基地設営能力が低かった日本海軍は、陸上の滑走路がなくても穏やかな海面があれば発進できる水上機に力を入れておりました。
その水上機を有効に運用する手段として、日本海軍はいく種類かの水上機母艦を建造いたしましたが、その中の変り種が、ご紹介する「秋津洲(あきつしま)」でした。
秋津洲は、水上機母艦ではありましたが、一般的な水上機の母艦ではありませんでした。
なんと、あの九七式や二式大艇のような大型飛行艇専用の母艦だったのです。
日本へ向かって進撃してくるアメリカ艦隊を迎え撃つというのが、日本海軍の基本戦略でありましたが、そのためには長距離偵察のできる大型飛行艇は索敵にはなくてはならないものでした。
その長距離偵察を行なう大型飛行艇の支援と洋上補給のための母艦として秋津洲は建造されます。
設計段階では、艦尾に海面につながるスロープを持ち、そこから飛行艇を船上に収容する予定でありましたが、基準排水量4650トンの船体では二式大艇などに比して小さすぎ、結局艦尾のクレーンで飛行艇を吊り下げて収容する形になりました。
もっとも、収容と言っても大型飛行艇は翼を折りたたんだりできないので、通常の水上機母艦のように艦内に水上機を収納して行動するということはできず、単に補給や整備などを行なうだけのものでした。
秋津洲の完成は、昭和17年の4月というすでに太平洋戦争が始まっていた時期であり、完成した秋津洲はすぐに前線に投入されました。
そしてなんとそこで初めて二式大艇を搭載する試験を行い、実用上大艇の収容が可能であることを確認するという、まさに泥縄的な就役でした。
しかし、秋津洲が完成してすぐ、日本は守勢に追い込まれていくことになります。
秋津洲は本来の大型飛行艇母艦としての任務よりも、その艦形を生かした輸送任務に回されることが多くなりました。
飛行艇に対する補給物資を搭載するスペースには前線に対する物資を搭載し、また、場合によっては魚雷艇を搭載して前線に送り届けるなどという任務もやらされました。
飛行艇に対する整備能力もあったため、設備を増設して工作艦としても使われました。
四隻造られる予定だった同型艦は全て建造中止となり、秋津洲はただ一隻の飛行艇母艦でありながら、本来の任務にはほとんど使われなかったのです。
そして、昭和19年9月、フィリピンのコロン湾で米軍空母艦上機による攻撃を受け沈没。
短い生涯を終えました。
秋津洲も日本海軍の多くの艦と同様、その本来の目的とは違う任務に使われた艦でした。
いかに平時の設計が戦時には意味を成さなくなるかの見本のようなものだったかもしれませんね。
それではまた。
- 2009/10/01(木) 22:02:49|
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