1941年に始まった独ソ戦で、ドイツ軍は歩兵を支援し敵防御火点を制圧する突撃砲という自走砲を前線に投入しました。
三号戦車の車体に75ミリ砲を搭載した三号突撃砲は、その任務をよく全うし、ドイツ軍兵士にとってすごく頼りになる支援車両となりました。
この三号突撃砲の活躍ぶりは、ソ連軍内でも高く評価され、同様の車両を求める声が上がります。
そこでソ連軍は、モスクワ攻防戦などの折に捕獲した三号突撃砲を整備した上で自軍部隊に配属したりしましたが、整備するだけで使用可能な三号突撃砲は数が少なく、また破損した三号戦車の再利用なども考慮に入れて、独自の三号突撃砲を作ろうという話が持ち上がります。
ソ連軍は、ドイツ軍の75ミリ砲を使うよりも、自軍の装備である122ミリ榴弾砲M-30を使えば、弾丸の補給も容易だし何より破壊力が大きくなると思い、この122ミリ砲を搭載した三号突撃砲を作りました。
これが以前当ブログでも紹介したことのあるSG-122(A)でした。
(
2007年11月05日記事参照)
ところが、このSG-122(A)は、試作車両が作られてはみたものの、燃料搭載量の少なさなどから改良の余地ありとされ、その改良に手間取ってしまいます。
さらに車体自体が再利用品であるために、ドイツ軍から捕獲しなくてはならないという前提条件がありました。
つまり、いつでも望む数量を作ることができるものではなかったのです。
そこでソ連軍はこの歩兵支援のための122ミリ榴弾砲M-30を搭載する自走砲というコンセプトの元に、すでに量産されているT-34の車体を使おうということに決まります。
これはある意味当然のことだったでしょう。
いつ手に入るかわからないものを当てにするわけには行かないですからね。
デザインとしては、三号突撃砲同様に密閉式の装甲で覆われた戦闘室に122ミリ砲を搭載し、極力背の低い車両にするというものでしたが、もともとの車体が垂直装甲で覆われていた三号突撃砲に比べ、正面が傾斜装甲で作られていたT-34の車体を利用したことで、その傾斜装甲をそのまま上部に伸ばしたようなスマートな正面となり、合わせて耐弾性能も有効性が高まるというものとなりました。
こうして作られた試作車は、三号突撃砲に無理やり122ミリ砲を搭載した感じのSG-122(A)よりも車内での操作性が優れ、またT-34のパーツをかなりの部分(約70%といわれます)流用することができるので、量産性もかなり高いものとなることが予想されました。
試験の結果はもちろん良好で、機動性もよく破壊力にも優れる新型自走砲はSU-122として正式に採用されました。
1943年初頭から戦場に姿を現したSU-122は、深い雪もものともしない機動性を発揮して各地で奮戦。
ドイツ歩兵に対してはその威力ある榴弾でトーチカや防御拠点ごと吹き飛ばし、ドイツ軍の切り札的に登場したティーガーに対しては対戦車用成型炸薬弾で撃破したり、通常の榴弾でも当たり所次第では行動不能にすることができたりしたそうで、まさに対歩兵対戦車両面で活躍した有力な自走砲となりました。
のちにはIS重戦車の車体を利用したISU-122が作られたことで、SU-122はわりと早い時期に生産が終了しますが、クルスクの戦い前後のソ連軍にとっては、まさになくてはならない自走砲だったのです。
それではまた。
- 2008/10/17(金) 20:41:31|
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