1855年9月8日。
連合軍兵士の突撃により、セバストポリの防御陣の一角を担っていたマラホフの塔がついに陥落いたします。
このマラホフの塔の陥落は、セバストポリの防御がついに打ち砕かれたことを意味しておりました。
もはやトートレーベン工兵中佐にも、セバストポリを守るすべはなくなりました。
ことここにいたっては、これ以上の防御戦闘が無意味であるとゴルチャコフ公は悟ります。
ゴルチャコフ公は港内に残った軍艦を自沈させ、生き残っている砲台も自己破壊するように命じました。
そして9月9日の夜にかけ、残存兵力を引き連れてセバストポリを脱出いたします。
ついにセバストポリが陥落した瞬間でした。
実に332日間(日数は数え方によって諸説あり)に及ぶ攻防戦が幕を下ろしました。
ロシア軍約十一万、連合軍約六万の死傷者を出したセバストポリ攻略戦は終わったのです。
セバストポリ陥落の報は各国へと伝わりました。
英国もフランスもこれで戦争は終わったと感じたことだったでしょう。
しかし、「クリミア戦争」はまだ終わりではありませんでした。
ロシア皇帝アレクサンドル二世にとって、この戦争は父ニコライ一世が始めたものであり、ロシア軍の損害を考えても一刻も早く終わらせたい戦争でした。
しかし、クリミア半島の要衝セバストポリを落とされ、負けっぱなしでこの戦争を終えることは、ロシア皇帝として許されるものではありませんでした。
そのため、「クリミア戦争」はまだ終わることができなかったのです。
セバストポリを落とされたロシア軍は、別方面での勝利を持って体面を保つことを考えます。
11月28日、オスマン・トルコ領の黒海沿岸の小都市カルスがロシア軍の攻撃により陥落。
開戦以来あまりいいところのなかったロシア軍は、久しぶりの勝利に沸きかえりました。
ですが、セバストポリ陥落が欧州各国に与えた影響は大きく、12月に入ると中立を保持していたオーストリアがロシアに対して最後通牒を発します。
さらには北方のスウェーデンも戦争に介入する気配を見せてきました。
最初はロシア対オスマン・トルコで始まった「クリミア戦争」は、途中から英仏が参戦し、さらにはサルディニア・ピエモンテが参戦、ついにはオーストリアが参戦一歩手前となり、スウェーデンも機をうかがうという一対六の戦争に発展しかねない状況になりました。
カルスを落としたことで一応の体面を保ったアレクサンドル二世は、ここで講和のテーブルに着くことを了承し、翌1856年1月にオーストリアの要求を受け入れ、2月にはフランスのパリで和平会談が開催されることになりました。
1856年2月25日。
パリで「パリ和平会談」が開催されます。
2月29日には参戦各国が停戦に合意。
戦闘が停止されました。
1856年3月30日。
「パリ条約」が締結され、「クリミア戦争」は正式に終戦となりました。
1853年にロシアとオスマン・トルコが戦争を始めてから三年にわたった「クリミア戦争」はようやく終わったのです。
ですが、「パリ条約」の内容は、ロシアにとっては非常にきびしいものでした。
連合軍によって占領されたセバストポリは返還されましたが、ロシア側もまた占領したカルスをオスマン・トルコへ返還することになりました。
さらにはボスポラス及びダーダネルス両海峡はどこの国の軍艦も通行してはならないと定められ、黒海に関しても中立の海としてロシア、オスマン・トルコ双方が艦隊の配備と軍港の保持を禁じられてしまいます。
これは英仏にとっては痛くも痒くもない取り決めでしたが、ロシアに関しては黒海を失ったに等しいものでした。
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- 2009/05/08(金) 21:23:09|
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