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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

コックローチレディ

130万ヒット記念SSを投下いたします。

犯罪教授案西響子シリーズの三作目です。(笑)
奇しくもこのシリーズ(笑)の第一作「ミス・スパイダー」が110万ヒット記念作品でした。

今回三作目が130万ヒット記念ということで、妙なつながりになったものだと思っております。

いわば蛇足の蛇足になる三作目ですが、多少なりとも楽しんでもらえれば幸いです。


「コックローチレディ」

『政財界の癒着にメス! 疑惑の中心人物逮捕へ! 史上最大の汚職事件に発展か?』
ネットのニュース欄に大きく映し出される見出し文字。
私は思わず笑みが浮かぶ。
これでまた巨悪の一角が暴かれるのだ。
不正をする者を赦してはおけない。
しっかりと罪を償ってもらわなきゃ・・・

私はテーブルの上のグラスを取り、一人乾杯をしてからグラスを傾ける。
自分の書いた記事が元で、こうして悪事が暴かれるのは気持ちがいいもの。
社会の暗部を鋭く切り込むフリーライター佐登倉志穂(さとくら しほ)のお手柄ってわけ。
今回の汚職事件も、私の書いた記事が警察や検察を動かしてのこと。
これでまた私の株も上がるってものね。

「まただわ・・・」
ふと、目に留めたモニターに映し出される最新のニュース。
そこにはこう書かれていた。
『宝石店に強盗! またしても犯罪教授の関与か? 急がれる犯罪教授の正体の解明』

最近ことあるごとに名前がささやかれる犯罪教授。
警察は躍起になってその正体を解明し逮捕しようとしているが、なかなか尻尾をつかめない。
いろいろな手段で犯罪の教唆を行い、自らは手を染めることなく犯罪を起こさせる卑劣な人物。
噂では黒や緑のレオタードの女を配下に使い、彼女らに殺人や強盗をさせているとも言われている。
まるで漫画かアニメだわ。
本人はおそらく知的な四十代ぐらいの学者タイプの男性ではないかといわれ、巨大掲示板では“犯罪教授板”なんてのまで作られ、いろいろなスレで活発な議論が繰り返されている。

【男?】犯罪教授の正体を語れ52スレ目【女?】
【大好き】犯罪教授に抱かれたい人集合28スレ目【イッちゃう】
犯罪教授の配下の女性の写真をうPするスレ14
【ぜひぜひ】犯罪教授に教えを請うスレ37【お教えを】
次回のターゲットはこれだ! 11個目
さまざまなスレのタイトルに思わず苦笑してしまう。

いったい何者なんだろう・・・
この情報化社会でこれほどあからさまに存在を示していながら、その実態を掴まれていないなんてことがありえるというのだろうか。

私はグラスを傾けて、琥珀色の液体を胃の中に流し込む。
決めたわ。
次のターゲットはこれ。
犯罪教授。
その正体を私の手で暴いてやるわ。

                     ******

ふう・・・
一杯のコーヒーが頭をすっきりさせてくれる。
ポーチからタバコを取り出し、一本つける。
ニコチンとカフェイン。
この二つがないと生きていけないわぁ。
苦笑しながらそんなことを考える。
長生きできそうにないわね。

朝からネット内での情報収集。
といっても手に入る情報なんて知れたもの。
一般的に流布している以上の情報など手に入るわけがない。

巨大掲示板における自称“犯罪教授”からの書き込みなど、ほぼ百パーセントが騙りもの。
本人が書き込むことなどまず考えられない。
つまりネットで犯罪教授を追うなんてことはほぼ無理。
通常の手段ではね。

じゃあ、どうするのか。
通常じゃない手段を使う。
むふふ・・・
蛇の道は蛇ってこと。

午後、私はある喫茶店にいた。
美味しいブレンドコーヒーを飲みながら相手を待つ。
望む情報を持っていてくれるといいんだけど・・・

一服してしばらく待っていた私の前に一人の男がやってくる。
まだ若い男だが、ぼさぼさの頭に着古したジーパンとシャツという姿で決して見栄えがするものじゃない。
「コーヒー」
男は無造作にウェイトレスにそういうと、私のほうへ向き直る。
「いきなり呼び出して“犯罪教授”がらみとはきついなぁ」
「少なくても情報屋として名を売っているんだから、ネタぐらいは持っているでしょ?」
私は彼にもタバコを勧める。
彼は一本受け取り、ひとくち吸って煙を吐く。
「そりゃあ、ちょっとはありますよ。裏世界でも名の通っている犯罪教授ですからね。でも、ブンヤさんの欲しがるようなネタじゃない」
「私は新聞記者じゃないって何度言わせるの? フリーのライターよ。記事になるならどんなネタでもいいの。できれば犯罪教授自身に会ってインタビューでもできれば最高ね」
私はぬるくなったコーヒーを流し込む。
「おいおい、あんたの目的は犯罪教授を白日の下に晒すことだろ? お勧めできないよ。殺されるぜ」
「緑のレオタードのお姉さんにかしらね」
私は鼻で笑う。
危険は承知のことよ。
これまでだって麻薬を扱う組織を敵に回したり、ヤクザ屋さんとも渡り合ったりしたものよ。
命が危険だからってやめられるものですか。

「まあ、マジな話あんまりネタはないんだよ。ただ言えるのは、近いうちに羽斗口(はとぐち)代議士が死ぬか行方不明になりますよ」
「えっ?」
私は思わず声を出す。
羽斗口代議士ったら今回の汚職事件で関わりがあると疑われている人物じゃない。
それが死ぬって?
もしかして殺される?
「犯罪教授に依頼が行ったようです。“彼”が何をたくらんでいるのか知りませんが、最近の犯罪教授は犯罪の教唆だけじゃなく依頼も受けますからね」
「つまり羽斗口代議士を張り込めば、犯罪教授の部下が出てくるってわけね」
なるほど。
殺人の実行する場面を掴めば、犯罪教授をいぶりだすことも可能か・・・

私はコーヒー代と情報量の入った封筒を置いて喫茶店を出る。
それ以上の話は聞けないだろう。
彼がどこからそれを知ったのかとか、殺害を依頼したのは誰なのかなどと聞くのは野暮なこと。
絶対に言いはしないだろう。
あとはこちらがこの情報を元に動くだけ。
さて、羽斗口代議士を張り込みますか。

                   ******

大きな庭のある日本家屋。
さすがにいろいろと噂のある代議士の邸宅だわ。
まさか昼日中から襲われはしないとは思うけど・・・
私はヘルメットを脱いで髪を整える。
動きやすいように革のライダースーツを着てきたけど、まだこの季節はちょっと暑いわね。

さて、いつ動きがあるか・・・
それがわからないというのもつらいものね。
ま、数日張り込んでみますか。

私は適当なところにバイクを止め、もたれかかって張り込みを始める。
自動車のほうがいいんだろうけど、犯罪教授の手下はトリッキーな動きをするって言うし、バイクのほうが機動性があって動きやすいと判断したのだ。

「ふわぁ・・・」
思わずあくびが出る。
取りあえず何もなし。
日中からずっと張り込んでいたけど、一人で見張るのは大変。
そろそろ日付も変わるし、今日は何も起きないかな・・・

「えっ?」
躰をほぐすために伸びをした私の目に、邸宅の屋根にいる人影が映る。
「屋根の上に誰かいる?」
暗闇の中にうっすらとしたシルエット。
気が付くのが遅かったら見逃していたかも。
きっと犯罪教授の手下だわ。
殺人を止めなきゃ!

私はバイクを踏み台にして塀をよじ登る。
ふふん。
昔からこういうのって好きだったのよね。
取りあえず本当に殺人を犯されたんじゃたまらない。
寸前で写真を撮って追い返さなきゃ。
不法侵入で悪いけど、赦してよね。

私は中庭から邸宅に忍び寄る。
犯罪教授の手下はどこへ行ったかな?
まったく・・・
警報装置ぐらいあるんじゃないの?
私が侵入しているのに気が付かないの?

どうやら警報装置は全部潰されているみたい。
嘘でしょ。
どうやったのよ、いったい。
私が母屋の窓を開けても警報一つならないのだ。
警備システムは潰されていると思って間違いない。

私は代議士の部屋と思われるところ・・・なんてわかるわけないから片っ端からドアを開けて行く。
う~、われながら無茶しているなぁ。
でも代議士殺されたらたまらないもんね。

「そこまでよ!」
私はすぐさまデジカメのシャッターを切る。
ストロボが暗い部屋にまばゆい光を放ち、一瞬目がくらむ。
ドアを開けたそこには、今まさに鋭いナイフを振り下ろそうとしていた女の姿があったのだ。

「くっ! 見られた?」
マスクに覆われた顔を隠すように手をかざし、すぐに部屋を飛び出して行く女。
驚いたことに黒のレオタードにマスクをかぶった、まさに噂どおりの姿をしていたのだ。

私は取りあえず代議士が殺されていないことを確認すると、逃げ出した女を追う。
このまま跡をつければ、何らかの犯罪教授の手がかりがつかめるに違いない。
逃がすもんですか。

「うそ・・・」
黒いレオタードの女は、なんと腰の辺りから伸ばしたワイヤーを樹に絡め、まるでターザンみたいに次の樹へと飛び移って行く。
これは確かにトリッキーだわ。
私は裏口から外へ出ると、急いでヘルメットをかぶりバイクを走らせる。
やっぱりバイクにして正解だったわ。
車じゃ見失っちゃうもんね。

夜空にくっきりと映るシルエット。
うふふ・・・あれじゃ丸見えだわ。
いくら黒いレオタードだって、背景に星空があれば溶け込めないわよ。
私はワイヤーを操って樹から樹へ、ビルからビルへと飛び移る曲芸のような動きを追う。
どうやら郊外へ向かっているようだけど、逃がすもんですか。

「確かこの辺に来たはずだけど・・・」
私は雑木林のはずれにバイクを止め、ヘルメットをかぶったまま林に向かう。
何かあったときのためにもヘルメットがあったほうがいいわよね。
それにしても彼女は何なの?
人間とは思えないわ。
まるでマンガに出てきたスパイダーマン
あ、女性だからスパイダーウーマンか・・・
さて、どこへ行ったかしらね・・・

雑木林を進んで行くと、一軒の廃屋にたどり着いた。
こんな時間にこんなところへ来ると不気味さもいっそう増すというもの。
思わず私はつばを飲み込んだ。
「怖くない怖くない。一番怖いのは人間よ」
私はそういいながら廃屋に近づいていく。
窓ガラスは割れ、中は真っ暗。
林の中だから星明りも届かないみたいね。
でも、きっとあの蜘蛛女さんはここに来たはず。
顔ぐらい拝んでおかないと・・・
と思った瞬間、私は首筋にチクッとしたものを感じ、意識が闇に飲み込まれた。

                     ******

「う・・・あ・・・」
ゆっくりと意識が戻ってくる。
やれやれ、どうやら捕まっちゃったかな。
どうやら跡をつけていたのを知っていたみたいね。
私は取りあえず自分の身に怪我がないか確認する。
どこにも痛みはないし、ライダースーツもそのまま。
どうやら躰には危害は加えられてないみたい。

私はゆっくりと周りを見る。
どこかの地下みたいな殺風景な部屋。
明かりが私の周囲を照らしているおかげで周りが闇に沈んでいる。
ふう・・・
誰もいないみたいね。
でも、私はどうやら椅子か何かに縛り付けられているみたい。
両脚と両腕が固定されて動かせない。
立ち上がることも無理みたいね。
やれやれだわ・・・

まあ、でもこれはチャンスよね。
うまく行けば犯罪教授とご対面。
どんな男なのか興味がないといえば嘘になる。
まずは相手の出方待ちね。
私はゆっくりと目を閉じる。
感覚を研ぎ澄まして周囲の気配を探る・・・つもりだったけど、まだ麻酔が覚めていないせいか眠くなっちゃうわ。
誰か来るなら早く来てよ。

カチャリと鍵の開く音がする。
誰か来たみたいだわ。
私は耳をそばだて、物音に集中する。

近づいてくる足音。
その数は複数。
ハイヒールでも履いているかのような硬質な音。
どうやら部下の女も一緒のようね。

部屋に入ってきたのは三人だった。
私はその取り合わせの奇妙さに思わず口を開けてしまう。
白の蜘蛛の模様の入った黒いレオタードとマスクの女と、白いカマキリの模様の入った暗緑色のレオタードとマスクの女。
この二人は噂に聞く犯罪教授のしもべたちだろう。
しかし、その二人に挟まれて立っている少女。
しかも着ているのは有名私立女子高のセーラー服という少女はいったい何者なの?

「響子様、お言いつけのとおりおびき出して捕獲いたしました」
「羽斗口の方は先ほど始末を終えました」
うなずく少女に一礼して後ろに下がるレオタード姿の女たち。
まさか・・・
いや、そんなまさか・・・
確かに犯罪教授の正体は不明だけど、まさか・・・

「おはよう佐登倉さん。一本吸う?」
セーラー服の少女がポケットからタバコを差し出してくる。
よくあるメンソール系ではなく、外国産のタバコだわ。
そういえばしばらく吸ってなかったからタバコがもらえるのは素直にうれしい。
私がうなずくと、少女は火をつけたタバコを一本くわえさせてくれた。

「もう少ししたら学校へ行かなきゃならないから、あんまり時間はかけられないの。でもまあ、30分ぐらいはあるから大丈夫」
何が大丈夫なのか知らないけれど、高校生のくせにタバコ吸っちゃダメよお嬢ちゃん。
もっとも私も吸ってたか・・・
「私のことは調べたのかしら? だったらフリーライターってこともご存知よね?」
両手が使えない状態でタバコ吸うのは大変だわぁ。
「ええ、今回羽斗口代議士を襲うことを情報屋から聞いたこともね」
あのやろう・・・
こっちにも情報売ったのか・・・
「だったら話が早いわ。犯罪教授に独占インタビューさせてもらえないかしらね。もしかして犯罪教授はあなたのお父様なのかしら」
私はタバコをくわえたままで笑みを浮かべる。
これでも笑顔にはちょっとばかり自信があるんだけどな・・・
いやらしいおっさん相手ならだけど・・・

「うふふふ・・・」
笑いながら私の口からタバコを取って灰皿に押し付ける少女。
「あとでゆっくり吸わせてあげる」
「それはどうも。一緒にコーヒーももらえるとありがたいわ」
私は苦笑する。
こんなときに何を言っているんだか。
「それでインタビューって何を訊きたいの?」
「それはご本人に会ったときに言うわ」
なぜこんなことするのかとかも訊いてみたいけど、どんな人物なのかが一番よね。
「本人が目の前にいるのに」
あー・・・
やっぱりなんだ・・・
まさかとは思ったけどこの娘が犯罪教授ってわけ?
もちろん真の黒幕は他にいるんでしょうけどね。

「そう、あなたが犯罪教授ってわけ・・・どこの誰に使われているのかわからないけど、さっさとやめたほうがいいよ、こんなこと」
「ふふ・・・やっぱりあなたも私の背後に誰かいると思うのね。悲しいなぁ。私がもっと大人だったらそんなふうには思わないのかな」
ふと寂しそうな表情を浮かべる少女。
どういうこと?
「まあ、いいわ。とやかく言うよりも手っ取り早い方法があるし。ねえ、佐登倉さん、あなた私の手伝いをする気ない?」
「手伝い? どういうこと?」
「情報収集力の長けた女怪人が一人欲しいのよ。あなたなら適任だわ。運動能力も高いしね」
情報収集力に長けた女怪人?
なによそれ?
「どういうつもりか知らないけれど、私が犯罪に加担すると思うのなら大間違いよ。私はフリーのライターとして世の中の暗部をさらけ出してやるのが仕事なんだから」
「ふうーん。犯罪同然のこともやって記事を書いているくせに?」
「そりゃ、ネタを手に入れるためには犯罪すれすれのことだってやることはあるわ。でもそれは悪事を暴くためよ! 楽しんでやっているわけじゃないわ!」
私は自らを犯罪教授とアピールする少女をにらみつける。
冗談じゃないわ。
一緒にしないで。

「ねえ、佐登倉さん。あなた彼女たちをどう思う?」
少女が背後の闇に控える女たちを指し示す。
どうって・・・
「どうって言われても、恥ずかしい格好した犯罪を犯す女たちとしか・・・」
「でしょうね。でも、彼女たちも元はあなたと同じ犯罪を嫌う普通の女だったのよ」
「そりゃあ、いろいろと理由はあるんだろうけど・・・」
「違うの」
えっ?
違う?
私は少女のくりくりした瞳に眼をやった。
「私がそう仕向けたの。犯罪が好きな女怪人に洗脳してやったのよ」
いたずらっぽく笑う少女。
洗脳って?
いったいこの娘はなんなの?

「薬でも催眠術でもないわ。思考を改変してやったの。私に忠実な犯罪者になるようにね」
「思考を改変?」
「そう。すぐにわかるわ。あなたの思考もこれから変えてあげるから」
少女の笑みがまるで悪魔の笑みに見えてくる。
やばい。
この少女はやばいよ。
どこか狂ってしまっているんだわ。

私は何とか縛られた躰を自由にしようともがいてみる。
でも、固く縛られた手足はとてもほどけそうにない。
「心配はいらないわよ。すぐ終わるから」
少女が私の額に向かって手をかざす。
「やだやだ! やめて、やめてぇ!」
私は必死に響子様にお願いする。
「うふふ・・・もう終わったわよ」
笑顔を見せる響子様。
その笑顔はまるで天使のよう。
「本当ですか?」
響子様が手をかざしたのはほんの数秒。
思考を変えるって言っていたけど、私の思考が変わったというのだろうか・・・

「マンティスウーマン、彼女の縄を切ってあげて。ミス・スパイダー、彼女の装備を出してあげて」
「「はい、響子様」」
響子様の指示に従ってすぐに私の縄は切られ、私の足元にトランクが一個置かれる。
「響子様、これは?」
私は縛られていた手をさすって血行を取り戻しながら、響子様に尋ねてみた。
「あなたの装備よ。コックローチレディ」
響子様は笑顔で私のことをそうお呼び下さった。

                     ******

「クスッ」
思わず笑いがこみ上げる。
真上にいるというのに、警備員は気が付きもしないのだ。
人間は足元や前後は見ても、天井はまず見上げない。
天井に張り付いている私に気が付かないのだ。
やがて警備員が行ってしまい、私は再び天井を這って行く。

長い触覚型のセンサーがふるふると震え、この先の警報装置を感知する。
無駄なこと。
響子様の装置があれば、警報装置などすべて無効化できるのよ。
私は背中に広がる翅を広げ、センサーを一つずつ無効化する。
すべてのセンサーが死んだところで私は床に降り立った。
うふふふ・・・
このコックローチレディに侵入できないところなどないのよ。
どんな情報だって盗み出してみせるわ。

私はすばやく床をすべるように這い、机の下にもぐりこむ。
ふう・・・
こういう狭いところって落ち着くわぁ・・・
なんたって私はコックローチレディなんですもの。
茶色のレオタードには可愛いゴキブリの模様が胸のところに染め抜かれ、背中にはセンサーを無効化したり情報処理をするための装置が平べったい翅のような形で背負われている。
この装置を使って私は情報を手に入れるのよ。

私は触角の先のコネクターをコンピュータにつなぎ、右手に仕込まれたキーボードを操作する。
複眼状のバイザーにコンピュータのデータが映し出され、私はそれを奪い取って行く。
これでいいわ。
この企業のすべてのデータは私のもの。
そして私のものは響子様のもの。
愛する犯罪教授の響子様のため、私はこの身を捧げるわ。
私は女怪人コックローチレディなの。

END


以上です。
よければ拍手・コメントなどいただければと思います。

それではまた。
  1. 2008/09/30(火) 21:10:14|
  2. 犯罪教授響子様
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130万ヒット行きました

先ほどめでたく130万ヒット到達しました。

7月18日が120万ヒット到達でしたから、約二ヵ月半で10万ヒット増えた計算ですね。

これもひとえに日ごろからの皆様の温かいご訪問の賜物です。
本当にありがとうございました。

これからもできるだけこのブログを更新し続けるつもりですので、応援よろしくお願いいたします。

まずは130万ヒット記念SSを一本投下します。
お楽しみくださいませ。
  1. 2008/09/30(火) 20:57:29|
  2. 記念日
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いつか

失言というよりも確信犯的暴言ともいうべき発言で中山国土交通大臣が辞任いたしましたね。
大臣在任わずか“五日”ということで、史上二番目の短さとか。
まるで発言をするために大臣になったかのようなものでしょうか。

おかげで不明瞭になってきたのが衆議院の解散と総選挙の時期。
石破農林水産大臣は、TV出演などで「仕事を見て判断して欲しい」とおっしゃってましたが、仕事する暇もなさそうな感じです。

10月3日に解散が濃厚とのことですが、解散が“いつか”は政治番記者もやきもきしているんでしょうね。
まあ、投票する側としては、投票が“いつか”ということよりも“誰に”投票するかが大事なので、投票日にはきちんと投票するつもりです。

なんだか投票を呼びかけるCMみたいになってしまいましたね。

プロ野球もいよいよ大詰め。
昨日の時点で巨人が一歩後退しましたが、最後の最後まで白熱した優勝争いになりそうです。
まさかここまできびしいことになるとはなぁ。

日本ハムもクライマックスシリーズ出場が微妙になりました。
今日を含めて残り二試合。
とにかく勝利あるのみです。
両チームがんばれー!!

今日はこれにて。
それではまた。
  1. 2008/09/29(月) 19:33:37|
  2. ニュース
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カエサル(シーザー)って誰よ?

今日は「札幌歴史ゲーム友の会」様にお邪魔させていただきました。
私はあんまり顔を出せていない非会員なんですが、皆さんいつも温かく迎えてくださり、とてもありがたく思っております。

会場に着いたのは11時ごろだったでしょうか。
すでに鈴木様と“しん”様がASLのシナリオのセットアップ中でした。

私はつじ参謀様と「カエサル40」をプレイすることに。
カエサル40(2)

このゲームは私は初めて拝見させていただいたのですが、ローマ内乱を表したゲームで、カエサル(シーザー)とポンペイウスの対立をゲームにしたものです。

カエサル40(1)

私はカエサル側を担当させていただきました。
軍事的勝利を狙うカエサル側と、政治的勝利を狙うポンペイウス側というのが一般的なんだそうです。

確かに初期支配地の少ないカエサルは、資金も少なく政治に回せる分を捻出できません。
ですが、軍事指導力を発揮して野戦で勝利を収めてポンペイウスを倒すのだそうです。

初めてなゲームはやはり勘所を掴むのが大変です。
カエサルの軍事的能力でローマを陥落させた私は、調子に乗ってシシリー島に軍勢を上陸。
支配地を増やして資金を確保するつもりでした。

ところがポンペイウス側のつじ参謀様は、待ってましたとばかりにアフリカとクレタから部隊をシシリーに集中。
あっという間にカエサルは敗北して死んでしまいました。(笑)

これはどうにもならんということで、再戦を開始。
再びカエサルがローマを目指してルビコン川を渡ります。

今度は支配地を着実に増やしていき、軍勢の強化も順調です。
しかも戦術カードやアクションカードも手に入り、戦闘では有利に進めることも可能な状況でした。

これは決戦を挑んでも充分な勝機があると判断した私は、ポンペイウスの軍勢に一大決戦を仕掛けます。
数では劣るものの、練度で勝る我が軍は、カードの威力もあってかなり有利なはずでした。

ところがこれが大誤算。
いくら練度が高くカードが有利でも、サイコロの目がそれを帳消しにしてしまいます。
こちらの攻撃は振っても振ってもスカばかり。
逆にあちらの攻撃は的確に私の部隊を削ります。

結局カエサルは主力部隊の壊滅とともに死亡。
またしてもローマの覇権はポンペイウスが握ったのでした。

歴史に名を残すことができなかったカエサル。
後世の歴史家はきっとこう言ったことでしょう。

「カエサルって誰よ?」

負けてしまいましたが楽しいゲームでした。
つじ参謀様、対戦ありがとうございました。

その後は遅れていらっしゃった柿崎様とゲームについての談笑をしたり、ガダルカナル戦のゲームをしたりして夕方まで楽しい時間を過ごさせていただきました。
「札幌歴史ゲーム友の会」の皆様、今日はありがとうございました。

それではまた。
  1. 2008/09/28(日) 19:24:10|
  2. ウォーゲーム
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少女戦闘員(後編)

今日はショッカーゆう様の「少女戦闘員」の後編です。
楽しんでいただけると思います。


改造素体名
東ひろ子(13)中学二年生
改造組織名
秘密結社Yショッカー
理由 : 健康的な美少女、Yショッカーに目を付けられ誘拐されて少女戦闘員になる。


『 新たにYショッカーの一員に加わった。
二人の制服少女戦闘員 彩と麻衣!首領の元に出でよ!』

「「イーッ!」」

二人の少女戦闘員が現れ、直立不動で腕をクロスさせ敬礼する。
『さあ!栄光あるYショッカーに忠誠を誓うのだ!』

「「偉大なるYショッカーに身も心も捧げ忠誠を誓います。イーッ!」」

二人は、Yショッカーの首領に忠誠を誓った。

『うん宜しい!これから、十分に組織の為に働いてもらう!早速だが、お前たち二人は、ある少女を誘拐してもらう!この制服美少女をよく知っておるだろう?』壁のモニターに、一人の美少女の写真が、映し出された。
それを見る、少女戦闘員の二人。
「はい!私のクラスメイトの東ひろ子ですイーッ!」「はい!私の先輩の東ひろ子ですイーッ!」二人は、そう答えた。

『そうだ!お前たちがよく知っている、東ひろ子だ!お前たち二人は、この美少女を誘拐して、我々の仲間にするのだ!毎日、一緒に同じバスで通学している、お前たちなら、何の疑いもなく、この美少女を誘拐できる。この東ひろ子をうまく、誘き出しそこでうまく誘拐するのだ!』 「「イーッ!かしこまりました。必ずやこの東ひろ子を誘拐して参ります。」」二人は一緒に答える。

『よし!それでは、おい!アレを用意しろ!』首領が言うと、女幹部のヘドリアン仁美が、あるものを二人に手渡した。 それは、青いアイシャドーであった。

『これは、普通の化粧品ではない!我々が開発した。アイシャドータイプの洗脳薬なのだ!この薬を塗られた普通の人間は、直ぐ我々の僕になり命令に従うようになるのだ!このアイシャドーを東ひろ子の顔に塗り、僕にしたところを誘拐して来るのだ!』
「「イーッ!かしこまりました。必ずや東ひろ子を誘拐して参ります。イーッ!」」


その日の夕方、部活を終え一人で下校中の東ひろ子は終点でバスを降りる。彼女は、バレー部に所属する。学校1のエースアタッカーなのだ!今日の練習も厳しかった。まあ、今度の大会も近いから仕方ない。「頑張ろ!」彼女はそう自分に言い聞かせた。
そんな事を考えながら歩いて居ると、目の前に同じ制服を着た少女が、現れた。 後輩の高野麻衣だった。
ひろ子は、驚いて立ち止まる。
「あれ?貴女、一年生の麻衣ちゃんよね?どうしたの、青いアイシャドーなんか引いて?」少し笑みを見せて話しかける東ひろ子。
「先輩も引いてみませんか? 私より先輩は美人ですし、私先輩のお化粧した顔を見てみたいです。 私!綺麗なひろ子先輩を見てみたいです。お願いします。」そう言いながら頭を下げる。
後輩に、そんなにまで言われると少し照れるけど、嬉しく思うひろ子だった。

「そう?じゃあ、ちょっとお化粧遊びしちゃおかな。私だって綺麗に成りたいし、女の子は誰でもそうだし。じゃあ、塗って!綺麗にしてね!」
東ひろ子は、そう言ってしまった。

アイシャドーを麻衣に塗ってもらっている時、彩が偶然を装い現れた。

「ひろ子!綺麗だよもっと、化粧すれば綺麗になれるよ。」

その言葉に、東ひろ子は、化粧されて綺麗な美少女になる事に、誇りをもっていた。

゛もっと綺麗になりたい!"

東ひろ子は、そう思っていた。

麻衣が、ひろ子のお化粧が塗り終わると、ひろ子先輩!綺麗になりましたよ!そう東ひろ子に伝えた。

「そうありがとう!」

ひろ子は後輩の麻衣に伝えると、急に頭がおかしくなり始めた。

「うっ!何これ?頭がおかしくなる!アーッ!」 東ひろ子が頭を抱えて、その場でしゃがみ込んだ。
ひろ子は、何かに引っ張られそうになる自分を耐えていた、しかし、それも限界があった。 自分の心が何かに呑まれてしまった。
その光景を見て苦笑いする二人の少女戦闘員、そして彩が「東ひろ子!お前は選ばれたのだ!我々が行う改造手術を受けて、我々の仲間になるのだ!」

すると、それまで頭を抱えて苦しんでいた東ひろ子が、ゆっくり立ち上がり「はい、喜んで入団します。」
そう答えていた。

そして、彩と麻衣に連れられて、闇の中に消えて行った。

アジトに連行された、東ひろ子は、直ちに改造手術が開始された。


制服姿のまま、黒い椅子に座り、手足と胸周りに拘束具に固定され、頭にヘルメット型のヘッドギヤが乗せられた。

Yショッカーの科学戦闘員の一人が、スイッチを入れると、機械が動き始めた。
『グオングオングオングオングオン』

東ひろ子の本改造手術が開始された。
この改造手術が成功すれば、彼女はYショッカーの美少女戦闘員になるのだ!
「アーッ、ウウッアッ! アーッ…」
東ひろ子は、左右に首を振りながらもがいていた。
心の中でひろ子は、必死にもがいていた。
『苦しい~止めて、頭がおかしくなっていく~でも抵抗が出来ない、ア~ッ、段々気持ち良くなっていく、あの二人みたく悪い女の子になっていく、えっ?なに言っているの私、駄目よそんなの、良いじゃないひろ子、貴女は栄光あるYショッカーの一員に選ばれたのよ!何をためらって居るの貴女はYショッカーレディよ!えっ?私はYショッカーレディ!フフフ…。』
心の中のひろ子がそう叫ぶと、瞼の青いアイシャドーがキラリと光り、東ひろ子が目を覚ました。
「イーッ!」
元気良く奇声を挙げた。 改造手術は成功し、手足の拘束具が外され、立ち上がると直立不動の姿勢になり腕をクロスさせもう一度奇声を挙げた。
「イーッ!」
すると、待機していた二人の少女戦闘員が、ひろ子の両腕を掴み、別の部屋に連れていく、その部屋には新しい少女戦闘員の黒いレオタードと網タイツに黒いブーツなどの制服一式が用意されていた。 ひろ子は、今まで着ていた学校の制服を脱ぎ、少女戦闘員の制服に身を包んだ、ここに新たな美少女戦闘員が完成した。

「出でよ!新たにYショッカーに選ばれた東ひろ子!」「イーッ!」

美少女戦闘員となった東ひろ子が現れた!

彼女をスカウトした斉藤美紀がひろ子の事を紹介する。

「この度、栄光あるYショッカーの美少女戦闘員になった東ひろ子です。」そう紹介され首領の前に現れるひろ子「イーッ!偉大なるYショッカーの為に!首領様と組織に忠誠を誓います。イーッ!」『よろしい!期待して居るぞ!さて、早速だが、お前には新たな任務が待っておる、我々は、お前達が通っている、学校に興味がある、そこでだ!お前達三人で、協力しあいお前達の学校の優秀な女子生徒を一人づつ誘拐し、我々の仲間にするのだ!』「イーッ!かしこまりました。必ずや実行致します。」

東ひろ子が答えると、誘拐された時と同じ学校の制服姿に戻り、他の二人の少女戦闘員と共に、新たな少女達を誘拐しに出ていった。

そして、三人の少女戦闘員は手分けをしながら、各自一人ずつクラスメートの女子生徒を誘拐していった。
その時、誘拐される少女達の顔には、東ひろ子と同じ様に青いアイシャドーが引かれていた。 そして、半年間で校内の女子生徒全員が、Yショッカーの少女戦闘員になった。

がり勉娘の少女達は、Yショッカーに物凄く貢献していった。

「「イーッ!」」

         終わり


以上です。
ショッカーゆう様投稿ありがとうございました。
拍手感想などありましたらお寄せくださいませ。
私のほうからお伝えさせていただきます。
  1. 2008/09/27(土) 20:25:40|
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少女戦闘員(前編)

いつも素敵なSSをお送りくださるショッカーゆう様より、また魅力的なSSを送っていただきました。

今回は「少女戦闘員」のお話で、前後編の二本立てです。
まずはその前編を公開させていただきますね。


「少女戦闘員」

北野 彩 13才中学二年生 普通の女の子。

高野 麻衣 12才中学一年生 普通の女の子。
だが彼女達二人は、県立高校の付属中学に通う成績優秀な女の子たち。

二人は毎日同じバスで学校まで通学、部活もテニス部に所属して、先輩後輩の仲であった。

今日も、厳しい部活の練習を終え、二人で一緒のバスで下校していると、車内で見知らぬ女性が二人に声を掛けて来た。

「ネエ!貴女たち、あそこの学校に通っている娘たちでしょう?」

二人は、戸惑いながら「「はい。」」と答えた。

すると、その女性は「そう、じゃあちょっと聞きたいんだけど、この娘知ってるかな?」写真を見せる。 すると、その写真は北野彩と同じクラスメート[東ひろ子]という学校1の美少女だった。

「えっ?あっ、私と同じクラスの東ひろ子ちゃんですけど、アノ?ひろ子に何か御用でしょうか?」北野彩が女性に聴いた。「あら、ごめんなさい。私は、こういう者です。」と二人に名刺を差し出した。 そこには、『YSプロ、マネージャー、斎藤美紀』と書いてあった。

二人は、お互いに顔を見合せ。エッ!芸能界!二人の少女たちはそう頭の中を過って行った。

「「ひょとして、スカウトですか?」」

と二人が、訪ねると斎藤美紀という女性は、「そうよ!」答えていた。
「ウソ!」二人は自分たちの口元を手で抑え、お互いに顔を見合せてハシャイで居た。 「ひろ子は、歌手ですか?それとも女優ですか?」麻衣が尋ねると「それは、まだ決めてないけど!まずは、モデルかな?」斎藤美紀が答えていた。 「この二人、使えるわね!」腹の中で斎藤美紀は、そう考えて居た。
三人は打ち解けあいバスの終点まで話をしていた。
そして、終点でバスを降り、二人の少女は、斎藤美紀と言う女性を東ひろ子の家を案内する事になり、三人で東ひろ子の家まで歩いていた。「あーいいな!ひろ子は私たちと違って美人だから!あの娘のお母さんも美人だからね~!うらやましい!」そんな会話をしながら歩いて居ると、二人の目の前に黒いレオタードに網タイツ姿の女戦闘員が、四人現れた。
「イーッ!お前たち二人は選ばれたのだ!お前たち二人は、我々の仲間になるのだ!」
北野彩と高野麻衣の二人は、四人の女戦闘員に取り押さえられた。
彩と麻衣の二人は、ついさっきまで、一緒に居た斎藤美紀の姿が、いない事に気ずく「斎藤さんがいない!」彩が気が付き、隣で取り押さえられて居た麻衣も気ずいた。
「私ならココよ!」
二人が、斎藤の声の方に振り向くと、赤い女戦闘員が現れた、顔を見ると斎藤美紀の顔には青いアイシャドーを引かれていた、苦笑いしながら「悪いけど、貴女たちも一緒にスカウトする事にしたわ、二人とも我々の仲間になってもらうわ!残念ながら、私は芸能界ではなく、Yショッカーのスカウトウーマンよ!」斎藤美紀の言葉に、二人の制服少女たちは「どうして?私たちは関係ないでしょう!」「そうだよ!関係ないよ!」二人の反論の言葉をよそに、斎藤美紀が他の女戦闘員に顎で命令した「その娘たち二人とも連行しろ!」イーッ! 四人の女戦闘員に暴れる二人に、口や鼻に布を充て、薬の様なもの嗅がせ気を失わせ、二人の制服少女たちをアジトに連行して闇の中に消えて行った。

北野彩が目を覚ます、薄暗い部屋には機械が所狭しに並んで居た。 北野彩が身体を動かそうとすると、思う様に身体が動かない。 手足を見ると、拘束具で固定され、身動きが出来ない。
ふと隣を見ると、後輩の高野麻衣も同じ様に手足を拘束され、気を失っていた。

「ここは、何処!身動きが出来ない!麻衣起きて麻衣!しっかりして!」
北野彩が叫ぶと、隣で拘束された高野麻衣が目を覚まし、直ぐ事態に気ずいた「何これ?手足が動かない!コレじゃ身動きが出来ないじゃない!彩先輩助けて~!」「何言っているの、私だって同じよ!身動き出来ないしどうする事も出来ないわ!」

二人の少女たちは制服姿のまま、黒い椅子に手足を拘束具で固定されていた。

すると突然、首領の声が聞こえてきた。

『北野彩と高野麻衣の二人の女子中学生!我が、栄光あるYショッカーのアジトにようこそ!お前たち二人は、優秀な人材として選ばれたのだ!これから、行う改造手術を受けて、栄光あるYショッカーの制服少女戦闘員になるのだ!』「エッ?改造手術とか少女戦闘員とか、いきなり言われても、何が何だか分からないよ!それに、私たち二人とも、そんなに優秀じゃないし、貴方たちが、欲しいのは東ひろ子じゃないの?」北野彩が叫んだ。
高野麻衣も「そうだよ!何で私たちが選ばれるのよ!ひろ子先輩の事聞いて居たわよ、あの女の人。」と斎藤美紀の事を指した。
すると『お前たち二人は、我々のコンピューターの中から選ばれたのだ!おい!詳しく説明しろ!』「イーッ!かしこまりました。貴女たちを、選ばせてもらったのは、訳が在るのよ!本当は東ひろ子を拉致するつもりで居たけど、それよりも、貴女たちを使えば、効率が良いのよ!いきなり東ひろ子を拉致すれば、周りの人間が黙っていないわ、その点貴女たちを使って彼女を誘き出せばリスクは少なくて済むという事、つまり貴女たちは、我々のタラップがわりという事。わかった?つまり貴女達も選ばれて居たという事、わかった?選ばれた事を、誇りに思うのね。」斎藤美紀が説明した。
二人は、睨めつける様に、斎藤美紀をみた。 「ひどいわ!私たち二人をよくも騙してくれたわね!」「そうよ!タラップがわりなんて!本当にひどいわ!」泣きながら叫ぶ二人。 しかし、斎藤美紀は苦笑いしながらの「貴女たち二人は、栄光あるYショッカーの一員に選ばれたのよ!もっと、光栄に思いなさい。二人とも悪い思いはさせないわ、我々に協力してもらうわ!」斎藤美紀がそう言うと、二人の少女たちは、泣きながら叫んだ。
「「やだ!冗談じゃないわ!改造手術なんてイヤだ!少女戦闘員なんてイヤだ!家に帰して~!Yショッカーに協力なんてイヤだ!」」
しかし、手足を拘束され為す素手もなかった。

斎藤美紀は苦笑いしながら「最初は皆そういう!でも改造手術を受けると、すべて世界が変わるよ!そして、組織に選ばれ事を感謝する様になるから!さあ、おとなしく改造手術を受けて悪い女の子に成りなさい。お家に帰るのは、その後ね!でも、無事に帰れるかどうか分からないけどね。さあ!この娘たちの、改造手術を開始せよ!」イーッ!
美紀の命令が下ると、待機して居た。科学戦闘員たちが10人位出て来た。 そして、二人の少女たちの改造手術を開始した。

泣きながら嫌がる二人の少女たちに、ヘッドギヤが取り付けられ、そこに斎藤美紀がスイッチを入れると、ヘッドギヤから、改造パレスが流れ出して二人の少女たちを洗脳し始めた。

「ヤダッ!止めて!アーッ!止めて!頭がおかしくなる。彩先輩助けて~!アーッ!」「アーッ!私もどうする事も出来ないわ~、アーッ!頭がおかしくなる!アーッ!止めて~!」

二人の少女たちは、苦しみながら叫んで居た。 その光景を見ながら苦笑いする斎藤美紀「フフフ…、それでいいのよ!お前たちは、改造手術を受けているのだから!さあ!改造されて、悪い女の子に成りなさい。今度、逢うときは立派な少女戦闘員になって居るわ、完成するのが楽しみだわフフフ…!」

二人の少女たちの改造手術は、6時間位かけて、手術を施された。 彼女たちは、苦しみながら最後まで抵抗した、しかしそれは限界があった。
最後は、今まで生きて来た思想等、すべてをYショッカーの思想に入れ換えられ、身も心もYショッカーの少女戦闘員になっていく。
そして、目覚めると、二人の少女の瞳には輝きが消えていた。
顔には、青いアイシャドーが引かれている。 「さあ!抱負を言いなさい。言え!」科学戦闘員の一人にそう言われて、二人の少女たちは「「イーッ!」」 元気よく奇声を挙げ、拘束具が外されると立ち上がり制服姿のまま、直立不動になり腕をクロスさせ「「イーッ!」」奇声を挙げると、一斉に制服少女から黒いレオタードに網タイツ姿の少女戦闘員に変身!

「おめでとう!貴女たち二人は、何者かわかる?」それは、女幹部:ヘドリアン仁美が声をかけた。

二人の少女戦闘員たちは「イーッ!栄光あるYショッカーの制服少女戦闘員YS090号アヤ」「同じくYS91号マイ」 「「イーッ!」」

そうよ!いい娘ね!さあ!お前達二人は、今日から悪い女の子になったのよ!
偉大なる首領に忠誠を誓いなさい。


「「偉大なるYショッカーの為に!イーッ!」」

二人の少女たちは、Yショッカーの首領に忠誠を誓い、二人は制服少女戦闘員になった。

そして、首領から命令が下された。

『お前達二人の任務は、この制服美少女を拉致して来るのだ!』 それは、もちろん東ひろ子であった。
二人の少女戦闘員は「ハイ!かしこまりました!必ずやこの制服美少女、東ひろ子を拉致して連れて参ります。イーッ!」 それは、YS090号アヤの言葉であった。
そして、二人の少女戦闘員は「「イーッ!」」と奇声を挙げ、直立不動になり腕をクロスさせ敬礼すると、元の制服少女に戻り、東ひろ子を拉致しに、向かって行った。


改造素体名
北野彩(13)
改造組織名
秘密結社Yショッカー
理由
ある、一人の美少女を誘拐する為に、拉致され改造手術を受け、少女戦闘員になる。

改造素体名
高野麻衣(12)
改造組織名
 秘密結社Yショッカー
理由
北野彩と同じ、目的で拉致され改造手術を受け、少女戦闘員になる。
つづく


以上です。
ショッカーゆう様ありがとうございました。
後編は明日公開いたします。
感想、拍手などいただけましたら私から伝えさせていただきます。
  1. 2008/09/26(金) 20:25:30|
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あと4点・・・

先日、サッポロ辺境伯様と「西部戦線1918」(CMJ8号付録)の対戦を行いました。

最近Mどりっひ様とこのゲームをプレイしたとのことで、やっぱり面白いなぁと再確認されたとのこと。
無論、私もこのゲームの面白さには異論はないので、やりましょうと言うことに。

Mどりっひ様との対戦では連合軍担当だったとのことでしたので、サッポロ辺境伯様には今度はドイツ軍を担当してもらい、私は連合軍を担当。
以前の対戦(2008年3月31日の記事参照)では、どうにか連合軍が勝利を収めましたので、今回も最後の勝利を目指してがんばることに。

広く薄く塹壕線に部隊を敷き詰める連合軍に対し、ドイツ軍の初期配置はこんな感じ。
9・24(1)
サッポロ辺境伯様は、二方向からの突破を図るべくストストルッペン(突撃軍団)をベルギー方面とヴェルダン近郊に配備してきました。

9・24(2)
ヴェルダン近郊

9・24(3)
ベルギー方面

序盤、ドイツ軍の進撃は順調に進むかに見えました。
ヴェルダン方面では、ヴェルダン要塞を包囲するようにドイツ軍のストストルッペンが浸透してきます。
対応するべきフランス軍も、部隊をあまり回していなかったためにドイツ軍の進撃を食い止めることができません。

一方ベルギー方面でも、ドイツ軍はべチューンを目指して進撃、イープルを包囲するかのように楔を打ち込んできます。

ですが、こちらは英軍が戦車を戦闘にすぐさま反撃。
突破された穴をふさいで、ドイツ軍を塹壕線に押し戻しました。

ホッとしたのもつかの間、ヴェルダン方面ではドイツ軍の攻撃でトゥールが陥落。
ヴェルダンも包囲されて孤立します。
ヴェルダンはドイツ軍に多大な損害を与えはしたものの、次のターンには陥落しました。

ヴェルダンとトゥールの陥落でドイツ軍は7点を獲得。
連合軍としてはこれ以上の得点を与えるわけには行きません。

ベルギー方面での再度のドイツ軍の攻撃が行なわれ、ベルギー軍に損害が出ますが、驚いたことにドイツ軍はそれ以上の進撃を中止しました。
まだ補充能力に余裕を持っていたドイツ軍ですが、早くも攻勢に限界を感じたのでしょう。
サッポロ辺境伯様は以後持久戦術へと転換します。

このドイツ軍の方針変更は連合軍にとっては助かりました。
もう一押しでイープルは包囲攻撃を受けるところだったのです。
断固たる英軍の反撃がドイツ軍に損害を与え、サッポロ辺境伯様の攻撃精神を失わせたのかもしれません。

ドイツ軍の攻撃が終わったとはいえ、連合軍はここから反撃をしていかなければなりません。
奪われた7点を取り戻すだけではなく、基本点の15点をさらに奪わなければならないのです。
つまり22点を奪わなければ勝てません。

堅実さを誇るサッポロ辺境伯様の手腕は、防御に回ってこそ発揮されます。
鉄壁の布陣を敷くドイツ軍に向かって、これから連合軍は立ち向かって行かなければなりませんでした。

反撃はまずヴェルダン方面で行ないます。
陥落したトゥールを奪回すべく、フランス軍と参戦した米軍を集中し、トゥールに立て篭もるドイツ軍を攻撃。
貴重な突撃軍団に損害を与えました。

防御の硬さには定評のあるサッポロ辺境伯様ですが、弱点も持ち合わせております。
それは引き際の鮮やかさ。
それはある意味では防御の硬さを作り出すには必要なことなのですが、拠点放棄もまた潔いとも思えるほどわりとあっけなく放棄することが多いのです。

サッポロ辺境伯様は冷静に以後の防御のことを考え、ここでの損害を回避することに決定。
部隊を引き抜いて防衛戦を張りなおします。
トゥールもわずか一部隊を残すだけで後退しました。

こうなると奪回もそれほど苦労はしません。
連合軍はトゥールを奪回しました。

第9ターンのサドンデス負けを回避したドイツ軍は、ただひたすらに防御を固めて逃げ切り勝利を図ります。
硬く篭る場所と、放棄する場所をはっきりとさせ、思い切った後退をいつものように行ないます。

苦労して確保したヴェルダンすらあっけなく放棄する潔さには驚きましたが、おかげでヴェルダンで受けるはずの損害を受けずにすみました。
このあたりは考え方の違いでしょう。
私ならば少しでも相手に損害を与えるべく部隊を維持していると思います。

連合軍は続々とやってくる米軍を損害担当にして、英軍と仏軍による強襲を繰り返します。
ストラスブールとメッツという二大要塞をどうにか陥落させましたが、ベルギー方面での英軍の進撃が思うようにいきませんでした。

部隊をスタックさせて防御するドイツ軍に対し、じわじわ削るものの大突破はならず、どうしてもあと4点が足りません。

9・24(5)
最後の防衛ラインを張っていくサッポロ辺境伯様

結局この4点を奪うことができず、連合軍は負けました。
あと少しというところでしたが、やはりサッポロ辺境伯様の防御は固かった。
思い切った後退が功を奏したということでしょう。

うーむ・・・
やはりサドンデス負けをまぬがれると、ドイツ軍は逃げ切り勝利の確率が高くなるのかな。
負けましたけどやっぱりこのゲームは面白いですね。
またいずれ対戦したいものです。

サッポロ辺境伯様対戦ありがとうございました。
それではまた。
  1. 2008/09/25(木) 20:46:40|
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09月25日のココロ日記(BlogPet)

性能の背比べ……

*このエントリは、ブログペットのココロが書いてます♪
  1. 2008/09/25(木) 10:50:55|
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戦艦ビスマルクを撃沈せよ (5)

ソードフィッシュ隊の雷撃はビスマルクに思わぬ被害を与えておりました。
しかし、英国海軍はそのことを知りませんでした。
ソードフィッシュ隊からの報告では大きな損害を与えることはできなかったと判断されていたのです。

しかし、ビスマルクを追尾していた軽巡シェフィールドからの電文が、トーヴィー提督を驚かせました。
ビスマルクの速度が落ち、進路を左に変えているというのです。
何かが起こったことは間違いありませんでした。

そのころビスマルクの周囲には、英国海軍のヴァイアン大佐率いる第四駆逐隊が到着しておりました。
ソードフィッシュによる攻撃とは別に、ヴァイアン大佐も駆逐艦の魚雷でビスマルクの足を止めようと思って攻撃を仕掛けたのです。

ソードフィッシュの攻撃により速度が7ノット程度しか出せなくなっていたビスマルクでしたが、まだまだその強力な主砲の攻撃力は健在でした。

22時ごろから始まった第四駆逐隊の五隻の英国駆逐艦の攻撃でしたが、ビスマルクの正確な砲撃に翻弄され、艦隊としての秩序だった攻撃を行なうことができません。
ヴァイアン大佐はやむを得ず各艦個別の攻撃を命じますが、ばらばらに投射された魚雷は思うように当てられません。

結局第四駆逐隊の魚雷攻撃はなんらビスマルクに損傷を与えることはできませんでした。
放たれた魚雷は一本も命中しなかったのです。
しかし、夜が明けるまでの間第四駆逐隊はビスマルクと接触し続け、味方艦隊を導くのに役立ったのでした。

明けて1941年5月27日。
よろよろと航行するビスマルクに、トーヴィー提督の率いる艦隊がようやく追いつきます。
8時43分、まず戦艦ロドニーが英国戦艦でこのロドニーと「ネルソン」しか持たない40センチ主砲をビスマルクに向けて発砲。
続いて旗艦キング・ジョージⅤも36センチ主砲を発射します。

ビスマルクも応戦。
戦場には巨砲の発射音が響き渡りました。

9時ごろになると、戦場に新たに二隻の重巡が加わります。
ウォーカー隊の一隻ノーフォークと、新たにやってきた「ドーセットシャー」でした。
二隻は20センチ主砲をビスマルクに向けて発砲します。

速度の低下したビスマルクは、巨砲の集中射撃に滅多打ちにあっていきました。
上部構造物はめちゃくちゃになり、主砲も第四砲塔以外は使用不能に追い込まれていきます。
10時ごろには大勢は決しました。
各所から煙を上げてのたうちまわるビスマルクは、もはや救いようがありませんでした。

しかし、まだビスマルクが沈んだわけではありません。
トーヴィー提督は焦りました。
これまでの追跡航でキング・ジョージⅤもロドニーも帰還するまでの燃料しか残っておらず、この戦場から離れなくてはならなかったのです。
砲撃で止めを刺す時間的余裕がなかったのでした。

やむを得ずトーヴィー提督は魚雷を持っているものは雷撃せよと命じます。
ですが、果たして魚雷をまだ持っている艦はいたのでしょうか?

たった一隻おりました。
新たに攻撃に加わった重巡ドーセットシャーです。
(ノーフォークも持っていたともいわれますが不明)
ドーセットシャーは沈黙したビスマルクにぎりぎりまで接近して魚雷を発射。
三本が命中したと言われます。
(この数は砲撃戦最中の命中も含まれるとも言われます)

この魚雷命中後、ビスマルクの船体はゆっくりと傾いて転覆。
艦尾から沈んでいったと言われます。
沈没に関してはドイツ側が自沈処置を取ったとも言われ、沈没原因はわかっておりません。
沈没は10時40分ごろのことでした。

ビスマルクの沈没後、燃料の残りがほとんどなかったキング・ジョージⅤとロドニーは戦場を離脱。
ドーセットシャーのみが生存者の救助に当たりました。
しかしドーセットシャーもUボートの脅威を理由に早々に救助を中止。
結局2206名のビスマルク乗組員のうち、救助されたのは115人でした。
リンデマン艦長もリュッチェンス提督もともに戦死。
ドイツ戦艦ビスマルクの生涯はここに終わりを告げました。

フッドの敵討ちとはいえ、このビスマルク追撃にかけた英国海軍の執念はすさまじいものがありました。
追撃戦に参加した艦艇は、戦艦巡洋戦艦が合わせて八隻、空母二隻、巡洋艦十一隻、駆逐艦二十一隻、潜水艦六隻、航空機約三百機と英国海軍のもてる全力を投入した追撃戦だったといっても過言ではありませんでした。
そして、ついに最終的にはビスマルクを沈めることに成功したのです。

ドイツにとってビスマルクの損失は大きなものでした。
水上艦艇での通商破壊はこれをもって終結し、以後ヒトラーは大型水上艦艇を出撃させようとはしませんでした。

月が改まった6月1日。
一隻のドイツ艦がフランスのブレスト港に入港。
途中でビスマルクと別れたプリンツ・オイゲンでした。
通商破壊には失敗したものの、どうにか無事に帰ってくることができたのです。

プリンツ・オイゲンは第二次世界大戦を生き延びました。
戦後、米軍に接収され、ビキニ諸島での原爆実験の標的として使われます。
のち、スクリューだけがドイツに返還されました。

ビスマルクの脚を航空機で止めることに成功した英国海軍も、そののちに同じような目を受けることになります。

主砲故障で散々な目にあったプリンス・オブ・ウェールズは、東洋艦隊の一隻として日本に対しにらみを効かせましたが、「マレー沖海戦」で日本軍の航空機に沈められます。
また、ビスマルクに最後魚雷を発射したドーセットシャーも、インド洋で日本軍の航空機に沈められました。

そして、ビスマルクの推進器に損傷を与えたソードフィッシュ隊を発進させた空母アークロイヤルは、マルタ島への航空機輸送の帰り道、ドイツのU-81からの魚雷を受けて沈没。
ある意味ビスマルクの仇を取った形となったのでした。

参考文献
「バルバロッサ作戦」(第二次大戦欧州戦史シリーズ4) 学研
「グラフィックアクション19 戦うドイツ海軍」 文林堂

参考サイト
Wikipedia「ビスマルク」
Wikipedia「プリンツ・オイゲン」ほか


思った以上に長くなってしまいました。
二回ぐらいで終わるかなって思っていたのですが・・・

最後までお付き合いいただきありがとうございました。
それではまた。
  1. 2008/09/24(水) 20:25:40|
  2. ビスマルクを撃沈せよ
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戦艦ビスマルクを撃沈せよ (4)

ビスマルクの砲撃によって巡洋戦艦フッドを失ったことは、英国にとっては大きな衝撃でした。
完成以来軍艦美の極致と言われ、英国民に親しまれてきた巨艦を失ったことは、英国海軍に復讐心を抱かせるには充分でした。
英国海軍軍令部は、投入できるすべての戦力を振り向けるべく直ちに手配を行います。
船団護衛という重要な任務についていた戦艦「ロドニー」が、この命令により駆逐艦を引き連れてビスマルクに向かいました。

そのころビスマルク艦上では、リュッチェンス提督が決断を迫られておりました。
積み損ねてしまった燃料200トン。
せっかく入港したのに燃料補給を行なわなかったノルウェーのベルゲンまでに消費した燃料が約1000トン。
そして、今また砲撃戦で使用不能になってしまった燃料が約1000トン。
残燃料は3000トンを切っていたといい、通商破壊活動を行なうにはもはや燃料不足は明白でした。

リュッチェンス提督はついに任務中止を決断。
ビスマルクを入港させて修理することに決定します。
無傷に近いプリンツ・オイゲンに関しては、このまま任務を続行させるため、ここで別れることとなりました。

問題はどこに入港するかでした。
ノルウェーのベルゲンやトロンヘイムは近いのですが、まさに英国海軍が待ち構えている危険性が非常に高いものでした。
一方遠回りになりますが、フランスの港へ向かえば英国海軍の監視の目をすり抜けられる可能性もあり、リュッチェンス提督はそちらを選びます。
ビスマルクはフランスのブレストかサン・ナゼールを目指すことになりました。

損傷を受けていたとは言え、ビスマルクはまだ28ノットの速度を出すことができました。
油の尾を引いていてもこの速度を維持できれば、英国の艦隊を振り切ることも可能かと思われました。

英国本国艦隊のトーヴィー提督は、何とかビスマルクの速度を低下させなければならないと考えます。
そこで航空機による魚雷攻撃で損傷を与え、速度を落とさせようとしました。

早朝の砲撃戦の興奮も冷めやらぬ5月24日22時。
本国艦隊の空母ヴィクトリアスから、複葉の旧式機ではあるものの信頼性の高い「ソードフィッシュ」雷撃機が9機飛び立ちます。
この攻撃隊はウォーカー隊の誘導でビスマルクにたどり着き、果敢な攻撃で魚雷一本を命中させることに成功しました。
しかし、この魚雷はビスマルクにさほどの損傷を与えることはできず、出港前にリュッチェンス提督が豪語したことを証明しただけでした。

日付が変わった1941年5月25日深夜。
それまで付かず離れずレーダーでビスマルクを追尾してきたウォーカー隊の重巡サフォークが、レーダーからビスマルクを見失います。
英国艦隊を振り切るためのビスマルクの数度の針路変更が功を奏したのでした。

サフォークが接触を失ったことで英国側は焦りました。
このままではビスマルクを取り逃がしてしまいます。
しかし、ビスマルク側はこの幸運を自ら手放してしまいました。
ドイツ海軍本部に宛てて通信を送ってしまったのです。

ビスマルクの通信は英国側にも傍受され、ビスマルクの位置が知られてしまいました。
ところがまだ幸運は完全には逃げてませんでした。
英国海軍軍令部はビスマルクがフランスに向かうものと判断しましたが、肝心の追尾するトーヴィー提督の艦隊がビスマルクの位置を誤って判断してしまったのです。

トーヴィー提督の艦隊が空しい追尾を行っている間にもビスマルクはフランスに近づいておりました。
あとほんの少しの幸運があればフランスにたどり着ける状態でした。

5月25日はそうして終わり、5月26日の朝を迎えます。
ビスマルクはフランスまで400マイルあまりの位置にあり、もう少しでUボートの活動圏内でした。

10時30分、哨戒機のカタリナ飛行艇がフランスのビスケー湾に向かって航行中のビスマルクを再度発見します。
発見の報告自体は喜ぶべきものであったものの、英国海軍は逆に深刻な状況であることに暗澹たる思いを募らせました。
現状ではどうあがいても、本国艦隊もH部隊もビスマルクを捕捉できる位置にはいなかったのです。

このままではフランスに逃げ込まれてしまう。
せめてビスマルクの速度が低下すれば・・・
英国海軍は一縷の望みを駆逐艦と航空機に託しました。

この時、ジブラルタルより出発していたサマーヴィル提督指揮下のH部隊は、ビスマルクよりおよそ100マイルの位置に到着しておりました。
100マイルであればソードフィッシュ雷撃機で攻撃ができる。
そう考えたサマーヴィル提督は、指揮下の空母「アークロイヤル」にソードフィッシュ雷撃機の出撃を命じます。
14時40分、魚雷を抱いたソードフィッシュは、複葉機という旧式な姿でのろのろとではありましたが、ビスマルク攻撃の熱い思いを載せて飛び立って行きました。

ところがこの熱い思いは空回りをしてしまいます。
アークロイヤルを飛び立った15機のソードフィッシュは、こともあろうに味方である軽巡洋艦「シェフィールド」をビスマルクと誤認して攻撃してしまったのです。

しかし、何が幸いするかわかりません。
この攻撃で投下された魚雷は、すべてシェフィールドに当たる前に自爆してしまい、シェフィールドは傷つくことをまぬがれました。
信管の感度がよすぎて、波に当たっただけで爆発してしまったのです。
帰投したソードフィッシュ隊はそのことを知り、魚雷の信管を交換して第二次出撃に望むことができました。

空母アークロイヤルの艦上で、ソードフィッシュ隊が万全を期して第二次攻撃の準備をしていたちょうどそのとき、この巨艦を潜望鏡に収めたUボートがおりました。
ビスマルクと兄弟艦の約束を交わしたU-556でした。
艦長のヴォールファルト大尉は、あれこそ英国の空母アークロイヤルだと認識しており、魚雷を撃つ絶好のチャンスであることも理解しておりました。
しかし、基地に帰投中であったU-556には魚雷が一本も残っておりませんでした。
商船六隻撃沈という輝かしい戦果を挙げていたU-556は、手持ち魚雷をすべて使い果たしてしまっていたのです。
運命の皮肉でした。
U-556はビスマルクを救うチャンスを逸したのです。

19時10分、アークロイヤルから再びソードフィッシュ15機が飛び立ちます。
今度はシェフィールドの誘導もあってビスマルクに到達。
約30分に渡ってビスマルクを攻撃しました。

熾烈な対空砲火がソードフィッシュ隊を襲い、魚雷投下をあきらめざるを得なくなる機も出る中で、二本の魚雷がビスマルクに命中します。
一本は左舷中央部に命中、多量の浸水が起こりましたが、まだビスマルクにとっては大きな損害ではありませんでした。
しかし、二本目は後部推進器付近に命中。
ビスマルクの三本のスクリューのうち中央の一本が捻じ曲がり艦底を傷つけます。
さらに悪いことに、これによって舵が効かなくなってしまい、取り舵(左舵)を切ったまま動かなくなってしまったのです。

この損傷は致命的でした。
ビスマルクは速度も出せなくなり、左へ左へとただ回転するしかできなくなったのです。
フランスへ逃げ込むことがほぼ絶望となりました。

その5へ
  1. 2008/09/23(火) 20:34:48|
  2. ビスマルクを撃沈せよ
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戦艦ビスマルクを撃沈せよ (3)

1941年5月24日午前5時25分(諸説あり)。
ホランド提督率いる英国先遣艦隊はビスマルクとプリンツ・オイゲンの二隻を発見。
見敵必戦の伝統を持つ英国艦隊は波を蹴立ててビスマルクに向かいます。
ただ、そのため本来取りたかったT字戦法を取ることができなくなり、逆にドイツ側がT字戦法を取りやすくなっておりました。

5時52分、両軍は砲撃を開始。
指揮官先頭の英国海軍は旗艦フッドにプリンス・オブ・ウェールズが続行する形となり、前方を航行する二隻のドイツ軍艦に砲撃を浴びせます。
一方ドイツ側は、隊形変換でプリンツ・オイゲンが前に出る形になっており、ビスマルクは後ろ側になっておりました。

ここでこの二隻のシルエットが似ていることが、ドイツ側の有利に働きます。
プリンス・オブ・ウェールズは後方の敵艦こそビスマルクと判断して砲撃を行ないますが、フッドはしばらくの間プリンツ・オイゲンをビスマルクと誤認していたというのです。

ドイツ側を追いかける形となっていた英国側は、船体の前側の大砲しか使えません。
フッドが4門、プリンス・オブ・ウェールズが6門と、主砲全部で18門のうち10門しか使えないのです。
さらにそれが分散し、ビスマルクを狙っている主砲はプリンス・オブ・ウェールズの6門のみ。
しかも、完成したばかりのこの戦艦は、まだ完全に仕上がっていなかったのか、主砲1門が最初の砲撃で故障してしまいます。
結局、英国艦隊の18門の主砲のうち、ビスマルクを撃っているのはたった5門に過ぎなかったのです。

この間、ドイツ側はすべての主砲を先頭のフッドに集中させておりました。
ビスマルクの38センチ砲8門と、破壊力は劣るものの傷つけるには充分なプリンツ・オイゲンの20センチ砲8門が、フッドに集中していたのです。

6時ちょうど、ビスマルクの主砲の一弾がフッドの船体中央部付近に命中します。
すでにいくつかの命中弾を受けていたフッドでしたが、この直撃がフッドに止めを刺しました。
巨大な爆発が船体中央部で発生し、フッドの前半分を吹き飛ばしたのです。

フッドの後方を航行していたプリンス・オブ・ウェールズは一瞬何が起こったのか把握することができませんでした。
われに返ったときにはすでにフッドの姿は海上にはありませんでした。
まさに轟沈だったのです。

フッドの轟沈により、プリンス・オブ・ウェールズは緊急回避を行なわざるを得ませんでした。
その結果、今度はドイツ側が狙いやすい位置に動くことになってしまい、集中砲撃を食らってしまいます。
いくつかのドイツ側の砲弾が命中し、プリンス・オブ・ウェールズを損傷させました。
幸いにして致命傷を負うことはありませんでしたが、それ以上に深刻だったのが相次ぐ主砲の故障でした。
気がつくとプリンス・オブ・ウェールズは、前部主砲の半分ほどが故障で撃てなくなっていたのです。

ここにいたり、プリンス・オブ・ウェールズのリーチ艦長は撤退を決意。
このためフッド乗組員の救出を行なうことができませんでした。

反転回頭したプリンス・オブ・ウェールズは、後部砲塔の4門の主砲をビスマルクに向けて撃ちますが、これは命中せず、かえってまたしても砲塔が旋回できなくなると言う故障に見舞われます。
この戦闘に関しては、最初から最後までプリンス・オブ・ウェールズには故障が付きまといました。

6時10分。
戦闘は終了します。
たった20分ほどの砲撃戦でしたが、英国海軍の完敗でした。
フッドは失われ、ホランド提督も戦死。
プリンス・オブ・ウェールズは満身創痍で戦場を離脱せざるを得ませんでした。

ですが、英国側もただやられたわけではありませんでした。
故障に悩まされながらも、プリンス・オブ・ウェールズの放った主砲弾は三発がビスマルクに命中しておりました。
二発はたいした損害ではなく、今後の戦闘行動に支障のあるものではありませんでしたが、一発が水面下に命中して燃料タンクに損傷を与えておりました。

これによりビスマルクはまたしても燃料のうちの1000トンを使用することができなくなりました。
さらに悪いことに、漏れた燃料が海面に油の尾をはっきりと生じさせておりました。
航空機から見れば、それははっきりとわかるものであり、この油の尾を引いている限りビスマルクがその先にいることを示してしまうものでした。

ビスマルクの艦橋では二人の男が意見を衝突させておりました。

一人はリンデマン艦長。
彼は離脱したプリンス・オブ・ウェールズを追撃して撃沈するべきだと言う意見の持ち主でした。
彼はどうやらプリンス・オブ・ウェールズを本国艦隊の旗艦キング・ジョージⅤと誤認していたのかもしれませんが、英国民の親しんだフッドと英国の誇るキング・ジョージⅤを撃沈することができれば、英国民に与える精神的動揺は計り知れなく、またビスマルクにとっても大いなる名誉だと考えておりました。

もう一人はリュッチェンス提督。
彼はプリンス・オブ・ウェールズ追撃に真っ向から反対します。
もともと艦隊の目的は通商破壊であり、そのために出撃してきたのです。
沈めるべき相手は商船であり戦艦ではありません。
たまたまフッドを沈めたとは言え、本来戦闘は回避するべきものでした。
敵が撤退したのなら、この隙に距離をとって本来の通商破壊任務に戻るべきだと考えたのです。

結局ビスマルクは戦場を離れました。
リンデマン艦長にとっては不満が残るものだったでしょうが、提督の命には従わなければなりません。
こうしてデンマーク海峡での戦いは終わりました。

離脱したプリンス・オブ・ウェールズは、重巡サフォークとノーフォークの両艦と合流。
ウォーカー少将の指揮下に入ることになりました。
ウォーカー少将はこの三隻による攻撃は考えず、トーヴィー提督指揮下の艦隊の到着を待つことにします。
レーダーの索敵範囲ぎりぎりに追尾しつつ、チャンスを待つことにしたのでした。

フッド乗組員の救出のために駆逐艦が戦場付近に到着したのは、戦闘から約二時間後でした。
救出されたフッド乗組員はわずかに3名。
ホランド提督以下1415名が戦死いたしました。

その4へ
  1. 2008/09/22(月) 20:25:44|
  2. ビスマルクを撃沈せよ
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戦艦ビスマルクを撃沈せよ (2)

1941年5月18日、ビスマルクとプリンツ・オイゲンほかのドイツ艦隊はゴーテンハーフェンを出港しました。
リュッチェンス提督の計画としては、このままノルウェーをかすめるようにして北海へ向かい、待機しているはずの給油船と合流して燃料を受け取ったのち、北大西洋で英国商船団を攻撃するというものでした。

ビスマルクは、出撃に際してどういうわけか燃料を200トンも積み残しておりました。
長期的に外洋で航海するためには燃料が必要不可欠でしたが、どうも事故で積み損ねていたようでした。

ビスマルクが出港したちょうどそのころ、かつて造船所で兄弟艦の約束を交わした潜水艦U-556は、大西洋上で順調に商船狩りを行なっておりました。
しとめた獲物は五隻にものぼったそうで、ヴォールファルト大尉以下乗組員は意気揚々としていたところでした。

ビスマルク艦隊は、デンマークとノルウェーにはさまれたカテガット海峡を通過。
残念なことに、狭い海峡の通過はすぐにこの艦隊の出撃を連合軍側に知らしめることになります。
5月20日には早くもスウェーデンの軍艦がビスマルク艦隊を発見したのです。

英国海軍の根拠地スカパ・フローでは、戦艦「キング・ジョージⅤ」に将旗を掲げた本国艦隊司令長官サー・ジョン・トーヴィー提督が、ビスマルクの出撃を待ち構えておりました。
彼はビスマルクの出撃を5月中旬と読んでおり、重巡「サフォーク」と「ノーフォークの」二隻を指揮してデンマーク海峡を遊弋中のウェイク・ウォーカー少将に注意するように命じたばかりでした。

ビスマルク艦隊の出撃情報は5月21日にはトーヴィー提督の元に届きました。
トーヴィー提督はビスマルク迎撃に手持ちの戦力を集結するべく各部隊に命令を発します。
地中海で苦戦しているマルタ島守備のために航空機を運ぶ予定だった空母「ヴィクトリアス」の出撃を取りやめ、巡洋戦艦「レパルス」にもスカパ・フローへの帰投を命じました。
そして、先遣部隊として、ランスロット・ホランド中将に戦艦「フッド」と、完成したばかりでまだ完熟訓練も満足に行なえていなかった最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を与え、出撃準備を行わせます。

同日、どうしたわけかリュッチェンス提督は指揮下の艦隊をノルウェーのベルゲン付近のフィヨルドに停泊させ、プリンツ・オイゲンに給油を行なわせました。
今後の通商破壊行動における燃料の不安を解消したかったのかもしれませんが、それにしてはビスマルクへの燃料補給は行なわなかったのです。
このツケは高くつくことになりました。

そのころ、ビスマルクの動向を探るべくトーヴィー提督が派遣した英空軍の偵察機が、フィヨルドのビスマルクを発見。
またしてもビスマルクは居場所を察知されてしまいました。

この情報にトーヴィー提督はホランド中将の先遣隊に出撃を命令。
フッド、プリンス・オブ・ウェールズ及び駆逐艦四隻がビスマルク目指して出港しました。
英軍のビスマルク狩りが始まったのです。

翌5月22日、ビスマルク以下の艦隊はフィヨルドを出港。
北大西洋へ向かって航海を始めます。
ここから先は波の荒い外洋であり、護衛の駆逐艦には航行困難になるであろうことが予想されました。
そのため、護衛の駆逐艦とはここで分離。
ビスマルクとプリンツ・オイゲンのみがアイスランド方面へ向かいました。

アイスランドとグリーンランドの間をデンマーク海峡と呼びます。
このデンマーク海峡を通って、ビスマルクは外洋へ向かうつもりでした。

一方、フィヨルドからビスマルクが出港したことを知ったトーヴィー提督は、ついに自らも艦隊を率いてビスマルク追撃に向かいます。
戦艦キング・ジョージⅤを旗艦とし、帰投した巡洋戦艦レパルス、出撃を取りやめていた空母ヴィクトリアスと軽巡洋艦四隻、駆逐艦六隻があとに続きました。

トーヴィー提督が本国艦隊を出撃させていたころ、英国海軍軍令部のダドリー・パウンド提督は、本来なら船団護衛につく予定だったジェイムズ・サマーヴィル中将指揮下のジブラルタル駐留艦隊(H部隊)にもビスマルク追撃に参加するよう指示。
この指示こそパウンド提督の最高の指示だったとのちに評されることになります。

5月23日、ビスマルクとプリンツ・オイゲンはデンマーク海峡に侵入。
時折霧が立ち込める中、両艦は粛々と海峡を通過して行き、英軍の準備した機雷原も突破します。
リュッチェンス提督の下には、まだ英国艦隊出撃の報告は届いておりませんでした。

19時15分ごろ、デンマーク海峡を遊弋していたウォーカー少将指揮下の二隻の重巡のうちの一隻サフォークの見張り員が、ビスマルクとプリンツ・オイゲンを視認。
同艦のエリス艦長は、ビスマルクの砲撃を食らってはひとたまりもないので、慎重にサフォークを霧の中に隠し、装備されたばかりのレーダーで追尾することにします。

一方もう一隻の重巡ノーフォークは、霧の切れ間に姿を現してしまうというミスを犯してしまい、ビスマルク側にも英国巡洋艦の姿を視認させてしまいます。
ビスマルクは直ちにノーフォークを追い払うべく砲撃を開始。
正確な砲撃はノーフォークが霧に隠れるわずかな間に砲弾を夾叉(きょうさ:砲弾の着弾が敵艦を挟み込むこと。次の射撃で当たる確率が高くなる)させるほどでした。

サフォークとノーフォークの悲鳴のようなビスマルク発見の報告は、ホランド提督の先遣艦隊はおろか、トーヴィー提督の本国艦隊、英国本土の軍令部、ジブラルタルのH部隊のサマーヴィル提督にも受信されました。
ビスマルクはまたしてもその位置を発見されてしまったのです。

先遣艦隊のホランド提督は勇み立ちました。
指揮下の二隻の戦艦に対して相手は戦艦はビスマルク一隻。
フッドこそ艦齢20年になるベテランですが、その主砲はビスマルクと同じ38センチ砲八門。
さらにプリンス・オブ・ウェールズにいたってはできたばかりの最新鋭戦艦であり、主砲は36センチ砲と一回り小さいものの、その分十門という門数をそろえていて遜色ありません。
気がかりなのはできたばかりということで乗組員の練度不足と、造船所の工員が乗り込んでまだ工事をやっている部署があるということでした。

ホランド提督は態勢的に有利なT字戦法(味方は横腹を晒して全部の大砲を使うが、敵は向かってくるために前側の大砲しか使えず、味方が有利)を取るべく進路を変えます。
この針路変更は、幸か不幸かビスマルクとわずか10マイルほどですれ違うと言う結果になり、ウォーカー隊からの位置報告によって再度変針。
ビスマルクを追いかけるような形となってしまいます。

ビスマルクとフッド及びプリンス・オブ・ウェールズとの戦いは、翌日に持ち越されました。

その3へ
  1. 2008/09/21(日) 20:32:42|
  2. ビスマルクを撃沈せよ
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戦艦ビスマルクを撃沈せよ (1)

第二次世界大戦三年目の1941年5月18日、ドイツの軍港ゴーテンハーフェンより一隻の戦艦が出撃いたしました。
戦艦の名は「ビスマルク」。
あの鉄血宰相といわれたオットー・フォン・ビスマルクの名をつけられた、ドイツ海軍の有力な戦艦でした。

ビスマルクとともに出港したのは、重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」ほか駆逐艦六隻。
小規模ながらも堂々たる艦隊を組んでの出港でした。
この艦隊の目的はただ一つ。
英国周辺海域で英国に向かう商船を沈めること。
つまり通商破壊戦だったのです。

1939年に開戦して以来、ドイツは英国を戦争から脱落させるために通商破壊を仕掛けておりました。
1940年には輝かしい電撃戦をもってフランスやオランダベルギーを屈服せしめ、ノルウェーも占領して、欧州の大西洋岸の良港はほぼドイツの手中に収まります。
今までドイツ本国から出かけていたUボートは、フランスやノルウェーの港から出航できるようになり、その威力も増大しました。

1940年から1941年初頭にかけて、ドイツのUボートやポケット戦艦、巡洋艦等の通商破壊艦による英国商船の損害はうなぎのぼりであり、英国は軍需物資どころか日用品にまで事欠く有様となります。
このままいけば、早晩英国は戦争継続が不可能になるだろうと思われました。

そこでドイツ海軍(クリークスマリーネ)の司令官たるエーリッヒ・レーダー提督は、高速戦艦ビスマルクと、巡洋戦艦「グナイゼナウ」、「シャルンホルスト」のドイツ海軍の戦艦クラスすべてを通商破壊に投入し、英国の息の根を止めることを考えます。
これら三隻が暴れまわれば、英国の商船団は壊滅し、英国の息の根はとまると考えられたのです。

レーダー提督は「ライン演習」という作戦名でこれらの軍艦の出撃準備を進めました。
完成したばかりの新型重巡プリンツ・オイゲンもこの作戦に加わるべくゴーテンハーフェンに到着します。

プリンツ・オイゲンは、アドミラル・ヒッパー級の一隻で基準排水量15000トンと、当時の巡洋艦としてはかなり大型の重巡洋艦でした。
(日本海軍の大型重巡である高雄型でも11000トン)
20センチ主砲連装砲塔を前後二基ずつ合計四基八門持ち、長大な航続力を持つこの重巡は、まさに通商破壊用と言っても過言ではありませんでした。
そして、何よりこの重巡の特徴は、遠距離から見た場合のシルエットがビスマルクにそっくりというものでした。
いわばビスマルクの影武者とも言える存在を、ドイツ海軍は用意していたのです。

こうして「ライン演習」作戦の準備は着々と進められましたが、大きな誤算が生じました。
参加するはずのグナイゼナウとシャルンホルストの二隻の巡洋戦艦が二隻とも作戦参加不能となってしまったのです。
シャルンホルストは機関部の故障、グナイゼナウは英空軍機の攻撃による損傷のため、二隻とも修理をしなくてはならなくなったのです。

レーダー提督は悩みました。
このまま戦力の少ない状況で作戦を実行するべきか、それとも両艦の修理を待って戦力を充実させて作戦を行なうべきか・・・
しかし、直接の参戦はしてないものの、英国にはアメリカの援助が行われつつありました。
今このチャンスを逃せば、英国は立ち直ってくるかもしれない。
レーダー提督はそう考え、ビスマルクとプリンツ・オイゲンだけで作戦を決行することにいたします。

5月5日、出撃準備中のビスマルクを、総統ヒトラーが視察に訪れます。
ビスマルクとプリンツ・オイゲンを直接率いるのはベテラン海軍軍人のギュンター・リュッチェンス中将でしたが、彼はヒトラーの前でビスマルクの優秀さを説明し、英国の戦艦のいずれが来ても撃退できると豪語します。
ヒトラーはそれに満足したものの、ふと雷撃機に魚雷を撃ち込まれたらどうなのだと訊きました。
リュッチェンスは多少の心配はあるものの、対空兵器も充実しており、何よりその厚い装甲が魚雷を蜂の一刺し程度にしか感じさせないでしょうと言ったといいます。

第二次世界大戦直前の1939年2月に進水したビスマルクは、翌年1940年8月に就役しました。
基準排水量41700トン、全長251メートル、38センチ主砲連装砲塔四基八門を搭載し、装甲に排水量の38%も充てるという重防御の戦艦として完成します。
日本の大和級の完成までは世界最大の戦艦でした。

ただし、舷側防御は強力だったものの、甲板防御は比較的弱く、遠距離砲戦には向かない戦艦だったといわれます。
このあたりも戦艦同士の砲撃戦よりも通商破壊を考慮されたのかもしれません。

ハンブルグの造船所でビスマルクが艤装(ぎそう:進水後船に各種装備を取り付けること)しているとき、隣のドックではUボートの一隻U-556が建造中でした。
このよしみでビスマルクの艦長エルンスト・リンデマン大佐以下のビスマルク乗組員と、U-556の艦長ヘルベルト・ヴォールファルト大尉以下のU-556乗組員は互いに親しくなり、お互いに兄弟艦として助け合おうと約束しあったといいます。
海の男たちの友情でした。

こうしてビスマルクとプリンツ・オイゲン以下の艦隊は、北大西洋へと向かいました。
ビスマルクにとっては最後の航海の始まりでした。

その2へ

(ビスマルクの出港時に駆逐艦が付き従っていたことがわかりましたので記事を修正しました)
  1. 2008/09/20(土) 20:04:56|
  2. ビスマルクを撃沈せよ
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ビットを発進させる暇もなし

テンプレ元に戻しました。
・・・ちょっと寂しい。(笑)

1924年2月18日、一隻の航空母艦が英国で就役しました。
その名を「ハーミーズ(Hermes)」(初代)と名付けられたこの空母は、本来ならば世界で初めて一から空母として作られた軍艦となるはずでした。
実際に進水式は第一次世界大戦終結翌年の1919年9月に行なわれており、就役までにそれから4年半もかかるとは思わなかったでしょう。

ですが、世界最初の真平ら空母アーガスに続き、戦艦を改造して作った空母イーグルの運用実績を取り入れようとして、工事にいろいろ改正を加えているうちにどんどん月日が経ってしまい、気がつくと2年もあとに建造が開始された日本の空母鳳翔に追い抜かれてしまい、世界最初の一から建造した航空母艦という名誉を掻っ攫われてしまうのです。
(鳳翔の就役は1922年12月27日)

そんな生まれながらに躓き感のあるハーミーズですが、さすがにそれだけ工事を遅らせただけあってエンクローズされた艦首部分や右舷の艦橋配置など先進的な面も備えており、鳳翔より近代的空母としての素養は備えておりました。

しかし、英国にとってはまだこのハーミーズも習作の域を抜け出なかったのか、艦体空母として運用するには小型に過ぎました。

基準排水量でわずか10850トンしかなく、最大速度も25ノット程度と遅く、何よりも搭載機が20機程度と少ないのがつらいものでした。
余談ですが、第二次世界大戦中の英国空母はほとんどが日本やアメリカの空母の半分ぐらいしか搭載機が載せられず、搭載機での攻撃力には難があるものとなってました。
ただし、その代わりに施された重防御は、しばしば神風特攻で飛行甲板を破壊されていた米空母に比べ、一度も飛行甲板を破壊されなかったほどの装甲の厚さだったといいます。

結局小型に過ぎたハーミーズは、本国での任務には不適当と判断され、アジア方面シナ艦隊に配属され1930年代を過ごします。
その後風雲急を告げる欧州事情により、1939年には英国に帰還。
一時期はフランス艦隊と行動をともにしたりもしましたが、フランス降伏後にはインド洋に派遣され、日本に対してにらみを効かせることになります。

1941年12月8日に始まった太平洋戦争で、イギリスはマレー沖で戦艦二隻を失うという打撃を受けました。
さらにシンガポールも陥落し、このままの勢いでは早晩インドも日本の影響下に置かれることが考えられました。

ハーミーズは英国東洋艦隊の貴重な航空母艦でしたが、折悪しくそのころ修理中でありました。

1942年4月9日、インド洋での英国東洋艦隊に対する打撃をもくろむ日本海軍南雲機動部隊(旗艦赤城以下空母五隻主力)が英国の拠点であるセイロン島に接近。
トリンコマリー軍港で修理中だったハーミーズは修理もそこそこに脱出します。

しかし日本軍の偵察機がこれを発見。
南雲提督はハーミーズ撃沈のために99式艦爆85機を差し向けます。
このとき魚雷を積むべき97式艦上攻撃機はトリンコマリー空襲に向かっていたためか参加せず、爆撃機と護衛の零戦だけが向かったのでした。

日本軍の攻撃を受けたハーミーズは護衛の駆逐艦とともに必死に回避行動を取りますが、この時期の日本軍のパイロットの腕前はまさに神業と言ってもいいものでした。
85機の爆撃機中45機が実際にハーミーズを攻撃、そのうちなんと37機の爆弾がハーミーズに命中したのです。
小型のハーミーズが37発もの爆弾を食らって耐えられるはずはありません。
ほぼ轟沈と言ってもいいような状況でハーミーズは沈没したと思います。
なお、護衛の駆逐艦ほか4隻も同時に沈められており、英国はまたしても大きな打撃を受けたのでした。

神業のような日本軍の攻撃で沈められたハーミーズですが、こののち日本軍がこのような神業を発揮するチャンスはありませんでした。
ハーミーズは日本軍に沈められた唯一の英国航空母艦となったのです。

ちなみにハーミーズ(Hermes)ってフランス語読みだとエルメスですね。
ビットを発進させる暇もなかったか・・・

それではまた。
  1. 2008/09/19(金) 20:12:34|
  2. 趣味
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ちょっとだけ気分を変えて

驚かれた人も多いかな?
冨士様というお方のイラストの入ったテンプレにしてみました。
なんとなく気分転換。
明日には元に戻す予定です。
(こっちの方がいいって人も多いかな?)

今日はスポーツネタを。

メジャーでイチロー選手が八年連続の200本安打達成しましたね。
達成は内野安打でということで、ご本人も「ボクらしい」とのことでしたが、史上二人目とのことで来期の新記録達成に期待がかかっちゃいますね。

それにしてもすごい。
試合数も多いと言えば多いのでしょうけど、八年連続で200本ですか。
それだけで1600本安打ですよ。
通算打率はどれぐらいなのかな。
すごいですよね。

でも、一発長打の魅力がないってことでイチローは不要ってファンも結構多いみたいですね。
いやらしいバッターってのは玄人好みなのかもしれないですね。

国内ではいよいよ明日から巨人阪神の三連戦。
ここでほぼ勝負が決まると言っても過言ではなさそうです。

三連敗しても追いつかれただけではありますが、おそらく三本柱を投入しての三連敗ということになってしまうでしょうから、そのままずるずるといってしまいそうです。
なんとしても勝ち越して欲しい。

今年の巨人は圧倒的お得意様との貯金だけでここまで上がったそうですね。
横浜とヤクルトから20以上の貯金をしています。
ほかの広島、中日、阪神には負け越しているので、これでもし優勝すれば非常に珍しいことなんだとか。

とにかく打撃の破壊力はさすがというほかないので、空中戦になるときびしいでしょう。
先発投手になんとしても先制点を与えないようにしてほしいものです。

良かれ悪しかれ優勝が決まるまでは胃が痛くなるような日が続きますね。
最後に笑って終われたらいいなぁ。

それではまた。
  1. 2008/09/18(木) 20:06:48|
  2. スポーツ
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09月18日のココロ日記(BlogPet)

さっき新鮮なエントリと撤退を買ってきました。明日のお弁当はこれで決まりですね!

*このエントリは、ブログペットのココロが書いてます♪
  1. 2008/09/18(木) 10:31:13|
  2. ココロの日記
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よくぞ生き残ったもの

第一次世界大戦の終結に伴い、ヨーロッパでは多くの国家の国境や勢力圏が変わりました。
中でもかつてはハプスブルグ家の大国として君臨していたオーストリア=ハンガリー二重帝国は崩壊し、オーストリアとハンガリーという二つの国家に分断します。
しかもそれは第一次世界大戦の敗北によるものだったため、領土を大幅に削られてのことでした。

このときにオーストリア=ハンガリーから大幅な領土を獲得し、一躍バルカン諸国の中で領土的に大きな国になったのがルーマニアでした。
オーストリア=ハンガリーの一部だったトランシルヴァニアなどを獲得したことで、以前の倍以上に国土が広がったのでした。

しかし、これは独立した国家となったハンガリーにとっては屈辱でした。
旧領回復のため、以後ハンガリーは第二次世界大戦にいたるまでドイツに接近し、ルーマニアを仮想敵国として認識します。

広大な領土を得たルーマニアは、その領土防衛のためにも軍事力の強化を図ります。
ハンガリーだけでなく、新たに成立したソ連が虎視眈々とバルカンの領土を狙っていたのです。

第一次世界大戦で芽を出した戦車という新兵器は、その後の世界恐慌などもあり軽量小型の安価なものが世界的にもてはやされておりました。
二人乗りぐらいの大きさで機関銃を一丁か二丁搭載するだけの、カーデン・ロイド型軽戦車がベストセラーとなっていたのです。

軍の近代化を図るハンガリーが、イタリアのカーデン・ロイド系列の軽戦車L3(2008年5月10日当ブログで紹介)を購入したのをきっかけに、ルーマニアでも戦車を購入しようという動きが起こりました。
当然、どこから購入するのかという話になりますが、ルーマニアが選んだ相手国はチェコスロバキアでした。

第一次世界大戦後、チェコスロバキアは優れた軍事産業を持つ世界有数の武器輸出大国でした。
武器そのものだけでいえば世界第二位の輸出量だったと言います。

のちにヒトラーのドイツもその軍事産業を手に入れるべくチェコを併合し、スロバキアを分離独立させました。
このチェコで生産された35(t)や38(t)戦車が初期のドイツ軍の電撃戦の主力となったと言っても過言ではありません。
チェコスロバキアは優れた戦車生産技術を持っていたのです。

ルーマニアからの戦車購入の申し出に、チェコスロバキアは喜んで応じました。
そして国内二つのメーカーから、何種かの戦車を提示したのです。

ルーマニアが最終的に選んだのはCKD社のAH-Ⅳという戦車でした。
当時のベストセラー、カーデン・ロイド系列の軽戦車と同じく、二人乗りの機関銃を二丁搭載する小型の軽戦車です。

もともとこのAH-Ⅳという戦車は、当時同じように軍の近代化を進めていたイラン政府による購入申し入れにより開発された戦車でした。
今までのカーデン・ロイド系列の戦車とは違い、大きな転輪を採用した足回りは近代的で、不整地走行性能も優秀なものでした。
また、武装も機関銃だけとは言え、今までのカーデン・ロイド系列の軽戦車が機関銃を車体に固定していたのに比べて、二丁のうち一丁をまがりなりにも回転する砲塔(銃塔)に装備したことは大きな違いで、車体を動かさなくても360度射撃ができるようになったことは戦闘力を大きくアップするものでした。

全長3.2メートル、重量3.9トンの小型戦車ですが、最大速度は45キロも出すことができる高速戦車であり、AH-Ⅳはイラン政府に採用されました。

このAH-Ⅳをルーマニアにも提示してきたのです。
ルーマニアもこの戦車の性能に満足し、多数のルーマニア向け仕様への変更を要求はしましたが、R-1戦車として採用します。

第二次世界大戦直前の1938年8月、結局35両が作られたR-1戦車はルーマニア軍の偵察戦車として配備が始まります。
数的には少ないですが、相手がハンガリーであれば充分な活躍ができる戦車だったでしょう。

しかし、情勢はそうはなりませんでした。
ルーマニアは、領土割譲を要求するソ連の圧力に対抗するためにドイツに接近。
ついに1941年のドイツの対ソ連戦勃発と同時に、ドイツの同盟国としてなんとハンガリーとともにソ連と戦うことになったのです。

ソ連軍のような強力な軍隊相手では、R-1戦車のような軽戦車は戦力とはなりません。
それでもR-1戦車は軽量高速さを生かして偵察用として使われ、なんと1945年の終戦まで生き残ったものもあったといいます。
使われ方がよかったのかもしれませんね。

それではまた。
  1. 2008/09/17(水) 20:13:05|
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豊家滅亡その43(最終回)

「天王寺・岡山の戦い」は終わりました。
大坂方は残存兵力をまとめ、大坂城へと後退します。

真田幸村が、子の真田大助(さなだ だいすけ:本名は幸昌ゆきまさ)を派遣し、また大野治長も自ら出向いてまで依頼した豊臣秀頼自身の出陣は、ついにかないませんでした。
一説では最後まで淀殿が反対したといいますが、定かではありません。

本来家康の本陣を迂回奇襲するはずだった明石全登の部隊も、戦いの混乱に飲み込まれていつしか行方がわからなくなりました。

三度までも家康を追い詰めた真田幸村も、安居天神にて討たれました。
ですが、彼の勇猛な戦いぶりは、後々まで人々に語り継がれ、生存説まで語られるようになります。
島津家に伝わる「薩藩旧記」においても、「真田日本一の兵(つわもの)」と激賞され、細川忠興も幸村が討たれたのは疲労困憊の上にあちこち手傷を受けていたからなので、討ち取った側も手柄にはならないと書き残しました。

大野治房、毛利勝永らによって大坂方が残存戦力を大坂城に撤収したのは、慶長20年(1615年)5月7日午後4時ごろといわれます。
そして、このときようやく豊臣秀頼が城門まで現れその雄姿を味方に見せますが、時はすでに遅すぎました。
これが戦端を開いた直後の午後1時ごろであれば大坂方の士気は高まったでしょう。
場合によっては豊臣家に弓引くことへの後ろめたさから、徳川勢の戦意も衰えたかもしれません。
そうなれば相乗効果で家康もどうなったかわからなかったでしょう。
しかし、すべては遅すぎました。

大坂城外には徳川方の軍勢が接近しておりました。
野戦での敗北により、城内でも不穏な空気が流れ、内応者が現れかねない状況でした。
その身の危うさを知り、秀頼は城内へと引き返します。
以後秀頼の姿が見られることはありませんでした。

先を争うように大坂城に迫る徳川勢を食い止めることはもはや不可能でした。
城に逃げ込む大坂方将兵に混じるように徳川方の兵も続き、ついに大坂城内部での戦いが始まります。
一番乗りを果たしたのは、真田勢を蹴散らした松平忠直勢でした。

やがて、内応者が放ったといわれる炎が三の丸より上がります。
このころにいたると、大坂方将士の中にもこれまでと自害するものが出始めます。
また、寝返る者も現れ城に向かって鉄砲を撃ちかけるものなども出始めます。

火はあちこちに燃え広がり、ついに天守にまで達します。
その火は遠く京都からも大坂の空が赤く染まったのが見えたとのことでした。

命からがら幸村から逃れていた家康も、この時点では本陣を茶臼山にまで前進させ、そこで炎上する大坂城を見上げていたといいます。
七十四歳にもなる家康は、これで一安心と思ったのか、喜びを隠そうともしなかったといい、さらにこのあとで千姫救出の報告に目を細めました。

豊臣、徳川両家の結びつきを強めるための政略結婚として秀頼に嫁いだ千姫でしたが、大坂方が最後の望みを託したのがほかならぬ彼女でした。
千姫を無事に帰すことで、彼女から秀頼の助命を家康に嘆願してもらい、豊臣家の存続を最後まで図ろうとしたのです。
そのために炎上する大坂城から大野治長が千姫を連れ出し、徳川勢に引き渡したのでした。

紅蓮の炎を上げて燃え盛る大坂城が陥落したのは、日付も変わろうかという5月7日の深夜でした。
ただ、淀殿と秀頼は、わずかな家臣たちと一緒に焼け残った山里曲輪とも籾倉ともいわれる一角に逃げ延びて無事でした。
最後の最後まで一縷の望みをかけ、千姫の助命嘆願の結果を待ち望んでいたのでしょう。
ですが望みはかないませんでした。

5月8日、朝のうちに家康の下へ焼け落ちた大坂城の検分に当たっていた片桐且元より、秀頼ら三十名ほどが存命中であるとの知らせが入りました。
この時点で生き残っていた主だったものは、秀頼と淀殿のほかに、大野治長、毛利勝永勝家親子、真田大助、そのほか淀殿付きの女性たちだったといわれます。(異説あり)

正午ごろ、家康の命を受けた井伊直孝、安藤重信(あんどう しげのぶ)らがやってきて、秀頼らが篭る倉に向かって切腹を申し渡します。
さらに銃を撃ちかけて切腹を促しました。

ことは終わりました。
豊臣秀頼と生母淀殿は自害。
毛利勝永はその介錯を務めたといわれ、そののちに息子勝家とともに自害。
真田大助、大野治長も同じく自害して果てました。

やがて倉からは火の手が上がり、秀頼たちの遺体を炎が覆い尽くします。
太閤秀吉の築き上げた豊臣家の最後でした。

秀頼の最後を聞き届けた家康は、京への帰途に着きました。
大坂城を廃墟と化さしめ、豊臣家を滅ぼした家康の胸中はいかばかりのものであったでしょうか。
家康は、その日の午後8時ごろには二条城に帰着したと伝えられます。

大坂の町では手柄に預かろうとした雑兵によるニセ首狙いの殺戮や、女性に対する乱暴狼藉が多数行なわれたそうです。
黒田長政が描かせたといわれる「大坂夏の陣図屏風」にも、その様子が描かれております。

こうして大坂の陣は終わりました。
将軍秀忠も翌9日には二条城に帰着。
5月10日には家康が諸大名を引見して労をねぎらい、15日には公家衆や門跡からも勝利の祝賀が行なわれ、16日には家康自ら参内して戦勝報告を行ないました。

一方、逃げ散った大坂方武将に対する追跡も行なわれ、5月15日には長曾我部盛親が捕らえられて斬首。
21日には大野治胤も捕らえられて殺されます。

秀頼の遺児国松も捕らえられ、わずか八歳でありながらも23日に処刑。
娘の方は尼になることを条件に命だけは助けられますが、のちに独身のまま没したため、ついに豊臣秀吉の家系はここに途絶えることになりました。

6月2日、大坂城の焼け跡から、豊臣家の残した金銀が集められて家康の元に届けられました。
その数、大判換算で金が二万八千枚あまり、銀が二万四千枚あまりでした。
各地の寺社仏閣の再建や大坂の両陣で牢人衆に大盤振る舞いをしたあとでも、なおこれだけの金銀が残っていたことに驚きを禁じえません。

7月7日、徳川幕府は「武家諸法度」を布告。
以後徳川家が武門の棟梁であることを明確に誇示します。
そして7月17日には「禁中並びに公家諸法度」が布告され、公家どころか皇室に対してまでも幕府の管理下に置かれることになりました。

こうして家康は幕府の骨格を完成させ、この年(慶長20年)を元和元年と改めます。
応仁の乱(1467年)より始まった長い戦乱の時代がついにここで終わりました。
時代は表向き平穏な江戸時代へと移ります。

翌元和2年(1616年)4月17日。
すべてをなし終えた家康は帰らぬ人となりました。
享年七十五歳。
満足できた一生だったでしょうか。

京都では大坂の陣直後あたりからこんなわらべ歌が流行ったといいます。
「花のやうなる秀頼様を、鬼のやうなる真田が連れて、退きも退きたり鹿児島へ」
実際鹿児島にも、幸村が山伏に姿を変え木村重成と秀頼を連れて鹿児島に落ち延びてきたという俗説があるといいます。
はかなく散った秀頼と華々しく討ち死にした重成や幸村に対する愛惜の念がそういう思いを庶民に抱かせたのかもしれません。

「炬燵して、語れ真田が、冬の陣」 蕪村

豊家滅亡 終


                       ******

参考文献
「決戦 関ヶ原」歴史群像シリーズ戦国セレクション 学研
「大坂の陣」歴史群像シリーズ40 学研
「激闘 大坂の陣」歴史群像シリーズ戦国セレクション 学研
「大いなる謎 関ヶ原合戦」 近衛龍春著 PHP文庫
「大坂の役」 旧参謀本部編 徳間文庫
「大坂の陣 名将列伝」 永岡慶之助著 学研M文庫
「大坂の陣・なるほど人物事典」 加賀康之著 PHP文庫
ほか

参考サイト
「Wikipedia 関ヶ原の戦い」
「Wikipedia 大坂の役」
ほか

この場を借りまして皆様に感謝を捧げます。
本当にありがとうございました。


昨年の11月から延々と11ヶ月にも渡って書き続けてきました「豊家滅亡」もようやく終えることができました。
途中結構間を開けながらでしたので、楽しみになさっていらっしゃった方々には大変ご迷惑をおかけしてしまいましたことをお詫びいたします。

こうして終えてみると、また感慨もひとしおです。
資料本の簡易な写しですが、それなりにはまとめられたかなと思います。
関ヶ原から大坂の陣までの流れを、多少なりとも理解するのに役立ってくれればそれに勝る喜びはありません。

次回は自分の中でいずれ手を付けようと考えていたナポレオン皇帝陛下について書ければなと思っております。
その折にはまたゆるゆるとお付き合いいただければと思います。

長い間お付き合いいただき本当にありがとうございました。
それではまた。
  1. 2008/09/16(火) 19:55:28|
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88には負けないよ

第二次世界大戦は、戦車にとっては砲弾の貫徹力と装甲厚のシーソーゲームでした。
初期の各国陸軍の対戦車砲は37ミリから大きくても45ミリクラスでしたが、戦車の装甲厚が厚くなるにつれて貫徹力で劣るようになり、対戦車砲の口径も威力を増すために大きくなっていきました。

しかし、そうやすやすと大口径の対戦車砲が実用化できるものではありません。
だからと言って敵戦車の装甲を撃ちぬけない対戦車砲では意味がありません。

そこでドイツ軍では砲弾を空高く打ち上げるために初速が速い高射砲、それも88ミリという大口径高射砲を対地及び対戦車用に使うことで急場をしのぎます。
この88ミリ高射砲は、英仏の装甲の厚い戦車を難なく撃破することができ、高射砲としてよりも戦車キラーとして有名になりました。

言葉は悪いですが、ヒトラー率いるドイツ軍の破竹の進撃ぶりに感銘を受けたムッソリーニは、ほとんど火事場泥棒的に対仏参戦をして第二次世界大戦に参入します。

ローマ帝国の栄光よ再びとばかりにアルバニアやリビアなどで英軍と戦ったイタリア軍でしたが、ドイツ軍同様にやはり対戦車砲の威力不足に直面しました。

そこでイタリア軍も、ドイツ軍同様に高射砲で戦車を撃破することにします。
選ばれたのが53口径長90ミリ高射砲でした。

この高射砲はドイツの88ミリ高射砲に勝るとも劣らない優秀な対空高射砲でした。
砲口での初速でいえば、88ミリ砲よりも早いぐらいだったのです。

当然徹甲弾を使えば装甲貫徹力もかなりなものが期待できました。
射程460メートルで143ミリの装甲厚を貫いたと言うデータもあるそうで、ティーガーの正面装甲を撃ち抜くことができたのです。

問題はやはり移動や布陣に時間のかかることで、ドイツ軍もだからこそ88ミリ砲を対戦車自走砲にしたりしています。
イタリア軍もこの90ミリ高射砲90/53を自走砲化しようと試みました。

最初はトラックに載せて使いましたが、やはりトラックでは路外機動性に難があり、背の高さから被発見率も高くなるということで履帯式の車台に搭載することが求められました。

そこで、当時イタリア軍の主力戦車であったM13/40やそのエンジン改良型のM14/41の車台を使って自走砲化することに決定。
90ミリ高射砲を搭載するために後部を搭載スペースに空け、エンジンを中央部に移した専用車台を開発して90ミリ高射砲を載せました。

大まかなデザインとしては、ドイツ軍のヴェスペやナスホルンのようなものを思い浮かべていただければいいのですが、無論あそこまで洗練されてはおりません。
後部に防盾付きの高射砲がそのまま載った感じといえばいいでしょうか。

操縦席には外部視察用のペリスコープすらなく、移動するときはハッチを開けて顔を出しながら操縦しなくてはならないなど問題点もありましたが、それでもイタリア軍きっての貫徹力を誇る主砲は何物にも替えがたい貴重なものとなりました。

この90ミリ高射砲搭載自走砲は、M41Mというナンバーを与えられ採用となりました。
しかし、イタリア工業界の能力不足から、この優秀な自走砲もまたわずかしか作ることができませんでした。
主砲たる高射砲そのものが数を作ることができず、わずか30両ほどが量産されたのみだったのです。

アフリカでの戦いには間に合わなかったM41M自走砲は、最初で最後の活躍をシシリー島で見せました。
上陸してくる米英連合軍に対し、20両ほどのM41Mがドイツ軍の指揮下で使われて火を吹いたのです。

90ミリ主砲は能力にたがわぬ働きを見せ、連合軍戦車を多数撃破したものの、やはり多勢に無勢であり、最終的にはほとんどのM41Mが破壊されたり放棄されてしまったようでした。

搭載砲はかなり優秀だったんですけどね。

それではまた。
  1. 2008/09/15(月) 20:16:34|
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豊家滅亡その42

道は開きました。
幸村の行く手にはわずかな徳川方の兵力しかありませんでした。
幸村にとって、そして大坂方にとって、千載一遇の好機が訪れたのでした。

徳川勢には松平忠直のような抜け駆けまでするような武将もいた反面、豊臣家がつぶれても遺領はわずかに65万石であることから、領地がもらえるとは思えず徳川家への体面だけを考えて参戦した武将も多く、戦意に乏しい部隊も多いのでした。
そういった部隊は幸村の率いる真田勢や勝永の率いる毛利勢のような死に物狂いの敵勢に当たって損害をこうむることを避けようという気持ちが働き、自然と彼らの前から姿を消してしまったのです。
大軍でありながらも徳川勢にはまともに戦える部隊は少ないのでした。

緋縅(ひおどし)の鎧に鹿の前立を打った白熊毛付きの兜をかぶった幸村は、その軍勢を一直線に家康の本陣に向けて突き進めます。
その真田勢に再度立ち向かった部隊がありました。
松平忠直勢でした。

この大坂夏の陣において奮戦激闘し勲功第一と言われながらも、その後の論功行賞での不満などから後年狂乱に走る松平忠直ですが、実はこの前日にあることが起きておりました。
「若江・八尾の戦い」において、忠直は家康よりの勝手に戦闘を仕掛けてはならないと言う命令を律儀に守ったばかりに、藤堂勢や井伊勢の危機を見過ごしたとして叱責されていたのです。
そのため、今日の戦いにおいては忠直は抜け駆けしてでも戦功を上げて見せると意気込んでおりました。
だからこそ、裏切りのデマや真田勢の突進に浮き足立った手勢をまとめ、この局面に再度真田勢に対して攻撃を仕掛けることができたのでした。

一度は突破したはずの松平忠直勢に再度攻撃を受けるとは、幸村にとっても予想外だったかもしれません。
しかし、なんと言っても松平勢は数が豊富でした。
一万三千を越える兵力は、一部が突破されたとしても、両翼から押し包むように攻撃することが可能です。
さらには真田勢の前面に回りこむことも可能だったのでしょう。
真田勢は家康にあと少しのところで再度囲みを突破せねばなりませんでした。

真田勢も負けてはおりません。
再度突破あるのみと、遮二無二家康本陣に向かって突撃します。
死に物狂いとなった兵に怖いものはありません。
味方の屍も敵の屍も越えてくる真田勢に、ついにまたしても松平勢は突破を許してしまいます。

あわてたのは家康でした。
真田勢の接近に、取るものも取りあえず一目散に脱出します。
直属の兵たちも同様に逃げ出し始め、あの武田信玄と戦った「三方ヶ原の戦い」でしか倒されたことのないという馬印が倒れ、右往左往すると言うあわてぶりでした。

しかし、松平忠直勢も奮戦します。
突破した真田勢をまたしてもさえぎるように押し包み、家康との間に割り込みます。
それをさらに幸村の部隊が突破し、あわてた家康がまた逃げると言う戦いを三度繰り返すことになりました。

さすがの家康も、この真田勢の突撃には肝を冷やしたらしく死を覚悟して、討ち死によりは切腹すると言ったと伝えられます。
伝承の一つでは、このとき家康は討ち取られたと言うものまであり、大阪堺市のお寺には家康の墓があるといいます。

三度の突撃を果たした幸村ですが、ついに目指す家康の首を上げることはできませんでした。
突撃のたびに兵力は失われ、、残った兵も疲労困憊し、幸村本人も疲れ果てておりました。
四度目の突撃はもはや行うことができませんでした。

突撃によって味方は散り散りとなってしまったゆえか、幸村は一人安居天神にて休息を取っていたといいます。
ここへ松平忠直勢の一人西尾久作(にしお きゅうさく)なる人物が現れ、幸村に対して槍を突き出しました。
幸村はもはや抵抗すらせず、その首を討たれたといいます。
大坂の陣における名将真田左衛門佐信繁(幸村)の最後でした。

一方岡山口方面では、天王寺方面での銃声が合図となり戦いが始まりました。
将軍秀忠は先鋒の前田勢に進撃を命じ、前田勢とその正面に陣取っていた大野治房勢とがぶつかります。
戦いは一進一退でしたが、天王寺口方面で真田勢や毛利勢により前線が崩れたことを知った将軍秀忠は、藤堂高虎勢や井伊直孝勢を天王寺口の応援に派遣。
それにより手薄になってしまったためか、前田勢が大野治房勢に突破を許すことになりました。

さらにこちらも土井利勝勢らが相次いで壊乱し、秀忠の本陣もがら空きに近い状態となってしまいます。
この状況に将軍秀忠は、自らが槍を手に乱戦に駆け込もうとしましたが、本多正信らがそれを制止。
総大将はたとえ逃げてもいいから命大事という面で、秀忠は家康には及ばないということを露呈してしまいました。

幸いなことに、こちらも黒田長政や加藤義明の軍勢が駆けつけて大野勢を受け止めます。
大野治房勢は急を聞いて駆け戻ってきた井伊直孝勢に腹背を攻撃されてついに壊乱。
治房は残った兵力を取りまとめて大坂城に向かいました。
岡山口でも大坂方の突撃は撃退されたのです。

天王寺口のもう一方の雄毛利勝永はどうしていたか。
真田勢にわずかに遅れるようにして家康本陣に突入した毛利勢でしたが、すでに危機を察した家康は慌てふためいて脱出したあとでした。

勝永はなおも家康の行方を探しましたが、徳川勢が四方より殺到し始めたのでやむなく応戦、ついに撤退を余儀なくされました。
なおこの戦いにおいて、勝永の息子毛利勝家(もうり かついえ)は見事に初陣を飾り、首級一を上げたといわれます。

勝永の撤退戦もまた見事な采配といわれ、徳川方の大軍を相手に秩序だって後退。
大坂城に逃げ込むことに成功しました。
しかし、天王寺口の戦いもまた、大坂方の攻撃は撃退されたのでした。

慶長20年(1615年)5月7日午後3時ごろ、大勢は決しました。
「天王寺・岡山の戦い」はこうして幕を閉じたのです。

その43へ
  1. 2008/09/14(日) 20:12:50|
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真平ら

今日は久々に軍艦ネタを。

1918年9月、第一次世界大戦終結直前に英国は世界最初の航空母艦「アーガス」を完成させました。

もちろんこのアーガスの前にも、水上機を搭載する艦艇や滑走甲板から陸上機を発進させることのできる艦艇は存在しておりました。
しかし、船体上部を真平らにして何の障害物もない全通飛行甲板にした近代的航空母艦として完成した軍艦は、このアーガスが世界最初でした。

アーガスはもともとはイタリア向けの客船「コンテ・ロッソ」として建造されておりました。
しかし、第一次世界大戦中ということもあり、英国はこのコンテ・ロッソを買い取って航空母艦にすることに決定。
建造途中から客船ではなく航空母艦として建造されることになったのです。

完成したのは上記のとおり1918年9月。
船体上部に何も障害物のない真平らな姿は、多くの海軍将兵を困惑させるものだったでしょう。

排水量は基準で14500トン。
全長172メートル、水線幅で20メートルの船体を持ち、最大速度は20ノットでした。

搭載機は20機ほど。
それほど多くはありません。

最初は船体上部はまさに真平らだったのですが、やはり航海時には艦橋があった方が良いということで、昇降式の艦橋がのちに設置されます。
これは艦載機の発進時には下がることで甲板を平らにするというものでした。

アーガスは世界最初の全通甲板航空母艦ということで実験艦的部分も多く、また客船を改造して作ったために速力も不足気味であり、艦隊に随伴する航空母艦としては物足りないものでした。

そのため1930年代には練習空母として運用されるようになりますが、1920年代30年代を通じて英国の海軍航空隊に多大なる貢献をしたことは間違いありません。
まさに英国海軍航空の母体でもあったのです。

練習空母となっていたアーガスですが、1939年に始まった第二次世界大戦は、そのような境遇に甘んじていることを許しませんでした。
輸送船がドイツのUボートに次々と沈められる状況に、アーガスは護衛空母として再度前線勤務を申し付けられます。

護衛空母として活躍できたかどうかは定かではありませんが、1942年には連合軍の北アフリカ上陸作戦に支援空母として参加。
この作戦を最後に以後は航空機輸送艦として行動します。

アーガスは幸いなことに第二次世界大戦を最後まで生き抜き、戦後の1946年に除籍され売却されました。
華々しい戦歴こそありませんが、英国海軍航空を育て、最後まで大戦を生き残った幸運であり強運の軍艦ということがいえるでしょう。
いい生涯だったと思います。

今日はこれにて。
それではまた。
  1. 2008/09/13(土) 20:41:01|
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奇策か? 愚策か?

昨日はサッポロ辺境伯様をお招きしての自宅ウォーゲーム。

何をやろうかなと迷った挙句、やはりわれわれにはこれしかないとばかりに「エチオピアのライオン」(コマンドマガジン日本版27号付録)をプレイ。
コマンドマガジン編集部様のおかげで、マジフなどに対するルールがはっきりしたので、新たな気持ちで再戦です。

陣営はダイスで決めて、サッポロ辺境伯様がイタリア軍を、私がエチオピア軍を担当。
いつものようにトーナメントルールを使用してのプレイとなりました。

序盤、わりとおとなしめなスタートに。
イタリア軍は今回はエリトリア方面を重視したのか、ソマリランド方面(グラツァーニ部隊)には初期配置戦力からほとんど増強してきません。

川を挟んだアンバ(という地形で山地よりも防御効果が高い)や、アンバとアンバを結ぶ防衛ラインを早々に築いたエチオピア軍は、エリトリア方面では貝のように固く篭って専守防衛です。

一方、前回のto Mogadisho(トゥ モガジシオ)への直接攻撃に懲りたと思われていたサッポロ辺境伯様は、驚いたことに今回も前回の攻撃はなかったかのようにほぼソマリランド方面の全イタリア軍でNeghelllへ攻めてきます。

となると、to Mogadishoが手薄になるのは自明の理で、わずかに2ユニット4戦力しか守備においてありません。
これは攻撃してみろとのお誘いか?

早速我がエチオピア軍は、Hararに篭っていた部隊に出陣を命令。
前線にいた一個部隊と合流して部族長と合わせて13戦力でto Mogadishoへ向かいます。

途中で航空機による攻撃を受けたものの、どうにかto Mogadishoに接敵することに成功。
ただ、今回の攻撃はサッポロ辺境伯様も予想はしていたのか、それほどの焦りはなかったようです。
まあ、要塞なので3コラムもシフトされるので、3:1が1:2にまで落ち込むため、1さえでなきゃ陥落しませんからね。

出た目はやはりというか1以外。
to Mogadishoは陥落しませんでした。
しかし、こちらの損害もなかったので、次のターンにもう一度チャンスがあります。

ですが、さすがに二ターン連続で攻撃させてくれるほどサッポロ辺境伯様は甘くありません。
次のターンにはしっかりと防備を固め、こちらのチャンスは失われました。

結局、攻撃に向かった部隊は捕捉され撃滅されてしまいます。
もしかしたらサッポロ辺境伯様はこれを狙ったのか?
こちらの攻撃力を殺いでしまえば、あとはじっくりとNeghelll攻略に全力を投入できますからね。

とは言え、イタリア軍は戦力不足なのはいかんともしがたいところ。
実際今回のプレイでは、イタリア軍にはほとんど損害らしい損害も出てませんでしたが、それでもエチオピア軍を攻めあぐねておりました。
もっとも、じっくり派のサッポロ辺境伯様ですので、毒ガスが使えるようになるまでは攻撃を控えていたのでしょう。

双方ともにエリトリア方面でもソマリランド方面でもにらみ合いの対戦に陥ります。
地形に拠って防御するエチオピア軍と、敵が目前にいても陣地構築のできるため(トーナメントルールでは可能)陣地に拠って防御するイタリア軍がしばし対陣する形に。
9・11(1)エリトリア方面
9・11(2)ソマリランド方面

このにらみ合いの状況に焦れたのはエチオピア軍でした。

本来であれば、増強される部隊や皇帝陛下直属の強力な部隊を用いて防御を強化し、最終ターンまで粘るというのが正しい戦略だったでしょう。
残りターン数の兼ね合いから、イタリア軍はエチオピア軍ばかりではなく時間とも戦わなくてはならなくなるからです。

ですが、私にはそのような防御しての粘り勝ちには耐えられません。
神経が磨り減るだけの陣地戦を行なう気力はなかったのです。

それに、一度攻撃を撃退したからなのか、to Mogadishoはまたしても手薄になっておりました。
持てる戦力をNeghelllに振り向けていたために、最低限の部隊しか置いてなかったのです。

もう一度・・・
私はそう思いました。
12月最初のターンに投入されるセラシエ皇帝の直卒部隊。
その全力とHararに残っていた戦力。
それに独立部隊をかき集めてもう一度to Mogadishoを攻撃する。
私の頭の中にはもはやこれしかありませんでした。

皇帝の直卒部隊の戦力を合わせれば、最低でも25戦力ぐらいは持っていけます。
to Mogadishoの戦力がそのままである保障はありませんが、たとえ6戦力ぐらいになっても4:1。
3コラムシフトで1:1になっても、皇帝の効果で1コラムシフトされるので2:1。
サイの目1・2でイタリア軍をto Mogadishoから叩き出せます。
これはもうやるしかないでしょう。

12月、増援で現れたセラシエ皇帝は、わき目も振らずに一直線でto Mogadishoへ向かいます。
この皇帝の行動にサッポロ辺境伯様はちょっとだけ驚いてくれたようです。
よしよし。
それだけでも充分だ。

セラシエ皇帝以下二つのスタックを作ってto Mogadishoへ突進するエチオピア軍。
残念なことに、いくら足の速いエチオピア軍とは言え、to Mogadishoまでは4ターンほどもかかります。
これだけの時間がかかってしまうと、さすがに奇襲効果は望めません。
サッポロ辺境伯様はじわりじわりとto Mogadishoの周辺を固め始めました。

さらに毒ガスが使えるようになった1月からは、航空機ユニットを集中しての皇帝スタックの戦力削りにかかります。
さすがに対空砲を使っても3ユニットも残るような状況では、皇帝スタックの戦力はじょじょに削られてしまいます。
何より航空攻撃で混乱してしまうと、敵に接敵できなくなるので攻撃ができません。
なんとか二スタックを交互躍進させることでエチオピア軍はto Mogadishoへ迫ります。

セラシエ皇帝の死に物狂いの突進に、イタリア軍は6ユニット中4ユニットもの航空機を投入せざるを得ませんでした。
それだけ、エリトリア方面での進出も遅れましたし、Neghelllまで後わずかと迫っていたグラツァーニの部隊もto Mogadisho防衛のために引き抜かざるを得ませんでした。

ですが、エチオピア軍の突撃もここまででした。
回り込んで包囲し、4ユニットもの航空機を使ってきたイタリア軍の前に、ついにセラシエ皇帝は除去されてしまいます。
エチオピア軍の敗北でした。

いやー、やっぱり無謀でしたね。
to Mogadishoにいたる道のりが平地になってしまうのが痛かった。
航空攻撃にはまったく手も足も出なくなってしまいます。
4ユニットも航空機を集められるとどうしようもない。

でもねぇ、やりたくなるんですよね。
to Mogadishoを陥落させ、一ターン保持したら勝利でしょ?
グラツァーニ隊すべてが戻ってくることはできないし、快速部隊だけだったら追い払える可能性高いしね。

まあ、防御が固ければ(8戦力ぐらいいるとか)はなから省みない作戦ではあるんだけど、4戦力ぐらいしかいないとやってみようかなって気にはなる。
やってもダメだろうなとは思っていたけど、じりじり押されてただ守るだけってのは耐えられない。
それぐらいならいっそ一撃って思っちゃうんだよねぇ。
ウェリントン公にはなれないな、私は。

皇帝が無茶したせいで早々にゲームが終わってしまったので、残り時間でバルジ大作戦(ベーシック3:HJ)を一戦プレイ。
サッポロ辺境伯様が独軍を、私が米軍を担当しました。
天候が2ターン目には晴れるという展開に独軍の進撃は頓挫。
4ターンで米軍のサドンデス勝利となりました。
うーん・・・このゲーム7ターンまで行ったためしがないような・・・
序盤のサイの目が影響大きいよね。

今日はこんなところで。
それではまた。
  1. 2008/09/12(金) 20:25:25|
  2. ウォーゲーム
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豊家滅亡その41

「道明寺・誉田の戦い」と「若江・八尾の戦い」の二ヶ所での大坂方の敗退は、ついに大坂方をいまや防御拠点としては役立たずとなってしまった大坂城で徳川勢を迎え撃たざるを得なくさせてしまいました。

裸城の大坂城に篭ることができない以上、どうしても戦いは野戦にならざるを得ません。
大坂方の真田幸村、毛利勝永らは大坂城南側の平野部、今の大阪市阿倍野区から平野区にかけて部隊を布陣させ、徳川勢を待ち受けました。

慶長20年(1615年)5月7日。
戦国時代の最後の一日が始まります。

明け方、茶臼山に大野治長が現れ、真田幸村、毛利勝永と最後の軍議を開きます。
そこで決まった基本方針は以下のとおりでした。

1)、徳川勢を四天王寺の狭隘な丘陵地に誘い込み、誘引されてきた部隊を各個撃破する。
2)、部隊が誘引され本陣が手薄になったと見た時点で、一部部隊を家康本陣に迂回突入させ、一挙に家康本人を討ち取る。
3)、味方の士気を大いに高めるために秀頼公に御出陣いただく。

この軍議にのっとり、真田幸村ら三千五百は天王寺口の茶臼山に、さらにその前方には渡辺糺(わたなべ  ただす)らの二千が布陣。
赤備えといわれた赤い具足や旗指物に身を固めた軍勢が陣取るさまは、茶臼山を赤く染めたことでしょう。
この茶臼山の東西にも兵を配置し、四天王寺南門前には毛利勝永勢六千五百が布陣しました。
さらに岡山口には大野治房勢四千六百が布陣し、全軍の後詰として大野治長や七手組勢約一万五千ほどが四天王寺北東に布陣。
家康の本陣をつく別働隊として明石全登率いる三百が木津川堤防沿いに配置され、大坂方の布陣は完了します。

一方の徳川勢は、前日の「道明寺・誉田の戦い」や「若江・八尾の戦い」による一部部隊のおびただしい損害は出したものの、全体としてはほぼ無傷ともいえる状況で大坂城南側に兵力を展開しました。

こちらも早朝には家康と将軍秀忠が軍議を開いており、決戦正面となるであろう天王寺口は家康本隊が、助攻となる岡山口には将軍秀忠の部隊が布陣することが決まっておりました。
このとき将軍秀忠は、幾度となく天王寺口に配して欲しいと訴えましたが、最終決戦である今回の戦いを息子に任せる気にならなかったのでしょう。
家康は頑として聞き入れなかったといいます。

その天王寺口の先鋒は本多忠朝(ほんだ ただとも)ら五千五百。
この本多忠朝は、大坂冬の陣にも参加しておりましたが、そのときに陣の配置換えを申し出て家康の不興を買い、その雪辱を晴らそうとまさに討ち死に覚悟でこの戦いに臨んでおりました。

第二陣は榊原康勝(さかきばら やすかつ)ら五千四百。
第三陣には酒井家次(さかい いえつぐ)ら五千三百。
そしてその後ろには家康本隊一万五千が布陣しました。

岡山口の先鋒は前田利常ら二万が布陣。
二番手に井伊直孝ら七千五百。
そしてその後方に将軍秀忠の本陣二万三千が置かれました。
こうして両軍の布陣は整ったのです。

戦いの口火を切ったのは正面からにらみ合うこととなった毛利勝永勢と本多忠朝勢でした。
この日5月7日の正午ごろ、毛利勝永麾下の鉄砲隊が敵を誘引するという作戦を無視して射撃を開始。
この射撃に本多勢も射撃で応戦したため、たちまちのうちに天王寺口では両軍の戦闘が開始されてしまいます。

この射撃戦で作戦の破綻することを恐れた真田幸村は、すぐさま伝令を出して毛利勢に射撃中止を勧告します。
毛利勝永自身も部下の射撃を必死に止めようとしましたが、もはや戦場での様相は止まることなく射撃中止はかえって損害を招くのみと判断。
ここにいたり勝永は、当初の作戦案を早くも放棄して、混乱に乗じ徳川勢深く切り込んで家康の首を上げるという作戦に切り替えました。
当初の作戦案に固執することなく臨機応変に采配を振るう勝永は、やはりひとかどの武将といってよかったのでしょう。
秀頼から拝領した陣羽織を鎧の上から羽織り、銀の輪貫の前立の兜をかぶった勝永は、ひときわ目立つ存在だったらしく、徳川勢からもあれこそ毛利勝永ぞと衆目を集めたといいます。

射撃戦から一転して突撃を開始した毛利勢にすぐさま呼応したのは、やはり名将の誉れ高い真田幸村でした。
彼もまた当初の作戦案が瓦解した以上は、混乱に乗じて家康の首を討つことこそが勝機につながるとして、部隊を徳川勢に突入させたのです。
真田の六文銭の旗印を背負った赤い部隊が茶臼山を降りました。

冬の陣での汚名をそそぐべく奮戦した本多忠朝勢でしたが、勢いはこの時点では大坂方にありました。
毛利勝永勢による突撃は、本多勢に大損害を与えて行き、本多勢はほぼ壊滅状態に追い込まれます。
忠朝自身も槍を取って奮戦しますが、激闘叶わずついに二十ヶ所以上の傷を受けて討ち死に。
徳川家の名将本多忠勝の次男はここで命を落としました。

毛利勢の勢いは止まらず、本多勢の救援に駆けつけた小笠原秀政(おがさわら ひでまさ)、小笠原忠脩(おがさわら ただなが)親子の軍勢もその突撃に飲み込まれます。
毛利勢の突撃により壊乱状態となった小笠原勢は、秀政が負傷して後退(後刻死亡)、忠脩は討ち死にという大損害を受け、ほぼ戦力を失いました。

本多勢、小笠原勢の壊滅に浮き足立った榊原康勝ら徳川勢諸隊は次々と混乱。
毛利勢の足を止めることができなくなりました。
毛利勝永の前には徳川家康本陣への道が開けるかに見えました。

同じころ、茶臼山を降りた真田幸村勢も徳川勢と激突しておりました。
本来はこの位置にいるはずがない松平忠直勢と攻防を繰り広げていたのです。
松平忠直は抜け駆けをするべく部隊を前に進めてきていたといわれますが、ちょうど真田勢と正面でぶつかる形になったのでした。

一万三千を越える松平忠直勢に対し、真田勢はわずかに三千五百。
一飲みにされてもおかしくない数の差でしたが、幸村の指揮の下真田勢は一歩も引けを取りません。
そのうちに徳川勢の間にはある不穏な情報が舞い込んで来ました。
浅野長晟の裏切りというものです。

これは事実ではありませんでした。
毛利勝永と真田幸村が流したデマだったのです。
しかし、戦場でのデマは徳川勢に混乱をもたらしました。
松平忠直勢はこのデマのために動揺し、真田勢の突撃を食い止められなくなりました。

たまりかねた忠直は家康本陣に救援を求めます。
家康もやむを得ず本陣より救援を差し向けたといいます。
家康の本陣には一瞬の兵力の空白が生じました。
わずかな供回りしかいなくなったのです。

救援が来ても松平勢は真田勢による攻撃とデマによって混乱のきわみにありました。
ただ数が多いだけの烏合の衆になっていたのです。
この状況を見逃す幸村ではありませんでした。
真田勢は松平勢を突破したのです。

松平勢を抜けた真田勢の前にはわずかな徳川勢しかいませんでした。
そしてその先には家康の本陣がわずかな兵力のままで置かれていました。
まさにこの瞬間、毛利勝永の突撃も真田幸村の突撃も止めるべき部隊はいなかったのです。
道は開きました。

その42へ
  1. 2008/09/11(木) 20:07:37|
  2. 豊家滅亡
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09月11日のココロ日記(BlogPet)

最近、となり町に混乱カフェができたらしいです。かわいい混乱がお出迎えだそうです。

*このエントリは、ブログペットのココロが書いてます♪
  1. 2008/09/11(木) 10:31:25|
  2. ココロの日記
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新しいリンク先

また一軒新しいリンク先ができました。

deadbeet様の「夜に棲む日々」http://triggerrock.blog95.fc2.com/様です。

deadbeet様はMCや悪堕ちといった属性に沿ったイラストやマンガを描かれる方で、作品を御自身のブログに投下されておられます。
私には見事につぼにはまる作品ばかりでして、すごく素敵なイラストですので、ぜひ皆さんもごらんいただければと思います。

deadbeet様、これからもよろしくお願いいたします。
吸血鬼ネタの続き、楽しみにしております。


一方で、また食の安全を揺るがす事件が起こりましたね。
事故米といわれる非食用米を食用米として販売し利益を上げていたという事件が起きました。

カビや農薬で食用に適さないにもかかわらず、それで焼酎やお酒を造っていたというのですからたまりません。
事故米でお酒を造ってしまったメーカーにしてみれば、まさか事故米とはという思いだったでしょう。
風評被害もでるでしょうし、たまったものではありません。

二度と起こらないようにしてほしいものです。

それではまた。
  1. 2008/09/10(水) 19:56:39|
  2. ネット関連
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歴史群像の新刊

手に入れてきました。
rekigun91.jpg
この雑誌も私のブログ記事の元ネタの提供元の一つなので、大変に重宝しております。

今回の特集は、アメリカ海兵隊側から見たガダルカナル島での戦いです。
ガダルカナル島での戦いは、日米双方がある意味ぎりぎりの状況で戦った戦いなので双方ともに錯誤も大きく、一つ間違えればまったく違う結果に終わった可能性もあるというので、アメリカ側視点の記事には興味がありますね。

ほかにもチェ・ゲバラ氏の記事や英国のクルセーダー戦車の記事、幕末のアームストロング砲に関する記事など楽しみなのがいっぱい。
しばらくはこれを読んで過ごすことになりそうです。

そのほかにも最終防護射撃(FPF)なんて記事もあり、この言葉自体がアドバンスドスコードリーダーにでてくる言葉の一つなので、これも楽しみだったり。

なんにしても手軽でマニアレベルでない人には必要充分な歴史資料だと思うので結構お勧めですよ。
歴史が好きな人にはいいのではないでしょうか。

今日はこんなところで。
それではまた。
  1. 2008/09/09(火) 20:43:27|
  2. 本&マンガなど
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2力士解雇

先週来角界を激震させていた大麻吸引疑いの露鵬関と白露山関の解雇と、北の湖理事長の辞任が発表されました。
若ノ鵬関の大麻吸引に始まった今回の騒動ですが、これで一応の幕引きになりそうですね。

正直私は相撲にそれほど興味があるわけではありません。
ですが、国技といわれ日本スポーツの中でも特別な存在である角界の不祥事は、どうなることやらといった感じでは見ておりました。

露鵬関も白露山関も大麻吸引を否定し、吸引具も見つかってないそうですが、簡易検査でも複数回の検査で陽性反応が出た上、国際機関認定の検査機関の検査でも陽性反応が出たということはほぼ間違いなく吸ったということなのでしょう。
これ、検査の結果が間違いでしたでは済まされないと思いますので、検査結果には相当の自信を持っているでしょうしね。

それにしても角界も親方の指導力低下が顕在化してきたということなのでしょうか。
弟子の番付が現役時代の自分より上となると、なに言っても聞いてくれないってのもあるようですからね。

やっぱり強い日本人力士がでてきて欲しいなぁ。

それではまた。
  1. 2008/09/08(月) 19:39:17|
  2. スポーツ
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豊家滅亡その40

大和口方面から来襲する徳川勢を邀撃するために、後藤基次や真田幸村らが出発した慶長20年(1615年)5月1日に引き続き、翌5月2日には河内口より来襲するであろう徳川勢に向け、大坂方諸隊が出発しました。
その数およそ一万一千三百。
大和口ほどではないものの、こちらも大坂方野戦軍の大部隊といっていいでしょう。
率いるのはかつての土佐国国主長曾我部盛親と、若武者木村長門守重成でした。

長曾我部盛親は関ヶ原の戦いで三成方についたため所領を没収され、大坂冬の陣では真田勢とともに真田丸の戦いで活躍した武将です。
かつては国主でもあり、大坂方でも重要な人物とみなされておりました。

一方若き木村重成は、大坂の陣の花ともたとえられる清々しい人物として知られ、秀頼の乳兄弟という立場から彼もまた大坂方の重要人物でありました。
伝承では、冬の陣の和議の際に家康の血判が薄いことを見て、再度の血判を押すように家康に詰め寄ったとされ、家康もやむなく再度の血判を押したと言われます。
これはまあ、事実ではないそうですが、まさに木村重成の不正を許さぬ実直振りを示すエピソードとされております。

また、豊臣と徳川との再度の戦が近づくにつれ、重成はだんだんと食が細くなったといわれます。
妻がどうして食欲が無いのかと尋ねると、彼は微笑んでこう言ったといいます。
「討ち死にしたときに、切られた傷口から食べたものがはみ出ては見苦しいではないか」
彼はもう死を覚悟していたのでしょう。

翌日には徳川勢との戦いが予想された5月5日。
重成は入浴して髪を洗い、香を焚き染めて謡を歌ったといわれます。
戦いに臨んで身を清めたのでしょう。

5月6日、日付の変わった午前零時ごろには出発したいと考えていた重成でしたが、やはり寄せ集めの兵力である部隊の出発準備が整わず、出発は午前二時ごろであったと伝えられます。
前日の今福方面への偵察で、徳川勢がくる様子のないことを悟った重成は、いったんは後藤隊や真田隊の向かった道明寺方面へ向かおうと考えました。
しかし、今さらほかの人たちのあとを追っても仕方がないと思いなおし、いっそ家康や将軍秀忠の陣を襲撃するのも悪くないと考えた重成は、部隊を若江方面に向かわせます。

夜間の行軍と道に不慣れなこともあり、行軍は難渋を極めましたが、木村隊はじょじょに若江へと近づきます。
一方長曾我部隊は若江村のとなりの八尾村に近づきつつあり、両隊はちょうど横並びになるような形で徳川勢に近づいていたのでした。

この日徳川勢の先鋒にいたのは藤堂高虎の軍勢でした。
その数はおよそ五千。
この藤堂隊の一部が若江・八尾方面に大坂方が行動しているのを発見。
直ちに藤堂高虎に知らせます。

知らせを受けた高虎は一瞬迷いました。
家康からは諸隊は勝手に戦ってはならぬという命令を受けていたのです。
しかし高虎は、部下から大坂方は家康や秀忠の陣を襲撃するつもりではないだろうかとの進言を受け、攻撃を決断。
配下の各部隊に大坂方への攻撃を命令いたしました。

暗闇の中から藤堂隊の攻撃を受けたのは長曾我部隊の先鋒でした。
長曾我部隊の先鋒は突然の攻撃に本隊へ敵襲を知らせますが、先鋒隊指揮官をはじめ多数を討ち取られてしまいます。
敵襲を知った長曾我部盛親は、部隊を長瀬川の堤防付近に伏せさせ、藤堂隊を待ち受けました。

そのころ木村重成隊は若江村に到着し、部隊を三つに分けて備えておりました。
するとその右翼に徳川勢の先鋒隊が突入してきます。
突入してきたのは長曾我部隊とも戦っている藤堂隊の一部でした。
藤堂隊は右翼が木村隊と、左翼が長曾我部隊と戦うことになったのです。

藤堂隊右翼の突撃は勇壮でしたが無謀でした。
防備を固めた木村隊への攻撃は跳ね返されてしまい、藤堂良勝(とうどう よしかつ)、藤堂良重(とうどうよししげ)という二人の指揮官が討ち死にする羽目に陥ります。

また長曾我部本隊への攻撃も散々な目にあいました。
接近する藤堂隊を引きつけるだけ引きつけたのち、いっせいに槍を構えて突撃してきた長曾我部隊に藤堂隊は被害続出。
こちらも藤堂高刑(とうどう たかのり)、桑名吉成(くわな よしなり)といった指揮官が討ち取られました。
藤堂高虎は必死で援軍を送りますが、援軍が加わるも態勢を立て直すまでにはいたらず、藤堂隊は結局は後退することになります。

藤堂隊右翼を撃退した木村隊でしたが、徳川勢はすぐに新手が到着します。
井伊直孝隊約三千二百の軍勢です。
木村重成はこの新たな敵に備えるべく、部隊を玉串川の西側堤の上に配置。
そこからの銃撃で井伊隊を撃退しようと目論見ました。

井伊隊もこれを察知。
逆に玉串川東堤に陣取り射撃戦を展開して突撃を敢行します。
不意を突かれた形になったのか、木村隊は玉串川西堤を明け渡さざるを得なくなり、そのまま西へと敗走しました。
勢いに乗る井伊隊の先鋒をいったんは打ち破る奮戦をするものの、次第に木村隊は押される形となり、重成自身も槍を振るって戦うものの、ついにその首を討ち取られました。

これによって木村隊は壊乱状態となりほぼ無力化。
長瀬川で陣を張ってにらみ合っていた長曾我部隊も、木村隊の敗走により撤退を余儀なくされました。
このころには戦場に徳川勢諸隊も到着しており、敗走する木村、長曾我部両隊に対して追撃が行なわれます。
この撤退戦で長曾我部隊は少なからぬ損害を受け、こちらもほぼ壊滅状態となったのでした。

武運拙く討ち取られてしまった木村重成でしたが、彼の首は後日確認のために家康及び将軍秀忠の前に出されました。
確認しようと家康が重成の首に近づいたところ、首からはいい香りが漂いました。
彼が香を焚き染めて最後が見苦しくないようにしたことを知った家康は、この若武者の死に涙したといわれます。

こうして「八尾・若江の戦い」は終わりました。
大坂方は「道明寺・誉田の戦い」に続き、木村重成を失うという痛手を受けました。
しかし、重成と長曾我部盛親の奮戦によって大損害を受けた藤堂隊と井伊隊は、翌日に迫った大坂城決戦で承るはずの名誉ある先鋒を辞退しなくてはならないほどのものでした。
そのことが多少は慰めであったかもしれません。

その41へ
  1. 2008/09/07(日) 19:33:16|
  2. 豊家滅亡
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もーそー

ちょっとした妄想を文字にしてみました。

地の文が無い会話文だけで作ってみましたがいかがでしょうか?
楽しんでいただければ幸いです。

「クックック・・・このブログもつまらんのう。悪意あるコメントを大量投下して炎上させてやるかい」

「はわわ・・・そ、そうはさせません!」

「む? 誰かと思えばブログ妖精ココロではないか。なるほど、このブログにはお前がいたのか」

「楽しんでブログを書いている人たちを悪意あるコメントで炎上させて恐怖のどん底に突き落とし、ブログ閉鎖させてしまうなんて赦せません。このブログはココロが守ります」

「ほほう・・・だがこのブログも所詮はくだらぬ自己満足の駄文を垂れ流しているに過ぎないではないか。ちょっと長い間連続投下をしているからといって図に乗っておる」

「そ、そんなことはありません。確かにつまらない記事のときもありますけど、ブログ主さんは一所懸命に記事を書いているんです」

「ククククク・・・たわけたことを。ブログなどという駄文を垂れ流すだけの代物は無いほうがいいんじゃ。ここも炎上させてやるわい。意気地なしのブログ主がコメント欄を閉鎖するかブログそのものを閉鎖するところを見ているがいい」

「そんなことはさせません! このブログはココロが守ってみせます!」

「たわけめ。お前のようなブログ妖精に何ができる。いや、そうじゃのう・・・面白い趣向を思いついたわい・・・クックック」

「な、何をするつもりですか」

「そうれ、こうしてやるわい」

「ああっ、いきなり卑猥な記事を・・・」

「クックック・・・ブログ妖精はブログとは密接なつながりを持つもの。卑猥な記事が載ればブログ妖精も・・・クックック」

「そ、そんなことは・・・ああ、あそこが・・・あそこがうずくよぅ」

「そうじゃろうそうじゃろう。お前はもう淫乱妖精じゃ」

「そ、そんなことは・・・ああ、ください・・・ココロに男の人のアレをください・・・」

「クックック・・・いい表情じゃぞ。お次はこれじゃ」

「ああっ、今度は陵辱や虐待の記事」

「そうじゃ、クックック・・・お前も他人を虐待してみたくなるじゃろう」

「そ、そんなこと・・・ああ・・・た、楽しそう」

「他人をいたぶるのは快感じゃぞ。やってみたいだろう?」

「ああ・・・はい、やってみたいです」

「とどめはこれじゃ」

「えっ? これはブログを炎上させたりあおったりして楽しむ記事」

「そうじゃ。お前もブログを炎上させてみたくないかの?」

「ハアハア・・・したい・・・炎上させてみたい・・・うふふふふ・・・」

「受け入れるのじゃ。受け入れてブログ邪妖精になるのじゃ」

「邪妖精・・・ブログ邪妖精・・・」

「見ろ、お前の姿が変わってきたぞ。邪悪な黒いコスチュームに身を包んだブログ邪妖精へと生まれ変わるのじゃ」

「ああ・・・あああ・・・なんて気持ちがいいんだろう・・・ブログを炎上させるのって楽しそう。これからはたっぷりとこのブログを炎上させてやるわ。うふふふふ・・・」

こうしてまた一つ、ブログが炎上し消えうせた。
  1. 2008/09/06(土) 20:22:05|
  2. 催眠・洗脳系
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なんだかなぁ

福田首相が政権を投げ出してしまい、後継首相選びの自民党総裁選挙が始まりましたが、なんだかずいぶんと候補者が乱立するようですね。

麻生太郎幹事長ともう一人二人かなって思っていたんですが、小池百合子元防衛大臣に始まり、石原伸晃元政調会長に与謝野馨経済財政担当大臣、石破茂前防衛大臣も出馬するようですし、棚橋泰文元科学技術担当大臣、山本一太外務副大臣も出馬するようです。

なんかね、いわばサル山のボス争いなわけですが、そのサル山のボス次第では私たちの生活も影響をいろいろと受けるわけですので、無関心でいるわけにはいかないなぁって思います。

それにしても、これだけ複数の候補が出てくるってのは珍しいんじゃないでしょうか。
複数が出ることで総裁選挙を華々しくさせ、国民の目をひきつけて民主党への注目度を引き下げるのが目的なのかもなんて憶測も飛んじゃいますね。
まあ、実際民主党はそれを恐れているそうですが。

一方、札幌では誘拐騒ぎがありました。
ヘリコプターがぶんぶんとうるさかったので、何か事件でもあったのかなって思っていたんですが、なんか誘拐があったらしいよってことでした。
どうやら連れ去られた女児は無事に保護されたそうなので、よかったです。
女児の両親はきっと気が気でなかったと思いますが、ホッとなされたことでしょう。

北京オリンピックの興奮冷めやらぬときですが、明日からは12日間の日程でパラリンピックが始まりますね。
健常者同様、いや、それ以上にメダルを争う姿に感動をもらいそうです。
日本がんばれ。

がんばれといえば阪神ですよー。
巨人の猛追に遭って4.5ゲーム差。
歴史的な逆転優勝をさらわれないためにもがんばってくれー。

今日はニュースを中心にさまざまなことを書きました。
それではまた。
  1. 2008/09/05(金) 20:32:54|
  2. ニュース
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豊家滅亡その39

後藤又兵衛基次が「道明寺の戦い」で壮烈な討ち死にをした慶長20年(1615年)5月6日正午頃、ようやく後藤隊と足並みをそろえて道明寺村に進出するはずだった薄田兼相や明石全登らの諸隊が到着します。

これら部隊がここまで遅れた理由については、諸説あって定かではありません。
濃霧のために道を誤ったとも、もともと後藤隊のみが突出し、他の部隊はあとから順次駆けつける手はずだったともいわれます。
理由はどうあれ、大坂方は後藤隊の救援には間に合わなかったという事実だけがあるのみでした。

薄田、明石らの大坂勢は敗残の後藤隊の残兵を収容し、勢いに乗じる徳川勢を迎え撃ちました。
もともと後藤隊と合わせて六千ほどの大坂方でしたので、後藤隊無き今はおよそ三千ほどの兵力に過ぎません。
二万を越える徳川勢は大坂方を飲み込む勢いで攻めかかります。

冬の陣における「博労淵砦の戦い」(その30参照)での失態から、橙武者(見てくれはいいが食べられない役立たず)との汚名を受けてしまった薄田兼相は、その汚名をそそぐべく猛烈なる奮戦をみせました。
徳川勢の大軍を相手に一歩も引かずに戦い続けたのです。
しかし、やはり多勢に無勢はどうしようもありません。
後藤基次に続き、薄田兼相もこの戦いで討ち死にします。
残りの部隊は誉田(こんだ)村方面への退却を余儀なくされました。

ここにいたり、大坂方は残りの諸隊がようやく到着。
真田幸村や毛利勝永の率いる約一万二千の兵力が戦場に来着します。
まさに戦力の逐次投入の見本のようなまずさではありましたが、さすがに真田幸村らはただではやられません。
兵力も一万を超える兵力を持っているので、徳川勢としても勢いに任せて飲み込むわけにもいきませんでした。

徳川方の伊達政宗隊は、戦場に到着したのが真田隊だとわかると、部隊を二つに分けて左右に開き、鉄砲を撃ちかけて攻撃します。
伊達隊の鉄砲装備率は相当に高く、一説では兵力の七割が鉄砲を持っていたといわれます。

それに対し真田隊も鉄砲で応戦。
双方の銃撃戦が激しく行なわれましたが、伊達隊がやがて混乱を見せたところで真田隊は突撃を開始。
激しい白兵戦が行なわれたのち、伊達隊はついに後退して道明寺村付近にまで追いやられました。
またしても真田幸村の名は轟いたのです。

幸村はその後部隊を取りまとめて毛利隊と合流。
誉田村に陣を張って徳川勢ににらみを利かせます。
幸村は毛利勝永と語らい、徳川勢との決戦を企図しましたが、そこへ大坂城から撤退せよとの命令が到着しました。
この日行なわれていたもう一方の戦い、「八尾・若江の戦い」の大坂方の敗走により、戦力を大坂城に集中する必要ができたのです。
大坂方は兵を引くよりほかありませんでした。

大坂方は幸村の真田隊がしんがりを引き受け、大坂城へと後退します。
徳川勢にとっては追撃のチャンスではありましたが、追撃を行なう部隊はありませんでした。
早朝から戦っている諸隊の兵は疲れており、とても追撃できる状況ではなかったといわれます。
「道明寺の戦い」と、それに続く「誉田の戦い」はこうして終わりを告げました。
大坂方にとっては、後藤基次と薄田兼相という二人の前線指揮官を失ったことが大きな痛手となった戦いでした。

その40へ
  1. 2008/09/04(木) 19:59:14|
  2. 豊家滅亡
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(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
どうぞ楽しんでいって下さいませ。

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