やっぱり南北戦争はマイナーかな。
需要低そうですけど、最後までは続けますねー。
間にいろいろとはさんではいきますので。
シャイローのキャンプにいたグラントは、南軍が攻勢に出るとはまったく考えていませんでした。
折りしもリンカーンが、西部(場所としてはケンタッキー州ですから、アメリカ中北部のさらに東部寄りなんですが、ワシントン付近よりは西という事で西部方面とされていました。西部劇の西部とはまったく位置が違います)の北軍がハレックとビューウェルの二人に指揮権があると言う状況は好ましく無いとして、ハレックにビューウェルの軍を指揮下に置くよう命令したところ、ハレックはグラントとビューウェルを合流させて南軍にあたらせようとしました。
その頃南軍はアルバート・シドニー(A・S)・ジョンストンの元に軍勢を集結。
東部からブル・ランで北軍を蹴散らしたボーリガールを麾下に加え、総勢四万の軍勢でグラントの北軍を潰しにかかります。
ビューウェルの軍勢が合流してしまったのでは北軍の方が人数で上回ってしまいます。
そのためにグラント軍がまだ四万のうちに叩いてしまわねばなりません。
ジョンストンは部隊を混乱を避けるために二手に分け、二本の街道を使ってシャイローを目指しました。
しかし行軍はそれでも混乱し、ぐずぐずと時間ばかりかかりました。
ようやく攻撃態勢を整えたのは、進軍開始から二日後のことで、この分では北軍はすでにこちらの行動を察知して防御を固めているに違いないと思ったボーリガールは、絶望から攻撃中止を進言します。
しかし、A・S・ジョンストンはボーリガールの不安を一蹴。
翌日1862年4月6日、シャイローの北軍に攻撃を仕掛けました。
北軍四万対南軍四万、ブル・ランの戦い以上の軍勢がここシャイローで戦うことになりました。
グラントはすぐさま応戦・・・できませんでした。
彼はシャイローにいなかったのです。
彼は砂埃の舞うキャンプ地よりも、快適な北軍砲艦を使ってサヴァンナの町まで骨休めに出かけていたのです。
異変を察知したグラントは大至急シャイローに向かいますが、彼が到着するまでの間、北軍は次席指揮官W・T・シャーマンにゆだねられたのでした。
4月6日早朝、北軍が朝食を楽しんでいたまさにその時、南軍のときの声が上がります。
北軍はまったく予想もしていなかった攻撃にただ右往左往するばかり、さしものシャーマンも後退を命じるしかありませんでした。
一方南軍も両翼に広く展開して攻め寄せたために、指揮統制が困難になってしまいます。
A・S・ジョンストンが必死に統制をはかりますが、両軍はただ混戦状態で射撃を繰り返すばかりとなりました。
それでも奇襲の効果はてきめんで、南軍は北軍を圧倒します。
北軍はどうにか木立を盾にして最後の防戦に努めます。
ここを突破されれば背後に川がある北軍は全滅も覚悟しなければなりませんでした。
この防戦はついに南軍を押しとどめます。
前線近くで指揮を取っていたA・S・ジョンストンは銃弾に当たって負傷。
南軍の攻撃に陰りが見えました。
お昼ごろにはグラントも到着。
彼は粘り強い指揮で北軍を立て直します。
ついに夕刻までに決着はつかず、北軍はキャンプを守りきります。
南軍は翌日の再攻撃のために再編成を行ないましたが、A・S・ジョンストンは指揮が取れず、ボーリガールは弱気になっている上に、北軍にはビューウェル軍の先鋒一万五千が到着します。
そのため、翌日はグラントの方が攻勢に出て、南軍を圧倒。
ボーリガールは後退を命じました。
結局戦場に残ったのは北軍でした。
北軍は勝利を宣言し、グラントはまたも勝利者となりました。
しかし、北軍の戦死傷者は一万三千人にも及びました。
南軍も死傷者数では一万を超えさらにA・S・ジョンストンを失いました。
負傷が元で死亡したのです。
双方合わせて二万四千近くもの死傷者を出したことは人々にとって慄然とする出来事でした。
ブル・ランの戦いから半年ほどで五倍の損害を出すほどに戦争は激化したのです。
戦争は巨大な吸血ポンプであることを人々はあらためて思い知りました。
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- 2007/03/10(土) 20:41:09|
- アメリカ南北戦争概略
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