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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

豊家滅亡その23

慶長16年(1611年)6月。
豊臣家にとって万一の際には頼みとしていた武将が相次いで世を去りました。
「表裏比興の者」と呼ばれ、戦国時代をたくみに生き抜いてきた真田昌幸と、「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)」と呼ばれた七人のうちの一人で太閤子飼いの猛将加藤清正です。

真田昌幸は、「関ヶ原の戦い」の折には上田城で徳川秀忠の軍勢を食い止め、関ヶ原の戦場に遅参させるという大仕事をやってのけ、徳川との一戦には欠かすことのできない人物と豊臣方には考えられておりました。
昌幸自身も、いずれ大坂方と江戸との間には戦が起こると考えており、その機に乗じて再び真田家を盛り返そうと虎視眈々と狙っていたとも言われます。
昌幸には大坂方に勝機をもたらす策も持っていたといわれ、死に望んで息子信繁(幸村)にその策を教えたとも言われますが、その際には天を仰いで、策を教えるのはいいがお前にはこの策は使えないと告げました。
天下に名高い真田昌幸が自ら述べる策であれば、大坂のプライドの高い連中も言うとおりに動くだろうが、昌幸の息子という立場の信繁(幸村)では、たとえ昌幸の策だといっても大坂の連中がいうことを聞いてくれないだろうというのです。
はたしてその言葉は後々の信繁(幸村)に重くのしかかることになりました。

加藤清正も3月に行われた秀頼と家康の二条城での会見ののちにわかに発病。
領国熊本へ帰る途中の船の中で倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。

加藤清正の死は、真田昌幸の死などよりも大坂方に衝撃を与え、会見後すぐの発病だったことから徳川家康による毒殺説が取りざたされるほどでした。
大坂方にとっては柱が一本抜けたかごときの衝撃だったことでしょう。
また一つ、家康にとって障害となるものがなくなったのでした。

また、太閤秀吉の五奉行の一人であった浅野長政も4月(5月とも)には亡くなっており、豊臣政権時代の中心人物はくしの歯が抜けるようにこの世を去って行っておりました。
これ以後豊臣家は孤立の度合いをさらに深めて行くことになります。

慶長16年(1611年)と慶長17年(1612年)の二度にわたって、徳川家は各地の大名家に対し幕府にはそむかないという旨の誓詞を出させることに成功します。
江戸幕府の基盤が着々と固められるこの時期、家康は焦ることなく豊臣家の出方をうかがっていたのかもしれません。
豊臣家にはまだ二年の時間がありました。

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  1. 2008/04/02(水) 20:11:40|
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(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
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