第二次世界大戦が始まるまでまだ間があった1930年代前半。
大日本帝国陸軍も、陸軍航空隊の発展に力を注いでおりました。
航空機を自力開発できたアジア唯一の国であった大日本帝国でしたが、当時はまだまだ技術的にも未熟であり、欧州の優れた航空技術を取り入れて開発を行うのが普通でした。
航空機による空から大量の爆弾を投下する戦術の有効性を認識した陸軍は、陸軍航空隊にも重爆撃機を導入し、すでに八七式重爆撃機を使用しておりましたが、1932年には低性能となった八七式の後継機開発に着手。
開発を命じられた三菱は、ドイツのユンカースK37型爆撃機を参考にして試作機を作りました。
試作機は予定していた速度が出ないなどの問題点はありましたが、一刻も早く八七式の後継機が欲しい陸軍はこれを九三式重爆撃機として採用します。
しかし、採用された九三式重爆は早々に欠点を露呈。
エンジンの故障などが相次ぎ、実戦部隊からは「不時着練習機」などとまで揶揄されてしまう始末でした。
仕方なく陸軍は三菱と中島にのちの九七式重爆となる機体の開発を命じますが、完成までには当然のごとく時間が必要でした。
そのために、陸軍は九七式重爆完成までのつなぎとして、外国製重爆撃機の購入に踏み切ります。
このとき陸軍は焦っていたのか、カタログ上の数値と価格の安さで選んだといわれるのが、イタリア製爆撃機フィアットBR20でした。
このフィアットBR20がイ式重爆撃機として採用されることになるのです。
(イ式とはイタリア式という意味)
イ式重爆(フィアットBR20)は悪い航空機ではなかったのですが、カタログほどの性能ではなく、また日本の運用方式に合致するものでもありませんでした。
実戦部隊からは九三式ほどではないにせよ、評判はよくなかったといいます。
ただ、防弾機能や対空武装の充実は好評だったといわれ、今に至るもこのイ式重爆は(日本においては)評価の分かれる航空機となっているようです。
ドイツ(ユンカースベースの九三式)の後釜に座ったイタリア(イ式重爆)でしたが、輸入した交換部品が底をつけばすぐに稼働性は低くなり、九七式重爆実用化以後は急速に第一線を退きました。
それでも、日中戦争やノモンハン事件にも出動しており、中継ぎとしての任務は果たしたといえるのではないでしょうか。
一番の問題点は、日本の爆弾の規格などを無視して採用した陸軍上層部だったのかもしれません。
それではまた。
- 2008/03/29(土) 19:56:29|
- 趣味
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0