戦争は終わりました。
「パリ条約」により、欧州には再びつかの間の平和が訪れることになりました。
しかし、それがわずかの間のことであろうことは、各国にはわかりきったことでもありました。
フランス皇帝ナポレオン三世は、この「クリミア戦争」で大いに威信を高めたと思い込みました。
セバストポリを陥落させることができたのは、間違いなくフランス軍の力のおかげであり、欧州の強国としての地位は安泰と思われました。
そのため、彼はさらに威信を高めフランスの力を誇示するべく外征を繰り返すようになります。
そしてついに、プロイセンとの普仏戦争(1870年-1871年)において完膚なきまでに敗北し、その政治生命を絶たれることになります。
サルディニア・ピエモンテ王国は、この「クリミア戦争」終結に尽力したとして、欧州各国にその名を知らしめることに成功いたしました。
「パリ和平会議」においても、サルディニア代表のカミッロ・カブールは、「クリミア戦争」にはなんら関係のないはずのオーストリアのイタリア半島北部地域への圧迫を訴え、欧州各国の関心を引いてのちに行なわれたイタリア統一戦争に大きな助力を得ることができました。
英国は、アバディーン内閣の後のパーマストン内閣が、この際ロシアをもう少し痛めつけたいと戦争継続を望んでいたものの、英国経済も疲弊のきわみにあってこれ以上の戦争継続は難しい状況でした。
「パリ条約」により、ロシアの黒海から地中海への出口はふさぐことに成功したものの、以後英国は中央アジア方面でロシアと対立を深めていくことになります。
そして、ナイチンゲールの活躍によって医療面では大いに進歩が見られたものの、軍政改革を行なった陸軍はその後も戦術面での進歩は見られず、いくつもの戦いで大きな損害を出すこととなるのでした。
オスマン・トルコもロシアの圧力を跳ね返すことには成功したものの、莫大な戦費を借金でまかなうしかなかったため、国家の衰退が顕著になっていくことになります。
領内のキリスト教徒の地位向上を約束させられた結果、そのキリスト教徒を足がかりとして欧州各国の勢力が浸透してくるのを防ぐことは難しくなり、また、戦勝国であるにもかかわらずロシア同様に黒海の艦隊と軍港の所持が禁止されたことは大きな痛手でありました。
そして、ロシアはまったく得るものがなかったといっていい戦争でした。
営々と築き上げてきた黒海とバルカン半島周辺への影響力を一挙に失い、人的損害も膨大なものでありました。
また、産業革命を経ていないロシア軍は、いかに数的優勢であろうとも質的に劣勢であり、戦場での主導権を得ることができないということを思い知らされる戦いでもありました。
アレクサンドル二世はこのことをひどく憂慮し、ロシアの国家改革を推し進めます。
農奴解放や軍政改革など多くのことを上から行い、ロシアの近代化を図りました。
この結果、ロシアはまた力をつけてくることになり、のちの日露戦争の遠因ともなるのです。
「クリミア戦争」はまた、日本にも影響のある戦争でした。
英仏が欧州に目を奪われ、日本を開国させようとしたロシアのプチャーチンも日本へ来るのが遅れます。
その間に「クリミア戦争」に一切関係を持たなかったアメリカが、マシュー・ペリー提督を日本に派遣し、幕府に開国させることに成功したのでした。
個々人にもこの「クリミア戦争」が影響を与えた人は多くおりました。
のちの「ノーベル賞」のその名を残すアルフレッド・ノーベルは、ロシア軍のために機雷設置を請け負い、大儲けをします。
しかし、戦争終結後に事業は行き詰まり、破産を余儀なくされました。
のちにトロイ遺跡発見で一躍有名となるハインリヒ・シュリーマンは、武器商人としてロシアに武器を密輸し、莫大な利益を上げました。
この利益が発掘事業の資金になったといわれます。
そして、スクタリの野戦病院で医療向上に努めたフローレンス・ナイチンゲールは、戦争終結後看護婦たちを帰国させ、最後の患者を見送ったのちにひそかにフランス経由で英国に戻ります。
大々的な歓迎を受けたくなかったとも、その帰国を人に利用されるのがいやだったからとも言われます。
帰国したナイチンゲールは、スクタリでの医療の実態をデータとしてまとめ、英国政府に提出します。
そのデータは女王にも一目でわかるようにされていたといわれ、スクタリでの死亡率の推移などを表した貴重なものでした。
ですが、このデータは逆にナイチンゲールを打ちのめしてしまいました。
スクタリの野戦病院で、じょじょに死亡率が低下していったのは、じょじょに衛生環境が整っていったからであり、汗水たらしてナイチンゲールら看護婦たちが看護に尽力したからではなかったということが示されていたのです。
あまりの衝撃にナイチンゲールは病に倒れますが、まだ若かった彼女はやがてその衝撃から立ち直ります。
そして医療そのものよりもまず公衆衛生を心がけることが必要とし、衛生的な病院の設計を請け負ったり看護婦の養成に尽力したりと、のちにつながるさまざまなことをなして行きました。
彼女の活動が、やがてアンリ・デュナンを初めとする人々に認められ、国際赤十字設立へとつながっていくのはよく知られたことだと思います。
「クリミア戦争」は、19世紀半ばに起きた欧州での大きな戦争でした。
参加国も多数に上り、列強同士の直接戦闘が行われた久しぶりの戦争でした。
そして、数多くの犠牲を出し、国家を疲弊させた結果結ばれた「パリ条約」は、ほぼ戦前の状態維持に等しいものでした。
ここでもまたむなしい戦争が戦われたというだけだったのです。
バルカン半島と黒海周辺での火種はこの後もくすぶり続け、ついには1914年の第一次世界大戦へと走り続けるのでした。
クリミア戦争 終
参考文献
「歴史群像2002年10月号 クリミア戦争」 学研
「歴史群像2004年4月号 バラクラヴァの戦い」 学研
「歴史群像2008年12月号 軍旗 スコットランド近衛隊の進軍」 学研
「コマンドマガジン日本版38号」 国際通信社
参考サイト
Wikipedia クリミア戦争 ナイチンゲール ナポレオン三世ほか
歴史のお部屋 クリミア戦争ほか
ニコライ一世の時代-専制体制の強化とクリミア戦争
セヴァストーポリ
予防医学という青い鳥(7) ナイチンゲール、ノブレス・オブリッジの生涯 挫折と病床でのたゆみない戦い
など
この場を借りまして参考にさせていただきました皆様に厚く感謝を捧げます。
ありがとうございました。
20回にわたり「クリミア戦争」のことを書かせていただきました。
拙い記事に最後までお付き合いくださいまして、まことにありがとうございました。
過去の歴史系記事と同様に、この記事もまた「クリミア戦争」のことを自分なりにまとめてみようと思ったのがきっかけでした。
今回もいろいろなことが調べているうちにわかって楽しいものでした。
今回も資料の簡易な引き写しです。
ですので、どうか皆様も興味がありましたら直接資料にあたってみてください。
歴史の面白さを再認識していただけると思います。
あらためまして、皆様今回もお付き合いくださり、ありがとうございました。
- 2009/05/09(土) 20:45:45|
- クリミア戦争
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