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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

「ヨナタン」作戦

PFLP(パレスチナ解放人民戦線)によってウガンダのエンテベ空港に強制着陸させられたエールフランス139便の、残された乗客と乗員合わせて107名を軍事的に救出する作戦が始まりました。

この時点にいたり、対立がイスラエル政府対PFLP及びそれを支援するウガンダ政府アミン大統領という図式になったことで、旅客機の所属国であるフランス政府は静観の構えとなりました。
フランス軍を投入したところで、事態解決に結びつくとは考えられなかったのです。

イスラエル政府はいったんは選択肢から排除した軍事的行動によっての人質救出というプランに再度注目し始めました。
ハイジャック犯側から交渉期限が延長されたことで、作戦行動を行える時間的余裕を確保することができたからです。

イスラエル政府のイツハク・ラビン首相(当時)は軍と情報機関モサドに対し、救出作戦の準備を命じました。
軍側はすぐに実行指揮官としてダン・ショムロン准将を指名、ショムロン准将はすぐに派遣部隊の人選を行い、準備に取り掛かります。
ショムロン准将はすでに独断で人質救出のための作戦案を立てており、彼の司令部にはすでにエンテベ空港の建物郡のミニチュア模型が作られつつありました。

エンテベ空港のターミナルビルに捕らわれた人質の正確な位置を把握する任務は、当時すでにアメリカのCIAやソ連(当時)のKGBと並び、世界的に定評のある情報機関モサドが担当しました。
モサドはエンテベ空港から開放されたイスラエル国民やユダヤ人以外の乗客たちから、すぐさまさまざまな情報を入手するべく彼らを質問攻めにします。
さらに、すでに6月30日にはウガンダの隣国ケニアにビジネスマンを装った50人もの人員を派遣して、ウガンダに対する情報収集を開始していたのです。

ある者は観光パンフレットに使う写真を撮るためと称してセスナ機をチャーター。
風光明媚なビクトリア湖の写真を撮った後、“ついでに”エンテベ空港周辺の写真を撮り、またある者はビクトリア湖にボートを浮かべて対岸へ行き、空港周辺を探ったりということまでしていたのでした。
さらにケニアに対して友好関係を築いていたモサドは、たとえ軍用機であっても民間企業のチャーター便と言う体裁であればケニアのナイロビ空港の使用を黙認するという協力すら得ることができていたのです。

人質の一部が開放された7月1日、ショムロン准将による人質救出作戦の作戦案が示されました。
作戦には使い勝手のよいC-130ハーキュリーズ輸送機五機を使用し、うち一機を予備とした四機を投入。
一番機に武装した兵士二グループが乗り込み、エンテベ空港に強行着陸を行います。
一グループが人質を確保しハイジャック犯を射殺。
もう一グループが管制塔や給油施設など空港施設の確保やウガンダ軍の制圧に当たり、続いて着陸する二番機に人質を載せて脱出。
三番機と四番機には不測の事態やウガンダ軍の反撃に備えた部隊及び装甲車両などを載せて、いざという時に投入するというものでした。
作戦終了後は速やかに撤収し、ケニアのナイロビ空港で給油したのちイスラエルに戻るとされ、作戦名をヘブライ語で「カドール・ハラーム」、英語に直せば「サンダーボルト」と名付けられたのです。

7月2日、幾多の情報と協力から作られたエンテベ空港の実物大模型を使って、何度も突入部隊の訓練が行われました。
ハイジャック犯人に人質に危害を加えさせないためには、とにかくすばやく制圧しなくてはなりません。
突入部隊は何度も訓練し、輸送機から飛び降りてターミナルビルの制圧までを、なんと75秒という時間にまで短縮することに成功します。
人質の被害は最小限に食い止められるはずでした。

とはいえ、見積もりでは30人前後の被害がでることも考えられており、その報告を受けたイスラエル政府は苦慮します。
作戦実行賛成派と反対派は延々と議論を重ね、結論は容易にはでませんでした。

作戦は奇襲という要件を満たすために夜間に行われるのが前提でした。
イスラエルからウガンダのエンテベまではC-130で七時間かかるため、その時間を考慮しなくてはなりません。
しかし、議論は収まらず、7月3日を迎えてしまいます。
夜に救出作戦を決行するには、この日の日中に出発しなくてはなりませんでした。

午後3時半、閣議の決定を待たずに救出部隊は出発します。
ラビン首相の独断だったといいます。
そして午後4時ごろ、ついに閣議は救出作戦実施に決定いたしました。
長い夜が始まったのです。

1976年7月3日深夜、ケニア上空を通りビクトリア湖側から侵入してきたC-130の一番機がエンテベ空港に強行着陸を行います。
モサドの手によってレーダーなどを妨害されていたといわれ、着陸そのものには何の問題もありませんでした。
着陸した一番機からは直ちに車に乗った救出部隊が飛び出し、そのうち一台の車はアミン大統領の乗るベンツに似せたベンツだったため、大統領が来たと思い込んだウガンダ兵が近寄ってきたところを射殺。
さらに一気にターミナルビルへ駆け込み、ハイジャック犯を射殺して行きました。
救出部隊はヘブライ語で「イスラエル軍だ、伏せろ」と言っていたといいますが、残念なことに人質のうち3名がこの銃撃戦の流れ弾によって死亡。
突入チームの指揮官ネタニヤフ中佐も銃撃で死亡してしまいます。

しかし、ターミナルビルの制圧は成功し、人質となっていた人たちは続いて着陸してきた二番機に次々と乗り込んで行きました。
三番機と四番機も着陸し、追撃を防ぐためにエンテベ空港に駐機していたウガンダ空軍の軍用機を破壊、さらにはやってきたウガンダ兵たちの乗るトラックも破壊して行きました。
このときのウガンダ兵の死者は45人に上ったといわれます。

急病のためターミナルビルから病院に移されていた75歳の老婦人と、銃撃戦で死亡した3人を除く人質は、すべて二番機に乗り込みエンテベ空港を脱出しました。
襲撃部隊も順次撤収し、ケニアのナイロビに脱出。
そこからイスラエルに戻りました。

事件は報復などを考慮して兵士の顔が映らないように加工した映像ではありましたが、すぐに報道され、世界各国に衝撃を与えました。
ウガンダのアミン大統領は激怒して、主権国家に対する侵害だとして国連にイスラエルに対する制裁を訴えます。
国際社会は紛糾し、フランスさえもイスラエルに対する賛辞を送ることはできませんでした。
しかし、アミン大統領がハイジャック犯を援助していた事実はぬぐいきれず、国連安全保障理事会はなんらの制裁決議を行うことはありませんでした。
アミン大統領は結局残された老婦人を殺害することでしか、怒りを晴らすことはできなかったのです。

イスラエル国内では見事な救出作戦の成功に沸き立ちました。
「カドール・ハラーム」と名付けられたこの作戦でしたが、死亡したネタニヤフ中佐の名前にちなみ、「ヨナタン」作戦へと変更されるほどでした。
イスラエル政府は自国の国民をどんな困難からでも守り抜くということをアピールしたのです。
エンテベ空港の奇襲救出作戦はこうして終わりを告げました。

参考文献:学研歴史群像2004年12月号「奇襲エンテベ空港」 著者山崎雅弘氏
参考サイト:Wikipedia
ありがとうございました。
  1. 2008/06/01(日) 20:34:20|
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(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
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