人吉が陥落したのち、薩軍は後退する兵を取りまとめ、大畑(おこば)・漆田(うるしだ)方面で官軍を迎え撃ちますが、ここも持ちこたえることはできませんでした。
薩軍はじょじょに都城方面に追い込められ、村田新八はこの都城で官軍と対峙することに決します。
大口方面から後退した辺見十郎太率いる雷撃隊や、鹿児島奪回に向かい果たせず後退してきた振武隊も続々と都城へと集結し、薩軍はこの都城にその残存兵力の多くをそろえます。
村田はこの兵力の指揮を取り、都城から西に向かって半円を描くように防御陣を敷きました。
福山方面を正面として、振武隊と奇兵隊の一部を配し、左翼の岩川・末吉方面には雷撃隊と行進隊、右翼の庄内方面に破竹隊が布陣して官軍に対します。
これに対し官軍は、国分に第三旅団と別働第三旅団を、敷根には第四旅団、高隈の別働第一旅団、高原の第二旅団、小林に別動第二旅団を配し、薩軍のさらに外側から包囲する態勢を取りました。
6月下旬から7月中旬にかけ、薩軍はこの官軍の包囲網に対して各所で攻撃を仕掛けます。
薩軍は、攻撃を仕掛けた場所では局所的優勢を見せ官軍に多大な損害を与えますが、包囲網を突破することはならず、官軍は一時的後退をすることはあっても全面崩壊には至りませんでした。
官軍は薩軍が窮鼠猫を噛むような追い詰め方はせず、薩軍の疲弊を待つ形でじわじわと攻めあげます。
薩軍はいくら損害を与えても回復してしまう官軍に徐々に疲弊せざるを得ませんでした。
7月下旬になり、薩軍の陣地は次々に陥落して行きます。
粘りに粘っても、もはや薩軍には官軍を防ぐ力はありませんでした。
7月24日、薩軍はついに都城も放棄。
本隊を宮崎へと後退させるしかありませんでした。
宮崎には5月下旬から桐野利秋が拠点作りを進めており、人吉陥落直前には西郷隆盛も来ておりました。
北方には野村忍助の奇兵隊が布陣し、南西方向には大口の辺見の雷撃隊がまだがんばっていた頃、この宮崎は官軍の手が届いてない一種の後方地区でした。
薩軍はこの宮崎を占領して拠点とし、ここに小さな地方政府を築きます。
そしてこの宮崎で兵員の補充や物資の調達を行なうため、西郷札という紙幣を発行し、資金不足を補いました。
しかし、この宮崎の平穏な状況もすぐに破られてしまいます。
北方こそ奇兵隊ががんばっていたものの、南西の大口は落ち、今また都城も落ちました。
薩軍は残存兵力を宮崎に集めますが、官軍はすぐに薩軍を追撃し、7月31日には増水した大淀川を渡河して市街に突入します。
増水のために官軍の攻撃はないと見ていた薩軍は混乱し、なすすべなく官軍に追い立てられ、宮崎はさほどの抵抗もできずに官軍に占領されてしまいます。
西郷も宮崎から佐土原へと落ち延び、そこから高鍋へと移動します。
ですがその高鍋も8月2日には官軍の攻撃に晒されて陥落。
薩軍はさらに美々津へと後退し、本隊は延岡に入りました。
南から追い立てられた薩軍は、いつの間にか豊後方面に布陣していた野村の奇兵隊と背中合わせになっておりました。
官軍はここでもやはり力攻めはせず、じわじわと戦線を押し上げます。
さらに薩軍の側背に別動第二旅団を迂回させ、薩軍をはさみ撃つ体制をとることで薩軍の兵力を分断しました。
薩軍にはもはやどうすることもできず、8月9日には美々津が陥落。
8月14日には本隊のいた延岡も官軍に占領されました。
薩軍はここにいたって全ての部隊を集結。
野村の奇兵隊も合流し、延岡北方の山地である無鹿山から和田越、長尾山に連なるラインで官軍に最後の抵抗を試みることにします。
2月下旬の決起からすでに半年あまり。
薩軍の兵士もすでに疲労の色濃く、その士気も低下していたが、奇兵隊などとの合流でまた士気も盛り上がり最後の決戦に臨もうとしておりました。
薩軍最後の組織的抵抗である「和田越の戦い」が始まろうとしておりました。
(29)へ
- 2009/10/03(土) 21:26:41|
- 西南戦争
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0