fc2ブログ

舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

豊家滅亡その24

今日も金本選手の二千本安打はお預け。
残念ですが、仕方ありません。

ということで「豊家滅亡」の24回目です。

家康の進言によって、豊臣家は太閤秀吉ゆかりの寺社をいくつも修築してきておりました。
その一つが京都東山の方広寺でした。

地震と火災という二重の災害によって大仏も大仏殿も失った方広寺は、豊臣家の修築作業によってようやくその姿をお披露目できるまでになっておりました。
重さ六十四トンもある梵鐘が備えられ、大仏も大仏殿も滞りなく修築なり、あとは魂を入れるべきそれぞれの儀式(開眼供養など)を執り行うまでになっておりました。

すでに慶長19年(1614年)6月28日には、梵鐘を楼に据え付けて鐘供養の撞き初め(つきぞめ)が行われており、豊臣家家老である片桐且元より8月3日に大仏の開眼供養と大仏殿の堂供養を執り行う旨が、駿府の家康の元に届けられておりました。

慶長19年7月18日。
駿府の家康より片桐且元のもとに開眼供養と堂供養を別々の日に行うべしという指示が届きます。
古来開眼供養と堂供養が同じ日に執り行われたためしがないというものでしたが、すでに準備に入っている且元はいろいろと都合もあるゆえに何とか同日に執り行いたいと駿府に伺いを立てました。

ところが、慶長19年7月29日に且元のところに届けられた家康からの文は驚くべきものでありました。
同日に執り行うことはおろか、先日鐘供養を終えた梵鐘の銘文に問題があるので、すべての供養を延期せよとあったのです。
いわゆる「方広寺鍾銘事件」の勃発でした。

お寺の梵鐘には銘文が刻まれているものが多いのですが、方広寺の梵鐘も当時の高僧の南禅寺の清韓という人物に作らせた銘文が刻まれておりました。
清韓は加藤清正とつながりが深く、そのため豊臣家にとっても縁のある当時の高名な学僧でした。
その彼が作り上げた銘文の何がどう問題なのか、且元にとってはさっぱりわけのわからないことでした。

鐘自体は4月には完成しておりました。
その時点でどういった銘文が刻まれるかも家康には伝わっていたはずでした。
それが開眼供養や堂供養が近づいたこの時期にいきなりそんなことを言い出すとは、家康の難癖付けといわれても仕方ないでしょう。

しかし、家康ももはや73歳。
このまま座して時を過ごせば、死が近いのは明白です。
慶長16年に豊臣秀頼と対面し、以後も豊臣家の勢力をそぐことに全力を尽くしてきた徳川家ですが、やはり最後には滅ぼしてしまわなければ気がすまなかったのかもしれません。
開戦のきっかけを探していた家康にとって、たとえ難癖であっても、もはや手段を選んで入られなかったのです。

家康は京都の五山の僧侶たちに、方広寺の鍾銘の解釈を命じます。
大坂方との開戦の契機を作ろうとしている家康の思惑は彼らにも充分に伝わっておりました。
僧侶たちは家康の望む解釈を提示するしかありませんでした。
すなわち、鍾銘文は大御所(家康)にとって不吉かつ無礼なものであると。

「国家安康」
銘文の一文です。
国が平和で安心できるものであって欲しい。
そういう意味があるのだと思います。
しかし、これは家康の名を二つに割り死を願う呪いの文だとされました。

「君臣豊楽 子孫殷昌」
天皇も臣民も豊かで楽しい暮らしをし、子孫繁栄を願おうという意味だと思います。
しかし、これは豊臣を君(王というべきか)として、子孫殷昌を楽しもうとする政権転覆の呪いがこめられているとされました。
方広寺の鍾銘文は、豊臣家が徳川家を呪詛調伏するものだと決め付けられたのです。

愕然とした且元は、急ぎ秀頼にその旨を報告。
秀頼の名代として銘文作者の清韓とともに駿府へ弁明に向かいます。
しかし、結果は惨憺たるものでした。
清韓は蟄居を命じられ、且元は家康への面会が叶わぬまま無為に時を過ごすことになります。

且元ではものの役に立たぬと判断した淀殿は、自分の手で事態打開を図ります。
淀殿の乳母であり、大坂方の武将の一人大野治長の母である大蔵卿の局を駿府に派遣し、且元に代わって弁明させようとしたのでした。

慶長19年8月29日。
且元には一向に会おうとしない家康でしたが、大蔵卿の局に対しては到着早々に面会を許可します。
駿府への道中必死に慣れぬ漢文の意味をそらんじてきた大蔵卿の局は、家康の態度が意外と柔らかいのにホッとしました。
しかも、家康はこのたびのことはちょっとした行き違いで、千姫の夫秀頼はわが孫も同然であるから何も案ずることはないといいます。
ただ、気がかりなのが、このところ大坂方がこの家康を誤解して浪人を集め戦備を整えようとしているので、そのことに対し釘をさすつもりだったので、そのことを大蔵卿の局からも伝えて欲しい。
且元にも同じことを言い含めて近々大坂に帰すゆえ、じっくりと相談して欲しいと告げられたのです。

大蔵卿の局は胸をなでおろし、大坂に伝える旨を約束して駿府を辞去します。
一方片桐且元には、家康ではなく本多正純(ほんだ まさずみ)より家康からの命として、大坂に帰って今後の大坂方(豊臣家)の身の振り方をよく相談し、結論を江戸に持ってくるようにと告げられます。

世に言われる三つの条件がこのとき本多正純から出たものか、大坂へ帰る途中に片桐且元が考えたものなのかは定かではありません。
ですが、且元はもはや江戸との戦を防ぐには、三つの条件のうちいずれかを受諾しなければならないであろうと考えておりました。
1)、秀頼を江戸に参勤させ、秀頼自身が人質となる。
2)、淀殿が江戸へ行き人質となる。
3)、大坂城を退去し、幕府の命じるままに国替えに応じる。
このいずれかを受諾していれば、豊臣家はまだ存続の道があったのかもしれません。
しかし、大蔵卿の局と片桐且元が大坂に持ち帰った報告は、あまりにもかけ離れたものだったのです。

その25へ
  1. 2008/04/09(水) 20:38:03|
  2. 豊家滅亡
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

カレンダー

03 | 2008/04 | 05
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 - - -

時計

プロフィール

舞方雅人

Author:舞方雅人
(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
どうぞ楽しんでいって下さいませ。

ブログバナー


バナー画像です。 リンク用にご使用くださってもOKです。

カテゴリー

FC2カウンター

オンラインカウンター

現在の閲覧者数:

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

リンク

このブログをリンクに追加する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

管理人にメールなどを送りたい方はこちらからどうぞ

ブログ内検索

RSSフィード

ランキング

ランキングです。 来たついでに押してみてくださいねー。

フリーエリア

SEO対策: SEO対策:洗脳 SEO対策:改造 SEO対策:歴史 SEO対策:軍事

フリーエリア