第一次世界大戦の終結に伴い、ヨーロッパでは多くの国家の国境や勢力圏が変わりました。
中でもかつてはハプスブルグ家の大国として君臨していたオーストリア=ハンガリー二重帝国は崩壊し、オーストリアとハンガリーという二つの国家に分断します。
しかもそれは第一次世界大戦の敗北によるものだったため、領土を大幅に削られてのことでした。
このときにオーストリア=ハンガリーから大幅な領土を獲得し、一躍バルカン諸国の中で領土的に大きな国になったのがルーマニアでした。
オーストリア=ハンガリーの一部だったトランシルヴァニアなどを獲得したことで、以前の倍以上に国土が広がったのでした。
しかし、これは独立した国家となったハンガリーにとっては屈辱でした。
旧領回復のため、以後ハンガリーは第二次世界大戦にいたるまでドイツに接近し、ルーマニアを仮想敵国として認識します。
広大な領土を得たルーマニアは、その領土防衛のためにも軍事力の強化を図ります。
ハンガリーだけでなく、新たに成立したソ連が虎視眈々とバルカンの領土を狙っていたのです。
第一次世界大戦で芽を出した戦車という新兵器は、その後の世界恐慌などもあり軽量小型の安価なものが世界的にもてはやされておりました。
二人乗りぐらいの大きさで機関銃を一丁か二丁搭載するだけの、カーデン・ロイド型軽戦車がベストセラーとなっていたのです。
軍の近代化を図るハンガリーが、イタリアのカーデン・ロイド系列の軽戦車L3(2008年5月10日当ブログで紹介)を購入したのをきっかけに、ルーマニアでも戦車を購入しようという動きが起こりました。
当然、どこから購入するのかという話になりますが、ルーマニアが選んだ相手国はチェコスロバキアでした。
第一次世界大戦後、チェコスロバキアは優れた軍事産業を持つ世界有数の武器輸出大国でした。
武器そのものだけでいえば世界第二位の輸出量だったと言います。
のちにヒトラーのドイツもその軍事産業を手に入れるべくチェコを併合し、スロバキアを分離独立させました。
このチェコで生産された35(t)や38(t)戦車が初期のドイツ軍の電撃戦の主力となったと言っても過言ではありません。
チェコスロバキアは優れた戦車生産技術を持っていたのです。
ルーマニアからの戦車購入の申し出に、チェコスロバキアは喜んで応じました。
そして国内二つのメーカーから、何種かの戦車を提示したのです。
ルーマニアが最終的に選んだのはCKD社のAH-Ⅳという戦車でした。
当時のベストセラー、カーデン・ロイド系列の軽戦車と同じく、二人乗りの機関銃を二丁搭載する小型の軽戦車です。
もともとこのAH-Ⅳという戦車は、当時同じように軍の近代化を進めていたイラン政府による購入申し入れにより開発された戦車でした。
今までのカーデン・ロイド系列の戦車とは違い、大きな転輪を採用した足回りは近代的で、不整地走行性能も優秀なものでした。
また、武装も機関銃だけとは言え、今までのカーデン・ロイド系列の軽戦車が機関銃を車体に固定していたのに比べて、二丁のうち一丁をまがりなりにも回転する砲塔(銃塔)に装備したことは大きな違いで、車体を動かさなくても360度射撃ができるようになったことは戦闘力を大きくアップするものでした。
全長3.2メートル、重量3.9トンの小型戦車ですが、最大速度は45キロも出すことができる高速戦車であり、AH-Ⅳはイラン政府に採用されました。
このAH-Ⅳをルーマニアにも提示してきたのです。
ルーマニアもこの戦車の性能に満足し、多数のルーマニア向け仕様への変更を要求はしましたが、R-1戦車として採用します。
第二次世界大戦直前の1938年8月、結局35両が作られたR-1戦車はルーマニア軍の偵察戦車として配備が始まります。
数的には少ないですが、相手がハンガリーであれば充分な活躍ができる戦車だったでしょう。
しかし、情勢はそうはなりませんでした。
ルーマニアは、領土割譲を要求するソ連の圧力に対抗するためにドイツに接近。
ついに1941年のドイツの対ソ連戦勃発と同時に、ドイツの同盟国としてなんとハンガリーとともにソ連と戦うことになったのです。
ソ連軍のような強力な軍隊相手では、R-1戦車のような軽戦車は戦力とはなりません。
それでもR-1戦車は軽量高速さを生かして偵察用として使われ、なんと1945年の終戦まで生き残ったものもあったといいます。
使われ方がよかったのかもしれませんね。
それではまた。
- 2008/09/17(水) 20:13:05|
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