日本ハム負けちゃいました。
今日の優勝はなくなっちゃいました。
残念。
ところで、昨日読んだ30年前のタミヤニュース1979年january号の「模型ファンを尋ねて」のコーナーに、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の作家秋本治氏が出ていてびっくりしました。
ちょうどペンネームを山止たつひこから変えたばかりの頃だったようで、山止たつひこ改め秋本治と紹介されておりました。
プラモは写真と違って立体的に形状を捉えることができるので、作画には非常に役に立つとのこと。
ですが、当時すでにこち亀で忙しかったらしく、プラモを作る暇が無いと嘆いておられますね。
1/6のオートバイのプラモを手にした写真も載っていましたが、やはり若いですねぇ。
今日はこんなところで。
それではまた。
- 2009/10/05(月) 21:59:29|
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いよいよ北海道日本ハムのマジックが1になりましたね。
明日には優勝が決まるかも。
さて、1941年にソ連に侵攻したドイツ軍は、T-34/76やKV-1などの強力な戦車に遭遇しました。
装甲師団の三号戦車や四号戦車も歯が立たず、対戦車砲も37ミリでは役に立たない状況で、ドイツ軍歩兵は吸着地雷や集束手榴弾で肉弾攻撃を行なうしかありませんでした。
当然ドイツ陸軍上層部もこの状況をよしとしていたわけではなく、歩兵用の対戦車兵器を研究させます。
そこでライプチヒにあるHASAG社は、研究中の成形炸薬を使った対戦車兵器を考えます。
最初は成形炸薬を使った対戦車手榴弾を考えましたが、やはり手榴弾では投擲距離が短いため、簡易発射機を使った投射兵器を考案します。
これは、パイプを利用した発射筒に発射火薬をつめた筒をはめ、その先に成形炸薬の弾頭を付けるというもので、発射時の反動を噴射を後ろに逃すことで無くす一種の無反動砲とすることで、歩兵単独で撃ちだせるようにした物でした。
この簡易型成形炸薬弾投射機は「パンツァーファウスト」(戦車拳骨)と呼ばれ、1943年8月に最初の5000発が引き渡されました。
初期の型は炸薬量1.3kg.の小型(クライン)と呼ばれるタイプで、装甲厚140ミリを撃ち抜く威力を持っておりましたが、T-34の傾斜装甲にはじかれる事態が多く、早々に大型弾頭のタイプに切り替わることになります。
大型弾頭のパンツァーファウストは、炸薬量2.9kg.で装甲厚200ミリを撃ち抜く威力があり、当時の連合軍戦車全てを撃破できる威力を持っておりました。
これほどの威力を持っておりながら簡易な構造のパンツァーファウストは、たちまちドイツ軍の装備として広まり、各地で敵戦車に向けて火を吹きます。
しかし射程距離が30メートルと短く、射手が危険ということで射程の延伸が望まれました。
1944年8月には射程距離が60メートルに伸びたタイプが交付され、さらには1944年11月に射程距離を100メートルにまで伸ばしたタイプが登場します。
また、発射装置も安全性が高められ、暴発の危険を大きく低下させました。
パンツァーファウストは、大戦後半のドイツ軍にとってなくてはならない兵器でした。
数の少ない味方戦車に代わり、敵戦車を迎え撃つ貴重な戦力だったのです。
1944年12月の時点でパンツァーファウストは約130万発が引き渡され、その後も終戦まで生産され続けます。
国民擲弾兵にいたっては、ただこのパンツァーファウスト一本のみを渡されて前線に送られた者すらおりました。
1945年には射程距離を150メートルに延ばし、使い捨てではなく弾頭を交換して使えるようにしたタイプも作られましたが、これはほとんど前線には届かなかったといいます。
のちにこのタイプはソ連でRPG-2という携帯対戦車兵器へと発展して行きました。
有力な対戦車兵器とはいえ使い捨ての一発兵器であるパンツァーファウスト。
それをたった一本だけ渡されて放り出された兵の心境はいかばかりだったのか。
戦争末期の悲惨さが現れているようですね。
それではまた。
- 2009/10/04(日) 21:42:55|
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人吉が陥落したのち、薩軍は後退する兵を取りまとめ、大畑(おこば)・漆田(うるしだ)方面で官軍を迎え撃ちますが、ここも持ちこたえることはできませんでした。
薩軍はじょじょに都城方面に追い込められ、村田新八はこの都城で官軍と対峙することに決します。
大口方面から後退した辺見十郎太率いる雷撃隊や、鹿児島奪回に向かい果たせず後退してきた振武隊も続々と都城へと集結し、薩軍はこの都城にその残存兵力の多くをそろえます。
村田はこの兵力の指揮を取り、都城から西に向かって半円を描くように防御陣を敷きました。
福山方面を正面として、振武隊と奇兵隊の一部を配し、左翼の岩川・末吉方面には雷撃隊と行進隊、右翼の庄内方面に破竹隊が布陣して官軍に対します。
これに対し官軍は、国分に第三旅団と別働第三旅団を、敷根には第四旅団、高隈の別働第一旅団、高原の第二旅団、小林に別動第二旅団を配し、薩軍のさらに外側から包囲する態勢を取りました。
6月下旬から7月中旬にかけ、薩軍はこの官軍の包囲網に対して各所で攻撃を仕掛けます。
薩軍は、攻撃を仕掛けた場所では局所的優勢を見せ官軍に多大な損害を与えますが、包囲網を突破することはならず、官軍は一時的後退をすることはあっても全面崩壊には至りませんでした。
官軍は薩軍が窮鼠猫を噛むような追い詰め方はせず、薩軍の疲弊を待つ形でじわじわと攻めあげます。
薩軍はいくら損害を与えても回復してしまう官軍に徐々に疲弊せざるを得ませんでした。
7月下旬になり、薩軍の陣地は次々に陥落して行きます。
粘りに粘っても、もはや薩軍には官軍を防ぐ力はありませんでした。
7月24日、薩軍はついに都城も放棄。
本隊を宮崎へと後退させるしかありませんでした。
宮崎には5月下旬から桐野利秋が拠点作りを進めており、人吉陥落直前には西郷隆盛も来ておりました。
北方には野村忍助の奇兵隊が布陣し、南西方向には大口の辺見の雷撃隊がまだがんばっていた頃、この宮崎は官軍の手が届いてない一種の後方地区でした。
薩軍はこの宮崎を占領して拠点とし、ここに小さな地方政府を築きます。
そしてこの宮崎で兵員の補充や物資の調達を行なうため、西郷札という紙幣を発行し、資金不足を補いました。
しかし、この宮崎の平穏な状況もすぐに破られてしまいます。
北方こそ奇兵隊ががんばっていたものの、南西の大口は落ち、今また都城も落ちました。
薩軍は残存兵力を宮崎に集めますが、官軍はすぐに薩軍を追撃し、7月31日には増水した大淀川を渡河して市街に突入します。
増水のために官軍の攻撃はないと見ていた薩軍は混乱し、なすすべなく官軍に追い立てられ、宮崎はさほどの抵抗もできずに官軍に占領されてしまいます。
西郷も宮崎から佐土原へと落ち延び、そこから高鍋へと移動します。
ですがその高鍋も8月2日には官軍の攻撃に晒されて陥落。
薩軍はさらに美々津へと後退し、本隊は延岡に入りました。
南から追い立てられた薩軍は、いつの間にか豊後方面に布陣していた野村の奇兵隊と背中合わせになっておりました。
官軍はここでもやはり力攻めはせず、じわじわと戦線を押し上げます。
さらに薩軍の側背に別動第二旅団を迂回させ、薩軍をはさみ撃つ体制をとることで薩軍の兵力を分断しました。
薩軍にはもはやどうすることもできず、8月9日には美々津が陥落。
8月14日には本隊のいた延岡も官軍に占領されました。
薩軍はここにいたって全ての部隊を集結。
野村の奇兵隊も合流し、延岡北方の山地である無鹿山から和田越、長尾山に連なるラインで官軍に最後の抵抗を試みることにします。
2月下旬の決起からすでに半年あまり。
薩軍の兵士もすでに疲労の色濃く、その士気も低下していたが、奇兵隊などとの合流でまた士気も盛り上がり最後の決戦に臨もうとしておりました。
薩軍最後の組織的抵抗である「和田越の戦い」が始まろうとしておりました。
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- 2009/10/03(土) 21:26:41|
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どうにもテンションの上がらない舞方です。
なんだかスランプですねー。
困ったものだ。
今日は雑誌の紹介。
いつも購入している「グランドパワー」の11月号です。

こちらが表紙。
今月はアメリカの軽戦車、M3/M5シリーズの特集です。
37ミリ砲を搭載したM3/M5軽戦車は、大戦中期には米英両軍で活躍しました。
特に英軍は、信頼性の高さから「ハニー」と呼んで親しみました。
このM3/M5系列の発展を特集しています。
また、「フィンランドの三号突撃砲」では、なんと一両一両の三号突撃砲の履歴が掲載されてます。
ほかには日本の列車砲についても掲載されていて、これまた貴重な資料となってます。
今号も楽しめそうです。
じっくり読むことにいたします。
それではまた。
- 2009/10/02(金) 21:10:53|
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基地設営能力が低かった日本海軍は、陸上の滑走路がなくても穏やかな海面があれば発進できる水上機に力を入れておりました。
その水上機を有効に運用する手段として、日本海軍はいく種類かの水上機母艦を建造いたしましたが、その中の変り種が、ご紹介する「秋津洲(あきつしま)」でした。
秋津洲は、水上機母艦ではありましたが、一般的な水上機の母艦ではありませんでした。
なんと、あの九七式や二式大艇のような大型飛行艇専用の母艦だったのです。
日本へ向かって進撃してくるアメリカ艦隊を迎え撃つというのが、日本海軍の基本戦略でありましたが、そのためには長距離偵察のできる大型飛行艇は索敵にはなくてはならないものでした。
その長距離偵察を行なう大型飛行艇の支援と洋上補給のための母艦として秋津洲は建造されます。
設計段階では、艦尾に海面につながるスロープを持ち、そこから飛行艇を船上に収容する予定でありましたが、基準排水量4650トンの船体では二式大艇などに比して小さすぎ、結局艦尾のクレーンで飛行艇を吊り下げて収容する形になりました。
もっとも、収容と言っても大型飛行艇は翼を折りたたんだりできないので、通常の水上機母艦のように艦内に水上機を収納して行動するということはできず、単に補給や整備などを行なうだけのものでした。
秋津洲の完成は、昭和17年の4月というすでに太平洋戦争が始まっていた時期であり、完成した秋津洲はすぐに前線に投入されました。
そしてなんとそこで初めて二式大艇を搭載する試験を行い、実用上大艇の収容が可能であることを確認するという、まさに泥縄的な就役でした。
しかし、秋津洲が完成してすぐ、日本は守勢に追い込まれていくことになります。
秋津洲は本来の大型飛行艇母艦としての任務よりも、その艦形を生かした輸送任務に回されることが多くなりました。
飛行艇に対する補給物資を搭載するスペースには前線に対する物資を搭載し、また、場合によっては魚雷艇を搭載して前線に送り届けるなどという任務もやらされました。
飛行艇に対する整備能力もあったため、設備を増設して工作艦としても使われました。
四隻造られる予定だった同型艦は全て建造中止となり、秋津洲はただ一隻の飛行艇母艦でありながら、本来の任務にはほとんど使われなかったのです。
そして、昭和19年9月、フィリピンのコロン湾で米軍空母艦上機による攻撃を受け沈没。
短い生涯を終えました。
秋津洲も日本海軍の多くの艦と同様、その本来の目的とは違う任務に使われた艦でした。
いかに平時の設計が戦時には意味を成さなくなるかの見本のようなものだったかもしれませんね。
それではまた。
- 2009/10/01(木) 22:02:49|
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