お待たせしました。
久しぶりの「豊家滅亡」の32回目です。
大坂城の南側に広がる平地。
それは大坂城唯一といっていい弱点でありました。
その弱点を強化するべく、あの真田幸村は出城を築かせます。
通称「真田丸」と名付けられたこの出城により、大坂城の防御はさらに硬くなりました。
この真田丸よりさらに南側。
篠山という小高い丘がありました。
戦場において地形を見渡せる高い位置を制することは重要な要素となります。
有能な武将真田幸村は、当然この篠山にも前衛部隊を配置しておりました。
慶長19年(1614年)12月2日。
この日、徳川勢の大坂城包囲がほぼ完成します。
このときの徳川勢は約二十万。
空前の大軍による包囲網が敷かれたのでした。
そして大坂城への攻撃準備として、竹束はもとより鉄製の盾も製造され、矢や銃弾を防ぐために配られます。
さらには大坂城への接近路としての塹壕も掘られ、さながら近代の城郭攻撃の様相を見せ始めておりました。
先に真田勢に抑えられた篠山でしたが、当然戦場での制高点を奪取するべく、徳川勢も兵力を差し向けます。
配置されたのは加賀の前田利常勢でした。
そのころ、大坂城内ではある事件が起こっておりました。
大坂方の武将南条元忠(なんじょう もとただ)の内通が発覚したのです。
関ヶ原の戦いで西軍石田三成方についた南条元忠は、西軍敗北によって浪人となっておりました。
このたびの戦で大坂方の求めに応じた元忠は、旧臣たちとともに大坂城へ入城。
約三千の兵力を預けられるという待遇で迎えられました。
しかし、元忠は徳川方にいる藤堂高虎の身内と知り合いで、その縁により寝返りを誘われます。
伯耆の国一国を与えるとの約束に、元忠は徳川方への寝返りを決意、合図を持って大坂城内に徳川勢を招き入れるという手はずでした。
この計画が発覚したのです。
南条元忠は城内で切腹させられ、計画はご破算となりました。
ですが、大坂方はこのことを内密にし、徳川方には元忠の死は伝わりませんでした。
一方、篠山前面に展開していた前田勢は、大坂城への接近のための塹壕を構築しておりましたが、その様子は篠山上の真田勢に筒抜けでした。
真田勢は鉄砲を撃ちかけ、前田勢の作業を妨害します。
真田勢の妨害により作業が停滞した前田勢は、妨害の元であり戦場の制高点でもある篠山を奪取することに決定。
慶長19年(1914年)12月3日の夜から4日の未明にかけて、じわじわと篠山に迫ります。
そして鬨(とき)の声を上げ、一気に篠山の頂上に攻めかかりました。
ところがこのときすでに真田勢は篠山を放棄しておりました。
篠山にいた前衛部隊は無傷で真田丸に撤収していたのです。
無人の山に突撃した前田勢は、真田丸の真田勢からさんざんにバカにされました。
収まりがつかないのは前田勢です。
勢い込んで突撃したところはもぬけの殻。
しかもそれをバカにされる始末。
前田勢の頭に血が上ったのもやむをえないことだったでしょう。
もともと前田勢は篠山を奪取するのが目的でした。
夜陰に乗じて接近し、接近戦を戦うつもりだったのです。
接近戦であれば弓や銃は使えません。
攻撃側もかさばる竹束や重い鉄の盾を持っていく必要はありません。
つまり、前田勢は真田丸のような防御施設を攻める準備をしていなかったのです。
にもかかわらず、頭に血が上ってしまった前田勢は真田丸への突撃を敢行します。
このとき大坂城包囲陣に参加していた前田勢の数は約一万二千。
全部がこの攻撃に参加したわけではないでしょうが、半分としても六千です。
おそらく山が動いたような感じだったのではないでしょうか。
幸村はこの前田勢の動きにほくそえんだと思われます。
竹束や鉄の盾を持たない兵士たちは銃撃には無力です。
真田勢は真田丸のすぐそばまで前田勢をひきつけてから、いっせいに射撃を開始します。
前田勢前面は一瞬にして大損害を受けたのでした。
前田勢が真田丸に対して攻撃を仕掛けたという事実は、徳川勢に連鎖反応を引き起こしました。
井伊直孝(いい なおたか)、松平忠直(まつだいら ただなお)の両軍勢が、前田に続けとばかりに大坂城南面に攻め寄せます。
しかも偶発時というのは重なるもので、徳川勢の攻撃に対処するべく大坂方が射撃のための火薬を用意していたところ、兵士の一人が誤って火薬箱を落として暴発させてしまいます。
この炸裂音が南条元忠の合図の音と間違われ、徳川勢は諸隊がいっせいに動き出してしまいました。
内通者による合図だから、さほどの攻撃を受けずに城内に侵入できると考えていたのか、徳川勢は無造作に大坂城に近寄ってしまったと思われます。
真田丸同様の惨劇が大坂城南側各所で繰り広げられることになり、徳川勢は大損害を出すはめになりました。
味方に混乱が広がる中、家康は即座に撤収を命令。
各部隊に伝令が走ります。
しかし、混乱と銃撃の中での撤収は思うに任せず、さんざんに討ち果たされた各部隊が撤収を終えたのは午後三時ごろのことでした。
記録上の双方の損害は不明ですが、大坂方の損害は極めて軽微であったと思われるのに対し、徳川方の損害はかなり大きなものだったと思われます。
家康は各将を呼んで軽率な行動を戒め、竹束や鉄の盾を必ず使うようにと命じたといいます。
この真田丸前面の戦いは、防御巧者の真田幸村の名を天下に知らしめました。
真田丸そのものには真田勢のほか後藤基次勢も入っていたといわれますが、名声を独り占めしたのは幸村でした。
以後、幸村は今日に至るまで、大坂の陣における大坂方の名将として名を残すことになりました。
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- 2008/07/23(水) 20:36:13|
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