大和口方面から来襲する徳川勢を邀撃するために、後藤基次や真田幸村らが出発した慶長20年(1615年)5月1日に引き続き、翌5月2日には河内口より来襲するであろう徳川勢に向け、大坂方諸隊が出発しました。
その数およそ一万一千三百。
大和口ほどではないものの、こちらも大坂方野戦軍の大部隊といっていいでしょう。
率いるのはかつての土佐国国主長曾我部盛親と、若武者木村長門守重成でした。
長曾我部盛親は関ヶ原の戦いで三成方についたため所領を没収され、大坂冬の陣では真田勢とともに真田丸の戦いで活躍した武将です。
かつては国主でもあり、大坂方でも重要な人物とみなされておりました。
一方若き木村重成は、大坂の陣の花ともたとえられる清々しい人物として知られ、秀頼の乳兄弟という立場から彼もまた大坂方の重要人物でありました。
伝承では、冬の陣の和議の際に家康の血判が薄いことを見て、再度の血判を押すように家康に詰め寄ったとされ、家康もやむなく再度の血判を押したと言われます。
これはまあ、事実ではないそうですが、まさに木村重成の不正を許さぬ実直振りを示すエピソードとされております。
また、豊臣と徳川との再度の戦が近づくにつれ、重成はだんだんと食が細くなったといわれます。
妻がどうして食欲が無いのかと尋ねると、彼は微笑んでこう言ったといいます。
「討ち死にしたときに、切られた傷口から食べたものがはみ出ては見苦しいではないか」
彼はもう死を覚悟していたのでしょう。
翌日には徳川勢との戦いが予想された5月5日。
重成は入浴して髪を洗い、香を焚き染めて謡を歌ったといわれます。
戦いに臨んで身を清めたのでしょう。
5月6日、日付の変わった午前零時ごろには出発したいと考えていた重成でしたが、やはり寄せ集めの兵力である部隊の出発準備が整わず、出発は午前二時ごろであったと伝えられます。
前日の今福方面への偵察で、徳川勢がくる様子のないことを悟った重成は、いったんは後藤隊や真田隊の向かった道明寺方面へ向かおうと考えました。
しかし、今さらほかの人たちのあとを追っても仕方がないと思いなおし、いっそ家康や将軍秀忠の陣を襲撃するのも悪くないと考えた重成は、部隊を若江方面に向かわせます。
夜間の行軍と道に不慣れなこともあり、行軍は難渋を極めましたが、木村隊はじょじょに若江へと近づきます。
一方長曾我部隊は若江村のとなりの八尾村に近づきつつあり、両隊はちょうど横並びになるような形で徳川勢に近づいていたのでした。
この日徳川勢の先鋒にいたのは藤堂高虎の軍勢でした。
その数はおよそ五千。
この藤堂隊の一部が若江・八尾方面に大坂方が行動しているのを発見。
直ちに藤堂高虎に知らせます。
知らせを受けた高虎は一瞬迷いました。
家康からは諸隊は勝手に戦ってはならぬという命令を受けていたのです。
しかし高虎は、部下から大坂方は家康や秀忠の陣を襲撃するつもりではないだろうかとの進言を受け、攻撃を決断。
配下の各部隊に大坂方への攻撃を命令いたしました。
暗闇の中から藤堂隊の攻撃を受けたのは長曾我部隊の先鋒でした。
長曾我部隊の先鋒は突然の攻撃に本隊へ敵襲を知らせますが、先鋒隊指揮官をはじめ多数を討ち取られてしまいます。
敵襲を知った長曾我部盛親は、部隊を長瀬川の堤防付近に伏せさせ、藤堂隊を待ち受けました。
そのころ木村重成隊は若江村に到着し、部隊を三つに分けて備えておりました。
するとその右翼に徳川勢の先鋒隊が突入してきます。
突入してきたのは長曾我部隊とも戦っている藤堂隊の一部でした。
藤堂隊は右翼が木村隊と、左翼が長曾我部隊と戦うことになったのです。
藤堂隊右翼の突撃は勇壮でしたが無謀でした。
防備を固めた木村隊への攻撃は跳ね返されてしまい、藤堂良勝(とうどう よしかつ)、藤堂良重(とうどうよししげ)という二人の指揮官が討ち死にする羽目に陥ります。
また長曾我部本隊への攻撃も散々な目にあいました。
接近する藤堂隊を引きつけるだけ引きつけたのち、いっせいに槍を構えて突撃してきた長曾我部隊に藤堂隊は被害続出。
こちらも藤堂高刑(とうどう たかのり)、桑名吉成(くわな よしなり)といった指揮官が討ち取られました。
藤堂高虎は必死で援軍を送りますが、援軍が加わるも態勢を立て直すまでにはいたらず、藤堂隊は結局は後退することになります。
藤堂隊右翼を撃退した木村隊でしたが、徳川勢はすぐに新手が到着します。
井伊直孝隊約三千二百の軍勢です。
木村重成はこの新たな敵に備えるべく、部隊を玉串川の西側堤の上に配置。
そこからの銃撃で井伊隊を撃退しようと目論見ました。
井伊隊もこれを察知。
逆に玉串川東堤に陣取り射撃戦を展開して突撃を敢行します。
不意を突かれた形になったのか、木村隊は玉串川西堤を明け渡さざるを得なくなり、そのまま西へと敗走しました。
勢いに乗る井伊隊の先鋒をいったんは打ち破る奮戦をするものの、次第に木村隊は押される形となり、重成自身も槍を振るって戦うものの、ついにその首を討ち取られました。
これによって木村隊は壊乱状態となりほぼ無力化。
長瀬川で陣を張ってにらみ合っていた長曾我部隊も、木村隊の敗走により撤退を余儀なくされました。
このころには戦場に徳川勢諸隊も到着しており、敗走する木村、長曾我部両隊に対して追撃が行なわれます。
この撤退戦で長曾我部隊は少なからぬ損害を受け、こちらもほぼ壊滅状態となったのでした。
武運拙く討ち取られてしまった木村重成でしたが、彼の首は後日確認のために家康及び将軍秀忠の前に出されました。
確認しようと家康が重成の首に近づいたところ、首からはいい香りが漂いました。
彼が香を焚き染めて最後が見苦しくないようにしたことを知った家康は、この若武者の死に涙したといわれます。
こうして「八尾・若江の戦い」は終わりました。
大坂方は「道明寺・誉田の戦い」に続き、木村重成を失うという痛手を受けました。
しかし、重成と長曾我部盛親の奮戦によって大損害を受けた藤堂隊と井伊隊は、翌日に迫った大坂城決戦で承るはずの名誉ある先鋒を辞退しなくてはならないほどのものでした。
そのことが多少は慰めであったかもしれません。
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- 2008/09/07(日) 19:33:16|
- 豊家滅亡
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