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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

豊家滅亡その41

「道明寺・誉田の戦い」と「若江・八尾の戦い」の二ヶ所での大坂方の敗退は、ついに大坂方をいまや防御拠点としては役立たずとなってしまった大坂城で徳川勢を迎え撃たざるを得なくさせてしまいました。

裸城の大坂城に篭ることができない以上、どうしても戦いは野戦にならざるを得ません。
大坂方の真田幸村、毛利勝永らは大坂城南側の平野部、今の大阪市阿倍野区から平野区にかけて部隊を布陣させ、徳川勢を待ち受けました。

慶長20年(1615年)5月7日。
戦国時代の最後の一日が始まります。

明け方、茶臼山に大野治長が現れ、真田幸村、毛利勝永と最後の軍議を開きます。
そこで決まった基本方針は以下のとおりでした。

1)、徳川勢を四天王寺の狭隘な丘陵地に誘い込み、誘引されてきた部隊を各個撃破する。
2)、部隊が誘引され本陣が手薄になったと見た時点で、一部部隊を家康本陣に迂回突入させ、一挙に家康本人を討ち取る。
3)、味方の士気を大いに高めるために秀頼公に御出陣いただく。

この軍議にのっとり、真田幸村ら三千五百は天王寺口の茶臼山に、さらにその前方には渡辺糺(わたなべ  ただす)らの二千が布陣。
赤備えといわれた赤い具足や旗指物に身を固めた軍勢が陣取るさまは、茶臼山を赤く染めたことでしょう。
この茶臼山の東西にも兵を配置し、四天王寺南門前には毛利勝永勢六千五百が布陣しました。
さらに岡山口には大野治房勢四千六百が布陣し、全軍の後詰として大野治長や七手組勢約一万五千ほどが四天王寺北東に布陣。
家康の本陣をつく別働隊として明石全登率いる三百が木津川堤防沿いに配置され、大坂方の布陣は完了します。

一方の徳川勢は、前日の「道明寺・誉田の戦い」や「若江・八尾の戦い」による一部部隊のおびただしい損害は出したものの、全体としてはほぼ無傷ともいえる状況で大坂城南側に兵力を展開しました。

こちらも早朝には家康と将軍秀忠が軍議を開いており、決戦正面となるであろう天王寺口は家康本隊が、助攻となる岡山口には将軍秀忠の部隊が布陣することが決まっておりました。
このとき将軍秀忠は、幾度となく天王寺口に配して欲しいと訴えましたが、最終決戦である今回の戦いを息子に任せる気にならなかったのでしょう。
家康は頑として聞き入れなかったといいます。

その天王寺口の先鋒は本多忠朝(ほんだ ただとも)ら五千五百。
この本多忠朝は、大坂冬の陣にも参加しておりましたが、そのときに陣の配置換えを申し出て家康の不興を買い、その雪辱を晴らそうとまさに討ち死に覚悟でこの戦いに臨んでおりました。

第二陣は榊原康勝(さかきばら やすかつ)ら五千四百。
第三陣には酒井家次(さかい いえつぐ)ら五千三百。
そしてその後ろには家康本隊一万五千が布陣しました。

岡山口の先鋒は前田利常ら二万が布陣。
二番手に井伊直孝ら七千五百。
そしてその後方に将軍秀忠の本陣二万三千が置かれました。
こうして両軍の布陣は整ったのです。

戦いの口火を切ったのは正面からにらみ合うこととなった毛利勝永勢と本多忠朝勢でした。
この日5月7日の正午ごろ、毛利勝永麾下の鉄砲隊が敵を誘引するという作戦を無視して射撃を開始。
この射撃に本多勢も射撃で応戦したため、たちまちのうちに天王寺口では両軍の戦闘が開始されてしまいます。

この射撃戦で作戦の破綻することを恐れた真田幸村は、すぐさま伝令を出して毛利勢に射撃中止を勧告します。
毛利勝永自身も部下の射撃を必死に止めようとしましたが、もはや戦場での様相は止まることなく射撃中止はかえって損害を招くのみと判断。
ここにいたり勝永は、当初の作戦案を早くも放棄して、混乱に乗じ徳川勢深く切り込んで家康の首を上げるという作戦に切り替えました。
当初の作戦案に固執することなく臨機応変に采配を振るう勝永は、やはりひとかどの武将といってよかったのでしょう。
秀頼から拝領した陣羽織を鎧の上から羽織り、銀の輪貫の前立の兜をかぶった勝永は、ひときわ目立つ存在だったらしく、徳川勢からもあれこそ毛利勝永ぞと衆目を集めたといいます。

射撃戦から一転して突撃を開始した毛利勢にすぐさま呼応したのは、やはり名将の誉れ高い真田幸村でした。
彼もまた当初の作戦案が瓦解した以上は、混乱に乗じて家康の首を討つことこそが勝機につながるとして、部隊を徳川勢に突入させたのです。
真田の六文銭の旗印を背負った赤い部隊が茶臼山を降りました。

冬の陣での汚名をそそぐべく奮戦した本多忠朝勢でしたが、勢いはこの時点では大坂方にありました。
毛利勝永勢による突撃は、本多勢に大損害を与えて行き、本多勢はほぼ壊滅状態に追い込まれます。
忠朝自身も槍を取って奮戦しますが、激闘叶わずついに二十ヶ所以上の傷を受けて討ち死に。
徳川家の名将本多忠勝の次男はここで命を落としました。

毛利勢の勢いは止まらず、本多勢の救援に駆けつけた小笠原秀政(おがさわら ひでまさ)、小笠原忠脩(おがさわら ただなが)親子の軍勢もその突撃に飲み込まれます。
毛利勢の突撃により壊乱状態となった小笠原勢は、秀政が負傷して後退(後刻死亡)、忠脩は討ち死にという大損害を受け、ほぼ戦力を失いました。

本多勢、小笠原勢の壊滅に浮き足立った榊原康勝ら徳川勢諸隊は次々と混乱。
毛利勢の足を止めることができなくなりました。
毛利勝永の前には徳川家康本陣への道が開けるかに見えました。

同じころ、茶臼山を降りた真田幸村勢も徳川勢と激突しておりました。
本来はこの位置にいるはずがない松平忠直勢と攻防を繰り広げていたのです。
松平忠直は抜け駆けをするべく部隊を前に進めてきていたといわれますが、ちょうど真田勢と正面でぶつかる形になったのでした。

一万三千を越える松平忠直勢に対し、真田勢はわずかに三千五百。
一飲みにされてもおかしくない数の差でしたが、幸村の指揮の下真田勢は一歩も引けを取りません。
そのうちに徳川勢の間にはある不穏な情報が舞い込んで来ました。
浅野長晟の裏切りというものです。

これは事実ではありませんでした。
毛利勝永と真田幸村が流したデマだったのです。
しかし、戦場でのデマは徳川勢に混乱をもたらしました。
松平忠直勢はこのデマのために動揺し、真田勢の突撃を食い止められなくなりました。

たまりかねた忠直は家康本陣に救援を求めます。
家康もやむを得ず本陣より救援を差し向けたといいます。
家康の本陣には一瞬の兵力の空白が生じました。
わずかな供回りしかいなくなったのです。

救援が来ても松平勢は真田勢による攻撃とデマによって混乱のきわみにありました。
ただ数が多いだけの烏合の衆になっていたのです。
この状況を見逃す幸村ではありませんでした。
真田勢は松平勢を突破したのです。

松平勢を抜けた真田勢の前にはわずかな徳川勢しかいませんでした。
そしてその先には家康の本陣がわずかな兵力のままで置かれていました。
まさにこの瞬間、毛利勝永の突撃も真田幸村の突撃も止めるべき部隊はいなかったのです。
道は開きました。

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  1. 2008/09/11(木) 20:07:37|
  2. 豊家滅亡
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09月11日のココロ日記(BlogPet)

最近、となり町に混乱カフェができたらしいです。かわいい混乱がお出迎えだそうです。

*このエントリは、ブログペットのココロが書いてます♪
  1. 2008/09/11(木) 10:31:25|
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(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
どうぞ楽しんでいって下さいませ。

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