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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

赤い彗星ではありません

ガンダムを詳しく知らない方でも、「赤い彗星シャア」の名前は聞いたことぐらいはあるかもしれませんね。
それほどまでに有名な彼のモデルというか、シャアというキャラクターのデザインの元となったであろう人物がおります。

マンフレート・フォン・リヒトホーフェン。
航空機というものが戦争に使われ始めた第一次世界大戦における、ドイツ帝国の有名なエースパイロットの一人です。

最終撃墜機数は八十機。
大量生産され、数多くの航空機が投入された第一次世界大戦とはいえ、のちの第二次世界大戦に及ぶはずもなく、第一次世界大戦でのこのスコアはおそらく大戦トップではないかと思われます。

もともと彼はフォンの称号を持つプロイセン貴族の子息として、現在のポーランド領で1892年に生まれます。
父親が騎兵将校であったために、幼いリヒトホーフェンも乗馬や狩猟に興味があり、馬に乗って獲物を追いかけておりました。

陸軍幼年学校から士官学校を経て、父と同じ騎兵将校となったリヒトホーフェンでしたが、おりしも始まってしまった第一次世界大戦では、騎兵には華々しい戦闘のチャンスはありませんでした。
塹壕に篭っての退屈な日々に、青年リヒトホーフェンはたびたび空を見上げ、そこを飛んでいく航空機に心惹かれて行くことになります。

リヒトホーフェンはついに航空部隊への転属を申し出て、割とすんなりと認められました。
航空機の中でも偵察機隊は騎兵の延長と見られていたらしく、騎兵将校だったリヒトホーフェンは、偵察機隊への転属はさほど問題なく受け止められていたのだそうです。

戦争二年目の1915年、偵察機乗員として空に舞い上がったリヒトホーフェンでしたが、わくわくする敵機撃墜という瞬間にはめぐり合うことができませんでした。
複座機の旋回機関銃では敵機を撃墜できるまでの銃弾を浴びせかけることは難しかったのです。
狩猟をたしなんでいたリヒトホーフェンにとっては、敵機を撃墜できない偵察員としての任務はつまらないものでした。

そんな時、リヒトホーフェンは一人の人物と出会います。
ハウプトマン・オズワルド・ベルケ。
戦闘機隊の有能な戦闘機乗りでした。
彼に出会ってリヒトホーフェンは戦闘機乗りになろうと決心したのです。

1916年。
戦争三年目にしてリヒトホーフェンは、航空機操縦手としての試験に合格。
晴れて戦闘機パイロットになることができました。

このころドイツでは、協商国軍の優秀な戦闘機隊に対抗するべく、新型で性能のよいアルバトロスDⅡ戦闘機を中核にした戦闘機部隊が編成されておりました。
この部隊の指揮官だったベルケが、リヒトホーフェンに目をかけ、戦闘機隊に引き込みます。

戦闘機隊に配属されたリヒトホーフェンは、アルバトロスDⅡの優秀さにも助けられて、着々と撃墜機数を増やし始めます。
彼を誘ってくれたベルケが僚機との空中衝突という事故で亡くなったのは大きな痛手でしたが、持ち前の狩猟家としての精神が彼を十機撃墜のエースに押し上げます。
1916年11月のことでした。

英国のエース、ホーカー少佐をも撃墜したリヒトホーフェンは、一躍有名となって一つの部隊を任せられます。
さらにドイツ軍の勲章プール・ル・メリート勲章も与えられ、輝かしい時期を迎えました。

当時の航空機戦では、迷彩塗装にあまり意味を見出せなかったらしく、かえって指揮官である自分は目立つことによって敵機をひきつけ、部下も自分を見つけやすくしたほうがいいのではないかと考えたリヒトホーフェンは、自分の乗る搭乗機を真っ赤に塗装することにします。
今に伝わる「レッドバロン(赤い男爵)」伝説の始まりでした。

機体を真っ赤に塗ったリヒトホーフェンの話は、たちまちのうちに協商国軍パイロットの間で噂となりました。
当然誰が乗っているか知る由もない彼らは、きっと赤い機体だから女が乗っているに違いないと噂し、「ラ・プチ・ルージュ(小紅ちゃん)」とあだ名するようになります。
ところが、この小紅ちゃんは空戦では無類の強さを発揮し、協商国軍機は次々と落とされていきました。

このため、ドイツ側の宣伝もあり赤い機体に誰が乗っているのかを知った協商国軍パイロットは、こんどはあだ名を小紅ちゃんではなく、「ディアブル・ルージュ(赤い悪魔)」「レッドバロン(赤い男爵)」と呼ぶようになっていきます。

ただ、リヒトホーフェンはやはり狩猟家としての精神が強かったようで、撃墜したり強制着陸させた敵機の一部を持ち帰ったり、わざと彼に気が付くように仕向けたのちに散々追い回してから撃墜するといったような面も見られ、彼の残虐な一面を見せるものでもありました。

ですが、部下は彼を敬愛し信頼しておりました。
そのため、隊長であるリヒトホーフェンの機体だけが赤く塗られていたのでは、敵の的にされてしまうということで、部隊全機が彼と同じように赤く塗られることになります。
やがて赤い機体を駆って空を飛び回る彼らは、いつしか「リヒトホーフェンサーカス」と呼ばれるようになり、協商国軍パイロットにとっては疫病神のような存在として恐れられるようになりました。

しかし、好事魔多し。
1917年6月、まぐれ当たりの敵弾が彼の頭部に命中します。
幸い命は助かったものの、それ以後の彼は後遺症に悩まされるようになったといいます。

新型機フォッカーDr1を受け取ったリヒトホーフェンは、再び空に舞い戻ります。
この新型機は写真などでも有名な三枚の翼を持つ三葉機であり、速度は速くなかったものの、旋回性能は抜群で格闘戦には圧倒的な強さがありました。

だが、アメリカの参戦により勢いづく協商国軍は、次々と新型機を大量に投入。
リヒトホーフェンサーカスの撃滅に躍起になります。
部下たちが次々に撃墜されていく中で、戦争五年目の1918年3月にはついに八十機撃墜を達成。
しかし、もはや彼の気力も体力もぼろぼろでした。

静養を勧められたリヒトホーフェンは、素直に忠告を受け入れて静養することにします。
そして、その静養を目前に控えた1918年4月21日、彼は帰らぬ人となりました。

ソンム川の上空を偵察飛行に出ていた彼の部隊は英国軍戦闘機隊と交戦。
地上からはオーストラリア軍の対空砲火が上がる悪条件の中、彼はついに機体を制御できなくなり地面に墜落、戦死したのです。
公式にはブラウン大尉の戦闘機による撃墜となっておりますが、オーストラリア兵による対空砲火によるものとも言われており、リヒトホーフェン撃墜は謎に包まれたものでした。

リヒトホーフェンの戦死はドイツ軍協商国軍いずれのパイロットにとっても悼まれました。
葬儀は何と撃墜した英国軍が行ったのです。
数多くの協商国軍パイロットが参列したといいます。

三倍の速度は出せませんが、赤い機体を駆って敵軍の心胆を寒からしめたリヒトホーフェンの名は、今なおドイツ空軍の第71戦闘航空団「リヒトホーフェン」に受け継がれ、その伝説を世にとどめているのです。

それではまた。
  1. 2008/01/09(水) 19:24:33|
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Author:舞方雅人
(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
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