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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

ノモンハン7

訂正:ノモンハン6の記事中に、ソ連の友邦国である内蒙古含むという部分がありましたが、友邦国である外蒙古含むの誤りでした。
お詫びして訂正させていただきます。
(記事は修正しました)


ネルチンスク条約によって規定されていたロシアと中国(清朝)の国境線でしたが、ソ連はロシアを、満州国は中国をそれぞれ引き継ぐような形で、国境線については認識されておりました。

しかし、この国境線があいまいなものであることは今までも述べたとおりであり、特にソ連と接する満州国東北側国境と、ソ連の友邦国外蒙古(モンゴル人民共和国)と接する満州国西部ホロンバイル草原は国境線があいまいで、国境を示す境界標自体が少なく、またその境界標も勝手に動かされる有様であり、国境守備隊にとっても頭痛の種だったのです。

そのため、両軍の国境守備隊が、知らずに相手の主張する国境を越えてしまい、越境として攻撃を受ける。
そんな事態が数多く起こっておりました。

それでも、満州事変により満州国が成立した昭和7年(1932年)から、昭和9年(1934年)までの間は二年半で152件。
越境の規模も一人二人から数人が越境し、小銃を撃ち合う程度のものでした。
ところが、昭和10年になると、国境紛争が激増します。
わずか一年の間に136件。
しかもその中には、関東軍が騎兵集団を出動させた満蒙国境での「ハルハ廟事件」が含まれました。
これは国境紛争が激化の一途をたどり始める最初の例です。

さらに昭和11年(1936年)には203件の国境紛争があり、その中には関東軍が航空機と機械化部隊まで投入した「タウラン事件」「オラホドカ事件」など、大きな事件も含まれます。

こうした中、日本も決して手をこまねいていたわけではなく、日本政府はソ連に対して、日満ソ三ヶ国による国境紛争防止のための三国委員会設置が提案されています。
しかし、日本側がこれを機にソ連に実質的な満州国承認をさせようと目論む(国境線が決まるということは、相手を独立した国家だと認めることになる)のに対し、ソ連はあくまで満州国承認を拒むためにすでに国境線については中国(清朝)と確定済みとの態度を崩さなかったため、交渉は暗礁に乗り上げます。
結局、国境紛争に関してはそのつど、交渉で決するよりほかありませんでした。

そんな中、昭和12年(1937年)についに「カンチャーズ(乾岔子)事件」が発生します。
これは、ソ満の北部国境である黒竜江に浮かぶ小島が舞台でした。

黒竜江の中に浮かぶカンチャーズ島を含むいくつかの小島に、日満人が上陸したとして、ソ連側から満州国に抗議があったのが2月頃でした。
しかし満州国側はなんら手を打たなかったのか、ソ連側が埒があかないとみて、少数のソ連兵が上陸、実力で国境を保持しようとします。

それに対し、関東軍は一個師団を現地に派遣、ソ連軍を威嚇しました。
ソ連軍も黒竜江に砲艦や砲艇部隊を集め、関東軍ににらみを利かせます。
両軍はまさに一触即発の状態での対峙となりました。

驚いたのは日本本土です。
このままでは大規模軍事衝突になると考えた陸軍中央部である参謀本部は、カンチャーズ島などという小島は国力を傾注して争うようなものにあらずとして、事件の不拡大を図り、解決は外交交渉によるものとして、関東軍に自重を求めます。
しかし、現地の関東軍はこのような参謀本部の考えを弱腰と感じ、ソ連に一撃をすべしとしてソ連軍の砲艦を一隻撃沈してしまいました。

結局この事件はソ連側の譲歩によって事なきをえますが、現地軍に対する参謀本部の統制力の弱さを表わしたものとなったのです。

そして、翌昭和13年(1938年)「張鼓峰(ちょうこほう)事件」が発生します。

ソ連、満州、朝鮮の国境が入り組む満州東部は以前から国境線が不明瞭であり、いくつもの国境紛争が起きているところでした。
その一画、張鼓峰という標高150メートルほどの丘陵がこの事件の中心となります。

この近辺の丘陵は日ソ双方が満州事変以後お互いに取ったり取られたりという状態でしたが、昭和13年7月11日、約40名のソ連軍兵士が張鼓峰頂上付近に陣地の構築を始めたのです。

すでに日華事変以後の中国との戦争に入っていた日本は、この程度のことは無視してソ連と事を構えるつもりはありませんでした。
事実、この近辺の防備を担当する朝鮮軍(日本の朝鮮方面軍という意味)司令官小磯国昭(こいそ くにあき)大将は大本営(陸海軍を統率する部署。戦時に置かれるが、日華事変=日中戦争で昭和12年11月に設置)に対し、軍事行動は控える旨を表明しておりました。

しかし、大本営内部でもこの際ソ連が日中戦争に介入してくるつもりかどうかを確認する意味でも、ソ連と限定的戦闘を行い国境より排除するという考えを持つ者がいました。
さらには関東軍も張鼓峰に参謀を派遣し、ソ連に対して攻撃を主張するものが現れます。

そこで大本営では限定戦闘を本格的戦争に発展させないことを条件に、現地の第十九師団のみを使用するのであれば認めるという態度にでます。
そして、対外的な軍事行動に必要な天皇陛下のご裁可を得るために参内するのですが、外務省、海軍、そして何より天皇陛下ご自身がこれに反対。
結局、参謀本部は作戦行動の中止を命じました。

この命令は現地の第十九師団長尾高亀蔵(おだか かめぞう)中将には不満でした。
目の前でソ連兵が跳梁跋扈しつつある現在、師団としては断固これを撃滅したくなるのは当然のことだったかもしれません。
しかし、大局というものは目の前の出来事だけで計れるものではありません。
尾高中将は歯を食いしばりながらでも撤退するべきでした。

第十九師団の撤退が始まった7月29日、ソ連兵はその鼻先で張鼓峰北方沙草峰(さそうほう)の山頂にまで陣地を築き始めます。
尾高師団長は、これは張鼓峰での一件とは別物であると断じ、朝鮮軍司令部にもその旨を通達。
朝鮮軍司令部も大本営も沙草峰は別個として考慮することを了解するものの、師団が戦闘に入ることは禁じます。
しかし、尾高師団長はこれを無視。
独断で師団に攻撃命令を下しました。

7月31日、第十九師団の一個連隊が張鼓峰付近を占領。
後退したソ連軍は、8月2日になって航空機、戦車、重砲の支援の下で反撃に出ます。
単なる歩兵師団である第十九師団はたちまちのうちに苦境に陥ることになりました。

損害重なる第十九師団は厳しい状況に追い込まれますが、大本営は撤退など認めることはできませんでした。
全滅必至と思われた第十九師団でしたが、この状況を救ったのは日ソの外交交渉でした。
外務省の重光葵(しげみつ まもる)駐ソ大使とソ連のリトビノフ外相との間で停戦交渉が成立したのです。
ソ連側有利の状況でしたが、国際世論がソ連側によくない反応を示し始めていたので、ソ連としても引かざるを得なかったのでした。

結局第十九師団は20%という損害を受け、全滅に等しい被害を受けました。
一師団長の独断は師団の壊滅という事態を生んだのです。
しかし、尾高師団長の独断は不問に付されました。
限定戦闘を主張した参謀も朝鮮軍に戦闘を進言した参謀もなんら責任を問われませんでした。

そして、この張鼓峰事件は関東軍と参謀本部に異なった見解を受け付けてしまいます。
参謀本部は国境紛争については出来るだけ外交交渉で解決し、軍事力の行使を控えようという、きわめて健全な思考を持つに至りますが、関東軍は国境を侵されても逡巡する参謀本部を及び腰と考え、参謀本部は頼りにならず、おのれの実力でソ連軍を打ち砕くのみと考えるようになるのです。

しかも、両者に共通して言えたのが、この事件によってもたらされたソ連軍の実力を検討することをまったくしなかったということでした。

かくしてノモンハンの悲劇は満州の野に醸成されていくことになるのです。

その8へ


明日から四日間連続でSSを一本投下します。
たいしたものではありませんが、楽しんでいただけると嬉しいです。
  1. 2007/08/01(水) 19:30:35|
  2. ノモンハン事件
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Author:舞方雅人
(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
どうぞ楽しんでいって下さいませ。

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