台風の被害が各所ででているようです。
札幌も風雨が強まってきました。
何事もなく通り過ぎてくれることを祈ります。
「西南戦争」の29回目です。
そろそろ終わります。
延岡の北に長尾山という山があり、そこから東南に張り出す山並みが北川の下流にある無鹿付近の山並みと合流するあたりが和田越と呼ばれるところでした。
この和田越に辺見、村田の両隊が布陣し、そこから無鹿に向かって中島、貴島、河野の隊が布陣します。
薩軍は、この和田越で最後の一戦を挑むつもりでおりました。
これに対し官軍は、和田越正面に別動第二旅団を充て、無鹿方面には第四旅団、その右翼に新撰旅団を配置。
第一、第二、第三旅団が左翼から大きく迂回攻撃を行なう計画でした。
明治10年(1877年)8月15日。
この日は朝から濃い霧が立ち込めておりました。
その霧も午前8時ごろには綺麗に晴れ、夏の朝の日差しが降りそそぎます。
薩軍は西郷隆盛自身が和田越の戦場に姿を現し、桐野、村田、別府らとともに全軍を指揮します。
西郷自身が陣頭指揮に立つのは、開戦以来初めてのことでした。
この西郷自身の督戦に薩軍の兵たちの意気は上がりました。
ふもとを埋め尽くす官軍の兵士たちにも臆することなく、山上から銃撃を行い抜刀して切りかかりました。
この薩軍の攻撃に、別動第二旅団は苦戦を強いられたといいます。
一方の官軍も、実質的指揮官である参軍の山県有朋が、和田越からわずか二キロの樫山に陣取り、この戦いを眺めておりました。
距離的に言って西郷自身を見ることができたかどうかは不明ですが、両軍の大将格が戦場に姿を現したことからも、この戦いが最後の決戦であるという認識だったと思われます。
官軍は北川の河口に軍艦を遡上させ、そこから艦砲射撃で支援砲撃を行ないます。
また、和田越ばかりでなく無鹿山を含め全線で攻勢を開始。
その兵力にものを言わせて薩軍を圧迫します。
山上から撃ちおろす薩軍は地の利を得てはいるものの、やはり官軍との兵力差はいかんともしがたく、じょじょに薩軍は追い詰められていきました。
やがて西郷自身の付近にも銃弾が飛び交い始め、桐野や村田が後退するように進めましたが、西郷は頑として動きませんでした。
ですが、西郷を死なせてはならないとばかりに周囲の者が抱きかかえるようにして戦場を離脱。
西郷の後退とともに薩軍の気力も尽き、昼ごろには総崩れとなりました。
薩軍は北にある長井村に退却。
ここに薩軍最後の組織的戦闘は終わりました。
翌8月16日、西郷は長井村で残った全軍に解散令を布告します。
「諸隊にして降らんとするものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり卒の士となる。ただその欲するところに任ぜよ」
西郷自身の筆による書は、薩軍全員に行動の自由を許すものでありました。
解散令を発した後、西郷は陸軍大将としての軍服と全ての書類を焼却しました。
また負傷していた長男とも別れ、常にそばに寄り添っていた愛犬二頭も鎖を解き放ったといいます。
身辺整理は終わりました。
解散令により薩軍兵士は行動の自由を許されました。
官軍への投降が相次ぎ、一部は自決して身を処しました。
それでも西郷の周りには、鹿児島士族を中心に約六百名が残りました。
彼らは最後まで西郷と行動を共にするつもりだったのです。
長井村は官軍の包囲下に置かれておりました。
西郷らのいる本営のそばにも砲弾が落ち始めておりました。
そんな中で、今後どうするかの会議が行なわれておりました。
降伏か、玉砕か、再起を図るために脱出か、会議は紛糾します。
まず決まったのは突破でした。
ここから脱出して落ち延びることに決します。
だがどこへ行くかがまた問題でした。
桐野は熊本へ、別府は鹿児島へ、野村は豊後へとそれぞれが主張します。
いったんは豊後方面ということに決まりかけましたが、北の熊野が陥落したとの報が入り、豊後案は断念されます。
8月17日になっても結論は出ませんでしたが、辺見と河野が主張する可愛岳(えのだけ)からの突破を西郷が受け入れ、西郷の裁定によって可愛岳突破に決しました。
とりあえず現状の包囲を可愛岳で突破して、三田井で次の策を講じようとなったのです。
可愛岳は、標高728メートルの山で断崖が続く険しい山でした。
その高さ以上に見る者には威容を感じさせ、思わず圧倒されるほどだったといいます。
西郷らはこの山を越えようというのでした。
17日午後10時ごろ、突破の前のささやかな酒宴を終え、薩軍残存部隊は地元猟師の案内のもと可愛岳に登り始めます。
部隊を前軍、中軍、後軍の三つにわけ、西郷自身は中軍で負傷した別府ともども山かごでの登坂でした。
さすがに私学校からのつわものたちは軍律を守って粛々と行動し、夜間行軍で困難を極めつつも午前4時半ごろには前軍が山頂付近に到達。
ここから北斜面を見ると、断崖の南斜面とは違ってなだらかな斜面になっており、屋敷野と呼ばれる台地に官軍部隊の天幕があるのが見えました。
官軍の警戒部隊であると思われましたが、意外にもその防備は手薄のようであり、前軍の辺見らは中軍後軍の到着を待ってこれを攻撃することに決定。
到着後に突撃を開始します。
不意を突かれた形になった官軍は混乱し、なすすべなく逃走を開始。
実はここにいたのは警戒部隊ではなく第一、第二旅団の本営でした。
総攻撃に備えて食料や銃砲弾を運び上げて集積していたところを襲われたのでした。
旅団長以下は命からがら脱出し、薩軍残存部隊は銃弾三万発と大砲一門を捕獲して、さらに部隊を進めます。
可愛岳を突破した薩軍残存部隊は、その後も官軍の小部隊と小競り合いを繰り返しながら、8月21日に目的地である三田井に到達いたします。
蟻の這い出る隙間もなかったはずの官軍の包囲網は、予想もしなかった可愛岳突破という薩軍残存部隊の行動により、抜けられてしまったのでした。
官軍の山県参軍は、包囲網を抜けられたことに大いに悔しがったと伝えられます。
官軍はまたしても西郷に逃げられたのでした。
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- 2009/10/08(木) 21:43:18|
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