関東軍高級参謀であった石原莞爾中佐は、これからの戦争は国民全てが戦争に参加する国家総力戦であり、陸海空一帯の立体的戦争であるという、当時としては先進的な考えの持ち主でした。
その上で、いずれは日本とアメリカが世界を二分する大戦争を戦うこととなり、それが世界の帰趨を決める世界最終戦争になるという考えの持ち主でした。
しかし、そのためには日本が人口や食料、資源などの諸問題について解決することが必要であり、その解決策としては満州及び蒙古、いわゆる満蒙を日本の領土としてその広大な土地を活用することがもっともいいと考えるようになります。
満蒙はもともと漢民族の土地ではなく、そこに住む人々も漢民族よりはむしろ大和民族に近く、日本が満蒙を領有し治安維持と開発を行なうことによって、満蒙と日本はともに発展することができる。
そういうある意味身勝手な考えを持ったのです。
石原中佐の満蒙領有論は関東軍の上層部に受け入れられ、関東軍はいずれ満蒙を領有することこそ日本のため、ひいては陛下の御ためにもなることと歪んだ考えを持つようになります。
折りしも昭和6年(1931年)6月、対ソ連作戦の兵要地誌作成のためひそかに満州奥地に潜入していた中村震太郎(なかむら しんたろう)大尉と井杉延太郎(いすぎ のぶたろう)予備役曹長の二人が、中国第三屯墾軍にスパイとして捕らえられ殺害されるという事件が起きました。
いわゆる中村事件です。
石原中佐ら関東軍上層部は、この事件を契機に満蒙を武力で制圧し、日本領にしてしまうという事を考えました。
関東軍の考えを知らされた陸軍中央部は、終始弱腰であり、武力行使には反対したものの積極的中止命令を出すようなことはしませんでした。
一方中国側は関東軍の強硬な態度に驚き、殺害犯を調査して引き渡すことも視野に入れた交渉を求めましたが、すでに行動に入ろうとしていた関東軍には通じませんでした。
昭和6年(1931年)9月18日。
奉天(現瀋陽)の近く柳条湖(りゅうじょうこ)付近の満鉄の線路が爆破されました。
爆破と同時に付近の関東軍鉄道守備隊は攻撃を受け、中国軍による破壊活動であると思われました。
関東軍は直ちに出動態勢を整え、奉天を急襲します。
奉天は張学良の指示もあり無抵抗を決めたので、関東軍は難なくこれを制圧。
市内全域を掌握しました。
鉄道線路が爆破されたことを知らされてからの行動としてはあまりに手際がよすぎる奉天制圧でしたが、それも道理であり、爆破自体が関東軍の自作自演によるものでした。
張作霖の爆殺に続いて関東軍はまたも謀略を使ったのです。
関東軍主力による都市攻撃という異常事態に政府は震撼し、事件の不拡大を内外に声明として発表しましたが、陸軍中央部は「武力行使は必要最小限にとどめること」とだけ訓令し、ほぼ関東軍の行動を黙認してしまいます。
関東軍は“自衛のための必要最小限の武力行使”により、9月21日には吉林を占領。
錦州への爆撃で錦州を拠点としていた張学良を威圧し、11月18日にはチチハルを占領。
軍事力によって満州に支配地域を広げて行きます。
年が明けた昭和7年(1932年)1月3日には錦州も占領。
2月5日、ハルビンを占領。
これで満州のほとんどは関東軍の制圧下に置かれました。
この間、日本政府はなすところ無く、国際連盟による中国からの撤兵勧告も拒否権を発動して無視します。
石原中佐ら関東軍上層部は、当初満州を日本の直接統治下に置こうと考えていましたが、さすがにそこまではと陸軍中央部が反対。
替わりに清朝の廃帝愛新覚羅溥儀(あいしんかぐら ふぎ)を首班とした親日政権を樹立させ、落ち着いたところで将来的に日本に併合するということにします。
溥儀は再び皇帝となれるならと、しぶしぶながらも日本の申し出を受け、満州に向かいました。
昭和7年(1932年)3月1日、満州国建国が宣言されます。
3月9日、溥儀は満州国執政の位置につき、満州国が動き始めました。
皇帝となるはずだった溥儀でしたが、まずは執政として国家元首となったのです。
満州国は、漢民族・満州民族・朝鮮民族・蒙古民族・日本民族を五族として、その一体融和を目指す五族協和と王道楽土を唱え、国旗も五族が一体であるという五色旗を掲げるという、建前としては(あくまで建前としては)立派な理念を持った国家でした。
しかし、実態は日本の傀儡国家であり、日本人と他の人種の方々とは明らかに差別されておりました。
9月15日、日満議定書が交わされ、日本は満州国を正式に国家として承認しました。
ここに、満州国建国までの一連の事件である「満州事変」は終了します。
日本はまた新たな問題を抱えることとなりました。
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- 2007/07/24(火) 21:03:30|
- ノモンハン事件
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