1930年代、各国の間では長距離侵攻を行い敵空域の奥深くまで侵攻して戦闘を行う長距離重戦闘機の開発が流行しておりました。
ドイツ空軍もその例に洩れず、双発で高速な長距離重戦闘機の開発に乗り出します。
この開発はヘルマン・ゲーリングの支持の元行なわれ、要求された仕様は双発で単葉の全金属製というものであり、さらに爆弾倉や大口径の機銃などの装備が盛り込まれておりました。
しかし、メッサーシュミット社(当時はまだBFW社)は、高性能であれば要求仕様が一部満たされなくても採用されるはずとの目論見から、爆弾倉無しのスマートな双発重戦闘機を設計します。
当初この設計案は当然要求仕様に沿っていなかったため試作許可がおりませんでした。
しかし、メッサーシュミット社の政治力などいくつかの要素が絡み、試作が許可されます。
試作された機体はBf110というナンバーが与えられ、試験に供されました。
Bf110は爆弾倉がないために機体がスマートで速度も速く、Bf109の初期型よりも高速の時速509キロという速度を出すことができました。
このため、ドイツ空軍ではメッサーシュミット社の思惑通り、要求仕様であった爆弾倉がないにもかかわらずに正式採用を決定します。
採用されたBf110は単発戦闘機と区別するために「駆逐機」という名称で呼ばれることになりました。
Bf110は20ミリ機関砲を機首下面に二門搭載し、機首上面には7.92ミリ機銃を四丁搭載するという戦闘機としては重武装のもので、高い攻撃力を持っておりました。
この攻撃力でポーランド戦や西方電撃戦では活躍し、戦闘機としての一定の評価を受けることになります。
しかし、英国上空での戦い、いわゆる「バトル・オブ・ブリテン」では、爆撃隊の護衛という任務が足かせとなり、速度の優位を生かした戦法が使えませんでした。
速度の優位さが使えないとなると、動きの機敏さでは単発戦闘機にどうしても敵いません。
Bf110は英国上空では散々な目にあってしまい、装備機の九割以上を撃墜されるという部隊も出てしまいます。
こうなると「敵上空奥深くで戦闘する」戦闘機としては不適格とされ、昼間戦闘機としてのBf110は終わりを告げました。
ですが、Bf110も別の用途に転用され、そこで新たな任務で花開くことになりました。
対地攻撃用の戦闘爆撃機や、夜間爆撃に来る爆撃機を迎撃する夜間戦闘機としての任務です。
もともとBf110の開発時の要求には爆弾倉の装備というのがありました。
メッサーシュミット社はそれを無視したわけですが、胴体下部に爆弾を吊り下げても、Bf110は充分な(戦闘爆撃機としての)性能を発揮することができたのです。
Bf110は、わりと性能の低いソ連機のおかげで制空権をまだ確保できた東部戦線では存分な活躍をすることができました。
ソ連軍地上部隊にとってはBf110は大きな脅威となったのです。
また損害の多さから夜間爆撃に移行した英国長距離爆撃隊にとっても、Bf110は疫病神となりました。
夜間戦闘機に新たな道を見出したBf110は、赤外線照準機やレーダーなども装備され、また武装も強化されるなどして夜のドイツの上空を飛んだのです。
英国爆撃隊は、夜もまた多くの損害を出すことになったのでした。
戦争後半になると、さすがのBf110も旧式化して戦闘爆撃機としても夜間戦闘機としても役者不足となりますが、戦争中盤までは同じメッサーシュミット社の単発戦闘機Bf109とともにドイツの空を駆け抜けました。
まさにドイツ空軍を代表する機体の一種といえるでしょうね。
それではまた。
- 2009/07/29(水) 21:28:27|
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