ジョージ・ブリントン・マクレラン。
「南北戦争の問題児」と評価されることもある北軍の将軍ですが、実際彼ほど毀誉褒貶の激しい人も珍しいかもしれません。
しかし、いろいろと言われても、北軍という巨大軍事組織を組織化して運営することができたのは、ひとえにマクレランの功績と言っていいでしょう。
新兵の教育、兵站の確立、いわゆる参謀本部と呼ばれるものの構成。
どれをとってもマクレラン以上に北軍を組織化することのできた人はいなかったと言ってもいいかもしれません。
彼の不幸はその組織化した軍隊を戦わせる時の指揮能力に問題があったということでしょう。
ともかく、ブル・ランの戦い以後、リンカーンの指示により、北軍は三年間契約の兵士を四十万集めるという、一大軍備増強に励みます。
北軍の名目上の総司令官はアナコンダプランを提出したスコット将軍でしたが、彼はもう七十歳を超えた老人であり、実戦での指揮など取れるはずもなく、実質上はマクレランが北軍総司令官と言ってもいい位置におりました。
マクレランは北軍の兵士を訓練し続けると同時に情報の収集にも余念がありませんでした。
彼は鉄道会社の社長をしていた時期に知り合った有名なる探偵、アラン・ピンカートンを使って情報収集に努めていたのです。
アメリカでは知らぬ者の無いほど有名なピンカートン探偵社創立の人アラン・ピンカートンは、情報収集のプロとして、マクレランにさまざまな南軍の情報をもたらします。
それは南部諸州同盟政府にまで入り込んだスパイなども駆使した有力なものでしたが、致命的な弱点がありました。
ピンカートンは情報を鵜呑みにしたのです。
ある村人がその村を南軍の部隊一万人が通過したと言います。
またある脱走兵が、俺の部隊は一万人いたと言ったとします。
情報を収集する者は、これらを精査しなくてはなりません。
もしかしたら、村人と脱走兵は同じ部隊のことを言っているかもしれないのです。
しかし、ピンカートンはそうは思いませんでした。
南軍部隊は二万人いると決め付けるのです。
本当は一万人しかいないはずの南軍は、こうして地図上に倍の戦力をもってあらわされることになります。
ピンカートン情報を基にして作戦を立てるマクレランもそのスタッフも、終始南軍は自分たちよりも優勢だと信じて疑いませんでした。
そのため、マクレランはただただリンカーンに兵員増強を願い出て、訓練ばかりに明け暮れます。
敵を攻撃するには、敵より多い兵力を整えることが第一です。
敵より少数で敵を攻撃しても勝てるはずがありません。
マクレランはその軍事上の常識をただただ律儀に守ろうとしていたのです。
しかし、リンカーンには政治的思惑などもあり、いつまで立っても軍勢を動かさないマクレランに痺れを切らします。
1862年2月。
ついにリンカーンは戦時一般命令第一号を発します。
つまり大統領命令です。
2月22日のジョージ・ワシントン誕生日かそれ以前に軍勢を動かせというこの命令により、マクレランはやむを得ず南軍首都リッチモンド攻略に向けて動き出します。
と、言っても、ブル・ラン(マナサス)周辺に陣取っている南軍と直接戦うことは彼には考えられないことでした。
戦闘というものは、例えそれが小競り合いであったとしても、彼が手塩にかけて育ててきた兵士たちを傷つけ殺してしまいます。
彼は戦闘というものがとにかくいやでした。
軍人である以上戦わねばならないのですが、彼はできるなら戦闘はしたくなかったのです。
そこで彼はチェサピーク湾に突き出したヨークタウン半島の先端にあるモンロー要塞の近辺に、海路軍勢を送り込み、そこから半島を北上して、半島の付け根にあるリッチモンドを攻略するという作戦を立てます。
モンロー要塞はリッチモンド近辺にありながらも北軍が保持していた要塞であり、そこからならば、ブル・ラン(マナサス)近辺の南軍に邪魔されずにリッチモンドへ向かえると判断したのです。
マクレランはこの作戦にポトマック軍(ワシントン近辺の北軍の軍勢を一つの軍組織にまとめたもの)のほぼ全力を投入することを考えておりました。
兵力は集中して使うべきであり、数の力を発揮することができるからです。
たとえワシントン周辺が手薄になっても、リッチモンドの危機を南軍が放っておけるはずもなく、ワシントンへ南軍が向かうことはできないとも考えました。
しかし、この作戦にリンカーンは難色を示します。
全軍を率いて行くのはさすがにやめてほしいとリンカーンはマクレランに命じました。
万万が一、ワシントンが攻撃を受けるようなことがあれば、政治上それは敗北と取られかねないからです。
マクレランは南軍がそんなことはできるはずは無いと思いましたが、大統領の命令には逆らえません。
やむを得ず彼は一部の部隊を残して行くことにします。
ちょうどこの頃、チェサピーク湾ハンプトンローズでは、ヴァージニア対モニターの海上戦闘があり、北軍はどうにかチェサピーク湾の制海権を保持します。
マクレランは今が好機とばかりに軍勢に乗船を命じ、モンロー砦に向けて出港しました。
続いて第二陣として出港しようとしていた北軍マクドゥウェル部隊(ブル・ラン戦の司令官・今は軍団長に格下げ)でしたが、思わぬ命令が届きます。
出港停止です。
リンカーンと陸軍長官スタントンが調べたところ、マクレランがワシントン防備に残して行く軍勢があまりにも少ないことに気がついたリンカーンが、ついにマクレランの頭ごなしにマクドゥウェル部隊の出港を取りやめさせたのです。
チェサピーク湾を渡り、ヨークタウン半島の先端モンロー要塞の近くに無事上陸したマクレランは、第二陣が届かないと知り唖然とします。
ただでさえ戦いたくなかったマクレランは、これでほぼやる気をなくしました。
彼の目の前にはモンロー要塞監視のための南軍マグルーダー将軍指揮下の三千人が居るだけでした。
マクレランの手元には、マクドゥウェル部隊が減ったとはいえ七万人が居たのです。
しかし、マクレランは兵力を政府によって減らされたことを嘆くだけで前進しようとはしません。
南軍は貴重な時間を手に入れることができたのです。
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- 2007/03/13(火) 21:02:12|
- アメリカ南北戦争概略
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