1939年12月6日、ソ連軍はマンネルハイムラインへの攻撃を開始しました。
砲兵による潤沢な砲撃に始まり、まず戦車が前進。
そして歩兵が追随します。
ソ連軍にとっては、マンネルハイムラインなどいかほどのこともない。
そう思わせるような攻撃でした。
しかし、ソ連軍の攻撃は、じょじょに勢いを失います。
国土防衛の熱い思いを抱いたフィンランド兵の旺盛な士気は、少々のソ連の攻撃ではびくともせず、逆にソ連軍に甚大な損害を与え始めていたのです。
彼らの主要な武器は戦車でも対戦車砲でも重機関銃でもありません。
もちろん数少ない対戦車砲や重機関銃も充分に威力を発揮しましたが、それ以上に彼らフィンランド軍が多用したのは「モロトフのカクテル」と通称される火炎瓶でした。
これはガソリンなどの発火する液体をガラスビンにつめ、火をつけて投げつけるもので、特に奇をてらったものではなく前線でも簡単に作れるものですが、フィンランドはこの火炎瓶をなんと国営醸造所で大量に生産し、約五万本も作られたそうです。
「モロトフのカクテル」という通称は、ソ連軍がこの戦争でフィンランドに焼夷弾を投下していることを諸外国に非難されたとき、ときのソ連外相モロトフが、あれは焼夷弾ではなくパンを投下しているんだと嘯いたことから、焼夷弾のことを「モロトフのパンかご」と呼ぶようになり、そこから転じて、ソ連外相モロトフに捧げる特別製のカクテルという意味で付けられたといいますが、真偽のほどは不明です。
ですが、この冬戦争以降、火炎瓶といえば「モロトフのカクテル」と呼ばれるほど、この名称は普及していくことになりました。
「モロトフのカクテル」は手で投げつける兵器ですから、当然敵に接近しなくてはなりません。
撃たれるかもしれない中で、敵に接近し投げつけるのは相当な勇気が必要だったことでしょう。
しかし、祖国防衛の思いに燃えるフィンランド軍の兵士たちは、この「モロトフのカクテル」をソ連軍戦車に次々と投げつけて行きました。
ちょうどこの年の夏、ノモンハンの戦場で日本軍の火炎瓶攻撃にソ連は数多くの戦車を失っておりました。
そのため、ジューコフは戦車を燃えやすいガソリンエンジンから燃えづらいディーゼルエンジン装備車両に交換して、何とか日本軍の火炎瓶攻撃に対処しました。
ですが、その戦訓はここフィンランドでは生かされておらず、ソ連軍はまたしても火炎瓶攻撃に多量の戦車を失うことになるのです。
フィンランド軍第5師団などは、六日間の戦闘で、52両ものソ連軍戦車を撃破したのでした。
また、ソ連軍の攻撃のやり方にも問題がありました。
砲撃のあとでまず戦車を突進させ、歩兵を随伴させなかったのです。
外を見づらい戦車は死角が多く、敵歩兵の接近に気がつかないことが多いため、本来なら戦車の死角を歩兵が一緒についていってカバーするのです。
しかし、今回は歩兵が一緒についてきていないので、フィンランド軍の兵士は勇気さえあれば戦車に近づくことが可能でした。
しかもフィンランド軍兵士は皆その勇気を持っておりました。
投げつけられた火炎瓶は戦車の装甲で割れ、中の液体に着火します。
火のついた液体は、うまく行けば戦車のエンジンカバーの隙間や空気取り入れ口などからエンジンルームに流れ込み、エンジンを発火させるのです。
ガソリンエンジンは特に発火しやすく、この方面の戦車はほとんどがガソリンエンジン装備車両だったため、ソ連軍は戦闘終結までに200両を超える戦車を失うことになりました。
また、猜疑心の強かったスターリンによる赤軍将校の大粛清が、ソ連軍の能力を低下させておりました。
有能な将校はほとんどが粛清され、無能で毒にも薬にもならない人物しか残っていなかったため、ソ連軍はただ数に任せた突撃を繰り返すしか能のない有様でした。
そのため数が少ないフィンランド軍でも、的確な防御が行なえればソ連軍の突破を許さずにすんだのです。
カレリア地峡マンネルハイムラインに対するソ連軍の攻撃は、こうして先細りになり、12月末には手詰まり状態となりました。
ソ連は別方面での戦果に期待しなくてはならなくなったのです。
- 2008/10/26(日) 20:49:26|
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