今日で三月も終わり。
明日から四月です。
今月はあまりSSも書くことができずに、皆様にはつまらない思いをさせてしまいました。
来月はがんばるぞー。
ということで、今月最後の記事はウォーゲーム。
札幌辺境伯様をお迎えしての「西部戦線1918」(コマンドマガジン日本版08号付録)の陣営入れ替え戦です。
前回協商国軍担当だった札幌辺境伯様が独軍を。
私が協商国軍を担当しての入れ替え戦です。
激戦でした・・・
疲れました・・・
もうへとへとです・・・

これが初期配置です。
やはりまんべんなく配置せざるを得ない協商国軍に対し、札幌辺境伯様率いる独軍は史実の「カイザーシュラハト」に近いあたりにストストルッペンを投入してきました。

塹壕があるとはいえ、平地に配置されている仏軍に独軍ストストルッペンが猛攻撃を開始してきます。
仏軍兵士たちは次々と塹壕内で悲鳴を上げながら倒されていき、独軍の攻撃の前に仏軍前線は崩壊。
戦線に巨大な穴が穿たれてしまいました。

仏軍は必死に各所から兵力を引き抜いたり、除去された部隊を再配置したりして穴をふさごうとしますが、まったくもって焼け石に水。
協商国軍司令官マイカタはパニックに陥り、一時は司令部の一室に閉じこもってしまったほどでした。

独軍は着実に勝利得点源である都市を包囲陥落せしめ、仏軍は完全に麻痺状態に陥ります。
ソワソン、ランス、シャロン、エペルニーの四都市が陥落。
パリにも独軍の砲声が届くほどでした。
仏軍の崩壊により、一時は降伏も覚悟した協商国軍司令官でしたが、幸いなことにさほど攻撃されなかったために補充能力を保持していた英軍による反撃を敢行。

ついにレンで一矢報いることに成功します。
着々と到着する米軍部隊と英軍による反撃が成功したことにより、協商国軍司令官は戦争の継続を決意。
しかし、次の瞬間、仏軍が立てこもっていたヴェルダンが陥落するという悲報に愕然とすることになりました。

この瞬間が独軍の最大進出線であり、独軍のモラルは28に。
一方の協商国軍のモラルは最低の3にまで低下。
フランス政府は講和の使節の人選に入ったといいます。
しかし、ついに独軍の進出は止まります。
第9ターンを迎え、独軍はストストルッペンが通常の部隊に転換。
一方協商国軍には米国軍が大挙参戦して来ました。
ここにおいて攻守が逆転。
札幌辺境伯様も苦渋の表情を浮かべながら、防戦のために部隊を引き抜き始めます。
協商国軍は補充能力の高い米軍を中心に各地で反撃を開始。
カンブレーでは史実どおりの激戦が行われましたが、ついに独軍は包囲され陥落します。

こうなると、先ほどまでの講和ムードはどこへやら。
米英仏軍どころか、塹壕に篭っているだけだったベルギー軍までが塹壕を飛び出して独軍を追撃する有様になってしまいます。
札幌辺境伯様は巧みな遅滞戦術を繰り広げますが、後退が一ターンだけ早すぎました。
そのために縦深を取りきれなかったベルギーにおいて部隊を撃破されてしまい、なんとなんと脇役に過ぎなかったベルギー軍によってアントワープが解放されてしまうという憂き目に。

これによって独軍のモラルが0を切ってしまい、協商国軍の逆転勝利となりました。
ふわー・・・
勝った気がまったくしません。
最後の最後までどうなるかわかりませんでした。
ほとんど負けを覚悟していたので、勝てたのは奇跡みたいなものです。
それにしてもすざまじい戦いでした。
お互い終了後は何もいうことが無いほど満足感に浸っておりました。
札幌辺境伯様、対戦どうもありがとうございました。
疲れました。
でも面白かったです。
勝ったぞー!!
それではまた。
- 2008/03/31(月) 22:00:11|
- ウォーゲーム
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やりましたー!!
阪神タイガースが4年ぶりに開幕三連戦三連勝です。
横浜は4番村田の不振が響いたようですが、阪神は3・4・5番がうまく機能して着実に点を取り、投手陣がそれを守っての三連勝です。
うれしいですねぇ。
金本のひざもそれほど心配なさそうですし、新井もがんばってくれました。
先発投手も5回までは何とかという形でしたし、今日は福原投手が3年ぶりの完投完封です。
明日は移動日で明後日から広島戦です。
昨年の下位を相手の今のうちに貯金を稼いでおきたいところ。
このまま開幕ダッシュを決めて欲しいですね。
一方心配なのは日本ハムですね。
投手陣が大きく崩れはしないものの、味方打線が点を取れないこともあって借金がかさんでます。
今日の時点で最下位ですか。
まあ、まだ始まったばかり。
気を取り直して行きましょう。
巨人は投打がかみ合わないままに三連敗です。
打線は機能しない上に中継ぎが打ち込まれてます。
悪い面が出ちゃっているという感じですね。
ヤクルトにいいように翻弄されていたようでした。
ともかく今年も始まりました。
一喜一憂しながらまた日々を過ごすことになりそうです。
阪神も日本ハムもがんばれ。
今日はこんなところで。
それではまた。
- 2008/03/30(日) 19:34:46|
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第二次世界大戦が始まるまでまだ間があった1930年代前半。
大日本帝国陸軍も、陸軍航空隊の発展に力を注いでおりました。
航空機を自力開発できたアジア唯一の国であった大日本帝国でしたが、当時はまだまだ技術的にも未熟であり、欧州の優れた航空技術を取り入れて開発を行うのが普通でした。
航空機による空から大量の爆弾を投下する戦術の有効性を認識した陸軍は、陸軍航空隊にも重爆撃機を導入し、すでに八七式重爆撃機を使用しておりましたが、1932年には低性能となった八七式の後継機開発に着手。
開発を命じられた三菱は、ドイツのユンカースK37型爆撃機を参考にして試作機を作りました。
試作機は予定していた速度が出ないなどの問題点はありましたが、一刻も早く八七式の後継機が欲しい陸軍はこれを九三式重爆撃機として採用します。
しかし、採用された九三式重爆は早々に欠点を露呈。
エンジンの故障などが相次ぎ、実戦部隊からは「不時着練習機」などとまで揶揄されてしまう始末でした。
仕方なく陸軍は三菱と中島にのちの九七式重爆となる機体の開発を命じますが、完成までには当然のごとく時間が必要でした。
そのために、陸軍は九七式重爆完成までのつなぎとして、外国製重爆撃機の購入に踏み切ります。
このとき陸軍は焦っていたのか、カタログ上の数値と価格の安さで選んだといわれるのが、イタリア製爆撃機フィアットBR20でした。
このフィアットBR20がイ式重爆撃機として採用されることになるのです。
(イ式とはイタリア式という意味)
イ式重爆(フィアットBR20)は悪い航空機ではなかったのですが、カタログほどの性能ではなく、また日本の運用方式に合致するものでもありませんでした。
実戦部隊からは九三式ほどではないにせよ、評判はよくなかったといいます。
ただ、防弾機能や対空武装の充実は好評だったといわれ、今に至るもこのイ式重爆は(日本においては)評価の分かれる航空機となっているようです。
ドイツ(ユンカースベースの九三式)の後釜に座ったイタリア(イ式重爆)でしたが、輸入した交換部品が底をつけばすぐに稼働性は低くなり、九七式重爆実用化以後は急速に第一線を退きました。
それでも、日中戦争やノモンハン事件にも出動しており、中継ぎとしての任務は果たしたといえるのではないでしょうか。
一番の問題点は、日本の爆弾の規格などを無視して採用した陸軍上層部だったのかもしれません。
それではまた。
- 2008/03/29(土) 19:56:29|
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1976年に雑誌掲載されたマンガですので、もう30年以上も前ですか。
あるシーンが印象的でず~~~っと脳裏に残ってはいたんですが、いつしか記憶の片隅に追いやられてタイトルも何もかも思い出せなくなっておりました。
ふと、そういえばググれば出てくるかもしれないなぁと思い立ったので、かすかな記憶を頼りにググってみましたら、たどり着きましたよ。
タイトルは「ゴッド・アーム」
原作はなんと梶原一騎氏。
そしてマンガを描いたのは「ウルトラセブン」のマンガなどを描いた桑田次郎氏。
この桑田次郎氏の絵が脳裏に残っていたので検索できました。
当時としては未来の198X年、香港で開催された空手選手権でゴッド・アームと呼ばれる東郷日出人が狙撃され命を落とす。
父が天才的科学者だったために蘇生手術で蘇った日出人だったが、彼は常人をはるかに超えたパワーを身につけてしまっていた。
実はそれはナチスの科学力を用いて悪をたくらむ組織の陰謀で、組織は日出人を脳改造して悪人に仕立て上げようとするのだが・・・
というストーリーで、まあ、どこかで見たようなストーリーではあるんですが、印象深かったのは、ゴッド・アームと名づけられたヒーローである主人公日出人がしっかりと脳改造されちゃって組織の言いなりになっちゃうんですよね。
脳改造というのも、ナチスの残虐な非道行為を嬉々として行った人物の脳組織を移植するというもので、ご丁寧に三人もの脳組織を移植されます。
脳改造によって組織の言いなりに悪事を働くようになるゴッド・アームなんですが、残念なことに感情っぽいものがないので、破壊行為を楽しんでいるかどうかはわかりません。
しかも、バイオリニストで彼の婚約者である理奈のバイオリンの音色が彼の意識を取り戻し、組織の手から逃れてしまいます。
組織は理奈がバイオリンを弾けないように抹殺を図ろうとしますが、それよりも脳改造をしてゴッド・アームと一緒に組織に加担してもらおうと考えます。
再び組織の手に落ちたゴッド・アームと理奈。
理奈にもナチスの女性看守の脳を移植して悪にしてしまおうとメスが迫る・・・
のですが、残念ながら脱出されてしまいます。(笑)
当時から悪堕ち大好きの私はもう残念で残念でなりませんでした。
組織の博士のセリフ、「ふふふ、気をつけたまえ純君(理奈の弟)。次に姉さんに会ったとき、君は切り刻まれてしまうかもしれないぞ」(正確ではないと思います)は、ぞくぞくしたものでした。
邪悪に染まった理奈さんが見たい。
そう強く思ったものです。
現在私がSSを書く原動力の一つになっているのは間違いないですね。
邪悪な理奈さんとゴッド・アームのコンビを妄想したものでした。
それではまた。
- 2008/03/28(金) 20:21:44|
- 本&マンガなど
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甲子園での春の選抜高校野球がたけなわです。
毎日熱い戦いが繰り広げられておりますね。
海の向こうでは(海の向こうばかりではありませんが)、MLBも開幕して、日本人選手の話題がニュースになっております。
桑田投手の引退宣言は驚きでしたね。
今年一年はやるのかなと思っていましたが、すっぱりと引退ですか。
そしていよいよ明日からは、プロ野球セントラルリーグが開幕です。
そこで先日のパ・リーグ同様に順位予想をしてみました。
1位:中日ドラゴンズ
2位:読売巨人
3位:阪神タイガース
4位:横浜ベイスターズ
5位:広島東洋カープ
6位:ヤクルトスワローズ
1位には僅差だとは思いますが中日を挙げました。
投手力守備力含めて総合的なバランスが取れているのではないかなと思います。
全日本代表メンバーがどうしても多くなりそうですので、北京オリンピック期間がネックになるかもしれません。
2位には読売巨人。
破格の補強をしましたが、バランス的にあまりよく思えないんですよね。
守備はあまり期待できなさそうですし、機動力にも難がありそう。
先発の豊富さと長打力で打って打って打ちまくる85年阪神の野球が目標か?
中継ぎがしっかりすれば、当然充分に優勝は狙えるはず。
3位には阪神。
個人的には優勝して欲しいのですが、投手力のバランスの悪さが気になります。
先発投手陣がきちんとがんばれば、優勝はありえると思いますが、どうかなぁ。
打線は新井の加入以上に平野の加入が大きそうですね。
2番バッターが固定できそうです。
4位は横浜。
下位三球団はどこが四位になってもおかしくないと思います。
しかし、Aクラスは難しいかもしれないですね。
そんな中で横浜を4位に挙げました。
総合的に見て広島ヤクルトよりも上かなと。
ただ、消去法の4位なので、一つ間違えば最下位もあるかも。
工藤と仁志が巨人の呪縛から逃れてのびのびしているのが印象的。
5位は広島。
新井と黒田を欠きましたが、赤松を阪神からもらうなどして機動力重視で選手をそろえています。
日本ハムのように最小失点で切り抜ける野球ができれば面白いかも。
6位ヤクルト。
6位予想ではありますが、成長途上の球団になったので、成長著しい選手が一人二人出れば4位あたりは充分ありえそう。
先発のコマがどうしても少ないのがネックかも。
ちなみに父の予想は、1位:巨人、2位:中日、3位:阪神、4位:横浜、5位:ヤクルト、6位:広島でした。
今年も熱い試合を見せてくださいませー。
それではまた。
- 2008/03/27(木) 19:48:46|
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天下普請と寺社修築によって着々と豊臣家の勢力を削ぎ続けてきた徳川家康は、朝鮮の使者を江戸にて接見したり、島津家の琉球侵略を黙認したり、さらには公卿の一人を家康の名において罰したりしたことで、満天下に現政権担当は徳川家であることをアピールしてきました。
にもかかわらず、豊臣家は大坂において家康と距離を保ち、異質な存在として徳川幕府に従うことを拒否しておりました。
前政権担当の太閤秀吉の遺児として、今も政権は一時的に家康(秀忠)に預けているという意識があったのだと思われます。
家康としてもいつまでもそのままにはして置けませんでした。
豊臣家が徳川家に従いさえすれば、豊臣家に公家の押さえを任せてもいいとさえ考えていたといわれます。
豊臣家が従ってさえくれれば・・・
家康は徳川家に屈しない豊臣家に苦い思いを抱いていたに違いないでしょう。
家康は、後水尾天皇即位にあわせて京都に上洛することになり、それを機に再び大坂方に豊臣秀頼を上洛させるよう要請します。
二条城にて会見をし、江戸と大坂のわだかまりをなくそうという触れ込みでした。
上洛すれば豊臣家が家康に屈したと知らしめることになるでしょうし、上洛しなければ大坂に対して戦を仕掛ける口実とするつもりがあったと思われます。
事実家康は京都に軍勢を引き連れていったといわれ、大坂市中では戦になるかもしれないとの風聞が飛び交いました。
とはいえ、家康はあくまでも秀頼に対し懐柔するつもりであったのかもしれません。
秀頼が上洛しやすいように名目を設けているのです。
輿入れした千姫が大坂でどうしているかを知りたい。
婿殿が直接教えてはくれないだろうかというもので、あくまで徳川家と豊臣家ではなく舅と婿の顔見世であると取り繕ったのです。
しかし、家康の要請は淀殿が拒絶します。
家康の元へ出向けば秀頼は殺されると信じて疑っていない淀殿は、秀頼を行かせる事などできなかったのです。
しかし、これまでさんざん家康の要請を拒絶してきた大坂方にとって、婿に会いたいという家康の申し出さえ拒絶しては戦になるという懸念は大きなものがありました。
そこで補佐役の片桐且元始め、加藤清正や福島正則、浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名たちがそろって淀殿を説得。
秀頼自身が二条城へ赴くことを了承したことや、どんなことがあっても秀頼を守ると豪語した加藤清正の約束などもあり、ついに淀殿も秀頼と家康との二条城での会見を受け入れざるを得ませんでした。
慶長16年(1611年)3月28日。
京都二条城にて徳川家康と豊臣秀頼の歴史的会見が行われました。
このときにあたり、加藤清正は淀殿への約束どおりに懐に短刀を忍ばせて終始秀頼から離れずに護衛し、福島正則は病と偽って大坂城に残り、手勢約一万を持っていつでも京都へ駆けつける体勢を整えていたといいます。
会見そのものは終始和やかに行われたといいます。
家康は下座に着いた秀頼を手招きし、ともに上座に座ろうと言うも、秀頼はそれを固辞して下座で家康に対面したといわれます。
双方からの進物が送られ、徳川方も豊臣方も会見が無事に終わったことを安堵いたしました。
この対面において、豊臣秀頼は家康に相当深い印象を与えたといわれます。
19歳の秀頼は当時としては栄養状態もよくきわめて偉丈夫だったといわれ、身長も記録によれば197センチに達するといわれました。
その若々しい美丈夫ぶりに驚いた徳川の老臣本多正信は、酒色におぼれさせて政務から遠ざけるよう進言したとされ、また、禅僧の学問僧からも成熟した風格を備えた立派な人物と評されるなど、大坂方の頂点に立つ人物としてふさわしい人物だったといわれます。
70歳に達した家康はこの会見によって秀頼排除の意思を固めたといわれます。
事実はどうだったかわかりませんが、確かに老いた自分亡き後の徳川家にとっては秀頼の存在が不気味に思えたことは確かだったかもしれません。
若々しく前途ある秀頼を、家康は相当に評価したと言われ、牛に驚く暗愚の人とか、うどの大木などという周囲の評に耳を貸しませんでした。
家康は秀頼を恐るべき相手として認識したのです。
もはや徳川家と豊臣家の共存はなくなりました。
会見がかえって家康に秀頼恐るべしと印象付けてしまったのです。
会見を無事に終え、大坂へ帰国する秀頼を護衛していた加藤清正はホッと胸をなでおろしておりました。
彼はこうつぶやいたといわれます。
「これで太閤殿下より受けたご恩は半ば返したも同然である」
豊臣家の柱として幾多の戦場を駆け巡った加藤清正がこの世を去ったのは、この会見から三ヶ月後のことでした。
その23へ
- 2008/03/26(水) 20:39:28|
- 豊家滅亡
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今日は札幌辺境伯様をお迎えしてのウォーゲームプレイ。
お題は以前から相談しておりました「西部戦線1918」(コマンドマガジン日本版08号付録)です。
札幌辺境伯様が英仏を中核とした協商国軍を。
私が独軍をそれぞれ担当しました。
両軍の初期配置はこんなもの。

このゲームをやりなれていらっしゃる方ですと、もう少しうまい配置のしようもあったかもしれませんが、私にはこの配置ぐらいしか思いつきませんでした。
今回独軍担当としては以下のことを心がけてプレイしました。
1)、9ターン時点でのモラルチェックによるサドンデス負けは何が何でも回避する。
2)、協商国軍のモラルを0にすることはほぼ無理だと思われるので、最終ターンに独軍のモラルが1以上残ることによる逃げ切り勝利を狙う。
この二点を達成するために、私は序盤のカイザーシュラハトの目標を英軍守備のイープルと仏軍守備のヴェルダンに差し向けました。
イープルの2点とヴェルダンの5点の計7点を確保して、余力があれば他のモラル得点源も奪っていくというものです。
独軍のストストルッペン部隊はさすがに強力です。
英軍の防御も仏軍の抵抗も撥ね退け、2ターン終了時には独軍はイープルとヴェルダンの7点を確保することに成功しました。

イープル陥落

ヴェルダン陥落
しかし、この時点で独軍の補充はほぼ底をつきました。
攻勢はこれ以上は苦しくなりました。
札幌辺境伯様は序盤にもかかわらずに果敢に独軍を攻め立てます。
特に英軍と仏軍の境界付近では、戦力に乏しいポルトガル軍団を未修理の塹壕に単独配備するという荒業まで駆使して戦力を抽出し、独軍を圧迫します。
じわじわと削られ始める独軍ではありましたが、最後の攻勢をアラス近郊にて敢行。
ストストルッペンの大部分が戦力低下により裏返りながらも、アラスを陥落させることに成功しました。
これで2点追加で合計9点。
初期段階が15点なので24点にまで達し、協商国軍は残り6点まで追い詰められます。
しかし、独軍の攻勢はついに終わりを告げました。
補充を使い果たした独軍は、部隊の再編成もままなりません。
一方協商国軍には着々と米軍が到着し、独軍左翼に圧力をかけてきます。
7ターンから8ターンにもなると、攻守は完全に入れ替わりました。
アラスは早々に取り返されて2点を失いますし、前線の各所で独軍の塹壕線が突破され、兵士の悲痛な叫びと全滅の悲報が相次ぎます。
それでも独軍は序盤の獲得得点の多さにまだ余裕があると考えておりました。
9ターン時点で18点以上あれば、サドンデス敗北はまぬがれますし、最終ターンでも1点以上は残るだろうと考えていたのです。
運命の第9ターン。
私は前線での防御よりも、後退しての防御のほうが防御しやすいだろうと判断。
前線から部隊を後退させました。
この後退により、協商国軍にただで1点奪われます。
そして協商国軍の第一戦闘でサン・カンタンが奪われます。
これで1点を失いました。
残りは20点。
このゲームは第一戦闘のあとに第二戦闘が行われます。
協商国軍は私が後退したのをいいことに、ドイツ軍の要塞であるメッツにまで接敵しておりました。
第二戦闘で協商国軍はメッツを攻撃。
部隊が少なくなっていた独軍は、メッツには一ユニットしか配置しておりませんでした。
メッツは多大な犠牲を協商国軍に与えはしましたが、ついに陥落します。
3点が失われました。

メッツ陥落
こうして第9ターンが終了し、第10ターンの準備として独軍のストストルッペンを通常の部隊に変え、さあ、10ターンはどうやって守ろうかと考えつつ、私はサドンデス敗北はなかったはずだよなとルールブックを確認しました。
「第9ターン終了時にドイツ軍のモラルが18以上であり、連合軍(協商国軍)のモラルが13以下であった場合、そのままゲームは継続します」
(・・。)ん?
18点以上?
メッツが陥落したから、今独軍は17点しかないよね。
て、ことは?
サドンデス負け?
ガ━━━━━━━∑(゚□゚*川━━━━━━━━ン!
ま、負けた・・・
そうか、負けたんだ・・・
なんとまぁ・・・
負けちゃったんだ。
しばらく放心しちゃいました。
サドンデス負けはするまいと思っていたのにー。
でも、大変緊迫した面白いゲームでした。
負けましたが、協商国軍をかなり追い込んだので、それなりに満足です。
心残りはサドンデス負けであっけなく負けちゃったので、札幌辺境伯様に物足りないと感じさせてしまったのではないでしょうか。
札幌辺境伯様、どうも申し訳ありませんでした。
でも面白かったなぁ。
このゲームが評価高いのもわかります。
今度は入れ替えで協商国軍を担当させていただこう。
札幌辺境伯様、よろしければまた対戦お願いいたしますね。
疲れましたー。
それではまた。
- 2008/03/25(火) 20:36:25|
- ウォーゲーム
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舞方雅人さん、今日のラッキーアイテムはフレッチャーですよ!
*このエントリは、
ブログペットのココロが書いてます♪
- 2008/03/25(火) 08:10:09|
- ココロの日記
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またしても通り魔的事件が起こってしまいました。
茨城県土浦市の荒川沖駅前周辺で八人の方が刺されるという事件が起こったのです。
犯人は逮捕されましたが、どうやら誰でもいいから殺したかったと供述しているようで、小学校襲撃も視野に入っていたそうです。
刺された方の中には警察の方もいらっしゃったのですが、警戒中にもかかわらずに目前で死傷者を出してしまったのは大失態といわれても仕方がないかもしれません。
もう少し早く取り押さえることができなかったのか?
事情はどうあれ、これは言われてしまうでしょう。
それにしても、この事件でまたしてもゲームが取りざたされてしまっていますね。
犯人はゲーム好きで切れやすかった。
まさにステレオタイプの犯人像です。
ニュースを見ても、犯人が急所を狙って刺しているのは、ゲームの影響がある“可能性がある”と言ってました。
あくまでも“可能性がある”ではあるんですが、警察も犯人の所持品の中から人を殺傷するタイプのアクションゲームが出てきたと報じてますし、槍玉に上がるのは間違いないでしょう。
うーん・・・
やっぱり理解しやすいんでしょうね。
何がなんだかわからんけれど切り付けられたって言うより、ゲームの影響で切り付けられたって言うほうがわかりやすい。
理解しやすいもののせいにしたほうが、犯人の個々人それぞれの事情を斟酌するよりも簡単ですしね。
また規制の話が出てくるでしょう。
まあ、マンガにしろゲームにしろ規制したら犯罪が減るのかどうかは私にはわかりません。
ただ、世の中は規制の方向に向かっているようです。
本当に暮らしづらい世の中になってきているなぁと思います。
多分、私が何かやらかしたら、犯人は戦争ゲームを楽しんでいて、女性を拉致監禁するような話を書いていたとか言われるんだろうなぁ。(笑)
それではまた。
- 2008/03/24(月) 19:56:48|
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今日は札幌歴史ゲーム友の会にお邪魔させていただきました。
私が到着したのは10時ごろでしたが、すでに会場では今日も6ゾロ様と千葉からおいでのMM様がASLを、つじ参謀様とHIRO様が「Red Storm over the Reich」(Compass Games)をプレイしておいででした。
私はその後おいでになった柿崎様と「ドイツ装甲軍団:スモレンスク攻防戦」(コマンドマガジン日本版74号付録)をプレイ。
柿崎様が独軍を、私がソ連軍を担当です。
柿崎様の装甲部隊の運用は着実で、自軍に損害の出そうな攻撃を極力しません。
ソ連軍を確実に包囲して排除して行くのです。
私は何とか独軍の装甲部隊を包囲攻撃するように努めましたが、なかなかさせてもらえません。
1:1や2:1であれば攻撃するようにしまして、どうにか独軍の装甲部隊を2個ほど除去しましたが、独軍の最終ターンの2:1攻撃でイェルニャが陥落。
勝利得点で1点差の敗北となりました。
その後は柿崎様と「ウクライナ44」(コマンドマガジン日本版70号付録)を時間までプレイ。
柿崎様率いるソ連軍にじわじわ削られて独軍ピーンチというところまで追い込まれてしまい、ほぼ敗北が確定したところで時間となりました。
二連敗でしたけど楽しかったです。
柿崎様、お相手ありがとうございました。
しかしまぁ私もよく負けるなぁ。
もう少し勝てるようになりたいなぁ。
努力せねば・・・
それではまた。
- 2008/03/23(日) 19:19:30|
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今日から春の高校野球が始まりましたね。
わが北海道代表は駒大岩見沢でしたが、開会式直後の第一試合で、愛知県の成章との対戦でした。
結果は皆様ご存知のとおり3-2で成章の勝利となり、駒大岩見沢は初戦敗退となってしまいました。
残念ですけども、どうにも打てるような感じじゃなかったので、致し方ないかなと思います。
夏にはまた北海道代表が北海道旋風を吹かせて欲しいものですね。
明日は久しぶりに札幌歴史ゲーム友の会の会合に顔を出せそうです。
何をお相手していただこうかなぁ。
やりたいゲームはいっぱいあるんですけどね。
会合でぱっとできるかというと、なかなか難しいものがあるんですよね。
夕方までしか時間がないので、二・三時間ぐらいで決着がつくようなお手軽ゲームを用意して行くことにします。
ところで、今やりたいなぁって思うゲームってどんなのがあるかなぁ。
と、言うことで二・三上げてみることに。
「西部戦線1918」(コマンドマガジン日本版08号付録)
先日ソロプレイをちょっとだけしましたが、第一次大戦最後の年の独軍のカイザーシュラハトと連合軍の反撃のゲーム。
次回の対戦予定に上がっているので、やりたいゲームからプレイしたゲームへ昇格するのは確実。
独軍のカイザーシュラハトがどこまで連合軍を苦しめるかが勝負かな。
「電撃戦1939」(コマンドマガジン日本版別冊03号)
タイ・ボンバデザインの独軍のポーランド侵攻作戦を描いたゲーム。
タイ・ボンバにしてはオーソドックスな移動戦闘の単純なシークエンスにZOCありシステムで、独軍の電撃戦がどこまで描けているのかに興味がありますね。
ゲーム終盤にはソ連軍も侵攻してくるので、ゲーム展開は一方的になりそうですけど、勝利条件を満たすのは独軍にとってはきびしそうです。
なんたって独軍は自軍の損害を15ポイント以下にしなくてはならないので、ポーランド軍に反撃されて損害を受けてしまうとむちゃくちゃきびしくなりそうですよ。
でも、ポーランド戦のゲームはこれぐらいしか持ってないので、いずれはプレイしたいものです。
(ただねぇ・・・ユニットがねぇ・・・裏表がねぇ・・・ハァ・・・)
「バルカン電撃侵攻戦」(コマンドマガジン日本版18号付録)
ジョセフ・ミランダ先生デザインの独伊枢軸軍による1941年のバルカン半島への侵攻作戦を描いたゲーム。
細かいルールが多少あるものの、参加国の多彩さは見ていて楽しそう。
枢軸軍側には独伊のほかハンガリーとブルガリア軍が、連合軍にはユーゴスラビアを中心にギリシャや英連邦軍、はては亡命ポーランド軍も参加する可能性ありとさまざまです。
あまり人気がないテーマゆえか、プレイされている話も聞かないのですけど、一度はプレイしてみたいものです。
(ただねぇ・・・マップがねぇ・・・ハァ・・・)(笑)
まだやりたいなって物はあるのですが、今のところこの三つをプレイしたいという気持ちが大きいですね。
近いうちに対戦予定を組みたいものです。
最近SSを載せられなくてすみません。
そっちも近いうちに書いていきますのでお待ちくださいませー。
それではまた。
- 2008/03/22(土) 20:22:38|
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もうお気づきの方もおいでかとは思いますが、いつも大変私がお世話になっておりますサイト様「Kiss in the dark」の管理人g-than様より、当ブログのバナーを送っていただきました。

もうむちゃくちゃうれしいです。
g-than様、本当に本当にありがとうございました。m(__)m
バナーに登場したのは、拙作「ホーリードール」よりホーリードールサキとホーリード-ルアスミの二人ですね。
向かって右の髪の赤いのがアスミ、左の髪の青いのがサキです。
うつろな眼をしてまさにドール状態ですね。
g-than様にご無理を言って、元イラストもいただいちゃいました。
こちらが元イラストです。

大きなイラストはさらに素敵ですよねぇ。
赤と青の光の人形たち。
彼女たちはこれからどうなるのか?
すみません。
がんばります。
必ず書き上げますのでお待ちくださいませ。
それではまた。
あ、バナー画像はリンクなどにお使いいただいてOKですよー。
- 2008/03/21(金) 19:27:04|
- Special Thanks
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日本ハム、初戦はダルビッシュ投手の完封勝ちでした。
ロッテは惜しいところで悪いめぐり合わせになったようですね。
おそらく最大のライバルだと思いますので、直接対決の一つの勝ちは大きいです。
次もがんばってほしいものですね。
今日は古くからの友人たちが家に遊びに来てくれました。
詳しくは書けませんが、二人とも現在はあるエロゲーメーカーでエロゲに携わっており、一般消費者としての目線から見た場合の意見を聞きたいと相談を受けました。
う~~~ん・・・
一般的意見を言えるかどうか、はなはだ疑問なんですけどね。(笑)
まあ、とりあえずこんなのがいいんじゃないの? とか、これはやめたほうがいいんじゃないかな? とか程度のことしか言えませんですよ~。
ヒロインのキャラのパターンやらゲームのイベントとしてこんなのはどう? 的な話に終始しましたが、あれで役に立ったのかなぁ。
結局同窓会的な会話に終始していたような気がするぞ。
ミリネタバンバン飛びまくっていたし。
でも、こういう会話が楽しいんだよねぇ。
まあ、意見が使われる使われないもそうだし、ゲームそのものも明確になっていないらしいので、いつ発表されるのかもわかりません。
ご紹介が可能になれば、そのときご紹介いたしますね。
多分悪堕ちはなさそうですが・・・(笑)
エロゲといえば、アリスソフトさんの「超昂閃忍ハルカ」をチョコチョコとプレイ中です。
ハルカの鬼畜エンドと、鬼畜トゥルーエンドは見ましたよ。
鬼畜トゥルーは微妙でしたが、ただの鬼畜エンドはそれなりに悪堕ちエンドっぽかったです。
他のヒロインの鬼畜エンドにも期待です。
今日はこんなところで。
それではまた。
- 2008/03/20(木) 19:59:27|
- 日常
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いよいよ明日3月20日は、プロ野球パシフィックリーグの開幕ですね。
また半年間野球が楽しめると思うと、わくわくします。
今年も各球団それぞれが新人を取り、補強を行ってペナントレースに臨むわけですが、はたして今年の順位はどうなるのか?
舞方が個人的な予想をしてみました。
まずは明日開幕のパ・リーグ
1位:千葉ロッテマリーンズ
2位:北海道日本ハムファイターズ
3位:福岡ソフトバンクホークス
4位:東北楽天ゴールデンイーグルス
5位:西武ライオンズ
6位:オリックスバファローズ
1位はロッテを推してみました。
先発ピッチャーの豊富さと安定感が理由です。
打線も大幅な補強は無いものの、円熟味が増してきているのでこれも安定感があると思われます。
不安は抑え投手なんですが、そこを差し引いても1位の可能性が高いと見ました。
2位は日本ハム。
打線に力強さが無いので、今年もつなぐ野球に徹していく必要があると思います。
4番に座る外人次第のところが大きいかも。
投手も豊富は豊富なんですが、ダルビッシュ以外がちょっと落ちるような気がして、僅差で2位かなと思いました。
3位はソフトバンク。
ここは開幕時点でのけが人の多さが問題でしょう。
個々人が力を発揮すれば1位も当然視野に入ってくると思います。
4位楽天。
ここは岩隈投手次第のところあり。
田中投手は昨年同様の活躍ができそうですが、二年目ということもあって上積みまでは行かないかと。
その分を他の投手で稼げればいいのですが。
5位西武。
ここは投手力が整備されてきたので、Aクラスもありえるかなとも思います。
ただ、打線がブラゼル次第というところがあるので、爆発してくれれば上位進出、しなければBクラスといったところでしょうか。
6位オリックス。
打線の破壊力はまだまだ捨てたものではないと思います。
阪神より濱中も入りましたので、個人的には濱中に活躍して欲しいものです。
投手力がどうしても他球団に比べると遜色を感じるかなと思います。
ですが、ツボにハマるとAクラスだってありえると思います。
ちなみに私の父の予想は、1位:ロッテ、2位:ソフトバンク、3位:日本ハム、4位:西武、5位:楽天、6位:オリックスでした。
セ・リーグは、そちらの開幕時に予想しようと思います。
ペナント終了時、どこまで予想が当たるかなぁ。
それではまた。
- 2008/03/19(水) 19:58:51|
- スポーツ
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慶長12年(1607年)3月。
徳川家康は天下普請により修築なった駿府城にその身を移します。
建設中の名古屋城とこの駿府城で、いったん大坂とことあるときには大坂方の軍勢を食い止めるつもりだったといわれます。
この家康の駿府移転に伴い、移転祝賀の勅使が朝廷より送られました。
また、駿府城修築祝いにも祝賀の勅使が送られます。
つまり朝廷は家康の駿府移転により、権力の中枢が駿府に移ったと見ていたといえるでしょう。
翌年には「天下の主」を飾り立て威厳を与える「猿楽衆」も駿府に移り、まさに政治の中心は豊臣家のある大坂でも将軍徳川秀忠のいる江戸でもなく、この駿府であると知らしめたのです。
そして、天下普請で豊臣恩顧の諸大名の経済力を低下させた家康は、次に豊臣家本体の経済力を低下させるべく策を弄します。
豊臣家による太閤秀吉ゆかりの寺社の造営及び修築です。
太閤豊臣秀吉は、経済観念の発達していた人でした。
経済力が軍事力を高めることを理解しており、各種貿易などによって巨万の富を大坂城に蓄えていたといわれます。
この財力をそぎ落とさねば、豊臣家を屈服させることは困難です。
そのため、家康は太閤秀吉の供養にもなるとして、豊臣秀頼に秀吉ゆかりの寺社を造営修築するように“提案”しました。
太閤秀吉の恩顧を家康が忘れていないための提案と思われたのか、秀頼及び淀殿はこれを受け入れ、慶長7年より各所の寺社を修築していきます。
その数たるや慶長7年の京都の東寺金堂に始まり慶長13年の山城鞍馬寺毘沙門堂まで66件にも及びます。
それぞれにかなりの費用がかかったと思われ、家康の思惑通りに大坂城の資金は大幅に減ったといわれます。
そしてこの後も造営修築は相次ぎ、慶長19年の大坂冬の陣までには合計85件にのぼったのです。
慶長15年(1610年)6月12日。
「関ヶ原の戦い」から10年が経過したこの年、京都東山方広寺(ほうこうじ)において、大仏殿再建のための地鎮祭が行われました。
家康の勧めにより、焼失していた大仏殿を再建することになったのです。
京都東山方広寺に大仏と大仏殿を建築するという事業は、天正14年(1586年)に秀吉が始めたものでした。
ところが慶長元年(1596年)の大地震で大仏が倒壊。
慶長7年(1602年)に再建を開始するも、火災によって再建中の大仏はおろか大仏殿まで焼失してしまったため、この機に再び再建しようということになったのでした。
大仏殿の建設には多額の資金が必要とされ、またしても大坂城に蓄財された大量の金銀が費消されたといわれます。
このため世間では太閤の遺産は尽きたと見る者が多かったといわれます。
また、大仏殿再建にかかった費用は、回りまわって家康の手に入るようになっていたとも言われ、実際はともかく大坂方の財力を消費させるという家康の目論見はある程度達成されたのは間違いないでしょう。
そして、この方広寺大仏殿修築こそが、豊臣家にとって運命の事件を引き起こすことになるのです。
その22へ
- 2008/03/18(火) 20:30:35|
- 豊家滅亡
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舞方雅人さんが好きな物はミリタリーっていうんですけど、そんなの売ってないですよぅ……
*このエントリは、
ブログペットのココロが書いてます♪
- 2008/03/18(火) 08:28:22|
- ココロの日記
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先日は「魔法機動ジャスリオン」のヒロインである雷純玲(いかずち すみれ)の苗字“雷”が、日本帝国海軍暁級駆逐艦「雷(いかずち)」からいただいたものだということで、駆逐艦雷をご紹介いたしました。
では、もう一方のヒロインであり、洗脳によってジャスリオンと戦う破目になってしまう、ダークウィッチ・アヤこと巻雲綾(まきぐも あや)の苗字“巻雲”についても書かなくちゃ片手落ちというものでしょう。
綾の苗字巻雲も、雷と同じく気象状況を名称とした日本帝国海軍駆逐艦「巻雲(まきぐも)」よりその名をいただきました。
巻雲は、夕雲(ゆうぐも)級駆逐艦の一隻(二番艦)として昭和17年(1942年)7月に竣工いたしました。
(二代目です:初代はなんと日露戦争で鹵獲されたロシア水雷砲艦ブサドニックを巻雲と改名)
昭和17年といえば、もう太平洋戦争が始まっており、完成した巻雲は完熟訓練もそこそこに新鋭艦として艦隊に配属となりました。
日本帝国海軍には吹雪級以後の特型駆逐艦の総決算とも言うべき優秀な艦隊型駆逐艦陽炎(かげろう)級というのがありました。
この陽炎級駆逐艦をさらに航続距離や速度の改善等の改良を行ったものが、この巻雲を含む夕雲級駆逐艦です。
陽炎級は速力35ノットが計画値でしたが、一部の艦は35ノットに満たなかったため、夕雲級では艦尾形状を改修するなどして全艦が35ノットの速力発揮が可能となりました。
しかし、米軍の対抗艦であるフレッチャー級駆逐艦は37ノットに達する速力が出せるほか、アイオワ級戦艦も30ノットを出せるため速力不足は否めませんでした。
また、主砲も陽炎級が上方55度までしか仰角が取れないのを、75度まで仰角が取れるようにして対空射撃も可能としたのですが、発射速度や射撃管制システムの未熟さによって対空砲としてはきわめて能力が低かったといわれます。
しかし、当時の日本帝国海軍の駆逐艦としては最高級の性能を誇る夕雲級駆逐艦は、激戦に次々と投入されることになりました。
巻雲は完成後すぐにミッドウェー海戦に参加。
南雲機動部隊の護衛艦としてミッドウェーに向かいました。
ですが、皆さんご存知のとおり南雲機動部隊は米軍の航空攻撃により壊滅。
巻雲はあろうことか、空襲を受けて放棄された空母「飛龍」を魚雷で処分するという悲しい任務を行う破目になりました。
巻雲の魚雷は飛龍に命中するも、飛龍は容易に沈まずにしばらく浮いておりましたが、ついに力尽き海底に没します。
つらい初陣を飾った巻雲は、その後も激戦に身を投じます。
昭和17年8月には第二次ソロモン海戦に参加。
このときはさしたることも無く無事帰投します。
そして10月には南太平洋海戦に参加。
ここで巻雲はある任務を受けました。
日本機動部隊の攻撃により漂流していた米軍空母「ホーネット」を撃沈するという任務です。
米軍空母ホーネットは日本軍の攻撃に損傷を受け総員退去のあと漂流しておりました。
米軍に回収される前に撃沈してしまおうというのです。
実際は米軍はホーネットの回収はあきらめて処分するべく駆逐艦を向かわせておりました。
しかし、日本軍のほうが現場に早く到着し、巻雲と秋雲(あきぐも)が魚雷を発射。
ホーネットを撃沈しました。
これによって巻雲は世界の海軍史上唯一の、一隻の駆逐艦が航空母艦に二度の雷撃をして沈めるという快挙を成し遂げた駆逐艦となったのです。
その後巻雲は日本軍のガダルカナル島撤収作戦に参加。
昭和18年2月1日、イザベル島沖海戦で触雷して行動不能となり、味方の魚雷によって処分されました。
二隻の空母を処分した巻雲も、最後は自分自身が処分されてしまったのです。
正直、史上唯一の空母二隻沈めた駆逐艦ということは知りませんで綾の名前に使いました。
こんな生涯を送った駆逐艦だったんですね。
驚きました。
敵味方の空母を沈めたというのが、なんとなく洗脳される巻雲綾にふさわしい気がするのは私だけでしょうか?
それではまた。
- 2008/03/17(月) 20:12:51|
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夕べは札幌歴史ゲーム友の会のMどりっひ様においでいただき、自宅でウォーゲームをプレイいたしました。
Mどりっひ様とは以前「ブダペスト45」(コマンドマガジン日本版13号付録)をプレイしたことがありまして、今回は基本システムが同じ「ウクライナ44」(コマンドマガジン日本版70号付録)をご一緒していただきました。
「ウクライナ44」は、1944年のウクライナにおけるドイツ軍とソ連軍の戦いをゲーム化したものであり、ドニエストル川を背後にしたドイツ軍がソ連軍の大群に包囲されそうになったものの、巧みな部隊機動で包囲環の内と外からの攻撃により脱出に成功したという史実に基づいて作られたものです。
ゲーム上は独軍はソ連軍に包囲されるのを防ぎつつ、補給路を確保しながら後退して救出部隊と合流することを目指し、ソ連軍は独軍を包囲して脱出できないようにするか地図上の四ヶ所の都市の内三ヶ所を占領してサドンデス勝利を目指すことになります。
今回は私がソ連軍、独軍をMどりっひ様が担当。
スターリンの命の下独軍を包囲殲滅するべくわがソ連軍は展開しました。
ソ連軍の部隊の特徴は、攻撃力には秀でるものの防御力は相当に心もとないもので、常に攻撃をかけ続けなくてはなりません。
一方の独軍は防御能力に優れた歩兵師団と、攻防ともに強力な装甲師団という組み合わせであり、数こそ少ないものの一筋縄ではいきません。
第一ターン、ソ連軍は密集した歩兵部隊に独軍右翼を攻撃させ、強力な戦車軍団を独軍左翼から南下させます。
しかし、ここで私の優柔不断さが、この後のソ連軍を窮地に追い込んでしまいました。
敵ZOC(敵ユニットの隣接へクス)に最初からおらず、また最後まで入らないという条件であれば戦略移動といって移動力を倍にすることができ、独軍の防御線を切り崩して奥深くに食い込むことができるのですが、私には戦車軍団を突出させることにためらいを感じてしまったのです。
さらに地図版西方にはサドンデス条件の都市があり、あわよくばそちらを奪取しようという目論見を持っていたのです。
都市の占領を目指しつつ独軍の包囲もしたい。
こんな甘ったるい考えが通用するはずはありません。
二兎を追うものは一兎をも得ず。
つまり、戦場において上級司令部がしてはならないこと=二つの目標を追うという戦略目標の不明瞭化をすでに第一ターンで私はしてしまっていたのです。
結局この中途半端な戦車軍団の進出は、独軍に防御ラインを張らせてしまいます。
一度張られてしまった防御ラインを突破するのはきびしく、正面からの殴り合いになってしまいます。
こうなると防御の秀でた独軍はちょっとやそっとではつぶれません。
逆にソ連軍の歩兵部隊が独軍装甲師団の反撃を受け次々と消え去ります。
このあたりのMどりっひ様の差し手は見事なもので、独軍の装甲師団での機動反撃はこうして行うんだという見本を見せられたような気がします。
どちらが攻撃側やら。(苦笑)
ソ連軍の攻撃はまさに迷走といってもいいものでした。
独軍右翼に差し向けた戦車軍団も途中で引き抜いて左翼に投入する有様で、右往左往といったところ。
都市を奪ってサドンデスどころか肝心の独軍の包囲すらおぼつきません。
最終ターンまでプレイしたものの、実質的にはその前にほぼ決着のついてしまったゲームでした。
Mどりっひ様には物足りなかったのではないでしょうか。
拙いプレイで申し訳ありませんでした。
ぜひぜひ再戦で汚名返上したいものです。
それにしても楽しかった。
サイコロの一振り一振りが手に汗握りました。
Mどりっひ様、対戦本当にありがとうございました。
次回もよろしくお願いいたします。
それではまた。
- 2008/03/16(日) 19:08:16|
- ウォーゲーム
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架空の深夜アニメとして皆様に愛される存在となりました「魔法機動ジャスリオン」。
そのヒロインは元気いっぱいの女子高生雷純玲(いかずち すみれ)ですが、彼女の苗字を“雷”という奇妙な苗字にしたのは、やはり私のミリタリーオタクの血がなせる業でした。
日本帝国海軍特型駆逐艦「雷(いかずち)」
この日本の駆逐艦の名称をそのままいただいたのです。
日本海軍は、艦艇の命名法として、駆逐艦は気象関係の言葉を用いると決まっていました。
雷もその習いによって命名されたのです。
初代の雷は明治32年に完成したイギリス製の駆逐艦で、日露戦争に参加しましたが、今回紹介する雷は二代目として太平洋戦争に参加した雷のほうとなります。
二代目雷は、吹雪型駆逐艦の一部改正型である暁(あかつき)型(広義の吹雪型なので暁型と分類されない場合もある)の三番艦として昭和7年8月に竣工いたしました。
(ちなみに吹雪は「魔女生誕」に出てきた吹雪摩子に採用)
暁型は、原型となった吹雪に比べてボイラーの数が一基減ったため、二本ある煙突のうち前側の一本が細くなっているので、他の吹雪型とは識別がしやすくなっています。
また、主砲も対空射撃が可能な(あくまで可能なだけ)砲塔になっており、艦橋構造物も大型化しております。
全長は118メートル、最大幅10.4メートル、基準排水量1680トン。
速力38ノット。
12.7センチ連装砲塔三基に61センチ魚雷発射管三連装三基を搭載。(いずれも新造時)
完成後、日本海軍の水雷戦隊の中核として太平洋戦争に参加し、開戦直後の香港攻略戦に参加。
昭和117年には重巡戦隊と共同で米英連合の巡洋艦駆逐艦を撃破。
このときに敵兵を422名も救出した雷は、のちに本にもまとめられております。
昭和17年10月には僚艦暁、白露とともに米哨戒艇ら三隻を撃沈破。
11月には第三次ソロモン会戦に参加して損傷するなど、まさに東奔西走の忙しさです。
しかし、その後は輸送船団の護衛任務などにつくことが多く、日本海軍の衰退とともに戦果も減りました。
そして昭和19年4月13日、船団護衛中に米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没。
その生涯を閉じました。
特型駆逐艦以降の日本海軍駆逐艦は、まさに激戦に投入され次々と沈んでいったのですが、雷もまた同様の運命をたどったということですね。
それではまた。
- 2008/03/15(土) 20:06:08|
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今日はホワイトデーじゃないですか。
先月のバレンタインにはココロからチョコレートケーキもらったからお返ししないとね。

と、言うことで田舎まんじゅうをプレゼント。(笑)
クッキーやプレゼントを買うのを忘れていたわけじゃ・・・
来年はもっといいもの贈るから許してね。
- 2008/03/14(金) 21:58:09|
- 日常
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先日、日本海軍の局地戦闘機「震電」について記事を書かせていただきましたが、その折にドルニエ社が作った機体の前後にプロペラを持つ特殊な形状の航空機のことがコメントで寄せられました。
mas様、ありがとうございます。
調べてみたところ、この航空機はドルニエ社のDo335という航空機であるということがわかりましたので、ちょっと紹介させていただきますね。
「震電」のときにも述べましたが、航空機の後部胴体は、言ってしまえば尾翼を支えるだけのがらんどうの筒でした。
このがらんどうの筒を何とかなくすことはできないのか?
航空機設計者は常日頃からそう思い、さまざまな形状の航空機が考えられていきました。
そのうちの一つが、二つのエンジンを前と後ろに搭載し、それぞれ前のエンジンが前のプロペラで機体を引っ張り、後ろのエンジンが後ろのプロペラで機体を押すという形状で、こうすれば速度はかなり速くなるに違いないと思われたものでした。
この形状はエンジンが胴体という串の前後に付いているということから串形双発と呼ばれ、実際に試験機が作られたりもしました。
この串形双発に目をつけたのが、ドイツの航空機メーカードルニエ社でした。
ドルニエ社は、串形双発の特許を取得し、第二次世界大戦前から実験を繰り返していたのです。
1942年。
ドイツはソ連との果てしない泥沼のような消耗戦に陥っておりました。
このときドイツ空軍は、単座の高速爆撃機を求めており、要求としては時速800キロが出せるものという途方も無いものでした。
そこでドルニエ社は、高速発揮に都合がよいであろう串形双発でこの爆撃機を作ることにし、ドイツ空軍に設計を提出します。
この設計はドイツ空軍の目に止まり、Do335という形式番号も与えられて開発が行われることになりました。
しかし、スターリングラードの敗北以後、ドイツ軍は防戦一方に追いやられていきます。
高速爆撃機よりも戦闘機が欲しくなったドイツ空軍は、Do335の高速性能に目をつけ、単座の高速爆撃機ではなく重戦闘機として開発するようにドルニエ社に変更を命じます。
機体の基本設計がよかったDo335は、大きな変更をすることなくそのまま重戦闘機として開発が続けられました。
そして、1943年10月には初飛行を迎えます。
完成したDo335は、串形双発の特徴である機体の前後にプロペラを持つという特異な姿をしておりました。
今に残る写真を見ると、前のエンジンが少し低い位置にあって前方視界を確保し、コクピットがその後ろに連なってそこから後部胴体へと伸び、垂直尾翼と水平尾翼があってさらにその後ろにまたプロペラがあるという形をしております。
初飛行したDo335でしたが、高速発揮のための串形双発の威力を見せることはできませんでした。
最高速度は600キロ前後しか出なかったといわれます。
ですが、これでも速い部類なのは間違いなく、また運動性や操縦性能もこういった特異な機体形状であるわりにとてもよく、ドイツ空軍は改良の上で採用することを決めました。
しかし、エンジンの冷却問題などの不都合が生じ、ドルニエ社の努力にもかかわらず実用化はなかなかできませんでした。
最重要量産機に指定されるものの、1944年に入ると連合軍の爆撃などで工場が破壊され、ますますDo335は実用化が遠くなってしまいます。
それでも最終的には1944年秋以降ほそぼそと生産型が作られるようになり、速度も770キロも出せるようになりました。
これだけの高速ですと、もし損害を受けて脱出しなくてはならなくなったとき、垂直尾翼や後部プロペラに巻き込まれることが恐れられ、脱出時には尾翼とプロペラを爆破してから脱出するようになっていたそうです。
戦闘爆撃機型のDo335A-1を始め、試作機を含めても三十数機しか作られなかったドルニエDo335ですが、世界でも唯一実用化された串形双発戦闘機として、航空史上に輝く機体であったことは間違いありません。
やっぱり技術のドイツだったということなのかなぁ。
それではまた。
- 2008/03/14(金) 20:13:10|
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北海道日本ハムファイターズの注目のルーキー中田選手が二軍落ちしましたね。
まだまだ一軍のレベルには及ばないということなんですね。
これからの選手ですから、しっかり鍛えて一軍を目指してほしいものですね。
さて、NHKで放送されている番組に、「世界ふれあい街歩き」という番組がございます。
http://www.nhk.or.jp/sekaimachi/この番組は、世界各地の都市や町をハンディカメラを持ったカメラマンが歩き、あたかも自分がその街を散歩しているかのような視点でその街を見せてくれるというものです。
BShiと総合で放送されていますが、残念ながら私はBSは見られないので総合で放映されたものだけしか見られません。
ほのぼのとしたいい感じの番組で、私は大好きなんですが、ちょっと邪な見方も私はしております。
それは、この番組で紹介される街が歴史上の戦場となった街であった場合に、その視点で見てしまうということです。
たとえば、ハンガリーの首都ブダペストはブダ市側とペスト市側の二回に分けて放送されたのですが、ついつい「ブダペスト45」(コマンドマガジン日本版13号付録)の舞台となった街だなぁと思いながら見ていましたし、先日放送されたベオグラードでは内乱で破壊されたビルや公園に展示された35(t)戦車などに過去の戦争に思いを馳せながら見ておりました。
マルタ島ヴァレッタはマルタ騎士団の街ですし、ハルピンは旧満州の大都市だったというように、紹介される都市それぞれに歴史があり、そのあたりに思いを寄せながら見ていくとまた違った見え方もするものです。
あんまりそんな見方で見ている人はいないかもしれませんが、面白い番組ですよ。
ボルゴグラード(旧スターリングラード)やってくれないかなぁ。
それではまた。
- 2008/03/13(木) 19:29:15|
- 映画&TVなど
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次回自宅対戦予定のシミュレーションウォーゲーム、「西部戦線1918」(コマンドマガジン日本版08号付録)について、自分なりの拙い考察をしてみました。
対戦相手の方も見ていらっしゃるだろうけど、そんなの気にしない。(笑)
このゲームは、先日も触れましたように第一次世界大戦最後の年におけるドイツ軍最後の大反抗であるカイザーシュラハト(皇帝の戦い)と、それ以後の連合軍(協商国軍)の反撃を取り扱っているゲームです。
戦場を描いた地図は、北西はベルギーから南東はスイス近くのフランスヴォージュ山脈までの長大な塹壕線を表しており、その塹壕線の両側でドイツ軍と連合軍が対峙しているところから始まります。
ドイツ軍は前年より(正確には前々年)編み出した浸透戦術を駆使するストストルッペン(突撃兵)部隊が攻勢の主軸となり、浸透戦術を駆使してZOCtoZOC移動で相手の後方へ回り込むことが可能です。
ただし、ストストルッペンは15ユニットしか存在せず、最大スタック3枚での攻撃が理想であることから、五ヶ所ほどでの攻撃しかできません。
一方連合軍は、敵の塹壕の地形修正を無視する戦車ユニットがありますが、これは数が少なく(米仏英のそれぞれに1ユニット)、さらに第9ターンまでは浸透戦術が使えません。
しかし、そんなのは問題にならないといわんばかりに続々と到着する米軍ユニットが、ドイツ軍の侵攻を頓挫させるために投入されるでしょう。
勝利条件はお互いに相手のモラルを0まで低下させることです。
これはある意味ゲーム上ばかりではなく、相手プレイヤーのゲーム続行の意思を0にするという意味もあるかもしれませんね。
この、相手のモラルを0にするためには、とにかく地図上の戦略目標(主に都市)を陥落させることが重要です。
戦略目標にはそれぞれ数値が与えられており、占領した側のモラルはその数値分だけ上がると同時に占領された側はその数値分だけモラルが下がるのです。
戦略目標の占領は、そのままモラルの数値に跳ね返るために、戦略目標を奪われるようなことがあってはなりません。
ドイツ軍はさらに第9ターンのドイツ軍ターン終了時点でモラルが18以上無いと即座に敗北です。
初期段階では15ありますので、第9ターンまでにはモラルを3上げる必要があります。
自然とドイツ軍は攻勢に出なければなりません。
守っているだけでは勝てないのです。
ドイツ軍には大雑把に言って三つの侵攻方面が考えられると思います。
ベルギーより西に向かい、イープルの2点を奪取したのちに、ダンケルク・カレー・ブールージュの三ヶ所(各3点)合計9点を目指す北方侵攻案が一つ。
実際のカイザーシュラハトが行われた地域を中心とした英仏の境界付近から、パリ(3ヘクスあり各5点:合計15点)を直接狙いつつ、ソワッソン(2点)やコンピエーニュ(2点)を奪って行く中央突破案が二つ目。
ドイツ軍戦線に突出しているヴェルダン要塞(5点)を包囲殲滅し、うまく行けばトゥール(2点)・ナンシー(2点)方面を目指す南方侵攻案が三つ目。
このどれかに戦力を集中し点数を確保するしかドイツ軍の勝機は無いのではないでしょうか。
数少ないストストルッペンを効果的に使い、戦略目標を奪取するのです。
連合軍はユニットの数から言って、その長大な塹壕線に部隊をばら撒くのが精一杯と思われます。
初期配置は連合軍からですので、ドイツ軍としてはその配置状況により、手薄な箇所を攻めるというのが必要になるでしょう。
逆に言えば連合軍は、手薄な箇所を作らないようにするためには部隊をばら撒かざるを得なくなり、結局いずれもが薄くならざるを得ないのではないかと思われます。
ドイツ軍はストストルッペンの数から言っても二ヶ所で塹壕を突破するのがせいぜいかと思われます。
そこで今回は、イープルの2点とヴェルダンの5点を奪取することを目標に、ストストルッペンを二ヶ所に分散させて見ました。
北方でも南方でもない目先の得点奪取にかけた場合、はたしてそれは成功するのか否か。
とりあえずやってみます。

ヴェルダン初期配置

イープル初期配置

ヴェルダン包囲

イープル陥落せず

カンブレーがぁ・・・
むむむむむ・・・
難しい。
ヴェルダンは何とか2ターン目には落とせそうですけど、イープルは落ちなかったばかりか、虎の子のストストルッペン6ユニットが壊滅状態。
この損害を埋めるには相当かかる上に、カンブレー方面で逆襲されてカンブレーが落とされてしまいました。
ドイツ軍は一度に二ヶ所での攻撃すら厳しそうです。
これは大変だなぁ。
たった1ターンでしたけど、感触をつかんでおくことで対戦に弾みがつきそうです。
作戦考えなくちゃならないなぁ。
どこで攻めるべきだろうか・・・
うむむむむ・・・
それではまた。
- 2008/03/12(水) 21:03:23|
- ウォーゲーム
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学研から発行されましたムック本「第一次世界大戦(上)」及び「第一次世界大戦(下)」を読み終わりました。


このところ、私自身シミュレーションウォーゲームで第一次世界大戦物に触れることが多かったので、こういったムック本は歴史背景を知るのに非常に役立ちます。
第一次世界大戦は、日本ではあまり知名度の高くない戦争だと思われます。
実際日本軍が連合軍(協商国軍)側の一国として参戦しているという事実も、ほとんど知られてはいないのではないでしょうか。
もっとも、最近では日本が第二次世界大戦でアメリカと戦ったことすら知らない人も増えているようですけどね。
今までも、コマンドマガジン日本版付録の「1914:栄光の終焉」(30号付録)や、その名の通りの「第一次世界大戦」(72号付録)をプレイしてきましたが、やはりこうして歴史背景を詳しく知るとゲームに対する思いもまた格別になりますね。
「1914:栄光の終焉」では、フランス軍が独軍に対し一定数の攻撃を仕掛けなくてはならないのですが、そのもととなったプラン17なども書いてありますし、極端な攻撃思考に陥ったフランス軍の理由などもわかりました。
私の次回のプレイ予定には「西部戦線1918」(8号付録)が上がっていますので、戦争終了間際のドイツ軍の一大攻勢「カイザーシュラハト(皇帝の戦い)」がどのようなものであったかや、その後の「アミアンの戦い」以後の連合軍の反撃とそれに伴う「ドイツ陸軍暗黒の日」がいかにして起こったのかを、この本で理解したうえでゲームが行えます。
より深く掘り下げればまだまだいろいろとあるのでしょうけど、第一次世界大戦とはどのようなものであったのかを知るにはいい本だと思います。
私にはとても楽しめてありがたい本でした。
それではまた。
- 2008/03/11(火) 19:43:22|
- 本&マンガなど
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「関ヶ原の戦い」からわずか9ヶ月後の慶長6年(1601年)6月に命じられた、近江膳所(ぜぜ)城の建築に始まった徳川家康による城郭普請命令、いわゆる天下普請は、幕府を開く前は豊臣家の名代として諸大名に命じ、幕府を開いてからは政権担当者として諸大名に命じたものでした。
この天下普請は、各地の城郭が公儀の城として政権より与えられたものであるという認識の下行われたもので、そこに誰が住むことになろうとも、その城は天下の城であるから諸大名が政権担当者の命により作るのだという概念でした。
徳川家康はこれによって、各地に城郭の新築と修復を行わせますが、普請を命じられた側は徐々に財力を失い疲弊して行くことになります。
天下普請ですから、一応は幕府なりから拠出金はあるのですが、それでは到底足りないのと、徳川家に対して異心なきことを示す格好の場として、各大名家が自腹を切り立派なものを作って見せることで徳川家に対する忠誠心の表現としたのです。
そして慶長11年(1606年)3月、家康は二年越しで準備を進めてきた江戸城修築に取り掛かりました。
豊臣家ゆかりの大名家が特に集められ、江戸城を将軍家の居城としてふさわしい大坂城よりも巨大な城郭にするために普請を命じられます。
その過大な負担は、豊臣方大名家の財力を削るにはうってつけでした。
家康はこの天下普請により各大名家の財力をそぐとともに、忠誠心の度合いも確かめようとしたのかもしれません。
さらにこの天下普請によって、大坂の豊臣家を包囲するという目的もあったのです。
慶長6年の近江膳所城、慶長7年には京都二条城、慶長9年には京都伏見城の修築と近江彦根城の築城、慶長11年江戸城、慶長12年駿河駿府城、慶長13年丹波篠山(ささやま)城、慶長15年名古屋城及び丹波亀山城、慶長19年越後高田城築城及び清洲城修築と、ほぼ毎年のように天下普請が行われ、各大名家はやむなく徳川家の命じるままに普請を行うしかありませんでした。
後世の創作と言われますが、名古屋城の築城にあたり、福島正則が家康の子の城を作らされるなんてと愚痴を言ったところ、それを聞いた加藤清正が、いやなら国に帰って戦の準備をするのだなと言って聞かせたとか。
天下普請はそれだけ各大名家にとっては負担が大きかったものと思われます。
そして、この天下普請において、徳川家康は対豊臣家の拠点としての二つの城郭を建築させました。
駿府城と、名古屋城です。
この二つの城は、いずれ行われるであろう大坂方豊臣家との一戦に際して、後方拠点及び江戸防備の中核となる城と、最前線基地の性格を持たされた城でした。
家康は、万が一大坂方が江戸に向かって攻め寄せたときに、名古屋城で時間稼ぎをし、そこが突破されても駿府城で食い止める計画だったのです。
こうして豊臣恩顧の大名たちの財力を天下普請で削り取った上、その天下普請で対豊臣家用の城郭を築き上げた家康でしたが、肝心の豊臣家本体には太閤秀吉が残した巨万の富が残っておりました。
その富を使わせるために、家康は更なる手を用意します。
それが、太閤秀吉ゆかりの寺社の修復及び造営でした。
その21へ
- 2008/03/10(月) 19:45:15|
- 豊家滅亡
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アフリカの東側にエチオピアという国があります。
アフリカ最古の独立国として有名なのですが、このエチオピアにちなんだお饅頭、その名も「エチオピア饅頭」というお菓子があるそうなんですね。
私は食べたこと無いのですが、高知県の近森大正堂というお菓子屋さんの名物だそうです。
この「エチオピア饅頭」、なぜ「エチオピア饅頭」と言うネーミングなのか?
1935年。
19世紀末にエチオピアを植民地にしようとしたイタリアが、エチオピア軍に手痛い敗北をして撤収して以来、再びこのエチオピアを植民地とするべく二度目の侵攻を企てました。
当時のイタリアは世界恐慌の影響などで経済は低迷し、失業者も多数にのぼっておりましたが、ムッソリーニの下でファシズム政権が独裁体制を敷いて海外に植民地を求めていたのです。
19世紀末のエチオピアに受けた屈辱を晴らすべく、イタリアは近代装備で武装したイタリア軍の精鋭約二十万を持ってエチオピアに侵攻。
エチオピア軍を攻撃いたしました。
当時のエチオピア軍は各部族集団が中核の約三十五万の兵力を擁しておりましたが、いずれも正規の訓練を受けたものではなく、装備もかなり旧式の小銃が主でした。
そのため、世界はイタリア軍が鎧袖一触でエチオピア軍を撃破してしまうものと思っておりました。
イタリア軍は各所でエチオピア軍を撃破し、侵攻は成功裏に終わるかと思われました。
国際連盟もイタリアの侵略として非難しますが、効果のある制裁を加えることができず、国際連盟はその無力さを露呈してしまいます。
ところが、やがてエチオピア軍が逆襲に転じます。
地の利のあるエチオピア軍は、各地で神出鬼没に動き回り、イタリア軍は各所で分断され孤立します。
やむを得ずイタリア軍は、圧倒的な空軍力でこれを撃破。
かろうじて危機を乗り越えました。
ホッとしたのもつかの間、エチオピア軍は最後の切り札を投入しました。
皇帝自らが率いる帝国親衛隊を中心に反撃を行います。
イタリア軍は再び窮地に追い込まれました。
戦車も航空機もほとんど持たないエチオピア軍に対し、戦車も航空機もふんだんに持っているイタリア軍が追い込まれたのです。
ついにイタリア軍は毒ガスを撒き散らすという手段に打って出ました。
ガスマスクなど持たないエチオピアの戦士たちは次々と倒れ、そこにイタリア軍の反撃が加えられました。
切り札の皇帝親衛隊も失ったエチオピア軍はついにイタリアに降伏。
エチオピアの皇帝は英国に亡命して、エチオピアという国はイタリアに併合されてしまいました。
これ以後第二次世界大戦中の1941年までエチオピアという国は消滅したのでした。
このエチオピアのイタリアに対する抵抗に感銘を受けた近森大正堂の初代店主が、エチオピアに縁もゆかりも無いにもかかわらず、自家製の饅頭に「エチオピア饅頭」と命名したのでした。
現在ではエチオピア大使にも認められ、エチオピア大使館公認のお墨付きもいただいているそうです。
高知県では有名なお菓子だそうですね。
このエチオピア対イタリアの戦いは、コマンドマガジン日本版27号付録の「エチオピアのライオン」というゲームになっていて当時の戦いを再現することができます。
イタリア軍は史実同様に毒ガス使わないとつらいんですよねー。
エチオピア軍強いですよ。
それではまた。
- 2008/03/09(日) 20:53:23|
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また一人、ベテラン声優の方が亡くなられました。
宮崎さんもかかわったアニメ、犬の「名探偵ホームズ」でホームズ役を務められた広川太一郎氏が、3月3日にがんでお亡くなりになられました。
68歳でした。
ご冥福をお祈りいたします。
もうあの名調子を聞くことはできなくなっちゃったんですね。
寂しいなぁ。
- 2008/03/08(土) 21:35:38|
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紀元前500年ごろ、現在のトルコ周辺で勢力を延ばしていたペルシャ帝国は、国王ダレイオス一世の指導の元、西方へとその国土を広げるべく活動を開始しておりました。
当時のギリシャは、アテナイなどいくつもの都市がそのまま都市国家としておのおの勢力争いをしておりましたが、ダレイオス一世はそれを好機と捉え、遠征軍を派遣します。
紀元前490年、アテナイに対する降伏勧告が拒絶されると、ダレイオス一世は二万以上と言われる軍勢(一説では二万六千)をガレー船に乗せてギリシャへ向けて送り出しました。
ペルシャの降伏勧告を拒否した都市国家アテナイは、単独ではとてもペルシャの遠征軍に対処する力はありません。
そこで当時の軍事大国であった都市国家スパルタに援軍を要請します。
スパルタはこのアテナイの援軍要請を快く受け入れ、軍の派遣を決定しますが、折悪しくアポロン神を祭るスパルタの重大な祭りの最中であったため、即座には軍勢が動かせない状況でした。
それでもアテナイに取ってスパルタの援軍参戦はまことに心強いものであり、アテナイが滅ぼされれば次は自分のところであるという隣国プラタイア(プラタイアイ)からの援軍と合わせて約一万の軍勢をアテナイは用意いたします。
騎兵を有効に使おうとしたとも、縁起を担いだともいわれますが、ペルシャ軍二万はアテナイの北マラトンと言う地に上陸。
そこからアテナイをうかがいました。
マラトンにペルシャ軍上陸の報を受けたアテナイは、一万の軍勢を即座にマラトンの地に派遣しました。
アテナイ軍は10人の将軍が日替わりで指揮を取るという非常に厄介ともいえる指揮体制でした。
彼らはマラトンの地に布陣すると、そこで討って出るかスパルタ軍の援軍が来るまで持久するかの会議を開きます。
指揮官の一人ミルティアデスは主戦派で、戦闘を開始するよう他の将軍たちを説得します。
そして、自分が指揮を取る順番の日に、ついにアテナイ・プラタイア連合軍はペルシャ軍に対して戦端を開きました。
アテナイ・プラタイア連合軍の主力は、鎧をがっちり着込んだ重装歩兵であり、その衝撃力は大きなものでした。
対するペルシャ軍は、騎兵と軽装歩兵が主力であり、機動性に長けた軍勢だったのです。
ペルシャ軍は、数の少ないアテナイ・プラタイア連合軍が突撃してくるのを見て自殺的突進と考えたのかもしれません。
兵力に勝るペルシャ軍はアテナイ・プラタイア連合軍を正面から受け止め、中央部では押し返すほどの戦いを見せます。
しかし、アテナイ・プラタイア連合軍の重装歩兵の衝撃力は、徐々にペルシャ軍の両翼を押し込み始めます。
やがて、ペルシャ軍の両翼はアテナイ・プラタイア連合軍の重装歩兵の前についに崩れ始めます。
逃げ散っていくペルシャ軍の両翼を無視し、アテナイ・プラタイア連合軍の両翼はペルシャ軍の中央部を包み込んで行くように包囲。
これで戦いの勝敗は決まりました。
ペルシャ軍は約六千ほどの戦死者を出して崩壊。
ペルシャ本土へと撤収します。
対するアテナイ・プラタイア連合軍の死者は二百名に満たないものでした。
この大勝利は直ちに一人の兵士によってアテナイに伝えられます。
完全武装でマラトンからアテナイまで走りぬいたこの兵士は、アテナイの市民に「我ら勝てり」と伝えて絶命したと言われます。
これは後世の創作とは言われますが、この言い伝えが元になり、第一回オリンピックでのアテナイ-マラトン間走行競技が行われたのです。
今も行われるマラソン競技の始まりでした。
ちなみに距離が42.195キロになったのは、第四回ロンドン大会での競技場の都合によるそうで、それ以前は一定していなかったそうですね。
それではまた。
- 2008/03/08(土) 19:30:44|
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古今東西、戦争は人間だけで行われてきたものではありませんでした。
人間はさまざまな動物を使役して、戦争を有利に進めようとしてきたのです。
その代表的なものが軍馬であり、軍用犬であり、伝書鳩でしょう。
馬は古来から人間を乗せて騎兵として戦争に参加したり、物資や大砲などを戦場に運んだりと、戦争に使役された動物の中ではもっとも一般的なものでした。
軍用に適した馬を作るためにさまざまな改良が施され、軍の重要な兵器として扱われたのです。
私のすむ北海道は馬産地としても有名ですが、北海道が馬産地となったのも馬を兵器としてみるがゆえだったのです。
明治期後半の日本は、朝鮮半島北部や満州の野でロシアと戦争になることが予想されておりました。
朝鮮半島北部や満州は冷涼な気候の土地であり、そこで活動するためには寒冷地対策が必要でした。
寒冷地対策は軍用馬も行わなくてはなりません。
寒さに強い馬。
それを作り出すために寒冷地である北海道で馬を飼育し、寒冷地用の軍用馬にしようとしたのです。
今でも北海道が馬産地なのは、その名残と言えるでしょう。
伝書鳩もまた重要な軍用動物でした。
携帯用無線機の未発達だった第二次世界大戦以前、伝書鳩は通信手段としては非常に有用でありまた重要でした。
ただ、伝書鳩が軍用通信として大々的に使用されたのは近代に入ってからであり、第一次世界大戦がその主な活躍の場所だったようです。
第一次世界大戦ではあらゆる場所で伝書鳩が使われ、初期の戦車も無線機の代わりに伝書鳩を積むスペースを備えていたと言います。
現在でも通信機能が妨害されたときの手段として、伝書鳩を保有している軍隊もあるそうです。
軍用犬は、利用方法としては警備用や伝書鳩と同じように伝令としての通信用などが主なのですが、他にも犬を直接攻撃用に利用した国がありました。
第二次世界大戦中のソ連です。
ソ連はエンジンのかかったトラクターを用意し、その下でしか餌を与えないと言う訓練を犬に施しました。
犬は繰り返される訓練により、やがてエンジンのかかったトラクターの下に自発的にもぐりこむようになります。
そうすると今度は犬の躰に爆発物を巻きつけ、背中に起爆用レバーを立てた形で戦場に放ったのです。
犬は餌が欲しくてエンジンのかかったトラクターを探しました。
そこにやってきたのは独軍の戦車隊だったのです。
犬は餌欲しさに独軍の戦車の下にもぐりこみました。
そこで起爆用レバーが戦車の装甲版に触れ爆発。
犬もろとも戦車を吹き飛ばしたのです。
この“地雷犬”はある程度の戦果を収めましたが、独軍は犬という犬をすべて射殺するようになってしまったので、効果は早々に失われてしまったそうです。
しかし、犬が爆発すると言う事実は、独軍にとっては恐怖だったと言います。
このほかにもさまざまな動物が戦争には利用されておりますが、それらにつきましてはまたいずれ機会があれば書きますね。
それではまた。
- 2008/03/07(金) 19:22:54|
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今日は帝都奇譚をお送りします。
しばらく重点的に書いていくつもりですので、楽しんでいただければ幸いです。
23、
重苦しい沈黙が室内を支配している。
啜り泣きがあちこちから聞こえてくる。
喪服姿の人々があちこちで沈痛な表情を浮かべている。
「小夜さん・・・」
布団に寝かされ、白い布をかぶされた小夜。
「どうか、顔を拝んであげてください」
父親が白い布をそっとはずす。
「ああ・・・」
姉川久がたたみに額を擦り付けるように泣き崩れた。
「小夜さん・・・」
「真木野さん・・・」
茶道部の友人たちもみな一様に声を詰まらせる。
青ざめた顔の小夜は穏やかな表情で目を閉じていた。
白い着物を着せられ寝かされている小夜は、その眠りが永遠のものになってしまったなど信じられない。
「小夜さん・・・」
摩耶子はそっと手を合わせ、目を閉じて小夜の冥福を祈る。
ほんのちょっとしか知り合えなかったが、彼女のことは妙に心に残っていた。
電灯を背にした小夜の顔。
あれは本当にあったことだったのだろうか・・・
何かぼんやりしている。
一体何が・・・
摩耶子は意を決して立ち上がる。
そっとその場を離れると、玄関から裏庭に向かっていく。
幸い皆通夜の支度で急がしそうで、摩耶子の行動を見咎める者はいなかった。
私は何をやっているのかしら・・・
自分でも不思議に思う。
でも、確かめずにはいられない。
小夜に夕べ会ったのだとしたら・・・
会ったのだとしたら・・・?
小夜の死は私が原因だとでも?
摩耶子は首を振る。
そんなことはありえない。
心の臓の発作だと言っていた。
心の臓の発作が小夜の命を奪ったのだ。
そこに自分は関係ない。
たとえ夕べ小夜に会っていたとしても、その死には関係が無いはずだ・・・
真木野小夜の家。
今日始めて訪れた彼女の家。
なのに・・・
なのになぜ・・・
なぜ見覚えがあるのだろう・・・
摩耶子が歩く先には大きな庭が広がっていた。
真木野家は大きな武家屋敷が元になっている。
庭には池もあり、石灯籠がおいてある。
そのすべてが摩耶子の記憶にぴったりとはまるのだ。
間違いない。
私は夕べここに来たんだ・・・
摩耶子はそう思う。
そして、その思いは、障子窓が開けられた小夜の部屋が見えたときに確信に変わった。
「あれ? 摩耶子さんは?」
久が気が付くと、いつの間にか摩耶子の姿が見えなくなっていた。
「さっき出て行ったようですわ」
「お手洗いにでも行ったのではありませんか?」
茶道部の友人たちが教えてくれる。
「それにしては遅くない?」
「そうですわね。出て行かれてからもうかなり経ちますわね」
久は壁にかけられた時計に目を移す。
すでに時間は夕方の6時過ぎ。
そろそろお坊様がお経を上げに来るはずだ。
久は立ち上がった。
また無理をして気分が悪くなったのかもしれない。
だとしたら大変だ。
とりあえずどこにいるのか探しておこう。
久はそう思ったのだった。
「あ・・・れ・・・?」
目を覚ます摩耶子。
額には濡れた手ぬぐいが置かれ、いつの間にか制服のまま布団に寝かせられていたのだ。
「目が覚めましたか?」
「月子・・・さん?」
隣には心配そうな表情で摩耶子をうかがっている月子がいる。
「ここ・・・は?」
上半身を起こす摩耶子。
庭から見えた小夜の部屋が、あの記憶とぴったり当てはまったことを理解してからの記憶がない。
「ここは鷹司のお屋敷ですよ。あなたは真木野家で気を失われたそうで、姉川様と言うお嬢様がお知らせくださったのです」
月子は摩耶子の額から落ちた手ぬぐいを拾い、洗面器の水に漬ける。
「そうでしたか・・・また姉川さんにご迷惑をおかけしてしまった・・・」
「貧血のようですね。こういったことはしょっちゅうあるのですか?」
手ぬぐいを絞って摩耶子に手渡す月子。
摩耶子はそれを受け取り、額と首筋に浮かんだ汗をぬぐっていく。
「いいえ、この数日です。どうも躰の調子が思わしく無く・・・」
「躰の調子がですか? いけませんですね。勉強に根を詰めすぎなのではありませんか?」
手ぬぐいを摩耶子から受け取り微笑を向ける月子。
仕事とはいえ、こうして知り合った娘さんと仲良くできるのはうれしいもの。
だからこそ、躰のことも気にかけてしまう。
「そんなことは・・・それよりも・・・」
「それよりも?」
脇においておいたりんごの皮をむき始める月子。
「私・・・昨夜・・・おとなしく寝ていたのでしょうか?」
その手が摩耶子の言葉に止まる。
「おとなしく寝ていなかったのではないかと?」
月子の目が鋭くなる。
「わかりません。ただ・・・」
「ただ?」
「真木野さんの家に行ったような・・・」
「今日お通夜のあったお宅ですね?」
摩耶子はこくりとうなずいた。
「真木野さんの家に行って何かをしたのですか?」
「わかりません・・・小夜さんに会ったのだと思います」
「小夜さんというのは亡くなられたお方?」
「はい・・・」
月子は何か考えつつ皮むきを再開する。
「はい、召し上がれ」
皮と芯をきれいに取り除かれたりんごを皿に載せて差し出す。
「ありがとうございます」
摩耶子がりんごを食べ始めたとき、月子はそっと摩耶子の額に手を当てた。
何も感じられない・・・考えすぎか?
でも・・・
「熱は無いようですね。りんごを食べたらおやすみなさい。私は部屋で待機しますので」
「はい。ご迷惑をおかけしました」
「迷惑なんてとんでもないですわ。ゆっくり休んでくださいね」
月子はそう言って部屋を出る。
その表情は硬かった。
- 2008/03/06(木) 19:20:13|
- 帝都奇譚
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