久しぶりに軍艦ネタを一つ。
日露戦争前後に装甲巡洋艦として計画された「金剛」級は、その後高速の巡洋戦艦として英国で建造されました。
そしてのちに高速戦艦として太平洋戦争に参加するのですが、それはまた別の話。
この巡洋戦艦金剛が日本にもたらした英国の造船技術は、当時の日本にはやはり驚異的なものでした。
この金剛がもたらした英国技術を日本が消化し、日本独力で建造した日本最初の超ド(弩)級戦艦(英語で言えばスーパードレッドノート:ドレッドノートを超える戦艦ということです)が戦艦「扶桑」(二代目:初代は明治期に装甲フリゲートとして就役)でした。
扶桑とは日本の別名であり、海軍が多大な期待をかけていたことがうかがえますが、その期待にたがわぬ重厚強力な戦艦として扶桑は建造されました。
大正四年(1915年)十一月に竣工した戦艦扶桑は、当時世界最強クラスだった巡洋戦艦金剛の35.6センチ主砲を二連装砲塔六基計十二門も備え(金剛は二連装四砲塔計八門)砲力を増大させた上、水線では300ミリを超える装甲を張り巡らし、四万馬力にも達する機関で速力も仮想敵国であるアメリカの戦艦よりも優速な22.5ノットを発揮することができました。
重武装重防御を施した扶桑は、その結果常備排水量(戦闘時を想定した排水量で、弾薬四分の三、燃料四分の一、水二分の一を搭載した状態での重量)で三万六百トンにも達し(基準排水量では二万九千三百トン)、世界の軍艦史上初めて三万トンを突破した軍艦となりました。
完成当時の扶桑は、紛れもなく世界最大最重武装の戦艦だったのです。
しかし、時代の流れは容赦なく扶桑にも降りかかります。
戦艦も高速化重武装重防御化が瞬く間に進み、22.5ノットの最高速力ではもはや低速艦の烙印を押されてしまう時代となっていきます。
そこで海軍は扶桑の戦艦としての価値を高め、寿命を延ばすために近代化改装を行います。
第一次、第二次の二つの近代化改装を行った扶桑は、艦容も一新し、主砲の仰角も最大30度から最大43度にまで上を向くように変更され射程が三万メートルを超えるまでになりました。
しかし、六基もの砲塔を搭載した弊害で、機関部の増設が思うに任せず、七万五千馬力にまでアップされたものの最大速力は24.5ノットにとどまってしまい、結局太平洋戦争に参加した日本戦艦の中では最低速になってしまいました。
太平洋戦争に参加した扶桑は、今述べたように日本戦艦群の中では最低速だったために、同型艦山城とともにあまり出番に恵まれませんでした。
昭和十九年(1944年)十月二十二日。
フィリピンに来襲する米軍を迎え撃つために、レイテ湾の米軍艦隊を撃滅するべく同型艦山城とともに西村祥治中将指揮の下レイテ湾に向かいます。
本来なら栗田健男中将率いる戦艦隊と合同で行動したかったのですが、やはり低速ゆえに艦隊行動に支障をきたすため別行動となったのです。
十月二十三、二十四の両日、栗田艦隊は米軍潜水艦や航空機の攻撃で戦艦武蔵以下巡洋艦四隻などの大損害を受けますが、扶桑のいる西村艦隊は別ルートを通っていたので無事でした。
そして、日付が変わった昭和十九年十月二十五日午前二時ごろ。
栗田艦隊とは別のスリガオ海峡からレイテ湾に突入しようとした西村艦隊は、待ち構えていた米軍の魚雷艇及び駆逐艦部隊に相次いで襲撃を受けます。
かつては夜戦は日本海軍のお手の物でしたが、この時点ではレーダーなどの装備技術の差が歴然としてきておりました。
扶桑は駆逐艦や魚雷艇の攻撃に翻弄され、なすすべもなく魚雷四発の命中を受けます。
魚雷の爆発は扶桑の艦内の弾火薬庫の誘爆をもたらしました。
一瞬後、大音響とともに船体が真っ二つに割れた扶桑は、瞬く間に轟沈したそうです。
生存者は誰一人いませんでした。
日本の別名を付けられるほど期待されて建造された扶桑は、確かに完成当時は世界最大の戦艦でしたが、機関配置や主砲一斉発射時の爆風問題などまた問題の多い戦艦でもあったようです。
老朽で一時期は候補生実習艦にもなっていた扶桑が、このような突入作戦で轟沈という最後を迎えたことは、扶桑にとっていい死に場所を得たとみるべきなのか、それとも哀れな最後とみるべきかは意見が分かれるところかもしれませんね。
それではまた。
- 2008/02/05(火) 19:48:08|
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