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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

豊家滅亡その43(最終回)

「天王寺・岡山の戦い」は終わりました。
大坂方は残存兵力をまとめ、大坂城へと後退します。

真田幸村が、子の真田大助(さなだ だいすけ:本名は幸昌ゆきまさ)を派遣し、また大野治長も自ら出向いてまで依頼した豊臣秀頼自身の出陣は、ついにかないませんでした。
一説では最後まで淀殿が反対したといいますが、定かではありません。

本来家康の本陣を迂回奇襲するはずだった明石全登の部隊も、戦いの混乱に飲み込まれていつしか行方がわからなくなりました。

三度までも家康を追い詰めた真田幸村も、安居天神にて討たれました。
ですが、彼の勇猛な戦いぶりは、後々まで人々に語り継がれ、生存説まで語られるようになります。
島津家に伝わる「薩藩旧記」においても、「真田日本一の兵(つわもの)」と激賞され、細川忠興も幸村が討たれたのは疲労困憊の上にあちこち手傷を受けていたからなので、討ち取った側も手柄にはならないと書き残しました。

大野治房、毛利勝永らによって大坂方が残存戦力を大坂城に撤収したのは、慶長20年(1615年)5月7日午後4時ごろといわれます。
そして、このときようやく豊臣秀頼が城門まで現れその雄姿を味方に見せますが、時はすでに遅すぎました。
これが戦端を開いた直後の午後1時ごろであれば大坂方の士気は高まったでしょう。
場合によっては豊臣家に弓引くことへの後ろめたさから、徳川勢の戦意も衰えたかもしれません。
そうなれば相乗効果で家康もどうなったかわからなかったでしょう。
しかし、すべては遅すぎました。

大坂城外には徳川方の軍勢が接近しておりました。
野戦での敗北により、城内でも不穏な空気が流れ、内応者が現れかねない状況でした。
その身の危うさを知り、秀頼は城内へと引き返します。
以後秀頼の姿が見られることはありませんでした。

先を争うように大坂城に迫る徳川勢を食い止めることはもはや不可能でした。
城に逃げ込む大坂方将兵に混じるように徳川方の兵も続き、ついに大坂城内部での戦いが始まります。
一番乗りを果たしたのは、真田勢を蹴散らした松平忠直勢でした。

やがて、内応者が放ったといわれる炎が三の丸より上がります。
このころにいたると、大坂方将士の中にもこれまでと自害するものが出始めます。
また、寝返る者も現れ城に向かって鉄砲を撃ちかけるものなども出始めます。

火はあちこちに燃え広がり、ついに天守にまで達します。
その火は遠く京都からも大坂の空が赤く染まったのが見えたとのことでした。

命からがら幸村から逃れていた家康も、この時点では本陣を茶臼山にまで前進させ、そこで炎上する大坂城を見上げていたといいます。
七十四歳にもなる家康は、これで一安心と思ったのか、喜びを隠そうともしなかったといい、さらにこのあとで千姫救出の報告に目を細めました。

豊臣、徳川両家の結びつきを強めるための政略結婚として秀頼に嫁いだ千姫でしたが、大坂方が最後の望みを託したのがほかならぬ彼女でした。
千姫を無事に帰すことで、彼女から秀頼の助命を家康に嘆願してもらい、豊臣家の存続を最後まで図ろうとしたのです。
そのために炎上する大坂城から大野治長が千姫を連れ出し、徳川勢に引き渡したのでした。

紅蓮の炎を上げて燃え盛る大坂城が陥落したのは、日付も変わろうかという5月7日の深夜でした。
ただ、淀殿と秀頼は、わずかな家臣たちと一緒に焼け残った山里曲輪とも籾倉ともいわれる一角に逃げ延びて無事でした。
最後の最後まで一縷の望みをかけ、千姫の助命嘆願の結果を待ち望んでいたのでしょう。
ですが望みはかないませんでした。

5月8日、朝のうちに家康の下へ焼け落ちた大坂城の検分に当たっていた片桐且元より、秀頼ら三十名ほどが存命中であるとの知らせが入りました。
この時点で生き残っていた主だったものは、秀頼と淀殿のほかに、大野治長、毛利勝永勝家親子、真田大助、そのほか淀殿付きの女性たちだったといわれます。(異説あり)

正午ごろ、家康の命を受けた井伊直孝、安藤重信(あんどう しげのぶ)らがやってきて、秀頼らが篭る倉に向かって切腹を申し渡します。
さらに銃を撃ちかけて切腹を促しました。

ことは終わりました。
豊臣秀頼と生母淀殿は自害。
毛利勝永はその介錯を務めたといわれ、そののちに息子勝家とともに自害。
真田大助、大野治長も同じく自害して果てました。

やがて倉からは火の手が上がり、秀頼たちの遺体を炎が覆い尽くします。
太閤秀吉の築き上げた豊臣家の最後でした。

秀頼の最後を聞き届けた家康は、京への帰途に着きました。
大坂城を廃墟と化さしめ、豊臣家を滅ぼした家康の胸中はいかばかりのものであったでしょうか。
家康は、その日の午後8時ごろには二条城に帰着したと伝えられます。

大坂の町では手柄に預かろうとした雑兵によるニセ首狙いの殺戮や、女性に対する乱暴狼藉が多数行なわれたそうです。
黒田長政が描かせたといわれる「大坂夏の陣図屏風」にも、その様子が描かれております。

こうして大坂の陣は終わりました。
将軍秀忠も翌9日には二条城に帰着。
5月10日には家康が諸大名を引見して労をねぎらい、15日には公家衆や門跡からも勝利の祝賀が行なわれ、16日には家康自ら参内して戦勝報告を行ないました。

一方、逃げ散った大坂方武将に対する追跡も行なわれ、5月15日には長曾我部盛親が捕らえられて斬首。
21日には大野治胤も捕らえられて殺されます。

秀頼の遺児国松も捕らえられ、わずか八歳でありながらも23日に処刑。
娘の方は尼になることを条件に命だけは助けられますが、のちに独身のまま没したため、ついに豊臣秀吉の家系はここに途絶えることになりました。

6月2日、大坂城の焼け跡から、豊臣家の残した金銀が集められて家康の元に届けられました。
その数、大判換算で金が二万八千枚あまり、銀が二万四千枚あまりでした。
各地の寺社仏閣の再建や大坂の両陣で牢人衆に大盤振る舞いをしたあとでも、なおこれだけの金銀が残っていたことに驚きを禁じえません。

7月7日、徳川幕府は「武家諸法度」を布告。
以後徳川家が武門の棟梁であることを明確に誇示します。
そして7月17日には「禁中並びに公家諸法度」が布告され、公家どころか皇室に対してまでも幕府の管理下に置かれることになりました。

こうして家康は幕府の骨格を完成させ、この年(慶長20年)を元和元年と改めます。
応仁の乱(1467年)より始まった長い戦乱の時代がついにここで終わりました。
時代は表向き平穏な江戸時代へと移ります。

翌元和2年(1616年)4月17日。
すべてをなし終えた家康は帰らぬ人となりました。
享年七十五歳。
満足できた一生だったでしょうか。

京都では大坂の陣直後あたりからこんなわらべ歌が流行ったといいます。
「花のやうなる秀頼様を、鬼のやうなる真田が連れて、退きも退きたり鹿児島へ」
実際鹿児島にも、幸村が山伏に姿を変え木村重成と秀頼を連れて鹿児島に落ち延びてきたという俗説があるといいます。
はかなく散った秀頼と華々しく討ち死にした重成や幸村に対する愛惜の念がそういう思いを庶民に抱かせたのかもしれません。

「炬燵して、語れ真田が、冬の陣」 蕪村

豊家滅亡 終


                       ******

参考文献
「決戦 関ヶ原」歴史群像シリーズ戦国セレクション 学研
「大坂の陣」歴史群像シリーズ40 学研
「激闘 大坂の陣」歴史群像シリーズ戦国セレクション 学研
「大いなる謎 関ヶ原合戦」 近衛龍春著 PHP文庫
「大坂の役」 旧参謀本部編 徳間文庫
「大坂の陣 名将列伝」 永岡慶之助著 学研M文庫
「大坂の陣・なるほど人物事典」 加賀康之著 PHP文庫
ほか

参考サイト
「Wikipedia 関ヶ原の戦い」
「Wikipedia 大坂の役」
ほか

この場を借りまして皆様に感謝を捧げます。
本当にありがとうございました。


昨年の11月から延々と11ヶ月にも渡って書き続けてきました「豊家滅亡」もようやく終えることができました。
途中結構間を開けながらでしたので、楽しみになさっていらっしゃった方々には大変ご迷惑をおかけしてしまいましたことをお詫びいたします。

こうして終えてみると、また感慨もひとしおです。
資料本の簡易な写しですが、それなりにはまとめられたかなと思います。
関ヶ原から大坂の陣までの流れを、多少なりとも理解するのに役立ってくれればそれに勝る喜びはありません。

次回は自分の中でいずれ手を付けようと考えていたナポレオン皇帝陛下について書ければなと思っております。
その折にはまたゆるゆるとお付き合いいただければと思います。

長い間お付き合いいただき本当にありがとうございました。
それではまた。
  1. 2008/09/16(火) 19:55:28|
  2. 豊家滅亡
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(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
どうぞ楽しんでいって下さいませ。

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