のっけから勇ましいこのセリフは、ドズル中将がソロモン攻略戦で発したものではありません。(笑)
世界三大提督の一人と目されるアメリカの「ジョン・ポール・ジョーンズ」提督(1747-1792)が言ったといわれるセリフなのです。
ジョン・ポール・ジョーンズは、スコットランドに生まれましたが、12歳のときから船乗りとしての経歴を重ね始めました。
商船乗りでしたが、奴隷貿易船に乗り組んだり、船長時代に乗組員を刑罰で死なせてしまったりして、前半生はあまり評判のよくない状況だったようです。
兄がバージニア植民地で裕福な暮らしをしていたため、兄の下で勉学に励んだり人脈作りに力を入れたりできたようで、アメリカではそこそこ名の売れた船乗りになれました。
そんな折、アメリカ独立戦争が始まります。
アメリカの植民地13州の代表は、大陸会議という会議をいわば政府として、ジョージ・ワシントンに陸軍の指揮をゆだね独立戦争に入りました。
そして、英本国と植民地駐屯軍との連絡を遮断するためにも、海上戦力が必要となり、大陸会議はジョセフ・ヒューズの元に大陸海軍(大陸会議の海軍)を設立。
ジョン・ポール・ジョーンズは、その大陸海軍に自らを売り込み、海軍士官として採用されることになりました。
士官となったジョーンズは、着々と実績を積むことに成功し、ついに自分の指揮する艦をもらうことができました。
最初の指揮艦はスループ(フリゲートより小型の軍艦)の「プロヴィデンス」でしたが、その後大陸海軍の旗艦を務めたこともあるフリゲート「アルフレッド」を指揮する栄誉に恵まれます。
アルフレッドを指揮したジョーンズは、持ち前の能力を発揮して戦果を重ねます。
当時の大陸海軍は、いわば第一次や第二次世界大戦のドイツ海軍のようなもので、正面切って英国海軍と戦うわけではなく通商破壊に従事しており、英国の商船を何隻も捕獲したりしていたのです。
この戦果に大陸会議は一度はジョーンズを大陸海軍の司令官職に任命しようとしました。
しかし、ほかの艦長たちの嫉妬や部下たちからの評判の悪さ、コネで海軍内での地位を獲得してきたやり方などで反発を招いたらしく、司令官職はお流れになってしまいます。
それどころか、アルフレッドの艦長職まで取り上げられ、指揮する艦すらなくなってしまいました。
しかし、ジョーンズの能力を惜しむ者もおり、そういう人たちの力で彼は再びスループ「レンジャー」の艦長に返り咲きました。
ちなみにレンジャーは、初めて星条旗を掲げた軍艦だそうで、アメリカ植民地をアメリカ合衆国として承認したフランスによって、国際的儀礼である礼砲を送られた軍艦としてアメリカ史上に名を残す艦だそうです。
ジョン・ポール・ジョーンズはこのレンジャーを指揮してまたしても暴れまわります。
英本土に上陸して住民を驚かせるわ、セント・メアリー島にある伯爵家の屋敷から銀食器を盗み出すわ、英国のスループを捕獲するわとまさに縦横無尽。
英国にとっては頭が痛いことだったでしょう。
こうしてジョーンズは再び名を上げ、またフリゲート「ボンノム・リチャード」の艦長となります。
このボンノム・リチャードは、もともとは武装商船のようなもので、建造されてからかなり年月を経たボロ船だったのですが、それを改装してフリゲートに仕立て直したものでした。
ジョーンズはこのボンノム・リチャードを旗艦として、小規模の艦隊を率いて英国沿岸での通商破壊に向かいます。
英国のフラムバローの沖に来たとき、ジョーンズは英国の船団を発見しました。
このとき、英国船団の護衛についていたフリゲート「セラピス」がボンノム・リチャードに挑戦します。
おんぼろフリゲートのボンノム・リチャードよりも優秀な艦でした。
強力な砲を持ち優秀な乗組員を擁するセラピスは、ボンノム・リチャードに対して終始優位に戦いを進めます。
幾度かの砲撃でボンノム・リチャードは満身創痍となり、搭載砲も半分以上が使用不能に追い込まれて行きました。
勝負が付いたと見たセラピスの艦長は、軍艦旗を下ろして降伏するように勧告します。
ここでジョン・ポール・ジョーンズが言ったのが、表題の言葉「戦いはこれからだ!!」(I have not yet begun to fight)でした。
砲撃戦では勝ち目がないと思ったジョーンズは、セラピスに対して接近戦を挑みます。
ボンノム・リチャードは無理やりセラピスに絡みつき、乗組員たちがセラピスに飛び移っての白兵戦となりました。
白兵戦はなんとボンノム・リチャード側の勝利に終わり、セラピスは捕獲されてしまいます。
最後まであきらめなかった名指揮官として、ジョン・ポール・ジョーンズの名は不滅のものとなりました。
こうして大陸海軍の英雄となったジョン・ポール・ジョーンズでしたが、独立戦争終結に伴い海軍は解散。
職を失ったジョーンズはロシアへ行き、そこでまた海軍士官として働きます。
しかし、彼の絶頂期は過ぎてしまったのか、ロシアではさほど活躍もできず人間関係のトラブルからロシアを離れフランスへ。
フランスでも不遇な生活を過ごし、45歳という若さで亡くなりました。
世界三大提督の一人とはなっておりますが、ほか二人がネルソンと東郷平八郎であることを考えると、どうしてもワンランク下という感じがしてしまいます。
おそらくアメリカ合衆国の地位向上に伴い、アメリカ海軍の英雄である彼が、世界三大提督の一人に加えられたのかもしれませんね。
もちろん彼自身が不屈の闘志を持つ船乗りだということに異論はありません。
それではまた。
- 2008/10/15(水) 20:29:14|
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