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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

今月は海上保安庁特集

私が毎月愛読している雑誌の一つに、「世界の艦船」(海人社)があります。
船好き舞方の船に関する知識の源の一つです。

今月号(2008年7月号)の特集は海上保安庁でした。
表紙は新造巡視船「はてるま」の疾走シーン。
うーん、かっこいい。

カラーページには海上保安庁の大型巡視船全タイプが網羅され、白い船体が海上に浮かぶ綺麗な写真で彩られています。
また、米軍のトリマラン(三胴型)船体の新型戦闘艦の進水シーンや、海上自衛隊所属の南極観測用新型砕氷船「しらせ」(二代目)の進水と現「しらせ」の南極からの帰還時の写真なども載ってます。

なんといってもいつも圧巻なのが、特集にあわせて海上保安庁の保有する全船艇の要目や船艇名が網羅されていることです。
これはほんとに見ていて楽しいです。
数年に一度特集が組まれるたびに全船艇が網羅されるので、前回からどのぐらいの船艇が更新されたり退役したのかもわかります。
資料としては一級のものではないでしょうか。

それにしても今の海上保安庁のつらいところは、200海里時代に備えて増加させた巡視船艇が更新の時期になってしまっていることでしょう。
退役させなくてはならない船艇十隻に対して、新造船の予算は二隻か三隻分あるかないかですからね。
だましだまし使っている船艇も多いようです。

それに人員も少なすぎるといわれているようですね。
驚いたことに海上保安庁全部をあわせても一万二千人ほど。
海上自衛隊は四万六千人、東京だけを管轄とする警視庁警察官も四万六千人、東京消防庁でも一万八千人いるそうです。
確かに少なすぎるかもしれないですね。

それでも新造船艇はかなりの数になってきているようですね。
救難用航空機あたりも増勢されつつあるようです。
四周が海の日本は海上保安庁の果たす役割が非常に大きいですから、これからもがんばってほしいものだなぁと思いました。
実は私も昔、海上保安庁の一次試験までは通ったので、気になる官庁なんですよね~。

そのほかの記事としては、客船「にっぽん丸」の韓国ツアーの写真や、新造民間船舶のカラー写真なんかがやっぱり綺麗ですね。
フランスの強襲揚陸艦の内部写真なども目を惹かれました。

毎月買っている雑誌ですが、いつも楽しませてもらっている雑誌です。
船に興味のある方はごらんになってもいいかもしれません。
それではまた。
  1. 2008/06/04(水) 20:23:18|
  2. 本&マンガなど
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スターリンは殺された?

昨日はPCのトラブルでネットにつながらないという状況を起こしてしまい、皆様にご心配をおかけしてしまいました。
どうやら復調したようですので、今日は昨日札幌辺境伯様とプレイした「ロシアンキャンペーン2」(コマンドマガジン日本版33号付録)の経過ならびに結果についてご紹介しますね。

今回のプレイは前回の入れ替え戦と言うことで、独軍を札幌辺境伯様が、ソ連軍を私が担当いたしました。
私は独軍の第一インパルスでの突破を防ぐべく、二線防御で望みます。
第二インパルスで突破されても、穴を大きくされる前にふさげると考えてのことでした。

ところが、それがいかに甘い考えであったかが、開始早々の独軍の移動によって明らかになります。
このゲームは、枢軸軍にのみ移動中の突破戦闘が認められています。
条件を満たした戦闘比を建てられれば、そこの戦闘は終わったものとして他の枢軸軍ユニットがその場を通ることができるのです。
私が第一インパルスではたどり着けない(突破できない)だろうと思っていた第一線は、一瞬にして突破されてしまいました。

独軍は開いた穴から回り込むようにして第二線を襲います。
第一線の部隊との間に挟まれる形になったソ連軍の第二戦部隊は、これもあっという間に蹴散らされてしまいました。
つまり、第一線第二線が最初のインパルスで失われたのです。
「こ、これこそが電撃戦と言うものか・・・」
私は蒼白になりました。

独軍の第二インパルス終了後には、独軍の北方軍集団の前には無人の野が広がっておりました。
リガもレニングラードも都市を守る守備隊しか残ってないのです。
南方軍集団こそ食い止めたものの、ソ連軍司令部(私)は早々に防衛プランの変更を余儀なくされたのです。

しかし、私はまだ楽観視しておりました。
このロシアンキャンペーン2はソ連軍の初期配置ユニットは消し飛ぶものと相場は決まっているのです。
無尽蔵と思える補充と増援を駆使すれば、穴をふさぐのは造作もないように思えました。

ソ連軍は北方に目を奪われました。
リガやレニングラードが落ちるかもしれない。
リガはともかくレニングラードは史実でも落ちなかった都市、何とか陥落はまぬがれたい。
私はそう思い、補充も増援も北方に集めました。
しかし、これはソ連軍司令部(私)の判断ミスでした。
6・2(1)
第一ターン終了時。北方に大穴が開いてます。

独軍司令部(札幌辺境伯様)の構想には最初から北方での攻勢は選択肢になかったといいます。
独軍は南方での攻勢、いわゆるブラウ作戦を1941年時点から開始していたのでした。

独軍は中央軍集団の装甲軍団も南部に向け、南部で攻勢を始めます。
ルーマニア軍によるセバストポリの奇襲上陸による占領、続いてイタリア軍によるロストフ強襲上陸による占領と海上を使っての移動にソ連軍司令部はなすところを知りませんでした。
キエフが陥落し、ドニエプロペトロフスクが陥落し、リガもミンスクも陥落します。
初戦でユニットを失っていたソ連軍は、戦線を張り切れずに迂回され、包囲されてはユニットを失うという悪循環に陥っておりました。

レニングラードこそわずか2戦力の労働者が守り抜いたものの、独軍によって都市を占領され労働者を失い補充能力が減って行くという悪循環はとどまりません。
ロストフのイタリア軍を追い払うのが精一杯でした。
6・2(3)

そしてスタリノ、ハリコフ、ヴォロネジ、そしてロストフの再占領にいたり、ソ連はもはやモスクワさえ危ない状況に陥ります。
もはや動揺を隠し切れないソ連軍司令部(私)は、スターリンユニットをモスクワから脱出させることさえ忘れておりました。

そしてついに独軍のモスクワ攻撃が始まります。
今まで幾多の都市を陥落させてきた独軍の急降下爆撃機シュトゥーカ、その急降下時に立てる音から悪魔のサイレンと呼ばれた音がモスクワ上空に響き渡りました。

モスクワ陥落。
クレムリン宮殿内のスターリンの執務室に突入した独軍兵士たちは、机に座ったまま頭部を撃ち抜いて自殺したスターリンの死体を発見します。
(一説によれば、スターリンの死体は頭の後ろから撃ち抜かれていたともww)
ソ連軍は降伏し、1942年の冬、新政府はドイツと単独講和。
大祖国戦争は終わりを告げました。
6・2(4)
陥落したモスクワ。ちゃっかりヒトラーが近くまでその様子を見に来てました。(笑)

まさに完敗でした。
これほど一方的にソ連軍で負けるとは想像もしてませんでした。
やられたなーと言う感じでした。

まず何がやられたといって、自動的勝利と言うルールをこれほど自分が把握していないということをつきつけられるとは思いませんでした。
何度も独軍をやっていながら、私はこのルールの意味をまったく理解していなかったのです。
さながら独軍の浸透戦術を見ていながら、その後の電撃戦を理解できなかった第一次大戦経験の将軍たちのように、私も新戦術である電撃戦を理解していなかったのです。

さらに強襲上陸や海輸も驚きでした。
ルールとして知ってはいたものの、こうやって使うんだとは思いもしなかったのです。
いかに私が東部の戦場に不慣れであったことか・・・
さすがロシアンキャンペーンをやりなれていた歴戦の勇者札幌辺境伯様は違いました。
あらためて氏のすごさを感じました。

今回は負けましたが、何のまだまだ。
いずれまたこのロシアンキャンペーン2もやることがあるでしょうから、そのときにはお返しをしたいと思います。
まずは次の戦場で相対せねば。
次回は「エチオピアのライオン」(コマンドマガジン日本版27号付録)で対戦です。
札幌辺境伯様がイタリア軍を、私がエチオピア軍を担当する予定。
エチオピア高原で死闘が繰り広げられることになるでしょう。
そのときが楽しみです。

それではまた。
  1. 2008/06/03(火) 20:19:51|
  2. ウォーゲーム
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ふっかつのじゅもん

ふっかつのじゅもんを唱えたわけではないのですが、どうもローカルプロキシ関係だったのか、いじっているうちに復活したようです。

しばらくは様子見します。
お騒がせしました。
  1. 2008/06/02(月) 23:13:00|
  2. ネット関連
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  4. | コメント:3

パニック中です

只今ネットにPCが繋がりません。
ヤバい!
とりあえず、今日は状況報告まで。

今日は札幌辺境伯様とロシアンキャンペーン2をやって、負けました。
くやしー!

それではまた。
  1. 2008/06/02(月) 20:21:17|
  2. ネット関連
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  4. | コメント:4

「ヨナタン」作戦

PFLP(パレスチナ解放人民戦線)によってウガンダのエンテベ空港に強制着陸させられたエールフランス139便の、残された乗客と乗員合わせて107名を軍事的に救出する作戦が始まりました。

この時点にいたり、対立がイスラエル政府対PFLP及びそれを支援するウガンダ政府アミン大統領という図式になったことで、旅客機の所属国であるフランス政府は静観の構えとなりました。
フランス軍を投入したところで、事態解決に結びつくとは考えられなかったのです。

イスラエル政府はいったんは選択肢から排除した軍事的行動によっての人質救出というプランに再度注目し始めました。
ハイジャック犯側から交渉期限が延長されたことで、作戦行動を行える時間的余裕を確保することができたからです。

イスラエル政府のイツハク・ラビン首相(当時)は軍と情報機関モサドに対し、救出作戦の準備を命じました。
軍側はすぐに実行指揮官としてダン・ショムロン准将を指名、ショムロン准将はすぐに派遣部隊の人選を行い、準備に取り掛かります。
ショムロン准将はすでに独断で人質救出のための作戦案を立てており、彼の司令部にはすでにエンテベ空港の建物郡のミニチュア模型が作られつつありました。

エンテベ空港のターミナルビルに捕らわれた人質の正確な位置を把握する任務は、当時すでにアメリカのCIAやソ連(当時)のKGBと並び、世界的に定評のある情報機関モサドが担当しました。
モサドはエンテベ空港から開放されたイスラエル国民やユダヤ人以外の乗客たちから、すぐさまさまざまな情報を入手するべく彼らを質問攻めにします。
さらに、すでに6月30日にはウガンダの隣国ケニアにビジネスマンを装った50人もの人員を派遣して、ウガンダに対する情報収集を開始していたのです。

ある者は観光パンフレットに使う写真を撮るためと称してセスナ機をチャーター。
風光明媚なビクトリア湖の写真を撮った後、“ついでに”エンテベ空港周辺の写真を撮り、またある者はビクトリア湖にボートを浮かべて対岸へ行き、空港周辺を探ったりということまでしていたのでした。
さらにケニアに対して友好関係を築いていたモサドは、たとえ軍用機であっても民間企業のチャーター便と言う体裁であればケニアのナイロビ空港の使用を黙認するという協力すら得ることができていたのです。

人質の一部が開放された7月1日、ショムロン准将による人質救出作戦の作戦案が示されました。
作戦には使い勝手のよいC-130ハーキュリーズ輸送機五機を使用し、うち一機を予備とした四機を投入。
一番機に武装した兵士二グループが乗り込み、エンテベ空港に強行着陸を行います。
一グループが人質を確保しハイジャック犯を射殺。
もう一グループが管制塔や給油施設など空港施設の確保やウガンダ軍の制圧に当たり、続いて着陸する二番機に人質を載せて脱出。
三番機と四番機には不測の事態やウガンダ軍の反撃に備えた部隊及び装甲車両などを載せて、いざという時に投入するというものでした。
作戦終了後は速やかに撤収し、ケニアのナイロビ空港で給油したのちイスラエルに戻るとされ、作戦名をヘブライ語で「カドール・ハラーム」、英語に直せば「サンダーボルト」と名付けられたのです。

7月2日、幾多の情報と協力から作られたエンテベ空港の実物大模型を使って、何度も突入部隊の訓練が行われました。
ハイジャック犯人に人質に危害を加えさせないためには、とにかくすばやく制圧しなくてはなりません。
突入部隊は何度も訓練し、輸送機から飛び降りてターミナルビルの制圧までを、なんと75秒という時間にまで短縮することに成功します。
人質の被害は最小限に食い止められるはずでした。

とはいえ、見積もりでは30人前後の被害がでることも考えられており、その報告を受けたイスラエル政府は苦慮します。
作戦実行賛成派と反対派は延々と議論を重ね、結論は容易にはでませんでした。

作戦は奇襲という要件を満たすために夜間に行われるのが前提でした。
イスラエルからウガンダのエンテベまではC-130で七時間かかるため、その時間を考慮しなくてはなりません。
しかし、議論は収まらず、7月3日を迎えてしまいます。
夜に救出作戦を決行するには、この日の日中に出発しなくてはなりませんでした。

午後3時半、閣議の決定を待たずに救出部隊は出発します。
ラビン首相の独断だったといいます。
そして午後4時ごろ、ついに閣議は救出作戦実施に決定いたしました。
長い夜が始まったのです。

1976年7月3日深夜、ケニア上空を通りビクトリア湖側から侵入してきたC-130の一番機がエンテベ空港に強行着陸を行います。
モサドの手によってレーダーなどを妨害されていたといわれ、着陸そのものには何の問題もありませんでした。
着陸した一番機からは直ちに車に乗った救出部隊が飛び出し、そのうち一台の車はアミン大統領の乗るベンツに似せたベンツだったため、大統領が来たと思い込んだウガンダ兵が近寄ってきたところを射殺。
さらに一気にターミナルビルへ駆け込み、ハイジャック犯を射殺して行きました。
救出部隊はヘブライ語で「イスラエル軍だ、伏せろ」と言っていたといいますが、残念なことに人質のうち3名がこの銃撃戦の流れ弾によって死亡。
突入チームの指揮官ネタニヤフ中佐も銃撃で死亡してしまいます。

しかし、ターミナルビルの制圧は成功し、人質となっていた人たちは続いて着陸してきた二番機に次々と乗り込んで行きました。
三番機と四番機も着陸し、追撃を防ぐためにエンテベ空港に駐機していたウガンダ空軍の軍用機を破壊、さらにはやってきたウガンダ兵たちの乗るトラックも破壊して行きました。
このときのウガンダ兵の死者は45人に上ったといわれます。

急病のためターミナルビルから病院に移されていた75歳の老婦人と、銃撃戦で死亡した3人を除く人質は、すべて二番機に乗り込みエンテベ空港を脱出しました。
襲撃部隊も順次撤収し、ケニアのナイロビに脱出。
そこからイスラエルに戻りました。

事件は報復などを考慮して兵士の顔が映らないように加工した映像ではありましたが、すぐに報道され、世界各国に衝撃を与えました。
ウガンダのアミン大統領は激怒して、主権国家に対する侵害だとして国連にイスラエルに対する制裁を訴えます。
国際社会は紛糾し、フランスさえもイスラエルに対する賛辞を送ることはできませんでした。
しかし、アミン大統領がハイジャック犯を援助していた事実はぬぐいきれず、国連安全保障理事会はなんらの制裁決議を行うことはありませんでした。
アミン大統領は結局残された老婦人を殺害することでしか、怒りを晴らすことはできなかったのです。

イスラエル国内では見事な救出作戦の成功に沸き立ちました。
「カドール・ハラーム」と名付けられたこの作戦でしたが、死亡したネタニヤフ中佐の名前にちなみ、「ヨナタン」作戦へと変更されるほどでした。
イスラエル政府は自国の国民をどんな困難からでも守り抜くということをアピールしたのです。
エンテベ空港の奇襲救出作戦はこうして終わりを告げました。

参考文献:学研歴史群像2004年12月号「奇襲エンテベ空港」 著者山崎雅弘氏
参考サイト:Wikipedia
ありがとうございました。
  1. 2008/06/01(日) 20:34:20|
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Author:舞方雅人
(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
どうぞ楽しんでいって下さいませ。

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