1943年。
シシリー島に米英軍が上陸し、クルスクでは史上最大の戦車戦が行なわれ、ドイツ軍は戦局の転換点を迎えておりました。
折りしも、ルール工業地帯には米英軍の爆撃機が昼間夜間を問わずに爆撃にやってくるようになり、ドイツの生産力を低下させようと躍起でした。
その爆撃目標は、ルール工業地帯だけにとどまらず、ベルリン近傍の工場群にも爆撃が行われるようになり、ドイツ軍の戦闘車両を造っていたアルケット社の工場も11月26日の爆撃によって、工場施設の大半を破壊されてしまいます。
アルケット社では、幾種類もの戦闘車両を造ってはおりましたが、中でも重要だったのが、歩兵支援用から対戦車用に様変わりした自走砲である三号突撃砲でした。
前線では欠かすことのできない兵器となった三号突撃砲が、アルケット社の工場の壊滅で造れなくなってしまったということは、ドイツ軍にとってはまさに死活問題でした。
そのため、ヒトラーもこの問題を憂慮して、四号戦車の車台に三号突撃砲の戦闘室部分を乗っけるという、ある意味存在意味の不明瞭な四号突撃砲を作らざるを得なくなりました。
しかし、これだけでは三号突撃砲の穴埋めはできません。
それどころか四号戦車の生産を阻害しかねません。
そこでチェコのBMM社にも三号突撃砲の生産を依頼することにします。
BMM社は、マーダーⅢ対戦車自走砲を生産していましたが、防御力の貧弱な対戦車自走砲よりも突撃砲のほうが能力的にも上であったので、この決定は妥当なものと思われました。
しかし、BMM社は自社工場の能力から言って、三号突撃砲を生産する能力は無いと突っぱねました。
ですが、ただ突っぱねただけではなく、より小型で三号突撃砲と同程度の能力を持つ対戦車車両を代替提案します。
それは、傾斜装甲に囲まれた戦闘室に49口径の75ミリ対戦車砲を搭載した小型駆逐戦車で、BMM社で生産していた38(t)型戦車のコンポーネントなどを極力流用できるものでした。
兵器局はこの申し出を了承し、BMM社は1944年1月には設計を終了。
試作車は1944年3月に完成し、傾斜装甲に囲まれた精悍な形の駆逐戦車としてお披露目されました。
できあがった試作車は優秀な成績を収め、すぐに量産にまわされます。
BMM社だけではなく、スコダ社にも生産をさせることにして、大量産が命じられました。
駆逐戦車は「ヘッツァー」と前線兵士から呼ばれ、三号突撃砲同様対戦車兵器として欠くことのできない車両となりました。
そのスタイルのよさからファンも多いヘッツァーですが、わずか一年という期間で三千両という数が造られるほどの生産性のよさも特筆すべきものでしょう。
1944年中盤から1945年5月のドイツ敗戦の日まで、ヘッツァーはパンターや四号戦車、三号突撃砲とともにドイツ軍の一翼を担って戦い続けたのです。
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それではまた。
- 2007/10/24(水) 21:30:39|
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