大薮春彦先生の小説のタイトルのパクリですが、昨日リクエストがありましたので、今日はソ連軍重自走砲SU-152についてです。
1939年、ドイツ軍のポーランド侵攻に端を発した第二次世界大戦ですが、まるで漁夫の利を得るかのようにソ連もポーランドの半分を奪い取ってしまいます。
このことはあまり知られていないかもしれませんが、ポーランドに止めを刺したのはソ連だったといっても過言ではないのです。
これに味を占めたのか、ソ連はその後バルト海沿岸諸国(ラトビア・エストニア・リトアニア)を無理やり併合し、フィンランドにも食指を伸ばします。
フィンランドとは不可侵条約を結んでいましたが、ソ連は自軍に向けて発砲しそれをフィンランド軍の発砲によるとして戦争を開始。
まるで極東の某国のようなやり方です。
スターリンはフィンランドごときはすぐに占領できるとふんでいたものの、意外にも苦戦。
真冬の戦いでありながら、寒さに慣れたシベリアの兵を送らずに暖かいウクライナの兵を送ったりしたために凍死者が続出するような有様でした。
また、実際フィンランドのマンネルハイム将軍による防御ラインは強力で、当時のソ連戦車では防御ラインの突破が難しく、強力な火砲を積んだ重装甲の戦車、もしくは自走砲がほしいという前線の要求は切なるものがありました。
こうしてソ連軍内に要塞的な重防御拠点に対する攻撃兵器として、重榴弾砲を搭載した重戦車もしくは重自走砲というものの開発機運が生まれました。
(重ばっかり(笑))
こうして急遽作られたのが、SU-100Yという試作自走砲でした。
SUはスマホードナヤ・ウスタノフカの頭文字で、自走装置と訳されるものだそうです。
SU-100Yという名称から、100ミリ砲を搭載していたと思われがちなのですが、実際は130ミリ海軍型重砲を搭載したものでした。
ベースとなった車両がこれまた試作戦車のT-100というものだったので、名称も100になったようです。
対フィンランド戦に間に合わせるためになんと十四日間という短期間で急遽作られたSU-100Yでしたが、哀れなことにそれよりも早くフィンランドとの講和が成立してしまいます。
試作戦車の車体で作った試作重自走砲という試作の域をでなかったSU-100Yは実戦に使われることなくここでお役御免となってしまいました。
これ以後、重防御拠点攻撃には、KV戦車の車体を使った152ミリ榴弾砲搭載型のKV-2が当たることになります。
独ソ戦が1941年に始まるまで、ソ連軍内では重自走砲などというものは必要とされませんでした。
重装甲のKV-1が対戦車任務に当たり、同じく重装甲のKV-2が敵防御拠点を粉砕すると考えられていたからです。
ところが、独ソ戦が始まってみると、ドイツ軍の三号突撃砲という中型自走砲が実に見事に歩兵支援を行なうことがわかりました。
このことから、ソ連軍内でも歩兵支援用の中型自走砲が求められたのはSG-122(A)やSU-122の記事でも書いたとおりです。
しかし、重装甲で大口径砲を持つ重自走砲などというものは求められませんでした。
何より運用が大変だし、中型自走砲でも充分任に堪えるからです。
ところがこの風向きが変わります。
前線から悲鳴が届いてきたのです。
1942年になって戦場に姿を現した猛獣。
ティーガーの出現でした。
ティーガーの登場はソ連軍にとっても衝撃でした。
ドイツ軍がT-34やKV-1に衝撃を受けたように、ソ連軍はティーガーショックに陥りました。
何せティーガーは、当時のソ連軍の主力対戦車砲である45ミリや76ミリ砲の砲弾をものともしなかったのです。
ソ連軍はティーガーを捕獲してあらゆる大砲で試験を試みました。
その結果、かろうじて152ミリ榴弾砲や203ミリ榴弾砲が徹甲榴弾の使用でティーガーの装甲をどうにか貫通することができるということを知ります。
しかし、152ミリ榴弾砲や203ミリ榴弾砲などというものは、重くて移動にも布陣にも手間取ります。
ティーガーが現れたからといって、おいそれとは動かせません。
自走化の必要がありました。
自走化するといっても、重い大砲を載せる車体にも限りがあります。
203ミリ砲の搭載は早々にあきらめられました。
搭載砲は152ミリ榴弾砲ML20Sに絞られ、車体は重装甲戦車の車体を支えてきたKV-1のものを使用することに決定します。
急ぎデザインが決められ、これまた短時間で(ソ連側資料では二十五日間で)完成したのが、152ミリ榴弾砲搭載の重自走砲SU-152でした。
SU-152はまさに背の低い完全密閉型戦闘室に152ミリ榴弾砲が突き出していると言った感じで、デザイン的に見るべきものがあるわけではありません。
しかし、何より大破壊力の152ミリ榴弾砲を搭載した車両であり、期待されていたことは間違いないでしょう。
装甲は正面で75ミリとそれほど厚いものではなかったのですが、そこは低い車体でカバーと言ったところでしょうか。
弱点といえば、砲弾がさすがに152ミリ砲ともなれば弾頭部分と発射薬部分が別々のため、発砲に時間がかかるのと搭載弾数が20発程度しかないというものぐらいでした。
量産が開始されたSU-152は、1943年のクルスクの戦いに投入されることになりました。
この戦いは独ソ双方の戦車が大量に戦った戦いとして有名ですが、ドイツ側がパンターやフェルディナントといった新型を投入したのと同様に、ソ連もSU-152を投入したのです。
戦場に投入されたSU-152は、持ち前の主砲の破壊力で次々とドイツ軍の戦車を撃破して行きました。
ティーガーやフェルディナントも手当たり次第に撃破したというのがソ連軍資料なのですが、これは誤認が多くほとんどは四号戦車や三号突撃砲だったそうです。
しかし、プロパガンダの意味合いからか、SU-152がドイツ軍のティーガーやフェルディナントを撃破したことは大いに宣伝され、「ズヴェラボイ」(野獣ハンター)というあだ名を付けられて、ソ連軍将兵にとっては頼もしい重自走砲として頼りにされました。
こちらものちにSU-122同様にIS戦車の車体を使ったISU-152へと発展し、生産は700両程度だったそうですが、そのインパクトは強く、ドイツ軍にとっては遭遇したくない自走砲だったのではないでしょうか。
それではまた。
- 2008/10/18(土) 20:27:57|
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