道は開きました。
幸村の行く手にはわずかな徳川方の兵力しかありませんでした。
幸村にとって、そして大坂方にとって、千載一遇の好機が訪れたのでした。
徳川勢には松平忠直のような抜け駆けまでするような武将もいた反面、豊臣家がつぶれても遺領はわずかに65万石であることから、領地がもらえるとは思えず徳川家への体面だけを考えて参戦した武将も多く、戦意に乏しい部隊も多いのでした。
そういった部隊は幸村の率いる真田勢や勝永の率いる毛利勢のような死に物狂いの敵勢に当たって損害をこうむることを避けようという気持ちが働き、自然と彼らの前から姿を消してしまったのです。
大軍でありながらも徳川勢にはまともに戦える部隊は少ないのでした。
緋縅(ひおどし)の鎧に鹿の前立を打った白熊毛付きの兜をかぶった幸村は、その軍勢を一直線に家康の本陣に向けて突き進めます。
その真田勢に再度立ち向かった部隊がありました。
松平忠直勢でした。
この大坂夏の陣において奮戦激闘し勲功第一と言われながらも、その後の論功行賞での不満などから後年狂乱に走る松平忠直ですが、実はこの前日にあることが起きておりました。
「若江・八尾の戦い」において、忠直は家康よりの勝手に戦闘を仕掛けてはならないと言う命令を律儀に守ったばかりに、藤堂勢や井伊勢の危機を見過ごしたとして叱責されていたのです。
そのため、今日の戦いにおいては忠直は抜け駆けしてでも戦功を上げて見せると意気込んでおりました。
だからこそ、裏切りのデマや真田勢の突進に浮き足立った手勢をまとめ、この局面に再度真田勢に対して攻撃を仕掛けることができたのでした。
一度は突破したはずの松平忠直勢に再度攻撃を受けるとは、幸村にとっても予想外だったかもしれません。
しかし、なんと言っても松平勢は数が豊富でした。
一万三千を越える兵力は、一部が突破されたとしても、両翼から押し包むように攻撃することが可能です。
さらには真田勢の前面に回りこむことも可能だったのでしょう。
真田勢は家康にあと少しのところで再度囲みを突破せねばなりませんでした。
真田勢も負けてはおりません。
再度突破あるのみと、遮二無二家康本陣に向かって突撃します。
死に物狂いとなった兵に怖いものはありません。
味方の屍も敵の屍も越えてくる真田勢に、ついにまたしても松平勢は突破を許してしまいます。
あわてたのは家康でした。
真田勢の接近に、取るものも取りあえず一目散に脱出します。
直属の兵たちも同様に逃げ出し始め、あの武田信玄と戦った「三方ヶ原の戦い」でしか倒されたことのないという馬印が倒れ、右往左往すると言うあわてぶりでした。
しかし、松平忠直勢も奮戦します。
突破した真田勢をまたしてもさえぎるように押し包み、家康との間に割り込みます。
それをさらに幸村の部隊が突破し、あわてた家康がまた逃げると言う戦いを三度繰り返すことになりました。
さすがの家康も、この真田勢の突撃には肝を冷やしたらしく死を覚悟して、討ち死によりは切腹すると言ったと伝えられます。
伝承の一つでは、このとき家康は討ち取られたと言うものまであり、大阪堺市のお寺には家康の墓があるといいます。
三度の突撃を果たした幸村ですが、ついに目指す家康の首を上げることはできませんでした。
突撃のたびに兵力は失われ、、残った兵も疲労困憊し、幸村本人も疲れ果てておりました。
四度目の突撃はもはや行うことができませんでした。
突撃によって味方は散り散りとなってしまったゆえか、幸村は一人安居天神にて休息を取っていたといいます。
ここへ松平忠直勢の一人西尾久作(にしお きゅうさく)なる人物が現れ、幸村に対して槍を突き出しました。
幸村はもはや抵抗すらせず、その首を討たれたといいます。
大坂の陣における名将真田左衛門佐信繁(幸村)の最後でした。
一方岡山口方面では、天王寺方面での銃声が合図となり戦いが始まりました。
将軍秀忠は先鋒の前田勢に進撃を命じ、前田勢とその正面に陣取っていた大野治房勢とがぶつかります。
戦いは一進一退でしたが、天王寺口方面で真田勢や毛利勢により前線が崩れたことを知った将軍秀忠は、藤堂高虎勢や井伊直孝勢を天王寺口の応援に派遣。
それにより手薄になってしまったためか、前田勢が大野治房勢に突破を許すことになりました。
さらにこちらも土井利勝勢らが相次いで壊乱し、秀忠の本陣もがら空きに近い状態となってしまいます。
この状況に将軍秀忠は、自らが槍を手に乱戦に駆け込もうとしましたが、本多正信らがそれを制止。
総大将はたとえ逃げてもいいから命大事という面で、秀忠は家康には及ばないということを露呈してしまいました。
幸いなことに、こちらも黒田長政や加藤義明の軍勢が駆けつけて大野勢を受け止めます。
大野治房勢は急を聞いて駆け戻ってきた井伊直孝勢に腹背を攻撃されてついに壊乱。
治房は残った兵力を取りまとめて大坂城に向かいました。
岡山口でも大坂方の突撃は撃退されたのです。
天王寺口のもう一方の雄毛利勝永はどうしていたか。
真田勢にわずかに遅れるようにして家康本陣に突入した毛利勢でしたが、すでに危機を察した家康は慌てふためいて脱出したあとでした。
勝永はなおも家康の行方を探しましたが、徳川勢が四方より殺到し始めたのでやむなく応戦、ついに撤退を余儀なくされました。
なおこの戦いにおいて、勝永の息子毛利勝家(もうり かついえ)は見事に初陣を飾り、首級一を上げたといわれます。
勝永の撤退戦もまた見事な采配といわれ、徳川方の大軍を相手に秩序だって後退。
大坂城に逃げ込むことに成功しました。
しかし、天王寺口の戦いもまた、大坂方の攻撃は撃退されたのでした。
慶長20年(1615年)5月7日午後3時ごろ、大勢は決しました。
「天王寺・岡山の戦い」はこうして幕を閉じたのです。
その43へ
- 2008/09/14(日) 20:12:50|
- 豊家滅亡
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2