カレリア地峡部での攻撃も、中央部での攻撃も頓挫したソ連軍は色を失いました。
スターリンは、なぜわが軍は負けているのかと将軍たちを怒鳴りまくり、粛清によって優秀な指揮官を殺してしまったことをあらためて思い知りました。
そこでスターリンは、いったん攻撃の手を緩め、再攻勢に向けて戦力の立て直しを図ります。
総司令官にはティモシェンコ将軍を任命し、今までの総司令官メレツコフをはじめ何人もの将官が降格されたり解任されました。
ティモシェンコはスターリンの命に従い、フィンランド軍を撃破するために兵力の増強を開始します。
また装備も見直され、訓練も行なうことで歩兵と戦車の共同攻撃を可能にしたり、マンネルハイムライン突破用に完成したばかりのKV-Ⅱ型重戦車の投入も決定されました。
こうして約一ヶ月かけてティモシェンコはマンネルハイムライン突破のための準備を整えます。
スターリンにとって、じりじりと待ち焦がれるような一ヶ月でした。
ポーランドと同様にあっという間に決着がつくと思われていたフィンランドとソ連の戦争は、開始からほぼ二月が経過しようとしておりました。
ポーランドの救援に失敗した英仏は、フィンランドに対しても同情は寄せましたが、救援には消極的でした。
救援しようにも、そのころには終わっていると思われていたのです。
ところがフィンランドは粘っておりました。
このことで英国の態度がにわかに変わってきたのです。
英国はフィンランド救援の名目で北欧に兵力を派遣し、スウェーデンの鉄鉱石など北欧の資源地帯の確保をもくろみ始めました。
そうなるとドイツも黙ってはおりません。
北欧で新たな戦端が開かれる可能性が出てきたのです。
そうなると大国間の全面戦争になることが確実であり、そのことを危惧したスターリンは、一刻も早くこの戦争を終わらせなくてはなりませんでした。
スターリンは一日も早いマンネルハイムラインへの攻撃を切望していたのです。
1940年2月1日の空爆から始まったソ連軍のマンネルハイムラインへの攻撃は、その後の五日間にもわたる攻勢準備砲撃と威力偵察でフィンランド軍の防御体制を確認し、2月11日に本格的な攻撃が始まりました。
カレリア地峡部に集結したソ連軍は約60万。
大砲は約4000門。
戦闘用装甲車両は約2000両という膨大な兵力で、しかもティモシェンコは消耗をいといませんでした。
ソ連軍の兵力が尽きる前に、フィンランド軍のほうがずっと早く兵力が尽きるであろうことを見越しての消耗戦の選択だったのです。
ソ連軍が消耗戦に出てきたことで、フィンランド軍は苦境に陥りました。
予備兵力のほとんどないフィンランド軍は、失った兵力を補充することができないのです。
一方ソ連軍は、損害を受けた師団を後退させ、常に無傷の師団を投入し続けることで、兵力の優位さを発揮することができました。
また戦車と歩兵も共同し、フィンランド軍に付け入る隙を与えません。
マンネルハイムラインが突破されるのは時間の問題となりました。
ことここにいたり、フィンランド軍司令官マンネルハイムはついにマンネルハイムラインの放棄を決断します。
マンネルハイムラインで戦っているフィンランド軍は、すでに兵力が半分から三分の一にまで減っていました。
高校生が銃を取り、コックも事務員も戦いました。
しかし、兵力はもはや尽きていたのです。
フィンランド軍はついにマンネルハイムラインを放棄、2月27日にはヴィープリ市前面の最終防衛戦まで後退を余儀なくされてしまいます。
政府はマンネルハイムに状況を確認し意見を求めました。
マンネルハイムはまだ戦えるうちに和平を結ぶべきだと言ったといいます。
3月8日、フィンランドとソ連の間で停戦交渉が始まりました。
ソ連側の出した条件は、戦前よりもさらに厳しいものでしたが、フィンランドという国自体がなくなるものではなく、フィンランドとしては受け入れるしかありませんでした。
1940年3月13日午前11時。
停戦が成立し、すべての戦闘が停止しました。
「冬戦争」は終わったのです。
「冬戦争」によって、フィンランドは国土の約一割近くがソ連に奪われる形になりました。
第二の都市であったヴィープリもソ連領となり、ヴィープリは今でもヴィボルグとしてロシア領となっています。
約42万人が住みなれた土地を追われ、フィンランドの別の土地へ移ることになりました。
約2万5千人もが戦死したこの戦争で、戦争をするよりも失った国土が大きかったことにフィンランド人は衝撃を受けました。
フィンランド人は領土回復の機会を狙って、以後ナチスドイツと接近することになります。
そして1941年6月の、ドイツのソ連侵攻に歩調を合わせ、フィンランドとソ連は再び戦争状態に入ることになりました。
いわゆる「継続戦争」の始まりでした。
一方、戦争目的を達成したソ連ではありましたが、損害は大きなものでした。
この「冬戦争」での死者数に関しては、ソ連崩壊後に明らかになったそうで、それによると約8万5千人が戦死または戦病死したというものでした。
また負傷者にいたっては約25万人といわれ、小国相手の戦争としては未曾有の大損害を出したといっていいでしょう。
ソ連はこの戦争での自軍の問題点を洗い出し、教訓として改善に取り組みました。
そしてその結果、ソ連軍は大幅に戦闘力をアップすることになるのです。
のちにヒトラーは、この「冬戦争」でのソ連軍の弱体ぶりに目をつけて、ソ連侵攻を決断したといわれます。
ですが、そのときにはすでにソ連軍は「冬戦争」当時のソ連軍ではありませんでした。
そしてモスクワ前面において、今度はドイツ軍がソ連軍に翻弄されることになるのでした。
参考文献
「ポーランド電撃戦」(第二次大戦欧州戦史シリーズ1) 学研
「歴史群像2005年12月号」 学研
参考サイト
Wikipedia「冬戦争」
五回にわたりました冬戦争もこれで終了です。
SU-152の記事に絡んで書き始めましたが、北欧の小国対ユーラシアの大国が互角以上の勝負をしたというのはすごいですよね。
もともとロシアと仲がよくなかったフィンランドは、日露戦争の日本のがんばりにすごく感銘を受けたとかで、トーゴー(東郷)ビールなんてのもあったとか。
意外なつながりがあったんですよね。
それではまた。
- 2008/10/28(火) 20:33:38|
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