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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

大和と武蔵

表題をご覧になった方は、おそらくかなりの方が日本の旧地域名よりも日本海軍の軍艦を頭に思い浮かべたのではないでしょうか?

当ブログにご訪問いただいている方であれば、より一層その傾向は強いかもしれないですね。

さらに、日本海軍の軍艦を思い浮かべた方々も、おそらくは99%以上の方が太平洋戦争で悲劇的な最期を遂げた大型戦艦の一番艦二番艦を思い浮かべたのではないでしょうか?

もちろん、あの巨大戦艦も大和と武蔵ではありますが、大日本帝国海軍の軍艦としては二代目以降の名前であり、初代の大和と武蔵では無いのです。

大日本帝国海軍の軍艦としての初代大和と武蔵は、明治期にさかのぼります。

明治20年と21年、大和と武蔵は「葛城」級三檣(三本マスト)バーク型スループとして就役します。
つまり、大和がネームシップではなかったんですね。

全長は61メートル、幅10メートル、常備排水量1500トンの、当時としては中型艦でした。
基本は帆走でしたが、レシプロの蒸気機関を持ち、最大速力13ノットを出せたそうです。

主砲は17センチ単装砲2門。
副武装として12センチ砲2門(葛城のみは5門)、7.5㎝砲1門、25ミリ四連装砲4基、11ミリ三連装砲2基。

日清戦争では主力とはなりえなかったものの、有力な第二線艦隊の中心として活躍したそうです。

その後、日露戦争直前に帆走用の装備を撤去。
気走のみとなって三等海防艦に類別。
日露戦争にも参加しますが、さしたる戦歴はありません。

大正期に入ると、大和と武蔵は二等海防艦に類別を変更されますが、ネームシップの葛城は大正2年に除籍となりました。

大和と武蔵は使い勝手の良い艦だったのか、大正11年には揃って測量艦に類別変更され、更なるご奉公に励みます。

武蔵は昭和3年、大和にいたっては昭和10年まで測量艦として働き、なんとその後は司法省に移管され、終戦直後まで宿泊船として使われました。

大和と武蔵という軍艦には初代もあったんだということを、知ってもらえればと思いました。

それではまた。
  1. 2007/06/19(火) 21:34:48|
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Author:舞方雅人
(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
どうぞ楽しんでいって下さいませ。

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