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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

西南戦争(17)

官軍は参軍の山県有朋や川村純義、鹿児島征討総督の有栖川宮熾仁(たるひと)親王も博多に到着し、三浦梧楼少将の第三旅団も博多に上陸するなど着々と兵力の増強を図っておりました。

一方官軍の増強に呼応するように、薩軍もまた兵力の集中と防御陣地の構築を行ないます。
この防御陣地は官軍の主攻方向に対するために、北から味取山、金比羅山、田原、七本、轟、横平山、耳取、原倉、吉次、三ノ岳、大多尾、野出と長大な範囲に広がり、有明海にまでいたろうという長さのものでありました。

兵力は薩軍と党薩諸隊合わせて約七千名であり、その主力は田原に置かれておりました。
田原は高瀬から植木にいたる途中にある丘陵で、その高さは100メートルほどに過ぎないといいますが、この丘陵の中をくねくねと曲がりくねった切り通しの坂が通っており、これが田原坂と呼ばれます。

この田原坂は加藤清正が熊本城築城に合わせて北側の守りとして切り開かれたともいわれ、切り通しの峠道を左右の土手状の高所から攻撃できるため、守りやすく攻めづらい絶好の防御拠点となっておりました。

攻撃側には難所と思われる田原坂のことは、おそらく官軍とてわかっていたことでしょう。
しかし、官軍はここを通る必要がありました。

当時はまだ各地の道路が整備されていたわけではありませんでした。
街道といえども多くは道幅が狭く、軍勢の通行には適しておりませんでした。
特に攻撃力の中核となる大砲は、その移動に道幅の広い道路が必要でした。
博多方面から熊本にいたる道のりで、大砲を問題なく通すことのできる道幅がある道路は、この田原坂を通るものしかなかったといいます。
官軍はここを通るしかなかったのです。

明治10年(1877年)3月4日。
官軍はこの田原方面において、主力による攻撃を開始します。
田原坂に対する攻撃を主攻、吉次峠に対する攻撃を助攻とした一大攻撃でした。

官軍の参加兵力はおよそ一万五千とも言われます。
まさに官軍の全力と言ってもいい戦力でした。

しかし、攻撃三倍の原則から考えると、防御拠点に篭る薩軍七千に対しては不足といわざるを得ません。
事実、官軍は以後この地において非常なる苦戦を強いられることになるのです。

田原坂方面では、近衛第一連隊第一大隊を中核とする主隊が、豊岡、平原に位置する薩軍右翼を攻撃。
しかし、側面からの薩軍の攻撃を受け、大きな損害を出して敗退します。
田原坂を攻め上った第十四連隊の一部も一の坂で釘付けとなり、損害ばかりが増えて行きました。

攻撃が進捗しないことに危機感を覚えた第一旅団長の野津少将は、自ら部下の督戦に出向き、前線付近で兵に酒を振舞うなどしましたが、兵のがんばりにもかかわらず、薩軍の防備を抜くことはできませんでした。

午後遅く、戦場には激しい雨が降り始めます。
先込め銃が主である薩軍は、この雨で火力が減衰し、防御力が弱まりました。
野津少将はここがチャンスとばかりに各部隊に突撃を命じます。
突撃ラッパの鳴り響く中、官軍はいっせいに薩軍目がけて飛び出しましたが、薩軍もこれに応戦。
火力の減衰を薩軍自慢の白兵斬り込みで補い、官軍を斬り捨てて行きました。

結局この突撃も撃退され、官軍のこの日の攻撃は失敗に終わります。
かろうじて田原丘陵の向かいに位置する二股台地を占領し、成果が何もないという事態だけはまぬがれました。

一方官軍の助攻である吉次峠の戦いでは、薩軍にも手痛い損害が出ることになりました。

官軍は第一旅団長の野津少将の弟である野津道貫大佐が、二個大隊を率いて朝の濃霧を利用して吉次峠に接近して行きました。
そして吉次峠のとなりにある半高山に攻め上り、これをほぼ占領というところまで行きます。

この官軍の行動を察知した薩軍は、篠原国幹と村田新八が部隊を率いて反撃に出ました。
薩軍は篠原が左翼、村田が右翼からと言う感じでちょうど官軍を挟撃する形になり、官軍はここでも損害が続出します。
官軍は左に対すれば右から、右に対すれば左から攻撃を受けると言ったありさまで、苦戦を強いられますが、このとき、官軍の江田国通少佐が薩軍内に一人の人物を認めました。

その人物は緋色の外套を羽織り、銀で飾られた刀を持っているという非常に目立つ格好をしていたといい、薩摩出身であった江田少佐には、その人物が誰なのかよく知っておりました。
その人物こそ、薩軍一番大隊長篠原国幹だったのです。

江田少佐は部下の中から射撃の名手を呼び寄せると、篠原の狙撃を命じます。
戦場に数発の銃声が響き、篠原は倒れました。

部下が目立つ格好をした篠原を必死に止め、何とか前線から下がってもらうよう進言したといいますが、篠原は死を覚悟していたのか聞き入れなかったといいます。
享年41歳でした。

篠原の戦死は薩軍に衝撃を与えました。
しかし、篠原の敵討ちとばかりに官軍に対する攻撃は強まり、指揮を取っていた野津大佐は負傷、江田少佐は戦死します。
午後三時ごろ、官軍はついに後退。
吉次峠でも官軍の攻撃は失敗に終わりました。

田原坂、吉次峠での官軍の損害は大きく、消費弾薬も当初予想の数倍に及ぶものでした。
たった一日の戦いでしたが、官軍にとっては悪夢の日でした。
一方の薩軍も、篠原国幹という指揮官を失い、戦いの前途に暗雲を感じました。
そして、田原坂を巡る戦いは、まだ始まったばかりでした。

(18)へ
  1. 2009/08/05(水) 21:14:41|
  2. 西南戦争
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トホホ・・・

もう先週のことになりますが、予想外の出費でトホホなことがありました。

前日まで何の問題もなく乗り回していた自家用車だったのですが、夜、父を外出先に迎えに行こうと思って車に乗り込むと、今まで点いていた室内灯が点きません。
はて? と思ってエンジンキーを回すと、これがなんの手ごたえもなくスターターが回りません。

もうこの時点で、うひゃー!! やっちまったー!! バッテリーが上がっちまったー!! なのですが、ヘッドライトを点けっぱなしにしたわけでもなく、まったく原因がわかりません。
何せ、前日まで何の問題もなく、ヘッドライトがエンジンの回転数によって明るくなったり暗くなったりなんてこともなかったのですから。

ともかく原因はどうあれ、エンジンをかけなくてはと思い、お隣さんにわけを話してジャンプコードでジャンプさせていただきました。
ところが、これでもスターターが回るほどにはなってくれませんでした。
ほかの電装系は作動したのですが、電圧が低すぎたのだと思います。

結局父を迎えに行くのは断念し、翌日は朝っぱらからバッテリーをはずして充電。
丸一日充電してみたところ、何とかエンジンがかかりました。

やれやれと思ったのもつかの間、翌日にはまたしてもうんともすんとも言わない我が車。
どうにもバッテリーが使い物にならなくなってしまったようです。

結局近所のホームセンターでバッテリーを購入。
取り替えたところ問題なくエンジンがかかるようになりました。

それにしても予想外の出費は痛たたたというところ。
バッテリーは冬よりも夏にへたれることが多いそうなので、皆様もこれからお盆帰省などの時には充分お気をつけくださいませ。

それではまた。
  1. 2009/08/04(火) 21:13:20|
  2. 日常
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今月はティーガー

毎月のことですが、「グランドパワー」の今月号を手に入れてまいりました。


こちらが表紙。

今月の特集は「ティーガーカラーズ」の三回目。
過去二回同様に、巻頭カラーでティーガーのカラーイラストが載ってます。
模型を作る方には重宝しそう。

ティーガーはやっぱりいいですね。
避弾経始をまったく無視した垂直の四角い装甲版に囲まれた車体は、なんとも言えず重厚でかっこよさを感じます。
今号でも各重戦車大隊の編成や戦隊の編成が豊富な写真とともに載っており、目を楽しませてくれますね。

第二特集では日本軍の火砲として四年式十五センチ榴弾砲が取り上げられてました。
さすがに口径15センチの榴弾砲ともなると、牽引には馬が六頭も必要だったんですね。
このあたり、日本ではなかなか牽引車でと言うわけには行かなかったみたいです。

それにしても徹甲弾とは違い、砲弾が炸裂したときの飛び散る破片で敵を殺傷する榴弾は、その砲弾がどのぐらいの破片を撒き散らすかの試験もちゃんと行なうんですね。
静止状態で砂井戸内で破裂させ、どの大きさの破片がどのぐらいの数出るか、一つ一つ破片を回収して調べるという気が遠くなるような試験も行なわれるらしく、大きさと破片の数を表した写真がちゃんと載ってます。

当時の野砲は発射するときにひも(拉縄:りゅうじょう)を引いて撃針をうごかすわけですが、今でも自走砲とかじゃない牽引型の野砲はひも(拉縄)引いて撃つみたいですね。
大砲そのものはそれほど変わってないと言うか進化しきってしまったのかも知れませんね。

それではまた。
  1. 2009/08/03(月) 21:10:21|
  2. 本&マンガなど
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辺境警備

ずいぶん昔に手に入れたマンガですが、きょう久しぶりに読み返しました。
懐かしかったのと、ストーリーの展開につい涙が・・・


こちらは角川版の一巻の表紙です。

紫堂恭子先生のデビュー作です。
今からもう20年も前の作品になってしまいますが、私にとっては思いいれの深い漫画です。

私とこのマンガの出会いは、私のしょうもない思いいれからでした。
この作品が「プチフラワー」に連載されていた当時、私はTRPGの「トラベラー:TRAVELLER」にはまっておりました。

「トラベラー」における舞台は宇宙における「辺境」でした。
そこでは「辺境戦争」などというものも行われていたのです。

「辺境」という言葉は私をがっちりと捕らえておりました。
「辺境」という言葉がつけば、もう何でもよかったと言っても過言ではありませんでした。

そんなときに、この紫堂先生の「辺境警備」のコミックス2巻を見つけました。
「辺境」という言葉がついていたこのマンガに、私は思わず惹かれちゃいました。

立ち読みでその素敵な世界観に魅せられた私は、1巻を探しましたが当時どこにもありませんでした。
やむを得ず2巻だけ手に入れ、連載中であることを知って「プチフラワー」の立ち読みまで始めました。(笑)

その後、第5刷目の1巻を手に入れることができ、以後もこの世界にのめりこむようになりました。
小学館の「プチフラワーコミック」版だけでなく、のちに角川から出た再販版も全部手に入れちゃうほどでした。

この「辺境警備」はとてもしっかりしたファンタジーです。
そして世界観もそうなのですが、登場人物が実にキャラが立っております。

女性がらみの不祥事で辺境の守備隊隊長に飛ばされた“隊長さん”ことサウル・カダフ。
銀の髪で女性と見間違われるほどの美貌の“神官さん”ことジェニアス・ローサイ。
(上の表紙のキャラはこの人)
この二人に呪術師のカイルや見分けのつかない兵隊さんたち、英雄であるがゆえに不死の呪いを受けてしまった背高さんなど、さまざまな人物がストーリーを進めます。

初期は辺境に飛ばされた隊長さんが、そこで遭遇する日常のさまざまなお話が主でしたが、中期からは世界に関わるシリアスストーリーになっていくなど変化していきます。
私は初期の話が好きですが、中期以降もなかなか捨てがたいものがあります。

現在では小学館版も角川版も絶版ですが、ホーム社のマンガ文庫版が出ているそうですので、よければごらんになってみてください。
なかなか面白いしっかりしたファンタジーマンガですよ。

それではまた。
  1. 2009/08/02(日) 20:21:38|
  2. 本&マンガなど
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西南戦争(16)

三次に渡る高瀬の戦いで官軍に一敗地にまみれた薩軍でしたが、まだまだその意気は盛んなものがありました。
山鹿に後退した薩軍は、そこで兵力を集結させ、またしても官軍に対する反撃を企てていたのです。

薩軍の狙いは官軍の拠点である南関でした。
ここを落とすことができれば、官軍は前線の高瀬と後方との連絡が絶たれ、高瀬を孤立させることができるのです。
そうなればその後の戦局も大いに薩軍に有利になるとの目論見でした。

山鹿には薩軍のほかにも「党薩隊」と呼ばれる反政府士族の部隊が集まってきておりました。
熊本県の反政府士族からなる「協同隊」と、宮崎県の反政府士族からなる「飫肥隊」です。
これらを加えた薩軍の総数は約三千名にもなり、桐野利秋が直接指揮を取って南関へと向かいました。

桐野は薩軍を二隊に分け、本隊(六小隊と協同隊)は豊前街道から、別働隊(四小隊と飫肥隊)は間道から南関へと向かいます。
本隊が山鹿から鍋田というところを通り、車坂という坂に出たあたりで、薩軍は官軍前衛と接触します。
明治10年(1877年)3月3日、午前8時ごろのことでした。

官軍の前衛は、車坂に塹壕を掘って布陣しておりました。
薩軍はこの前衛隊に攻撃を開始、激しい銃撃戦となります。
この時、戦場の側面を移動中であった熊本の協同隊の指揮官平川惟一の胸を流れ弾が貫通。
協同隊はあっという間に指揮官を失います。
この平川は家柄でも身分でもなく選挙で指揮官に選ばれた人物で、当時としては珍しい方法で指揮官になった人物であり、人望の高さがうかがわれます。
その人望厚かった平川の死は、協同隊の人々には衝撃でした。

激戦は一時間ほども続き、官軍は支えきれずに長野原まで後退します。
しかし、官軍はこの後も長野原、梅迫口、腹切坂と後退と布陣を繰り返し、容易に薩軍の突破を許しません。
薩軍は桐野自らが前線で叱咤激励するものの、なかなか官軍の防備を崩すことができませんでした。

本隊の支援として後から戦場に到着した薩軍の野村忍助は、官軍の右翼が弱体と見てそこに攻撃を集中します。
この野村隊の攻撃は功を奏し、官軍はついに戦線が崩壊。
下岩までの後退を余儀なくされます。
また、腹切坂では福原大佐が負傷し、のちに死亡するという高級士官の損害も受けました。

こうして薩軍本隊は協同隊の指揮官平川という人材他いく人かの士官を失いましたが、官軍の防御を突破することができました。
また別働隊は間道を抜けたため、小規模な抵抗を順調に排除して夕方には板楠に到着しておりました。

損害は受けたものの、目指す南関まであと10キロメートルほどと迫った薩軍は、翌4日早朝、まさに出発せんとしておりました。
ところがここで運命の報告が舞い込みます。
薩軍の放っていた偵察隊が、凶報を持ち込んだのでした。
すなわち、「田原において薩軍敗退」というものでした。

薩軍の山鹿から南関への攻撃と前後して、官軍は田原方面で攻勢に出ておりました。
世に言う「田原坂の戦い」が始まったのです。
報告はその田原で薩軍が敗退したというものでした。

田原で薩軍が敗退したとなれば、熊本城まではわずかしかありません。
また、山鹿方面へと官軍が背後から迫ってくることも考えられます。
このまま南関を攻撃してもかえって挟み撃ちにされかねなくなってしまったのです。

桐野は苦渋の決断を下します。
薩軍は南関攻撃をあきらめ、山鹿方面へと後退して行きました。
南関の官軍は救われました。

しかし、山鹿近郊の鍋田まで後退した桐野は先の報告が誤報とわかります。
薩軍は田原で負けるどころか、激戦で官軍を食い止めていたのです。
このことは薩軍将兵に地団太を踏ませるには充分でした。
あの報告さえなければ南関は占領できた可能性は充分にあったのです。
薩軍はまたしても勝機を逸したのでした。

戦場に過誤や誤報は付き物ですが、薩軍にはこういった過誤や誤報が足を引っ張る場面が多く見られます。
維新の戊辰戦争を戦ってきた薩軍に何があったのか・・・
どうして桐野や篠原のような指揮官が錯誤を犯したのか・・・
このあたりは西南戦争の謎として今もよくわかっておりません。

ともあれ薩軍の南関攻撃は失敗に終わりました。
戦いの焦点はまさに田原坂へと移ることになりました。

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  1. 2009/08/01(土) 21:38:06|
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Author:舞方雅人
(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
どうぞ楽しんでいって下さいませ。

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