「関ヶ原の戦い」からわずか9ヶ月後の慶長6年(1601年)6月に命じられた、近江膳所(ぜぜ)城の建築に始まった徳川家康による城郭普請命令、いわゆる天下普請は、幕府を開く前は豊臣家の名代として諸大名に命じ、幕府を開いてからは政権担当者として諸大名に命じたものでした。
この天下普請は、各地の城郭が公儀の城として政権より与えられたものであるという認識の下行われたもので、そこに誰が住むことになろうとも、その城は天下の城であるから諸大名が政権担当者の命により作るのだという概念でした。
徳川家康はこれによって、各地に城郭の新築と修復を行わせますが、普請を命じられた側は徐々に財力を失い疲弊して行くことになります。
天下普請ですから、一応は幕府なりから拠出金はあるのですが、それでは到底足りないのと、徳川家に対して異心なきことを示す格好の場として、各大名家が自腹を切り立派なものを作って見せることで徳川家に対する忠誠心の表現としたのです。
そして慶長11年(1606年)3月、家康は二年越しで準備を進めてきた江戸城修築に取り掛かりました。
豊臣家ゆかりの大名家が特に集められ、江戸城を将軍家の居城としてふさわしい大坂城よりも巨大な城郭にするために普請を命じられます。
その過大な負担は、豊臣方大名家の財力を削るにはうってつけでした。
家康はこの天下普請により各大名家の財力をそぐとともに、忠誠心の度合いも確かめようとしたのかもしれません。
さらにこの天下普請によって、大坂の豊臣家を包囲するという目的もあったのです。
慶長6年の近江膳所城、慶長7年には京都二条城、慶長9年には京都伏見城の修築と近江彦根城の築城、慶長11年江戸城、慶長12年駿河駿府城、慶長13年丹波篠山(ささやま)城、慶長15年名古屋城及び丹波亀山城、慶長19年越後高田城築城及び清洲城修築と、ほぼ毎年のように天下普請が行われ、各大名家はやむなく徳川家の命じるままに普請を行うしかありませんでした。
後世の創作と言われますが、名古屋城の築城にあたり、福島正則が家康の子の城を作らされるなんてと愚痴を言ったところ、それを聞いた加藤清正が、いやなら国に帰って戦の準備をするのだなと言って聞かせたとか。
天下普請はそれだけ各大名家にとっては負担が大きかったものと思われます。
そして、この天下普請において、徳川家康は対豊臣家の拠点としての二つの城郭を建築させました。
駿府城と、名古屋城です。
この二つの城は、いずれ行われるであろう大坂方豊臣家との一戦に際して、後方拠点及び江戸防備の中核となる城と、最前線基地の性格を持たされた城でした。
家康は、万が一大坂方が江戸に向かって攻め寄せたときに、名古屋城で時間稼ぎをし、そこが突破されても駿府城で食い止める計画だったのです。
こうして豊臣恩顧の大名たちの財力を天下普請で削り取った上、その天下普請で対豊臣家用の城郭を築き上げた家康でしたが、肝心の豊臣家本体には太閤秀吉が残した巨万の富が残っておりました。
その富を使わせるために、家康は更なる手を用意します。
それが、太閤秀吉ゆかりの寺社の修復及び造営でした。
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- 2008/03/10(月) 19:45:15|
- 豊家滅亡
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