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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

豊家滅亡その25

慶長19年9月20日。
おそらく悲痛な表情をして片桐且元は大坂城に戻ってきたのではないでしょうか。

京都東山方広寺大仏殿の開眼供養に端を発した、いわゆる「方広寺鍾銘事件」の申し開きをするために駿府の家康の元へ出向いた且元でしたが、家康には会えなかったばかりか、豊臣家の今後の安泰は三つの条件のどれかを呑む以外にはないと伝えるための使者となってしまったのです。
心中はいかばかりだったでしょう。

秀頼自身の参勤、淀殿が人質、大坂の国替え、どれも豊臣家にしてみれば呑める条件ではなかったのかもしれません。
且元よりこの報告を聞いた大坂城内は騒然となりました。
しかも、淀殿のところには大蔵卿の局より家康が心配することはないと述べていたとの報告が入っています。
どちらの報告を信じるのか。
大坂方にしてみれば、家康自らが会い、しかも耳障りのよい大蔵卿の局の言を信じるのが当然とも言えたでしょう。

大坂方は片桐且元が裏切ったに相違ないと考えました。
家康に丸め込まれた且元を切腹に処すべし。
そう決定がなされます。
且元は自分の身が危険になったことを知り、病気と称して屋敷に閉じこもりました。
そしてついに慶長19年10月1日、片桐且元は大坂城を退去します。

この且元の退去により豊臣家は徳川幕府との交渉を拒絶したと家康はみなしました。
ついに江戸の将軍秀忠の下へ家康からの出撃準備が命じられます。
一方大坂城の秀頼も、かつての豊臣家恩顧の大名武将に書を発し、大坂参集を命じます。
本格的戦闘の準備が双方で始められたのでした。

10月2日に豊臣秀頼は豊臣家の名を持ってかつての恩顧大名武将に大坂参集を命じました。
しかし、大坂方に参加した大名家はついに一家もありませんでした。
秀頼の求めに応じて参集したのは、徳川幕府の下では前途に希望の持てない牢人衆でした。
この牢人衆たちが、大坂方の主力戦力となったのです。
そしてこの牢人衆の中には、かつては城持ち大名だったものの、徳川家によってつぶされ、牢人となっている有力者も多かったのです。

豊前小倉15万石の大名毛利勝信(もうり かつのぶ)は太閤秀吉がまだ無名だったころからの家臣でした。
そのころは森勝信という名前でしたが、秀吉の出世に伴い彼自身も城持ち大名になったことから、中国地方の大大名毛利家に秀吉が願い出て、森を毛利と改めました。
勝信には勝永(かつなが)という息子がおり、彼も有能な武将として知られ、関ヶ原の戦いの折には西軍の一員として九州で獅子奮迅の働きをしますが、関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わったために領地没収され、親子は土佐の山内一豊に預けられることになりました。

土佐では山内家の厚遇もあり、二人とも暮らしに不自由はしなかったようですが、勝信はお家再興を果たせぬまま土佐で亡くなります。
残された勝永もむなしく日を送っていたところ、大坂からの書が届き、勝永はこの戦にすべてをかけて望もうと決めました。
徳川方の一員として参陣する山内家の大将忠義(ただよし)の後見を願い出て許された勝永は、そのまま土佐を脱出。
かつての小倉時代の家臣たちと連絡を取り、約四千もの兵力を集めて大坂に入城した毛利勝永は、以後大坂方の重要な将として活躍することになるのです。

その土佐の大名だったのが、長曾我部盛親でした。
彼も関ヶ原の戦いには西軍として参戦し、南宮山のふもとに陣取って好機をうかがっていたのですが、頂上付近の毛利家が動かなかったために、一戦も交えずに後退する羽目になったのです。
その後領地は没収、盛親は京都で寺子屋の師匠として細々と暮らしておりましたが、秀頼からの書状にこれまたお家再興の好機として参陣することに決めました。

元土佐22万石の大名であり、名を知られた長曾我部家でしたので、京都所司代の板倉勝重に常に監視されていた盛親は、逆に勝重に徳川方として働き少しでも領土を手に入れたいと訴えます。
親交のある浅野長晟とは約束があるので、彼の元へ行き少しでも徳川家の役に立ちたいと切々と訴える長曾我部守親の態度に板倉勝重もついに折れ、京都を離れることを許可しました。
長曾我部守親はすぐに京大坂の旧家臣たちと連絡を取り、大坂へ向かいます。
最初二、三十ほどだった彼の周りには、いつしか三百五百と兵が増えて行き、大坂城に入城するときには千を超えるほどにまで膨れ上がっておりました。
最終的には彼の元には一万近い兵力が集まったといわれます。
こうして長曾我部守親もまた、お家再興をこの戦にかけ大坂方に加わったのでした。

紀州九度山。
かつて信州上田城で二度も徳川勢を撃退した真田家の昌幸、信繁(幸村)親子が幽閉された場所です。
関ヶ原の戦いの折、徳川秀忠率いる徳川本隊を上田城にひきつけ、ついには戦場に遅参せしめるといった大殊勲を上げた真田親子でしたが、関ヶ原の戦い自体が東軍の勝利に終わったため、領地を没収された上で死を命じられるほどのものでした。
しかし、徳川方についた息子信之のおかげで死を免じられ、幽閉の身としてこの紀州の山間に閉じ込められた真田親子は、信之からの仕送りでわびしい暮らしを送っておりました。
やがて昌幸は息を引き取り、老いに焦りを感じるという書を信之に送っていた信繁(幸村)の元に、秀頼からの書状が届いたのです。

信繁(幸村)は最後の一花を咲かせる好機と思ったことでしょう。
彼は策略をめぐらして九度山を抜け出します。
監視役を酒に酔いつぶしたとも、碁を打ちに行って小用に立つ振りをして抜け出したとも伝えられますが、定かではありません。
わずかな兵を率いて彼が大坂城に入城したのは慶長19年10月10日だったと伝えられます。

こうしてのちに大坂方三人衆と呼ばれることになる武将たちが大坂に入りました。
特に真田信繁(幸村)の大坂入城は、かつての上田城での戦いを家康に思い起こさせたのか、昌幸がすでに亡くなっていたことも忘れてしまったようでした。
「入城した真田は親か子か?」
と側近に問うた家康は、ふすまをつかむ手が震えていたといいます。

こうして世に言う「大坂冬の陣」が始まりました。

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  1. 2008/04/22(火) 20:27:08|
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(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
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