いよいよ北海道日本ハムのマジックが1になりましたね。
明日には優勝が決まるかも。
さて、1941年にソ連に侵攻したドイツ軍は、T-34/76やKV-1などの強力な戦車に遭遇しました。
装甲師団の三号戦車や四号戦車も歯が立たず、対戦車砲も37ミリでは役に立たない状況で、ドイツ軍歩兵は吸着地雷や集束手榴弾で肉弾攻撃を行なうしかありませんでした。
当然ドイツ陸軍上層部もこの状況をよしとしていたわけではなく、歩兵用の対戦車兵器を研究させます。
そこでライプチヒにあるHASAG社は、研究中の成形炸薬を使った対戦車兵器を考えます。
最初は成形炸薬を使った対戦車手榴弾を考えましたが、やはり手榴弾では投擲距離が短いため、簡易発射機を使った投射兵器を考案します。
これは、パイプを利用した発射筒に発射火薬をつめた筒をはめ、その先に成形炸薬の弾頭を付けるというもので、発射時の反動を噴射を後ろに逃すことで無くす一種の無反動砲とすることで、歩兵単独で撃ちだせるようにした物でした。
この簡易型成形炸薬弾投射機は「パンツァーファウスト」(戦車拳骨)と呼ばれ、1943年8月に最初の5000発が引き渡されました。
初期の型は炸薬量1.3kg.の小型(クライン)と呼ばれるタイプで、装甲厚140ミリを撃ち抜く威力を持っておりましたが、T-34の傾斜装甲にはじかれる事態が多く、早々に大型弾頭のタイプに切り替わることになります。
大型弾頭のパンツァーファウストは、炸薬量2.9kg.で装甲厚200ミリを撃ち抜く威力があり、当時の連合軍戦車全てを撃破できる威力を持っておりました。
これほどの威力を持っておりながら簡易な構造のパンツァーファウストは、たちまちドイツ軍の装備として広まり、各地で敵戦車に向けて火を吹きます。
しかし射程距離が30メートルと短く、射手が危険ということで射程の延伸が望まれました。
1944年8月には射程距離が60メートルに伸びたタイプが交付され、さらには1944年11月に射程距離を100メートルにまで伸ばしたタイプが登場します。
また、発射装置も安全性が高められ、暴発の危険を大きく低下させました。
パンツァーファウストは、大戦後半のドイツ軍にとってなくてはならない兵器でした。
数の少ない味方戦車に代わり、敵戦車を迎え撃つ貴重な戦力だったのです。
1944年12月の時点でパンツァーファウストは約130万発が引き渡され、その後も終戦まで生産され続けます。
国民擲弾兵にいたっては、ただこのパンツァーファウスト一本のみを渡されて前線に送られた者すらおりました。
1945年には射程距離を150メートルに延ばし、使い捨てではなく弾頭を交換して使えるようにしたタイプも作られましたが、これはほとんど前線には届かなかったといいます。
のちにこのタイプはソ連でRPG-2という携帯対戦車兵器へと発展して行きました。
有力な対戦車兵器とはいえ使い捨ての一発兵器であるパンツァーファウスト。
それをたった一本だけ渡されて放り出された兵の心境はいかばかりだったのか。
戦争末期の悲惨さが現れているようですね。
それではまた。
- 2009/10/04(日) 21:42:55|
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