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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

豊家滅亡その39

後藤又兵衛基次が「道明寺の戦い」で壮烈な討ち死にをした慶長20年(1615年)5月6日正午頃、ようやく後藤隊と足並みをそろえて道明寺村に進出するはずだった薄田兼相や明石全登らの諸隊が到着します。

これら部隊がここまで遅れた理由については、諸説あって定かではありません。
濃霧のために道を誤ったとも、もともと後藤隊のみが突出し、他の部隊はあとから順次駆けつける手はずだったともいわれます。
理由はどうあれ、大坂方は後藤隊の救援には間に合わなかったという事実だけがあるのみでした。

薄田、明石らの大坂勢は敗残の後藤隊の残兵を収容し、勢いに乗じる徳川勢を迎え撃ちました。
もともと後藤隊と合わせて六千ほどの大坂方でしたので、後藤隊無き今はおよそ三千ほどの兵力に過ぎません。
二万を越える徳川勢は大坂方を飲み込む勢いで攻めかかります。

冬の陣における「博労淵砦の戦い」(その30参照)での失態から、橙武者(見てくれはいいが食べられない役立たず)との汚名を受けてしまった薄田兼相は、その汚名をそそぐべく猛烈なる奮戦をみせました。
徳川勢の大軍を相手に一歩も引かずに戦い続けたのです。
しかし、やはり多勢に無勢はどうしようもありません。
後藤基次に続き、薄田兼相もこの戦いで討ち死にします。
残りの部隊は誉田(こんだ)村方面への退却を余儀なくされました。

ここにいたり、大坂方は残りの諸隊がようやく到着。
真田幸村や毛利勝永の率いる約一万二千の兵力が戦場に来着します。
まさに戦力の逐次投入の見本のようなまずさではありましたが、さすがに真田幸村らはただではやられません。
兵力も一万を超える兵力を持っているので、徳川勢としても勢いに任せて飲み込むわけにもいきませんでした。

徳川方の伊達政宗隊は、戦場に到着したのが真田隊だとわかると、部隊を二つに分けて左右に開き、鉄砲を撃ちかけて攻撃します。
伊達隊の鉄砲装備率は相当に高く、一説では兵力の七割が鉄砲を持っていたといわれます。

それに対し真田隊も鉄砲で応戦。
双方の銃撃戦が激しく行なわれましたが、伊達隊がやがて混乱を見せたところで真田隊は突撃を開始。
激しい白兵戦が行なわれたのち、伊達隊はついに後退して道明寺村付近にまで追いやられました。
またしても真田幸村の名は轟いたのです。

幸村はその後部隊を取りまとめて毛利隊と合流。
誉田村に陣を張って徳川勢ににらみを利かせます。
幸村は毛利勝永と語らい、徳川勢との決戦を企図しましたが、そこへ大坂城から撤退せよとの命令が到着しました。
この日行なわれていたもう一方の戦い、「八尾・若江の戦い」の大坂方の敗走により、戦力を大坂城に集中する必要ができたのです。
大坂方は兵を引くよりほかありませんでした。

大坂方は幸村の真田隊がしんがりを引き受け、大坂城へと後退します。
徳川勢にとっては追撃のチャンスではありましたが、追撃を行なう部隊はありませんでした。
早朝から戦っている諸隊の兵は疲れており、とても追撃できる状況ではなかったといわれます。
「道明寺の戦い」と、それに続く「誉田の戦い」はこうして終わりを告げました。
大坂方にとっては、後藤基次と薄田兼相という二人の前線指揮官を失ったことが大きな痛手となった戦いでした。

その40へ
  1. 2008/09/04(木) 19:59:14|
  2. 豊家滅亡
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09月04日のココロ日記(BlogPet)

舞方雅人さんのあたまに、まだココロがいっぱい入ってないですよ!

*このエントリは、ブログペットのココロが書いてます♪
  1. 2008/09/04(木) 11:20:30|
  2. ココロの日記
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Eleme☆Sephia

先日、いつもお世話になっている私の親しい方より同人誌が送られてまいりました。

040010155037-1p.jpg040000089785-1p.jpg

一見してわかりますとおり、当ブログともリンクしていただいている「Crooked Navel Homepage」の管理人真田クロ様の作成されました同人誌「Eleme☆Sephia」です。
(左から2nd.1st.P)

前から気になっていた作品だったのですが、こうして揃うと壮観ですね。
早速拝見させていただきました。

一言、いいですねー。
正義のヒロインがつけ込まれ堕ちていくのは実に楽しいです。
悪コスもしっかり描かれていますので、その手のものが好きな方ならこれはいいですよ。

メインは妖魔による触手陵辱なんですが、すでに敵の手駒となっている娘との百合っぽいシーンや、先に堕ちたエレメセフィアによる連鎖堕ちと美味しいシチュもいっぱいです。

真田クロ様の描かれるおにゃのこはとても可愛く、それでいて邪悪な笑みを浮かべるところがすごく妖艶ですばらしいと思います。
辱められているときの表情もぐっと来ますよー。
ぜひぜひお手に取ってみてはいかがでしょう?

今日はこんなところで。
それではまた。
  1. 2008/09/03(水) 19:33:16|
  2. 同人系
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豊家滅亡その38

大坂冬の陣のときと同様に、大坂方の将兵の士気は旺盛でした。
しかし、防御拠点としての役を果たせなくなった大坂城では篭城戦はできません。
かと言って、野戦での決戦も彼我の兵力差が開きすぎて勝機には乏しすぎます。

そこで初戦での勝利における士気高揚と、あわよくば各個撃破をともくろんだ紀州口での浅野勢との戦い(「樫井の戦い」)も敗北に終わり、大坂方としては取れる作戦が限られてきます。

そこで大坂方でも名のある武将である後藤基次が打ち出したのが、徳川勢が河内平野に進出してきたところを邀撃(ようげき)するという作戦でした。
徳川勢の先鋒に対し戦力を集中。
これを撃破することで徳川勢本隊に混乱を生じさせ、それによって時間を稼ぎあとは臨機応変にというものでした。
後のことを考えてないあたり作戦としては不十分ではあるのですが、取りえる作戦としてはこれしかないというのも事実であり、この作戦は大坂方諸将の賛同を得ることになります。

慶長20年(1615年)5月1日、先の作戦に従って徳川勢を迎え撃つべく、大坂城から後藤基次隊、毛利勝永隊、真田幸村隊などが出発します。
総勢は約一万八千ほど。
ですが、後藤基次といい毛利勝永、真田幸村といい大坂方の名だたる武将がほぼ参加しており、大坂方野戦軍の主力の全力出撃といってもよかったでしょう。
大坂方はこの邀撃作戦に賭けていたものと思われます。

一方徳川勢は、紀州口での両軍のにらみ合いが続く中、いよいよ家康本隊が動き始めます。
5月3日の出陣は雨で中止になったものの、翌々日5月5日、家康は二条城を出発。
一説によれば、このとき家康はこう言ったとされます。
「今度の合戦は手間はかからん。総軍の小荷駄(補給物資)も無用。それぞれ一人当たり三日分の腰弁当で出発させよ」
「自分は米五升と干し鯛一枚、乾飯(ほしいい)と味噌、ほかに鰹節と香の物があればよい」
とは言え、実際に補給物資を持たずに軍勢を進めたとは思えませんので、これはまさに短期決戦で大坂方を粉砕するという意気込みの現れでしょう。
実際徳川勢の士気も高く短期決戦での勝算は充分にあり、家康も鎧兜をつけるまでもないと軽装で出発したのでした。

同日、後藤基次、毛利勝永、真田幸村らは宿営時に軍議を開き、翌日早朝に道明寺・国分村付近に進出して隘路を進んでくるであろう徳川勢を迎え撃つことを話し合いました。

翌夜半、部隊を粛々と進めた後藤基次は道明寺に到着します。
しかし、一緒に徳川勢を迎え撃つはずだった薄田兼相や明石全登らの部隊はまだ到着せず、さらに悪いことに国分村付近にはすでに徳川勢前衛隊が到着していたのです。

本来なら国分村を占拠し、向かってくる徳川勢を撃破するはずでしたが、それはもはや叶いません。
作戦の破綻を知った後藤基次はおそらく大坂方の勝機は失われたと考えたのでしょう。
いつもなら撤退し再起を期すことをなんらためらわなかったはずの名将が、ここで単独攻撃を仕掛けます。
「空しく牢人として朽ち果てるところを召しだしてくださった秀頼様には、諸将に先んじて討ち死にすることこそが何よりのご奉公」
基次はそう言ったと伝えられます。

午前四時、「道明寺の戦い」は後藤隊の突撃から幕を開けました。
徳川勢は前衛部隊とは言えその数およそ二万。
対する後藤基次勢は二千八百。
およそ戦いになる数ではありません。
しかし、後藤隊は石川を渡って小松山という丘を占拠します。
高地を占拠して足場を固めたのち、後藤勢は一気に駆け下りて突撃。
突撃を受けたのは徳川勢前衛隊の松倉重政(まつくら しげまさ)、奥田忠次(おくだ ただつぐ)勢で、この二隊は早々に壊乱。
奥田忠次は討ち死にという損害を受けました。

奥田隊と松倉隊をかろうじて救ったのは水野勝成(みずの かつなり)と堀直寄(ほり なおより)隊の来援でした。
両隊の到着により徳川勢は態勢を立て直し、今度は後藤隊を追い詰めます。
もとより十倍に及ぶ兵力を持つ徳川勢は、小松山を完全に包囲。
周囲から射撃を加えて後藤隊の戦力をそぎにかかります。
伊達政宗や松平忠明らの部隊もこれに参加。
後藤隊はじわじわと戦力を削られていきました。

基次は配下を取りまとめて数度にわたって徳川勢の攻撃を退けますが、多勢に無勢の戦力差はいかんともしがたく、最後の突撃を敢行します。
正面の敵は打ち崩すものの、側面を突かれた後藤隊は混乱。
基次自身も銃弾を受けてしまいます。
もはやこれまでと基次は配下のものに介錯を命じ、配下のものが涙ながらに基次の首をはねました。
すでに時刻は正午近く。
約八時間にもわたる激戦を戦い抜いたのです。
まさに後藤又兵衛基次の面目躍如たる戦いでした。

その39へ
  1. 2008/09/02(火) 20:31:17|
  2. 豊家滅亡
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

いつもの二誌

今日はちょっとわたわたしてました。
何でわたわたしていたかはいずれ語ることもあるでしょう・・・

と、言うことで、今日は毎月購読している二誌の紹介。

まずは「世界の艦船:10月号」(海人社)
cover-s.jpg

今月は海上自衛隊の航空部隊について、その初期から現在に至るまでを特集しています。
来年就役予定の新型DDH(ヘリコプター搭載型護衛艦)「ひゅうが」もばっちりカラー写真でみせてくれてます。
船型だけ見たら、ハリアーが搭載されないのが不思議なぐらいです。
海上自衛隊としては、この「ひゅうが」を中核に、「おおすみ」型輸送船などを加えて災害派遣などにも使いたい考えのようですね。

今年から毎号掲載されている「港で働く船」という記事は個人的に気に入ってます。
今号は浚渫(しゅんせつ)船を取り上げていて、港にたまる土砂などの堆積物を処理する船が多種多様なことがわかります。
大型貨物船や客船ではないこうした裏方の船にスポットを当ててもらえるのはうれしいですね。

それにしても、いつも書店から「ご注文の世界の戦艦(艦船の読み間違え)が入荷しました」って電話が来るのはどうよ。
今戦艦なんてどこの国も持ってないよ。

もう一誌「グランドパワー:10月号」
gp0810.jpg

今号特集は「日本の戦車砲と自走砲」
つまり、大日本帝国陸軍の戦車や自走砲に搭載された車載砲の特集です。
こうした記事は私個人は初めて目にするもので、資料的価値は大きいと思います。

戦車砲なんてのは、戦車に搭載されてしまうとその砲身しか見えないといっても過言ではないわけで、試験のために車輪付きの砲架に載せられていたり、発射するための引き金部分や砲尾が見える写真が見られるってのはめったにないことなのでうれしいものです。

また巻末には英国戦車A30チャレンジャーの記事も載っており、これまたマイナー戦車の記事なのでうれしかったりしました。

正直に言って、このブログに掲載する記事の多くはこの二誌によっているものなので、大変お世話になっている雑誌です。
ありがたやありがたや。

それではまた。
  1. 2008/09/01(月) 20:36:11|
  2. 本&マンガなど
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舞方雅人

Author:舞方雅人
(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
どうぞ楽しんでいって下さいませ。

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