対するパラグアイ軍をアルゼンチンが通すはずがありません。
当然アルゼンチンはパラグアイ軍の領土通行を拒否するでしょう。
これに対しソラーノ・ロペス大統領はある密約を持っておりました。
アルゼンチン内の反体制派フスト・ホセ・ウルキーサと謀り、領内通行権が拒否された場合にはウルキーサが反政府暴動を起こすことになっていたのです。
ウルキーサの反政府暴動が起きれば、アルゼンチンは国内がごたごたになり、パラグアイ軍はその隙を突いてウルグアイに侵攻する手はずだったのでしょう。
しかし、ウルキーサは動きませんでした。
アルゼンチンが領土通行を拒否してきたにもかかわらず、アルゼンチン国内で暴動は起きなかったのです。
ソラーノ・ロペス大統領は愕然としました。
このままではパラグアイ軍はウルグアイに侵攻できません。
ウルキーサが立ち上がってくれなくては話にならないのです。
思い余ったソラーノ・ロペス大統領は、1865年3月、ついにアルゼンチンに対して宣戦布告を行ないます。
パラグアイ対ブラジル戦争だった今回の戦争に、アルゼンチンが加わりました。
ソラーノ・ロペス大統領は、約1万のパラグアイ軍をアルゼンチンに侵攻させます。
パラグアイはその後も兵力を増強し、約2万の兵力でアルゼンチンのコリエンテス州を制圧。
1865年4月には、州都コリエンテスも占領します。
しかし、ここにいたってもウルキーサは動かず、アルゼンチン国内で暴動は起きませんでした。
同4月、ついにウルグアイで孤立していたブランコ党政府が崩壊。
コロラド党党首のベナンシオ・フローレスがアルゼンチン、ブラジル両国の後ろ盾で政権を奪取します。
コロラド党支配となったウルグアイは、即座にパラグアイに対して宣戦を布告。
とうとうパラグアイは同時に三ヶ国を相手に戦争しなくてはならなくなってしまいました。
1865年5月、南米の目の上のたんこぶパラグアイが窮地に陥っていることをいいことに、英国主導でアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイが三国同盟を結びます。
こうしてこの戦争が「三国同盟戦争」と呼ばれることになりました。
当初の目論見が大幅に狂ったソラーノ・ロペス大統領でしたが、まだまだ速戦速決をあきらめたわけではありませんでした。
精強パラグアイ軍をもって電撃的勝利を目指したのです。
1865年6月、パラグアイ軍はアルゼンチンのコリエンテス州から南進してエントレ・リオス州へと進軍。
さらに別働隊がパラグアイとウルグアイの間にあるアルゼンチンの回廊ミッショネス地方を席巻し、ブラジル領へと進みます。
パラグアイ軍はそのままウルグアイ川に沿って進軍し、ウルグアイ川のブラジル側のウルグアヤーナと、対岸にあるアルゼンチン側のヤタイを占領しました。
しかし、パラグアイが河川装甲戦闘艦を戦争前に手に入れなかったつけがここで回ってきます。
6月11日、パラナ川でパラグアイ河川艦隊とブラジル河川艦隊との間に水上戦が起こったのでした。
パラグアイ河川艦隊は大小合わせて十四隻、一方のブラジル河川艦隊は九隻でした。
数ではパラグアイ軍が優勢ではあるものの、ブラジル軍はそのほとんどが大型の有力艦ばかりでした。
パラグアイ艦隊には有力艦と呼べるのは八隻しかありません。
パラグアイ艦隊は自軍の不利を承知で決戦を挑みました。
夜陰にまぎれて上流から接近し、ブラジル艦隊の脇をすり抜けて下流に出、そこからUターンして再度接近。
接舷戦に持ち込んであわよくばブラジル艦を奪取しようというものです。
ですが、この作戦はパラグアイ軍にあまりにもタイミングのよさを要求しすぎました。
パラグアイ艦隊は上流から下るのに手間取ってしまい、ブラジル艦隊の脇をすり抜けようとしたあたりですでに夜が明け始めてしまったのです。
ブラジル艦隊に発見されてしまったパラグアイ艦隊は、もはや不利な状況で戦うしかありませんでした。
運良く接舷戦に持ち込めそうな艦も、接舷用のフックがなかったり、ブラジル艦の舷側が高すぎたりで接舷戦には持ち込めず、優秀なブラジル艦に各個撃破されてしまうばかりでした。
結果はパラグアイ河川艦隊の大敗でした。
パラグアイは七隻もの河川戦闘艦を失い、ブラジルは一隻損失、一隻大破のみでした。
以後、パラグアイは国土防衛に欠かすことのできない河川制水権を失います。
パラグアイ敗北への第一歩でした。
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- 2009/11/13(金) 21:49:26|
- 三国同盟戦争
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前回も述べましたとおり、もともと南米大陸はポルトガルとスペインの両国による植民地でした。
両国はその植民地支配における勢力争いで世界中で火花を散らしました。
この南米でもそれは例外ではなく、特にポルトガル植民地だったブラジルと、スペイン植民地であったアルゼンチンの間では、勢力争いが激しいものでした。
勢力争いはアルゼンチンやブラジルが宗主国より独立を果たしたのちも続けられ、両国の間にあるバンダ・オリエンタルと呼ばれる現在のウルグアイ地域では、戦争にまで発展いたしました。
結局、ラプラタ川河口の両岸をアルゼンチンが単独支配するのは好ましくないと考えた英国の介入で、バンダ・オリエンタル地域にアルゼンチンとブラジルの緩衝国として「ウルグアイ東方共和国」が成立します。
1828年のことでした。
しかし、緩衝国として成立したウルグアイは、政治的に極めて不安定な状況に陥りました。
国内の二大政党、ブランコ党とコロラド党の二党が、まさに内戦にまで発展するほどの闘争を繰り返すようになってしまったのです。
これにブラジルやアルゼンチン、さらにはフランスや英国の思惑も絡み、ウルグアイは一触即発の状況を引きずり続けたのでした。
ウルグアイの政治的な不安定は、パラナ川及びパラグアイ川の両河川が流れ込むラプラタ川河口の安全性に問題を投げかけます。
ラプラタ川河口が何らかの理由で航行不能となれば、そこを通じて貿易を行なうパラグアイにとっては死活問題になりかねません。
パラグアイとしては、ウルグアイになんとしても安定して欲しいと考えました。
そこでパラグアイのフランシス・ソラーノ・ロペス大統領は、政権を持っていたブランコ党に肩入れし支持します。
一方アルゼンチンは公然とコロラド党を支援し、援助を始めます。
かつてはブランコ党を支持していたブラジルも、コロラド党に鞍替えし、こちらも援助を始めます。
この状況はパラグアイにとっては座視できないものでした。
いまやアルゼンチンとブラジルがコロラド党支持の名の下にウルグアイを分け合おうとしているのです。
ウルグアイの次はパラグアイでしょう。
パラグアイはブラジルに対し、これ以上のウルグアイへの干渉はラプラタ川河口地域の安定を崩すためやめるよう警告します。
さらにはブラジルが干渉を続ける場合、パラグアイは戦争も辞さないとまで訴えました。
パラグアイには開国以来富国強兵で増強してきた軍がありました。
南米最強とも言われるパラグアイ軍の実力をソラーノ・ロペス大統領は頼りにしておりましたし、まさか戦争にまで発展はしないと考えていたのかもしれません。
それに、両国ともウルグアイのコロラド党を支援しているとはいえ、長年の仇敵であるアルゼンチンとブラジルが手を組むとは考えられず、またアルゼンチンもブラジルも国内問題で手一杯だろうとも考えていたといわれます。
しかし、ブラジルはパラグアイの警告を無視しました。
1864年10月。
ブラジル軍がウルグアイに派遣され、コロラド党軍とともにブランコ党政府軍との内戦に参戦したのです。
ブランコ党を支援するパラグアイは腹を決めました。
1864年11月。
パラグアイ川を航行するブラジル船の拿捕に端を発し、ブラジルとの外交関係を断行したパラグアイは、約6000の兵力でブラジルのマット・グロッソ州へと侵攻を開始します。
「三国同盟戦争」の始まりでした。
パラグアイのソラーノ・ロペス大統領は、問題であったウルグアイの内戦に介入するという手段ではなく、直接ブラジルへと攻撃を開始しました。
このため対ブラジルの全面戦争に火をつけてしまったのです。
これはいいやり方とはいえなかったでしょう。
ですが、パラグアイ軍の直接攻撃を予期していなかったのか、12月にはマット・グロッソ州のコインブラやコルンバといった要衝をブラジルは失います。
また同州のかなりの部分を占領され、パラグアイに編入されてしまいました。
戦争開始当時のパラグアイは、約52万人の人口を擁しておりました。
その中でパラグアイ軍は8万に及ぶ兵力を動員します。
これはまさに数でも南米最大級の兵力でした。
しかし、ソラーノ・ロペス大統領の開戦は早すぎました。
パラグアイは内陸国ですが、パラグアイ川とパラナ川による河川交通が重要であり、海軍力(水軍力)がまた重要だったのです。
ですが、パラグアイ水軍の河川艦隊は外輪の旧式艦船が多く、新鋭艦の多いブラジルの河川艦隊とは戦闘力の差が開いてしまっておりました。
その差を埋めるために六隻もの河川装甲戦闘艦を海外に発注していたパラグアイでしたが、その到着前に開戦してしまったことで、この六隻を手に入れることがかなわなくなってしまったのです。
パラグアイにとっては悔やまれる開戦の早さでした。
とはいえソラーノ・ロペス大統領はまだ楽観的でした。
マット・グロッソ州の大半は手に入れたし、パラグアイ陸軍は精強です。
ブラジル内部の分離主義者も騒ぎ出すだろうし、アルゼンチンでも政情不安が起こるだろうと読んでおりました。
ウルグアイではアルゼンチン及びブラジルの支援を受けたコロラド党がブランコ党政府を追い詰めておりました。
ソラーノ・ロペス大統領は、いずれ遅かれ早かれウルグアイはコロラド党によって新政権が作られるだろうと考え、ウルグアイとブラジル南部への侵攻も考えます。
そのためソラーノ・ロペス大統領は、アルゼンチンに対してパラグアイ軍の領内通行権を求めました。
アルゼンチンを通ってウルグアイへ侵攻するつもりだったのです。
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- 2009/11/12(木) 21:45:00|
- 三国同盟戦争
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今日から数回で日本ではあまり知られていない戦争の紹介を一つ行ないます。
1864年。
日本では文久から元治へと年号が変わり、新撰組による「池田屋事件」が7月に発生。
8月には「禁門の変(蛤御門の変)」で長州勢力が京都から追い払われ、9月にはそれに引き続く第一次長州征伐が起こります。
アメリカでは南北戦争4年目が戦われており、北軍の圧倒的戦力に南軍はじりじりと敗戦へと追いやられつつありました。
11月には大統領選挙が行なわれ、リンカーンが再当選を果たしたことで、南軍の最後の望みも断たれます。
欧州では現在のドイツの一部であるシュレスビヒ-ホルシュタイン公国をめぐり、デンマークとプロイセンが第二次シュレスビヒ-ホルシュタイン戦争を戦っており、この戦争の勝利によってプロイセンがシュレスビヒ-ホルシュタイン公国への影響力を強めることに成功しました。
日本でも、アメリカでも、欧州でもきな臭い動きが見えていたこの1864年。
日本にとっての地球の裏側南米大陸でも、また悲惨な、それは悲惨な戦争が勃発いたします。
「三国同盟戦争」(パラグアイ戦争とも呼ばれる)でした。
南米の地図を見ていただくとおわかりかと思いますが、南米大陸の太った部分から細くなっていく部分へ向かって南下していくと、「パラグアイ共和国」と言う内陸国があります。
北と北西を「ボリビア共和国」、南西と南を「アルゼンチン共和国」、東と北東を「ブラジル連邦共和国」にはさまれた国で、国土は40万6千平方キロに及び、日本の総面積(37万7千平方キロ)よりもちょっとだけ大きな国です。
現在(2008年)の人口は約635万人。
首都はアスンシオンです。
このパラグアイが、この戦争の一方の当事者でした。
一方これに対し、戦争名ともなっている「三国同盟」はどこの国なのか。
これは「アルゼンチン共和国」「ウルグアイ東方共和国」「ブラジル連邦共和国」(当時はブラジル帝国)の三ヶ国でした。
パラグアイはこの自国の北と北西以外全てを囲んでいる国々と戦争をしてしまったのでした。
南米大陸の国々は、長い間スペインとポルトガルの植民地でした。
パラグアイもスペインの植民地として支配されてきましたが、1811年、南米大陸では最も早く独立を果たします。
海の無い内陸国であり、河川や山々に囲まれたパラグアイは、(ほかの南米諸国に比べれば)国土が小さいこともあり、比較的早期に国がまとまりました。
1814年、ホセ・ガスバル・ロドリゲス・デ・フランシアが執政に就任。
1816年には終身執政官となって、絶対的独裁制を敷くことに成功します。
フランシアは農民の支持の元で経済的鎖国を行ない、対外貿易を極力排しました。
また土地の公有地化を進め、逆らうものには容赦のない恐怖政治を推し進めます。
しかし、鎖国と独裁のおかげで国内は安定し、義務教育などで国民の教育水準も上がり、対外的にもアルゼンチンの一部を併合することができたなど、良い面も大きいものでした。
1840年にフランシアが亡くなると、国内は一時期乱れを見せますが、1844年に甥であるカルロス・アントニオ・ロペスがパラグアイ共和国初代大統領に就任すると、すぐに国内は安定します。
カルロス・ロペスはフランシアの鎖国政策から一転し、開放政策でパラグアイの近代化へと邁進します。
公有化の進んでいた土地にタバコなどの商品作物を植え、保護貿易で莫大な利益を上げました。
そしてその利益を元に工場や鉄道を建設。
欧州にも留学生を送り、また外国人も雇って近代技術の導入に努めます。
奴隷解放や新聞発行なども行なわれ、パラグアイは急速に近代化して行ったのです。
それはまさに、日本の明治維新と同じようなありさまでした。
また軍事にも大幅に力を入れ、銃器や火砲、河川戦闘艦艇などの自国生産にも取り組みました。
パラグアイ軍は、南米でも最強と言っていいほどの軍隊を手に入れたのです。
ですが、良いことばかりではありませんでした。
カルロス・ロペスは隣国アルゼンチンの一部地域における分離独立運動を支援しており、これがアルゼンチンとの軍事衝突を生んでしまいます。
この衝突はパラグアイ側の勝利となりましたが、アルゼンチンとの間にしこりが残りました。
一方ブラジル帝国もまたパラグアイとの間に軋轢を生じます。
パラグアイの北東部に位置するブラジルのマット・グロッソ州は、パラグアイ川の流れる平野で農産物の産地でしたが、その産物を海外へ輸出するためのルートとしてパラグアイ川とパラナ川の両河川が非常に重要な交通路となっておりました。
そのため、ブラジルはこの両河川の自由航行権をパラグアイに求めます。
パラグアイ川はパラグアイの国内を、パラナ川はパラグアイとブラジルの国境を流れる川であり、両河川はパラグアイにとっては国防上非常に重要な河川なので、パラグアイとしてはうかつに自由航行権をブラジルに与えるわけにはいきませんでした。
そのためブラジルとの関係は悪化し、戦争寸前と言う状況までいたりましたが、パラグアイ側がブラジルに自由航行権を認めることで一応の決着がつきます。
しかし、ブラジルとの間にもしこりが残りました。
そして、急速に近代化を成功させ、貿易黒字で経済的にも安定したパラグアイは、英国にとっても疎ましい存在となっておりました。
南米一帯を対英債務漬けにして経済的支配をもくろむ英国は、唯一英国からの債務を持たないパラグアイは目の上のたんこぶだったのです。
そんな状況の中、対外的軋轢と南米最強の軍隊を残してカルロス・ロペスは1962年に死去します。
後を継いだのは息子のフランシスコ・ソラーノ・ロペスでしたが、カルロス・ロペスは息子に「問題点は剣ではなくペンで解決せよ」と言い残したといわれます。
ですが、その遺言は守られることはありませんでした。
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- 2009/11/11(水) 21:42:33|
- 三国同盟戦争
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学研の「歴史群像」の最新刊を手に入れてきました。
もう98号なんですね。
来年の4月号で100号ですか~。

今回の第一特集は「黄海海戦」
日清戦争の中での大きな海戦ですね。
表題はそれに伴うエピソードから。
当時の日本は有力な戦闘艦がほとんど無かったので、清国艦隊との戦いはきびしかったはずなんですが、どのようにして勝ったのか、あらためて記事で確認したいと思います。
第二特集は「ベルリンの壁1961-1989」
東西冷戦の象徴ベルリンの壁の構築から崩壊までのようです。
かつてはこの壁を越えるために何人もが命を賭けたんですよね。
楽しみな記事としては「永田鉄山惨殺事件」があります。
日本陸軍の軍務局長だった永田鉄山という人が殺されるわけですが、永田鉄山がどういう人でなぜ殺されたのか、このあたりを知ることができそうです。
いつもながら楽しみな記事が満載。
じっくり楽しんで読みますよー。
それではまた。
- 2009/11/10(火) 21:47:42|
- 本&マンガなど
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プロ野球の日本シリーズも終わり、いよいよストーブリーグが本格化しましたね。
日本シリーズは日本ハムファンとしては残念な結果となりましたが、今年は巨人が一枚も二枚も上でした。
また来期がんばって再挑戦してほしいです。
その北海道日本ハムは、今年もまた選手の出入りが激しそうですね。
日本シリーズ第五戦で好投しました藤井投手が、今日FA宣言をしたようです。
日本ハムから出る気満々のようですし、球団も引き止めないようですので、来期は違うユニフォームを着ているのはほぼ確実でしょう。
外国人選手ではスウィーニー投手も来期の契約を結ばないとのことですので、先発投手二人がいなくなってしまうようです。
若手から柱になる投手が出てくれるといいのですが・・・
阪神は皆様ご存知城島捕手が来ましたけど、ウィリアムス投手もアッチソン投手もいなくなりますので、投手陣がまたしても手薄になりそうです。
藤井投手に手を上げるのかな・・・
藤本選手もFA宣言のようですね。
なかなか出場機会に恵まれないので、出て行くのも仕方ないでしょうか。
横浜はようやく来期の監督が巨人の尾花コーチで決まったようですね。
楽天は元広島のブラウン監督とのことで、来期の新監督の手腕も見物です。
しかし、毎度のことながら、今年も両リーグで5球団が監督が入れ替わるわけですね。
さて、話によりますと今日はあの東西冷戦の象徴であった「ベルリンの壁」が崩壊して20年目に当たる日なんだそうですね。
あれからもう20年ですか。
当時は友人と、ベルリンの壁が崩壊する日が生きている間に来るとは思わなかったと話していたぐらい、冷戦にどっぷりとつかってましたから、信じられない思いでした。
それから2年後にはソ連も崩壊。
いまさらながらに世の中の移り変わりを感じますね。
思えば1980年代半ばまでは、まさに世界は一触即発っぽかったんですよね。
近未来戦の映画やアニメ、ウォーゲームなど数々作られましたし、ソ連の脅威がずいぶんと主張されていましたね。
あれから20年。
世の中がいい方向に変わったのか、悪い方向に変わったのかは、なんとも言えませんが、少しでもよい方向に向かっていって欲しいものですね。
それではまた。
- 2009/11/09(月) 21:09:43|
- 日常
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宇宙人さんって、にゃーにゃー鳴くらしいですよ!本当でしょうか?
*このエントリは、
ブログペットのココロが書いてます♪
- 2009/11/09(月) 11:00:13|
- ココロの日記
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今日は「札幌歴史ゲーム友の会」にお邪魔してまいりました。
私がお伺いしたのは10時ごろでしたが、すでに今日も6ゾロ様、つじ様、サッポロ辺境伯様がいらしておりました。
その後HIRO会長様とMどりっひ様がみえられ、ゲーム卓は三つとなりました。

本日の対戦ゲームです。
このほかに「スエズを渡れ」(HJ)もありました。

私は以前より対戦の約束を交わしておりました今日も6ゾロ様とのASLスタンダード対戦です。
シナリオはASL17「LOST OPPORTUNITIES」
米軍降下兵のこもる町に、独軍グルジア人部隊が攻撃をかけるシナリオです。
守る米軍を私が、独軍グルジア人部隊を6ゾロ様が担当しました。
結果は推して知るべしで、6ゾロ様に蹴散らされてしまったわけですが、スタンダード初対戦を楽しく行うことができました。
その後は6ゾロ様とSK#3のS26シナリオを対戦。

こちらも防御側のソ連軍を担当させていただきましたが、やはり6ゾロ様にこてんぱんにやられてしまいました。
いやー、まいったまいった。
そのほかの対戦は以下の通り。

サッポロ辺境伯様とつじ様の「アンハッピーキングチャールズ」(GMT)
議会派が勝ったとのことでした。

HIRO会長様とMどりっひ様の「ハンマーオブザスコッツ」(Col)
詳細は不明です。
ほかにサッポロ辺境伯様とつじ様が「スエズを渡れ」を対戦しておりました。
エジプトが勝ったようです。
今日も楽しい時間をすごさせていただきました。
ありがとうございました。
それではまた。
- 2009/11/08(日) 19:59:23|
- ウォーゲーム
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皆様もご存知かと思いますが、私がいつもお世話になっております悪堕ち系ブログの「
夜に棲む日々」様にSSを投稿させていただきました。
タイトルは「
魔女剣士ハルカ」
(タイトル名クリックで作品に飛ぶことができます)
内容については、よろしければお読みいただければうれしいのですが、なによりもdeadbeat様のすばらしいイラストがSSに花を添えてくださいました。
もう、このイラストを見ていただくだけでも一見の価値はございますので、ぜひぜひ足をお運びいただければと思います。
deadbeat様、掲載ならびにすばらしいイラストありがとうございました。
また機会がありましたら、作品を寄せさせていただこうと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。
それではまた。
- 2009/11/07(土) 22:00:35|
- ネット関連
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明治10年(1877年)9月24日午前4時。
官軍の砲台から三発の砲声が鳴り響きます。
官軍の城山総攻撃の合図でした。
まだ残月の残るなか、官軍の兵士たちは城山のすべての方位から、薩軍残存部隊の篭る陣地を目指しました。
銃を撃ち放ち、銃剣を付けた銃を構えて突撃する官軍兵士たち。
かつて薩軍に惰弱な農民兵と揶揄された姿はそこにはありませんでした。
薩軍残存部隊の陣地は、官軍兵の前に飲み込まれていったのです。
薩軍本営の第一洞があった岩崎谷は当然ながら激戦が予想されましたが、参軍の山県有朋は、岩崎谷正面に薩長閥ではない柳河藩出身の曽我祐準少将率いる第四旅団を充て、西郷らを迎え撃たせました。
この時西郷隆盛は、40名ほどの将士とともに篭っていた洞窟の前に整列し、彼らを率いて岩崎口へと進撃します。
付き従う者たちには、桐野利秋、村田新八、別府晋介、辺見十郎太、池上四郎、桂久武ら薩軍残存部隊の主要人物が揃っており、それぞれが新しい着物に着替え、いわば死に装束をまとっての出陣でした。
城山を下り始めてすぐに小倉壮九郎が道端で自刃します。
この小倉壮九郎はのちの日露戦争の日本海海戦で有名になる東郷平八郎の兄でした。
続いて桂久武が官軍の銃弾に倒れます。
桂はかつては島津藩の家老を務めたこともある人物で、流刑中だった西郷と親交を結び、以後西郷の僚友として尽くしてくれた人物でした。
このあたりから官軍の銃撃に西郷の周りでも倒れるものが相次ぎ、傍らの辺見十郎太がもういいのではないでしょうかと尋ねたものの、西郷はまだまだと答えたと言い、さらに山を下ります。
しかし、ついに島津応吉久能邸門前にまで来た時点で、官軍の銃弾が西郷を襲いました。
股とわき腹に相次いで被弾した西郷はその場に倒れ、すでに負傷してかごに乗って付き従っていた別府晋介を呼び寄せます。
「晋どん、晋どん、もうよかろう」
西郷は別府にそういうと、皆が見守るなかでひざを揃え、襟を正して東に向かって遥拝したと言います。
別府はかごを降りて西郷の準備が終わるのを待つと、最後の挨拶を交わし、静かに介錯の準備をいたしました。
「先生、ごめんやったもんせ!(お許しください)」
別府はそう叫び西郷の首を一刀の下に落とします。
西郷隆盛、享年51歳(満49歳)でした。
別府はその後西郷の首を従僕に預け、従僕が立ち去ったのを見てから、辺見と刺し違えたとも官軍に突入して銃弾を浴びたとも言われます。
西郷の首は折田正助邸門前に埋められたと言われますが、これも異説が多く定かではありません。
西郷の死を見取った残りの薩軍残存部隊の将兵は、ある者は降伏し、ある者は戦死し、ある者は自刃いたしました。
戦死、あるいは自刃した者には桐野、辺見、村田、池上らがおり、特に桐野利秋は自ら銃を撃ち、弾がなくなれば刀をふるって官軍兵士と切りあったと言われます。
最後は官軍の銃弾が桐野の眉間に命中したと言い、壮絶な最後だったことをうかがわせます。
降伏した者には別府晋介の兄別府九郎、野村忍助、神宮寺助佐衛門らがおり、彼らは今回の戦いの意義を法廷で明らかにしようという者や、単に桐野らとともに死にたくはないと思った者などだったといいます。
午前9時ごろ、銃声はやみました。
薩軍残存部隊最後の戦い、「城山の戦い」はここに終結します。
「西南戦争」が終わった瞬間でした。
西郷の遺体は仮埋葬ののち、明治12年にほぼ現在の位置に埋葬されました。
またその首も見つけられ、ともに埋葬されたと言います。
敗軍の将として扱われた西郷でしたが、その人物を深く愛した明治天皇や、黒田清隆などの尽力により、明治22年には大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、汚名は消えました。
西南戦争全期間を通じての官軍の動員兵力は約六万八千。
そのうち死傷者数が約一万六千ほどに上りました。
一方薩軍及び党薩隊の兵力は約四万八千。
うち薩摩兵が約二万三千と言われます。
死傷者数は約二万。
うち薩摩兵が約八千と言われ、官軍薩軍双方ともに大きな犠牲を払ったことがうかがえます。
まさに激戦だったと言えるでしょう。
(動員数、死傷者数などは異説あり)
西南戦争の終結により、日本は中央集権の近代的国家へと歩み始めました。
明治維新がやっと終わったと言ってもいいものでした。
以後日本は国内から国外に目を向けるようになり、明治27年の日清戦争、明治37年の日露戦争へとつながっていくことになります。
西南戦争 終
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参考文献
「西南戦争」 歴史群像シリーズ21 学研
「乃木希典」 松田十刻著 PHP文庫
「熊本城」 週刊名城をゆく8 小学館
ほか
参考サイト
「Wikipedia 西南戦争」
「Wikipedia 西郷隆盛」
「大東亜戦争 研究室 戦史 乙 近代日本戦争史概説 西南戦役」
「風色倶楽部 西南戦争の部屋」
ほか
このたびも多くの参考文献及び参考サイト様のお世話になりました。
この場を借りまして感謝を述べさせていただきます。
本当にありがとうございました。
6月から書き始めた「西南戦争」の記事も足掛け半年でようやく終えることができました。
今回も資料本等の簡易な写し記事ですが、多少なりとも「西南戦争」に興味を持っていただければ幸いです。
最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
- 2009/11/06(金) 21:27:26|
- 西南戦争
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今日もあっさり目に。
いつも購入しております「グランドパワー」誌の12月号が手に入りました。
今月の特集はドイツ軍の「ヘルマン・ゲーリング師団」写真集の前編です。

こちらが表紙。
ドイツの高官の一人、ヘルマン・ゲーリングは空軍の元帥ですが、彼の名を冠した「ヘルマン・ゲーリング師団」の写真集とは驚きです。
確かに空軍でありながら地上部隊で師団というのは珍しい存在ですので、写真集になったりと言うのはわからないではないですよね。
大戦後半には装甲師団並みの装備を誇った「ヘルマン・ゲーリング師団」なので、内容が楽しみです。
ほかには「日本陸軍の火砲」の19回目として、日本軍の装甲列車の記事が載ってます。
日本軍の装備と言うのはあまり知らないので、この連載はいつも楽しみです。
カラーページは陸上自衛隊の富士総合火力演習。
これまた綺麗な写真が目白押しで、楽しませてくれますね。
今回はこんなところで。
それではまた。
- 2009/11/05(木) 21:39:16|
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私の大好きなマンガの一つ「黒騎士物語外伝」(小林源文氏:世界文化社)です。

こちらが表紙
当ブログの
2008年11月28日の記事で紹介しました同作者の「黒騎士物語」の外伝に当たりますが、時系列的には多少合わないところもあったりします。
隻眼の戦車中隊長バウアー大尉が一応の主人公ですが、この外伝に関してはソ連軍側にもシュガポフ軍曹と言うT-34乗りが登場し、話を盛り上げてくれます。
このシュガポフ軍曹、実に実戦慣れした叩き上げと言う感じで、作中でも「学がねえのに頭いいな」とか言われてます。(笑)
ドイツ戦車を扱った戦記マンガの多くが人気のあるティーガーを主役に持ってくるのに対し、黒騎士中隊はパンターが主であるので、これも私が好きな理由の一つですね。
パンター好きなんですよ。
とは言うもののこの外伝の中で一番好きな話は、黒騎士中隊を取材しようとする宣伝中隊の軍曹の話なんですよね。
装甲車で前線へ向かう途中、空襲を受けたり野戦病院に立ち寄る羽目になったりソ連軍に捕らわれてしまったり。
最後は黒騎士中隊に救出されてめでたしなわけですが、sd.kfz223装甲車がこれほど画面に現れたマンガも他にないでしょうねー。
源文センセのファンならもう当然お読みなんでしょうけど、好きなマンガということでご紹介しました。
それではまた。
追記
KEBO様、大変申し訳ありません。
コメントが二重投稿されていましたので、片方のみを削除したつもりだったのですが、どういうわけか両方とも削除されてしまいました。
コメントそのものはしっかりと拝見させていただきましたので、ご安心くださいませ。
できますれば、再度投稿していただけると幸いです。
本当に申し訳ありませんでした。
- 2009/11/04(水) 21:05:55|
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iriyak様とVASLでASL-SK対戦。
シナリオS10「PAPER ARMY」を対戦しました。
このシナリオは戦場を離脱しようとするイタリア軍を、ギリシャ軍が追いかけると言うシナリオで、両軍ともに東側より盤上に侵入し、射撃戦を行ないながら西側へと逃げる形です。
途中、ギリシャ軍には側面迂回部隊が増援として登場するのですが、この側面迂回部隊の登場が勝敗を分ける大きな鍵になるでしょう。
今回は私が逃げるイタリア軍を担当し、iriyak様が追いかけるギリシャ軍を担当です。
前半、イタリア軍は4個の半個分隊を足止めにばら撒き、そのほかの部隊はいっせいに西へと向かいます。
ギリシャ軍の足止めに大きな戦力となるであろう中機関銃ですが、シナリオ特別ルールで故障状態でのスタートなので、最初はあてになりません。
ギリシャ軍はまずは警戒移動で盤上に侵入します。
足止めの半個分隊が粘るものの、ギリシャ軍にはさほど混乱を与えることはできません。
ですが、この足止め部隊が粘っているうちに、イタリア軍は全力で西へと走りました。
頼みの中機関銃は、一回も火を吹かないうちに完全故障で除去されますが、おかげで重たい機関銃を持っていくことがなくなったので、足止めにばら撒く分隊以外は全てを西へと走らせます。
3ターン目にギリシャ軍には側面迂回部隊が到着します。
しかし、出てきた位置があまり良くなく、イタリア軍を防ぎきる位置とはいえません。
4ターン目にはイタリア軍はほぼ脱出の体勢を整えます。
指揮官プラス二個分隊のスタックを二つ作り、この二つが脱出すれば勝利です。
ギリシャ軍はこの4ターン目に、どうにか側面迂回部隊をこの二つのスタックを撃てる位置まで持ってきます。
追いかける部隊はもはや間に合いません。
この射撃の成否が勝敗を分けることになりました。
5ターン目、イタリア軍のスタックの移動に対し、ギリシャ軍の防御臨機射撃は効果なし。
この時点でイタリア軍の10VP分の脱出を阻止できないことが決定し、イタリア軍の勝利となりました。
今回は勝たせていただきましたが、最後の射撃の結果次第では、イタリア軍の脱出が難しくなる可能性もあったので、ぎりぎりの勝利だったかもしれません。
iriyak様、対戦ありがとうございました。
次回はS9「AMBITIOUS ASSAULT」です。
次回もよろしくお願いいたします。
- 2009/11/03(火) 20:47:25|
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