二の丸三の丸を破壊され、ほぼすべての堀を埋め立てられてしまった大坂城は、もはや軍事防御拠点としての能力をほぼ失いました。
その姿は「浅ましくも見苦しい」とさえ書き残されるほどでした。
しかし、このことによって大坂方はしばしの平穏を受け取ることができました。
確かにまだまだ問題は山積みではありましたが、徳川方との戦争は終わったのです。
あとはいかにして豊臣家を守り存続させるかでした。
大坂城の堀埋め立てが行なわれている最中に年が明け、慶長20年(1615年)1月1日を迎えます。
そのとき、徳川家康は大坂ではなく京都におりました。
大坂の陣(冬の陣)終結を朝廷に報告していたのです。
しかし、家康の狙いは別のところにありました。
京都二条城で新年を迎えることで、大坂の豊臣家が新年祝賀の使者を派遣せざるを得ない状況を作り出そうとしていたのです。
二条城の家康に大坂の豊臣家から使者が向かうということは、天下の主が今や徳川家であるということを見せ付ける効果があります。
いまさらという面がなきにしもではありますが、それでもこの豊臣家の使者を徳川家が迎えるというのは、政治的パフォーマンスとして意味のあることだったでしょう。
果たして大坂方からは秀頼の使者が派遣され、元日に家康に秀頼からの祝賀を伝えます。
大坂方はついに徳川方の下位に置かれたことが明白となりました。
秀頼からの使者を迎えた家康は、用は済んだとばかりに1月3日には駿府に向けて京都を出発します。
しかし、この旅はとてつもなくゆっくりと歩みが進められました。
家康は途中で国友村に寄り大砲多数を発注したのち、またゆっくりと駿府に向かいます。
なんと1月末にもまだ駿府に到着しないというゆっくりとしたもので、おそらく大坂城の破壊と埋め立ての報告を待っていたものと思われます。
そして、その工事の最中に何かあれば、すぐに大坂に引き返す腹積もりだったのでしょう。
2月8日、家康は駿府手前の中津というところで大坂城破壊と埋め立てを終えた徳川秀忠と合流します。
そこで工事の状況などを確認したのち、2月14日になってようやく駿府に帰着しました。
同日には秀忠は江戸にまで到着していました。
この日から約一ヶ月。
ほんのつかの間ですが平穏な日々が続きます。
もちろん水面下ではいろいろな動きが行なわれていたのでしょう。
慶長20年(1615年)3月15日。
事態は再び動き始めます。
この日、京都所司代板倉勝重(いたくら かつしげ)より一通の書状が駿府の家康の元に届きました。
板倉は京都にあって大坂の動きを監視していたのです。
書状には以下のことが記されておりました。
大坂方にふたたびの謀反の動きあり。
破壊されたやぐらを修復し、堀を掘り直しはじめている模様。
さらに召抱えられた牢人衆は一人も解雇されず、さらに新たな牢人衆が召抱えられつつあり。
牢人衆は大坂の町で略奪放火を行い、大坂の町の治安は乱れている。
大野治長が新規召抱えの牢人に金銀を支給し、軍備を整えつつある。
つまり、大坂方はもう一度やる気であるというのです。
皮肉なことに同日3月15日には、大坂方からの使者が家康に謁見していたという記録があり、その際に話し合われたのがなんと、冬の陣での消耗で経済的に困窮した大坂方に対しての援助を家康に申し入れたというのです。
家康としても、公的には敵対関係が解消されている以上、むげにはできなかったでしょう。
一方で板倉勝重の報告に家康は内心喜んだかもしれません。
これで完全に豊臣家をつぶせると思ったのではないでしょうか。
裸となった大坂城で篭城戦はできません。
今度は野戦で戦うしかないのです。
野戦なら数の多い徳川軍は引けを取りません。
勝てると思ったでしょう。
牢人衆が大坂の町で略奪放火をしているとの噂が駿府にまで届いていると知った大坂方は、あわてて弁明の使者を駿府に派遣します。
3月24日に到着した使者は、噂が根も葉もないものであり、大坂の町は平穏である旨を訴えますが、戦争のきっかけになれば内実はどうでもよかった家康には通じませんでした。
それどころか家康は、大坂方がいまだに牢人衆を多数召抱えていることなどを理由に、豊臣家に対して大坂を出て大和か伊勢への国替えに同意するか、牢人衆を解雇するかのどちらかを選ぶように通告します。
冬の陣終了時の和議のとき、参加した牢人衆に関してはお咎めなしというのが双方で取り交わした条件でした。
ところがこれにも微妙な言葉のあやとも言うべきものがあったと思われます。
大坂方にしてみれば、お咎め無しなのだからそのまま召抱えていてもよいと思っていたのでしょう。
ところが徳川方は、命に関してはお咎め無しで助けるから、早々に大坂城を立ち去りなさいという意味だったのだといわれます。
大坂方にしてみれば、お咎め無しだからそのまま召抱えていたはずなのに、今さらそれが悪いといわれても困ります。
使者はやむなくこの二者択一の条件を大坂に持ち帰るしかありませんでした。
大坂夏の陣が刻一刻と迫っておりました。
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- 2008/08/20(水) 19:37:26|
- 豊家滅亡
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